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苦手な方はご注意ください。

【複数ジャンル】短編・完結作品

美しい毒の一匙

作者: 有沢真尋

 そのとき呑み込んだ怒りも絶望もすべていつか君の絵になる。



 * * *



 瞑目した青年の頬から首にかけては硬質な輝きを放つ宝石。

 キラキラと輝く豊かな緑色の髪も宝石化が進んでいる。

 薄く開いた唇からは蔦草が伸びていて、蔦のあちこちには薄紅色の蕾が。

 そして、心臓の表面まで伸びた蔦の先には、咲き誇る一輪の花。



 ロミーナの提出したその絵を、ポーラは軽く眉をひそめて眺めた。

 絵画クラスの名物教師、ポーラは黒髪に琥珀色の瞳の美しい女性だ。年齢は二十代半ばで、学院の学生たちと年齢も近いが、学生時代から広く才能が知られた新進気鋭の画家である。

 そのポーラが、学院長たっての願いで母校で教鞭を取ることになったのは、この春から。

 絵画クラスは色めきたった。


 ――ポーラ先生に認められたら、卒業を待たずにプロの画家よ!

 ――先生のパトロンは公爵様をはじめ、名だたる方々がいらっしゃるの。紹介状を書いてもらえば、一生困らないで絵を描いていられるわ!

 ――こんな美味しい機会、二度とない。ポーラ先生の機嫌を損ねることだけはあってはならない。


 芸術専攻、絵画クラスの学生たちはいま息を潜め、講評を受けるロミーナを見つめていた。

 ロミーナは栗色の髪に水色の瞳、十六歳の少女である。平民出身ながら、絵画の才能が認められ特待生として学院に入学を許されていた。


 かたや、若くして天才の名をほしいままにするポーラ。

 完成間近の絵を差し出しているロミーナは、現時点では第二のポーラとなる可能性をも秘めた優等生。

 ポーラは毎回二、三人の絵しか見ない。しかも講義そのものが月一回程度のため、この二人が直接にやりとりを交わすのはこのときが初めてだったのである。

 果たして、学生たちの注目の集まる中で、ポーラは紅の引かれた形の良い唇を開いた。


「美しい絵ね」


 ほうっと感嘆の吐息が絵画室のあちこちで聞こえた。

 天才が優等生の持つ「才能」を認めた、まさにその瞬間なのだと。その場に居合わせた者たちはそう思ったのだ。

 水色の瞳を大きく見開き、固唾を呑んで見守っていたロミーナでさえも。

 美しいと耳にした瞬間、全身から力が抜けて、ふらついてしまったほど。呼吸をすることすら忘れていたのが急に思い出されて、不自然に息を乱しながら、ようやく言葉を発する。


「ありがとうございます」


 そのロミーナを見ることなく、ポーラはちらりと教室内に視線を滑らせた。片手にペン、片手に絵の具の乗ったパレットを持った女生徒に目を留めて、立ち上がる。

 結ばれることのない波打つ髪と、異国風の精緻な刺繍の施された裾の長いカフタンが、動きに沿って優雅に揺れた。


「その筆、貸してくださらない?」


 鈴の鳴るような声に陶然とした様子で、女生徒はポーラに筆を差し出した。

 受け取ったポーラは、絵筆にさらに絵の具を含ませてから、ロミーナの元まで引き返す。

 そして、花と宝石へと変わりゆく青年画の前に立ち、真っ赤な絵の具をたっぷりと吸った筆を勢いよく振り下ろした。


「この絵は毒が強すぎるのよ」



 * * *



 謹慎処分につき、教室への立ち入りが禁止とされたロミーナは、ここ数日図書館で時間を潰していた。


 学院は、王侯貴族のご子息、ご令嬢の学び舎だけのことはあって、どこもかしこも設備がすばらしい。

 図書館は校舎とは別棟として独立しており、貴族の城館のように威風堂々とした佇まいである。内部も充実しており、図書館としての機能を有する一角以外に、一学年程度の人数ならば余裕でパーティーの開ける大広間(ホール)や演奏会用の広間(サルーン)まである。

 生まれも育ちも貴族の学生たちは、図書館の利用といえば施設内での催しで立ち寄る程度。あくせくと本を借りて読むのは、自分で本を買う財力が無いと披露することになるとでも考えているのか、閲覧室には極端にひとが寄り付かない。

 平民出身で、財力も張る見栄もないロミーナにとっては、ひとけのない図書館は実に都合の良い居場所だった。


 図書館のメインである書架と閲覧室は、まるで教会の身廊のような作りをしている。

 高い天井の下、長机が並び、左右に石造りの列柱がずらりと立っていて、その奥に分野ごとに分類された書架がひしめいているのだ。採光の工夫はされているが、本への配慮から、日中でも薄暗い。


 ロミーナは、読みたい本があるわけでもなく、読む集中力があるわけでもない。ただ日がな一日、閲覧用の長机の隅に座り、本を開いたままぼんやりとしていた。


(おなかすいた……)


 居場所であるというだけで、気力はなく本に興味が向かないまま、ロミーナは椅子の背に頭をのせて、高い天井を見上げる。

 乾いた地域の雲ひとつ無い空を思わせる、鮮烈な青。

 薄暗く、静まり返ったその場所から見上げていると、段々と天地が逆さまになって自分がその空へと墜落していくような幻想が立ち現れる。ロミーナは、そっと瞼を閉ざした。


 謹慎の理由は、授業での乱闘。

 きっかけは、天才画家ポーラが、ロミーナの絵を真っ赤に染めたことだ。


 赤の絵の具に浸された絵筆を、止める間もなく振り下ろしたポーラ。

 悲鳴すら上げることもできず、固まったロミーナにちらりと視線を流して言い放った。


「この男性、輪郭が良くないわ。もう少し顎のラインを足した方が鮮明になる。それから、この髪型もあなたの伝えたいことを伝えるには不適切。髪はもっと短くて良い。体の一部が硬質化して石になり、風化していく様子を表現したいのなら宝石の輝きは不必要。植物は、忘れられた遺跡が苔むして緑と花に沈んでいく様子かしら。だとしたら、こんな可愛い花でなくていい」


 あ、あ、あ、と声にならない声を上げるロミーナの前で、ポーラは次々と絵に赤い線を加えていった。

 ロミーナの手足は、ガクガクと震え出していた。だが、自分の絵がすべて赤く塗り潰される前にハッと我に返って、ポーラの手に掴みかかった。


「やめてください!」


 手首を掴まれたポーラは、色の付いた粉で美しく縁取られた瞳を細めてロミーナを見つめ、不機嫌もあらわに冷たく吐き捨てた。


「それは、わたくしの指導を受けたくないという意味? 出て行く?」


「そんなことは言ってません! ただ、その絵はもうすぐ完成で……、先生だってさっき、美しいと言ったではないですか! それなのに、これでは」


 そこでロミーナは絶句をした。赤く染まった絵を、自分の目でもう一度見ることはできなかった。顔を動かさぬよう、せめてポーラから目をそらさぬようにその冷たく整った美貌を見つめて、切々と訴えかけた。

 ポーラはひどく忌々しそうに「離しなさい」と言って、掴まれた手を振った。筆の先からぴっと赤い絵の具が飛んでまた絵に着地し、ロミーナの指から力が抜けた。

 飛沫汚れをかえりみることもなく、ポーラは眉をひそめてロミーナを睨みつけた。


「あなた、特待生のロミーナ・コケッティね。平民なのに、才能を認められてこの学院に迎え入れられたと聞いているわ。学業も実に優秀で模範的な授業態度だと。わたくしに対するその反抗的な目はいったいどういうことかしら」


 ロミーナは、ポーラがいまにもその筆をふりかざして、自分の顔にバツを描き入れてくるのではないかと思った。それくらいに、赤い絵筆は恐怖の対象になっていたが、勇気を振り絞って告げた。


「自分の絵に他人の筆が入るだなんて、絵描きであれば誰だってびっくりします!」


「あなたより優れた絵描きであるわたくしの筆が入るのであっても? 名誉なことだと思わなくて?」


 自分が口にした言葉がおかしかったのか、ポーラは薄く笑った。その笑みがロミーナの怒りに火をつけた。


「たとえ先生の発想が私より優れていて、その指導によって絵が良くなるのだとしても、こ、こんなふうに赤く塗り潰されてしまっては、この絵はもう……」


「簡単なことよ。もう一度描けばいいの。そうね。あなたが何を描きたいのか、この絵を見てわたくしもわかったわ。こうしましょう、わたくしがいま簡単に下書きを描いてあげる。あなたはそれに色を塗るの。その絵は高く評価されるでしょう。つまり……、良い値がつくわ。絵が一枚でも売れれば、あなたは晴れて画家を名乗ることができる」


「お断りします! それはもう、私の絵ではありません!」


「あなたの思想は反映すると言っているのよ。その上で、あなたはまだまだ全然下手みたいだから、下書きはこのわたくしが、と。ああ、遠慮しないで。あなたの名前で売って良いから。この程度の手柄はわたくし、自分の画業として興味がないもの」


 にこり、と完璧なまでに愛想の良い微笑みを向けられる。ロミーナはその瞬間、吐き気を覚えて手で口元をおさえた。

 その繊細過ぎる自分の反応を恥じながら、なおも言い返した。


「私もその絵には興味がありません。なぜならそれは、私の絵ではないからです!」


 ポーラはもはや、その顔に怒気を漂わせることすらなかった。物分りの悪い生徒に噛み砕いて説明する、という教師の顔で答えた。


「才能を認められて入学できたことで、自分が完璧であると勘違いしているのかしら。そんなわけないでしょう。あなたは、『これから伸びる才能』と期待されているだけであって『現時点で完成されている』という意味ではないの。おわかりかしら? そのあなたが『自分の絵』とやらを大切にして、わたくしの指導を受け入れないというのはどういうこと? 自分が、わたくしより優れているとでも?」


「先生、私、そんなこと一言も言ってません! 深読みしすぎです!」


「あら。あなた、口を開けばわたくしを責める言葉ばかり。傲慢さここに極まれりね。あなたのように謙虚さのかけらもなく、学ぶ意欲もなく、反発しかしない学生は、伸びしろというものがまったくないのよ。この先どんなに頑張っても、決して画家にはなれないでしょう」


 何を言っても、通じない。悪く解釈し直され、責められる。


(私は、ただ、自分の絵を赤く塗り潰されたくないという、それを言いたいだけで)


 しかし、発言するたびに言質をとられるとあっては、もはやロミーナは言い返すこともできない。言葉を飲み込めばのみ込むほど、どんどん自信がなくなってくる。

 指導を受け入れられない自分は、傲慢なのか? 未熟でしかない「自分の絵」にこだわるのは、才能への過信なのか?

 赤く塗り潰されても「ありがとうございました」と言うべきところなのか?


 言えなかったロミーナは、言葉による抵抗を諦め、ポーラに掴みかかった。殴ろうとしたわけではない。その手に握りしめられた絵筆を奪おうとしただけだ。これ以上絵を壊されたくなくて。


「やめて! 殴らないで!」


 ポーラが叫び、ロミーナは他の生徒たちによってポーラから引き剥がされ、床に押し倒された。誰かが背に馬乗りになるのを感じながら、ロミーナは顔を上げて、赤く塗られた絵を見た。


(こんなことをしても、絵はもう元通りには戻らないのに)


 がっくりと床に頭を垂れる。

 殴ろうとしたわけではない、という言い訳すら口にすることなく、ロミーナはそれからかれこれ10日間謹慎の身の上である。



 * * *



「ねえ、ロミーナ。ロミーナってば!」


 目を瞑っていたせいで、寝ていると勘違いをされたらしい。あるいは勘違いしたまま去ってくれればと期待して、話しかけられても目を閉じていたのに、ぐらぐらと肩を揺すぶられて起こされた。

 ロミーナを気にかけてくれている、同じ芸術専攻の友人。貴族のはしくれだよ、と本人は謙遜めいた言い方をするが、はしくれでも貴族の男爵令嬢ヴィルジニア。可愛いらしい顔立ちを心配そうにくもらせて、ロミーナの顔をのぞきこんできた。


「まだ謝る気にならないの? 今日の授業ね、予定外なのにポーラ先生が顔を出してくださったから、私思い切って聞いたのよ。ロミーナのこと怒ってますかって。そしたら怒ってないけど謝ってもらわないとけじめがつかないからって言ってた。謝りなさいよ」


「何を……?」


 ロミーナが目を瞬いて聞き返すと、ヴィルジニアは「もうっ」と唇をとがらせた。


「せっかくポーラ先生に才能を認められたのに、つまらない意地を張っている場合じゃないわよ。ここで逃げ出したら、あなたは一生画家にはなれないって言われちゃったじゃない。逃げないで、先生の指導を一度謙虚に受け止めるべきだわ。そのためにも、まず謝罪を」


「自分の絵を赤く塗り潰されるのが、指導を受け入れること?」


 善意に満ちたヴィルジニアの提案がいまいち理解できず、ロミーナは体を起こしながら重ねて質問をしてしまった。

 仕方ないわね、という親切さ全開で、ヴィルジニアが丁寧に教えてくれる。


「先生が下書きをしてくださるって、一緒に絵を描いてみましょうと言ってくれてたわけよね? 憧れちゃうわぁ。どんな絵になるんだろうって」


「……たぶんとても素敵な絵だと思うけど、それが私の作品として売られることが『画家になる』という意味なら、私は画家になれなくても良い。それは私の絵じゃないから」


「ねえ、まだ言ってるの? 私たちの絵はまだまだ発展途上なのよ。未熟な絵を大切にする前に、偉大な先達を真似て自分に取り入れる。助けてくれると言うのなら、助けてもらえばいいじゃない。自分の絵を描くのは、この先長い人生でいずれできるわ。まず大切なのは、先生に認められることと、画家になること。ロミーナはもうそこを満たしているのよ。いいなぁ。代わってほしいくらい」


 代わってあげるけど?

 さすがにその言葉は、呑み込む。それを口にした瞬間、自分が「傲慢」そのものになると、ロミーナとてわかっている。


 冷静に考えれば、ポーラが授業を受け持つようになってから、あんなに一枚の絵の指導に時間を取ったのも、たくさんしゃべったのも初めてだったのだ。それをもって、ロミーナはポーラに認められている、と思う学生がいても何ら不思議ではない。

 ポーラに認められたい者からすれば、ロミーナはわがままであり、画業に真剣に向き合っていないように見えるのだろう。


 しかしロミーナにはわからないのだ。

 他人の下書きに色をつけて「自分の絵」と売り出すことが、皆の考える「画家となる」ことなのだろうか。本当に?


(それを受け入れた瞬間、私は私でなくなる気がする。それとも未熟な身で「自分の絵」を守ろうとする私が、傲慢な考えに取りつかれている? この世界の有力者に「画家になれない」と言われてしまうのは致命的かな。学校もやめることになる……)


 いまは謹慎以外の処分が保留となっている。しかし特待生身分を剥奪された場合、学費を納めるのが不可能なことから、ロミーナは退学となるだろう。

 家に戻ってしまえば、自分の食い扶持を稼ぐのは当然のことであり、絵を描く時間はなくなる。そこで、画家への道は閉ざされる。


「ポーラ先生、また近い内に来てくださるそうよ。そのときを逃さず、必ず謝るのよ。いいわね? 私、あなたの才能を信じているから。失望させないで」


 ヴィルジニアに悪意なく言われて、ロミーナは力なく小さく頷くにとどめた。納得はしていなかった。



 * * *



 目を覚ましたら暗かった。

 自分がどこにいるかもわからず、ロミーナはしばし身動きもできずに固まってしまった。それからようやく、閉館後の図書館ではないかと気付いた。

 ヴィルジニアと会話した後、ぼんやりしているうちに本格的に寝てしまったらしい。


(どうしよう。きっと朝まで開かないよね。朝になって誰かに見つかっても、何してたんだって感じだし。盗みに入ったと疑われたらどうしよう)


 入学以来、目立った落ち度もなく生きてきたはずなのに、ここにきて謹慎処分を受けているのだ。もともと平民のロミーナをよく思っていなかったひとたちには、ここぞとばかりに叩かれているに違いない。

 そこに図書館不法侵入と窃盗未遂を加えられて退学。どうせ退学。

 それなら、ポーラに謝る必要もないのでは、という考えがかすめた。


「とても思考が暗い……」


 声に出た。自暴自棄、破れかぶれ。落ち込むにいいだけ落ち込んでいる。そんな自分に気付いて、ロミーナは勢いよく椅子から立ち上がる。


「よし、まずは食糧でも探そう」

「無い」


 うわっとロミーナは悲鳴を上げる。

 かなり近い位置で、男の声が答えた。

 慌てて振り返ると、すうっとカンテラを持ち上げる手が見えた。


「なんでここに学生がいるんだ。まさか閉館の鐘に気づかなかったのか? 鐘……今日鳴らし忘れたのかな。う~ん……やばい、俺も思い出せない」


 声は、途中までロミーナに尋ねていたはずが、最終的には鐘に関して自問自答を始めた。寝過ごしたロミーナは鐘を聞いていなかったので、その方向で話に乗ることにした。


「鳴らし忘れだと思います、聞こえませんでした」

「君が豪快に寝落ちていただけではなく?」


 ノータイムで言い返されて、否定することもできなかったロミーナは口をつぐむ。

 カンテラを持ったまま、さらに声は近づいてきた。長身の男性の輪郭。腕を上げようとする仕草に気付いて、ロミーナは「待ってください!」と声を張り上げる。


「私を見ないでください」

「君はこの図書館に住み着いた悪魔か何かなのか」

「いかにもです! 見ると死にます。具体的に言うと、顔が判別できるくらい見ちゃったり、二回目会ったときにぴんとくるくらい覚えてしまったりするともうだめです。死にます」

「やたらに殺したがりだなコノヤロウ。こんな悪魔がいるなんて初めて知ったぞ!」


 威勢よく怒ってきたわりに、声は楽しげだった。ロミーナはつい、調子に乗ってしまった。


「まるで他にも悪魔を知っているみたいですが、図書館悪魔図鑑でも作ってるんですか? 私もコレクションに加えますか?」

「図鑑も何も俺が悪魔だよ。いやぁ、長いことこの図書館に住み着いているのに、君のような存在には全然気づかなかった。名前は?」


 答えてはいけない。

 危ういところで気づき、ロミーナは言いかけた名前を呑み込む。それから、ほんの少しのネガティヴな感情を込めて告げた。


「ポーラです」

「嘘だろ」


 看破された。それもやむなし、と思いつつ素直に窮状を訴える。


「ところで大変おなかがすいていまして」

「焼き菓子くらいしか持っていないが、閲覧室で食べるわけには」

「持ってるんですか? 奇跡ですね」

「……ここでは食べられない。飲食可能な場まで移動する。君の顔は見ない」


 自称悪魔は大変協力的だった。ロミーナは逆らっても事態が好転しないことはよくわかっていたので、「ついておいで」と先に行く悪魔の後に続いた。

 見上げた背中はとても広くて、カンテラの明かりを遮っている。置いていかれないように小走りに進んだ瞬間、どん、と背中にぶつかり「こら」と注意をされた。


 気をつけて歩きなさい、と高い位置から声が降ってきた。



 * * *



 長いこと歩いた気がするのに、なかなか閲覧室を抜けない。

 不思議に思いながら、ロミーナは目の前の背中を見上げた。彼は本当に悪魔なのだろうか? 顔を見るなと灯りを拒否したせいで、ロミーナもまた相手の顔を見そびれている。

 悪魔なのだろうか?


「道がループしていませんか?」

「ループしているとすれば、君がこの先に辿りつきたくないんだろう」

「そういうのやめてください! 切実におなかがすいているんです!」


 焼き菓子を食べたい気持ちは嘘ではない。真に迫っている。安易に否定しないでほしい。


「俺も正直ここがどこだかよくわからないから、もういいか。食べておきなさい」


 立ち止まった自称悪魔は振り返ることなく、大きな手のひらに布包みをのせて差し出してきた。


「食べていいんですか?」

「このまま館内で遭難する恐れもある。空腹で遭難はまずい。最悪の状況でも、腹が膨れていればマシな気持ちで死ねる」

「悪魔だ……。きっとこのお菓子を食べたら、私は死ぬんですね」

「とか言いながらしっかり受け取ってるな。それで良い」


 悪魔から物をもらったら何か過大な請求でもされるのでは、と思ったが空腹には勝てず。ロミーナはいそいそと包みを受け取った。

 ずしりと重い。土台になっていた手が大きくてサイズ感を錯覚したようだが、かなり量が入っていそうだった。


「そのへん座れそうだな」


 悪魔がカンテラを持ち上げて、ひとりがけソファを照らす。ロミーナがそこに向かって座ると、悪魔も少し離れた位置に椅子と小テーブルを見つけたようで、カンテラを置いた。淡い光は、かろうじて手元まで届く。

 開いた包みの中には、種々の焼き菓子が入っていた。


「ストゥールデル、トルタ・バロッツィ、カネストレッリ、トルチリオーネ」

「お貴族様のお菓子はわからないわ。食べ物よね?」

「悪魔の食べ物だよ。全部毒入りだ。どうぞ召し上がれ」


 迂闊な一言のせいで、自分が平民出身の学生とバレたのでは、と思いつつロミーナはひとつ手に取る。円のような形をしているが、つながっていない。まるでとぐろを巻いているような形だと思ったら、膨らんだ部分に目を模したとおぼしきゼリーが埋め込まれていた。


「へび!?」

「ああ、トルチリオーネを最初に掴んだのか。善良なうなぎと、悪魔的なへびのシンボル」

「さすが悪魔のお菓子だけある。さてどんな毒が」


 ひとくち食べると、思った以上に美味しい。そこから、ロミーナはまたたくまにすべてのお菓子を平らげてしまった。

 空腹が満たされ、生き返った心地になる。


「お腹いっぱい……。もうここで死のう」

「えっ、死ぬのか!?」


 暗闇の向こうで、悪魔が驚いた気配。

 ロミーナは苦笑いをしながら答えた。


「いま、私すごい面倒な岐路に立ってるの。自分を殺すか、死にながら生きるのか」

「どっちにしろ死ぬ」

「そう。自分を殺して絵を続けても、絵を辞めても、死んでしまう。悪魔の毒で死んでしまいたい」


 つい素直に話してしまった。「そうか」と相槌を打たれただけでそれ以上会話は続かなかった。相手があまり自分に興味がないと気づき、勢いのついたロミーナはさらに打ち明けてみることにした。どうせ顔も知らない相手なのだ。


「私、絵描きの卵のつもりだったんです。だけど、超有名な先生にめっためたにされてしまって。絵を、物理的に、ですね。どうすれば良かったのか、いまでもわからないんです」

「超有名な先生か……。君の絵がうまくて、先生が君に嫉妬したんじゃないのか。若い才能をここで潰しておこう、みたいな」


「そこまで自惚れることはできません。先生が嫉妬するほどの、一目瞭然の実力なんていまの自分にあるとは思えないです」

「じゃあ、絵をめためたにするのが、先生の純粋な善意からなる指導だと?」


「先生の心の中のことまでは、わかりません。もしかしたら、芸術にものすごく愚直なひとで、こうすると良くなるって思ったら、止まらないひとなのかもって思いました。その場ではそう思えなくて憎しみしかなかったですし、なんとなく理解できたとしても、私が受け止められるかは別ですが。暴力的な指導はいけません」

「わからないものは後回しにしてしまえば良い。ただ、俺が思うに、手を止めるのはあまり良くない。手が止まると思考もすべて止まる。前に進むきっかけを失う」


「つまり、辛くても苦しくても馬車馬のように前に進めと……」

「慣用句に物申して悪いけど、馬は繊細な生き物だ。馬車馬は適切な食事と睡眠を確保されている。がむしゃらに頑張りたいときこそ、休息は欠かせない」


 悪魔は、ロミーナより落ち着いていて、物知りだった。どことなく年長者の気配があった。

 そのあと、少しだけやりとりをした。

 いつの間にか眠りに落ちていたロミーナが、朝になって自分の部屋のベッドで目を覚ましたときには、あの場で悪魔と話したことはだいたいぜんぶ忘れていた。

 夢だったのかとも思ったが、口の中にはほんのりと甘い焼き菓子の味が残っていた。


 そして、もうひとつ。

 抱き抱えられて学生寮に運ばれている間に、ロミーナはうっすら目を覚ました記憶がある。

 そのとき、見てしまったのだ。悪魔の顔を。



 * * *



「絵を描きまして、ですね!」


 謹慎は10日で終了となり、ロミーナは授業に復帰した。ポーラからのはからいがあったのか、それとも何か別の力が働いたのか、復帰はスムーズだった。

 絵画の時間にはポーラが現れた。

 ポーラの鼻先に、ロミーナは復帰からがむしゃらに描いていた絵を差し出す。


 以前の絵と、モチーフは似ている。同じではない。

 ポーラの忠告は少しだけ取り入れた。全部ではない。


「先生が思い描いた絵とは違うかもしれないけど、これが私の描きたい絵です。私が描いた絵を先生にどうしても見てほしいと思いまして!」

「……五点」


 百点満点だと考えると大変塩辛い味わいの点数を告げられた。


「ゆめゆめ、いまの実力でプロになれるとは思わないで。このままではどこにも推薦は出せない。もうその絵はいらない」


 下げて、とそっけなく言われてロミーナはすごすごと絵を手にする。その指先を伏し目がちに見つめながら、ポーラが呟いた。


「今度は目が開いているのね。その青年像にモデルはいるの?」

「図書館の悪魔です」


 あれ以来一度も会っていない。

 ただ、この絵をのぞきこんだヴィルジニアがある上級生の名前を口にした。あの方に似ている、と。


「目は開いていた方がいいわね。以前のあなたの絵には退廃的な毒を感じたけど、彼の表情のおかげでちょうど良い毒になっている」


 ポーラがほんの少しだけほめる発言をして、指導を終えた。

 ロミーナはその言葉を噛み締めてから、宣言する。


「私、絵はやめません。先生に認められなくても、画家になります。でも、大変お忙しいはずなのに母校の教師を勤めている先生には後進を育てたい気持ちはあると思うので、良い絵が描けたら見てほしいです。掴みかかったことはすみませんでした。ポーラ先生に絵を赤く塗られたことはまだ全然許せてないけど、私のレベルが低くて先生の言っている意味がわからなかったのはいつかどうにか」


「もう行って。あなた、一言も二言も多いわ。多すぎよ。馬鹿なの?」


 もはや目も合わせることなくポーラは言い捨てて、顔を逸らす。

 その横顔が、ほんの一瞬だけ微笑んだのを見て、ロミーナは破顔した。

 そして、心の中で悪魔に御礼を言った。


 あれは本当の悪魔か。もしくは現実に存在する人間だったのか。

 すれ違うだけの存在で、二度とは会えないかもしれない彼を、筆を尽くして絵に描いた。

 絵の中の彼に、ロミーナはそっと語りかける。


 あのときあなたがくれた悪魔の毒が私を生かしている。

 この絵を描かせてくれてありがとう、と。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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