シミュレーション仮説について
■はじめに
シミュレーション仮説とはザックリ言うなら「我々はどこかの世界から操られた存在ではないのか?」という思想だ。
しかし、この思想を哲学的に深掘りした言説を、残念ながら私は見たことがない。
そこで、私が考えた「シミュレーション仮説多層論」について語りたいと思う。
■シミュレーション仮説多層論
まず「我々が誰かしらのシミュレーションされた存在である」という仮定を立てるなら、真っ先に考えなければいけないことがある。
それは「我々を操っている誰かしらさえシミュレーションされた存在である」という可能性だ。
分かりづらいだろうか?では、小説で喩えてみよう。
ここで拙作「電脳麻薬カンパニー狂騒曲」を取り上げるとする。
この「電脳麻薬カンパニー狂騒曲」のキャラクター達にとって、作者たる私によって「シミュレーションされた存在」になる。
そして、作者の私が何者かにシミュレーションされているとしたら、私は「何者かによってシミュレーションされた存在でありながら、電脳麻薬カンパニー狂騒曲のキャラクターをシミュレーションしている」という存在になる。
これが「シミュレーション仮説多層論」の原型である。
私が「電脳麻薬カンパニー狂騒曲」を書き換えれば、彼らの運命は一変する。
そう、私をシミュレーションしている何者かも、また更なる上位存在にシミュレーションされているだけの存在かもしれない。
これが「シミュレーション仮説多層論」の姿だ。
■シミュレーション仮説の行き着く先
このシミュレーション仮説の多層構造が無限ならまだいい。
無限とは限りがない。文字通り那由多の果てにたどり着く回数であってもそれは所詮「有限」なのだから。
仮に、このシミュレーション仮説の多層構造が有限だったら、どうなる?
きっと、その行き着く先には「神」と他の下層世界から呼ばれている存在の、一人遊びくらいしかできないのではないか?
ここで「一人遊び」と言ったが、これが複数人であったとしても問題はそこではない。
その「一人遊び」で生み出された「下層世界」に、その「神」は干渉できない、できることは眺めていること位だろう。
わかりにくい?現実に落とし込もうか、あなたがマンガや小説を読んでいても、その作品に介入できず、ただ楽しむことしかできない。
自分で創作した世界、そこから創作された世界…と連綿と続く世界に対して「神」はどれだけ興味を持つだろうか?
そう、おそらくだけどあなたのことなど「神」は見ていないし、何も救いの手を差し伸べる手段さえ持っていない。
しかし、冷静に考えると「神」の介入を我々は欲しているのか?
仮に「神」が、戦争で一方に肩入れしたら、もう肩入れされなかった国の負けだが、それでいいのか?
仮に「神」が「エッチなことはだめ!」と言ったとして、それを受け入れられるのか?
あなたが創作者だとして、あなたは何者かに操られて創作しているという気持ちになるだろうか?
むしろそれは、創作者に対する侮辱だと考えている。
思想的には、決定論に近い立ち位置になるかもしれない。
もしかしたら「神」はもう、創作した世界に興味を持っていないかもしれない。
もしまだ「神」が、創作した、何次創作かわからない世界にまで興味を持ってくれていたなら、それだけで喜ばしい話じゃないか。
そう、シミュレーション仮説多層論…もっと言うとシミュレーション仮説を支持するなら、神に期待などしてはいけない。
シミュレーション仮説多層論であるなら、我々を操作している者が神に等しいかもしれない。
だが、それが何だというのだ?「神に等しき者」が我々に何か介入したのか?
いかに、シミュレーション仮説を訴えようとも、シミュレーション仮説多層論を考えようとも、我々の人生は我々のものなのだ!
■なぜ、シミュレーション仮説が流行ったのか?
おそらく映画「マトリックス」や「ソードアート・オンライン」などの創作物が影響だ。
かくいう私もまた、シミュレーション仮説多層論に至ったのはこれら創作物の影響によるものだ。
そしてまた「異世界転生」の変形とも捉えることができよう。
「自分が死しても、その存在は終わらない」といった願望が形になっている、ということも考えられる。
しかし、先に述べたように「仮に上位存在に操られている」自分が死した時、その上位存在は自分と同一なのだろうか?
私の結論は「否」である、改めて創作との関係で話をしよう。
確かに創作物(小説・マンガ・アニメ・映画…なんでもいい)には、創作者の魂が籠もっていると言える。
では、その創作物が仮に焚書されたら、それはあなたの中に戻ると言うのか?創作物の登場人物が自分と同一になるだろうか?
そう「考える」だけなら別に構わない、しかし現実を見よ、焚書された作品は永久に失われるだけだ。
だからこそ、文化は後世に残すべき大切な「遺産」なのだ。
死後のことに悩む暇があったら、今の生を精一杯生きて、何かを後世に残す方が健全な在り方である。
それでもシミュレーション仮説を支持したいというなら止めない。
死後のことは、人類誰も知らないことなのだ、もしかしたら本当にシミュレーション仮説多層論のような世界かもしれない。
そこに、貴方の存在があるかどうかは別として…
そして私は愕然としている、どうやらこれは極めて実存主義的な思想だとChatGPTに指摘を受けた…私は反実存主義のつもりだったのに。
■もし、シミュレーション仮説の多層構造が無限なら?
もはやこれは神学論に足を踏み込んでいる話だろう。
ただ多層構造が無限であるならば、神学論でありながら、神を否定するという思想に他ならない。
シミュレーションの多層構造が無限後退するのであれば、そこに究極の存在は存在しないという結論に至らざるを得ない。
敢えて「神」を定義するならば、シミュレーションの多層構造という構造そのものを「神」と見なす位だろうか?
しかし、これは「シミュレーションの多層構造」そのものを「多層構造」と見做す発想である。
ゆえに「シミュレーションの多層構造の多層構造」でも、再び「その多層構造の多層構造は有限か?無限か?」という問いになる。
すなわち、再帰的に繰り返し無限に「有限か?無限か?」を問うことになり「少なくとも人類では知り得ない」という結論に至る。
そう、私の結論としては「多層構造が無限にせよ有限にせよ知り得ない、さらにその奥に潜んでるかもしれない多層構造など知り得ない」
フィクションとしては面白いテーマではあるが、シミュレーション仮説自体が考察に値しないと結論付けざるを得ないのだ。
■おわりに
どうやらこの結論もまた実存主義的であるとChatGPTに指摘を受けた…死にたい。
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