第11話 図書室の会話
速水蓮は、静かな図書室で本を読んでいた。
隣の席には七瀬柚葉。彼女もまた、分厚い本を開いている。
ふと、七瀬が顔を上げた。
「…ねえ、速水くん。なんでそんなに集中できるの?」
速水は、本から目を離さずに答えた。
「どういう意味だ?」
「普通、勉強するときって、集中するためにいろいろ工夫するでしょ? たとえば、ミントの匂いを嗅いだり、カフェインを摂ったり…。私は、集中したいときクラシックを聞くんだけど」
七瀬は、自分のイヤホンを指さす。
「でも、速水くんってそういうの何もしてないよね?」
「…ああ」
速水は、ゆっくりと本を閉じた。
「俺は、直接脳内物質をコントロールしているからな」
七瀬は、一瞬きょとんとした後、笑った。
「え、それってつまり、気合いでなんとかしてるってこと?」
「違う」
速水は指を一本立てる。
「普通の人間は、集中力を高めるために外部の刺激を利用する。ミントの匂いでノルアドレナリンを分泌させたり、カフェインでドーパミンの放出を促したり、音楽でセロトニンを安定させたりな」
「…うん」
「だが、俺は外部の刺激を必要としない。自分の意思だけで脳の報酬系や興奮系を切り替えられる」
七瀬は、速水の言葉をじっと考えるように聞いていた。
「たとえば、今から実演してやろうか?」
「え?」
速水は、静かに目を閉じた。
—ノルアドレナリンの分泌を増やす。
心拍数がわずかに上昇し、思考が研ぎ澄まされていく。
一瞬のうちに、脳が「戦闘モード」に切り替わる。
そして—次の瞬間、すべてをゼロにする。
—セロトニンとオキシトシンを増やし、完全なリラックス状態にする。
呼吸がゆっくりになり、心拍数が落ちる。
頭の中が澄み切り、周囲の雑音が消えていく。
それは、まるでスイッチのオン、オフを切り替えるような感覚だった。
速水は、静かに目を開ける。
「—こういうことだ」
七瀬は、ぽかんとした顔で速水を見つめた。
「…本当に、なんか変わった気がする」
「俺にとって、脳内物質のコントロールは呼吸と同じだ」
七瀬は、信じられないというように眉をひそめた。
「…でも、それって危なくないの?」
「どういう意味だ?」
「だって、普通の人は『自分の意志とは関係なく』感情が動くからこそ、本当に怒ったり、悲しんだり、嬉しくなったりするんだよね? もし、それを自分で完全に操作できるなら…本当の意味で、自分の気持ちって言えるのかな?」
速水は、七瀬の言葉を聞き、しばし沈黙した。
—それは、考えたことがなかった。
「自分の感情を、どこまで『本物』と言えるのか?」
それは、速水蓮がこれまで意識しなかったテーマだった。
だが、彼はあえてこう答えた。
「感情は、結局『脳の反応』だ。だったら、それを自分の意思で制御できるなら、それこそが『本当の自分』じゃないのか?」
七瀬は、速水をじっと見つめた。
「…なんだか、速水くんらしい答えだね」
「そうか?」
「でも、それって『楽しい』の?」
速水は、七瀬の言葉に、初めて少しだけ考え込んだ。
『感情を操れる人間』の生き方、それは幸せなのか?
それは、速水蓮がまだ答えを持っていない問いだった。
速水は七瀬の問いを噛み締めた。
『でも、それって“楽しい”の?』
「…楽しい、か」
自分の脳内物質を意図的にコントロールできる。
それは、まるでゲームのチートコードのようなものだ。
苦痛も恐怖も、ストレスも思いのままに調整できる。
けれど、それが「楽しい」と言えるのか?
速水は、少しだけ考えてから答えた。
「楽しいかどうかは、まだ分からない。ただ、無駄なストレスに振り回されるよりは、はるかに合理的だ」
七瀬は、そんな速水をじっと見つめる。
「じゃあさ、速水くんは『楽しい』っていう感情も、自由に出したり消したりできるの?」
「…理論上はな」
「例えば、好きなことをしているときに『もっと楽しくしよう』って思ったら、ドーパミンとかを増やして、もっと幸せになれるってこと?」
「可能だな」
七瀬は、ふっと笑った。
「じゃあさ、試してみてよ。今」
「……何を?」
「今、この会話が“楽しい”って思えるように、自分の脳内物質を調整してみて」
速水は少しだけ眉を上げたが、すぐに目を閉じた。
ードーパミンの分泌を促進。
—オキシトシンを微量増加。
脳の快楽回路を活性化し、親和性を高める。
少しずつ、気分が高揚してくるのを感じる。
そして、速水は目を開けた。
「…確かに、楽しい気がする」
「ホント?」
七瀬は、くすっと笑う。
「でも、それって『本当に』楽しいのかな?」
「……」
速水は黙った。
自分で意図的に作り出した「楽しさ」。
それは、果たして本物の感情と言えるのか?
七瀬は、速水の反応を見て少し意地悪そうに笑う。
「ほらね。感情をコントロールできるからって、それが『本当の気持ち』とは限らないんだよ」
速水は、ゆっくりと息をついた。
「お前は、俺をどうしたいんだ?」
「別に。ただ、私は『自然に湧いてくる気持ち』の方が、本物っぽい気がするなって思っただけ」
七瀬は、軽く肩をすくめる。
「でも、速水くんみたいな考え方も、それはそれで面白いかもね」
速水は、何かを考えるように視線を本へ落とした。
「…なら、お前はどうなんだ?」
「え?」
「お前が今、俺と話してるこの時間は、楽しいのか?」
七瀬は、一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んだ。
「うん。もちろん楽しいよ」
即答だった。
「だって、私は『楽しい』って感じてるし、それを自分で操作してるわけじゃないから」
速水は、七瀬のその言葉を咀嚼する。
自分で作り出した「楽しい」という感情。
自然に生まれた「楽しい」という感情。
それは、同じ「楽しさ」でも、まるで違うものなのかもしれない。
速水は、ふっと小さく笑った。
「…俺も、そういう風に楽しめるようになれるだろうか」
七瀬は驚いたように目を丸くする。
「え? 速水くん、今笑った?」
「笑ってはいけなかったか?」
「いや、そうじゃないけど…」
七瀬はしばらく考えた後、にこっと笑った。
「きっと、なれるんじゃない?」
速水は、少しだけ目を細めた。
七瀬柚葉。
彼女は、自分とはまるで違う。
だからこそ、彼女との会話は興味深い。
速水は、ふと本を閉じ、立ち上がった。
「さて、そろそろ時間だな」
「うん。…でもさ、たまには速水くんも、何かに夢中になって『自然に』楽しむのもいいかもね」
七瀬のその言葉に、速水は答えなかった。




