第一話
「すみません!」
「前見て歩け小僧!」
朝から怒られるなんてついていない。
しかも、一つ目の鬼に前を見て歩けなんて言われるなんて、二つ目がある人間にとっては結構ショックだ。
この街を行きかう人達が本当に人間なのか、分かりっこない。ましてや、人間に化けている妖怪を、どうやって見破ったらいいのかさえ分かっていない。
でも、それはまだ、お互いに分かり合えていないことを意味しているのだと、僕は思っている。だからこそ、妖怪と人間が楽しく、仲良く共存出来る街を作りたい。
ただその一心で、とある会社に就職することにした。
実家から出て、タクシーを拾って一時間。
バイト代を全部出して買ったスーツの襟を正すと、ボストンバックを手にリュックを背負い、目的地の前に降り立った。
「今日からここが俺の職場か……」
ずっとこの日を楽しみにしていたはずだったが、目の前にある古びた雑居ビルに入るのを、若干躊躇いかけた。
街の中心部から外れた場所にある雑居ビル。
ビルの向かいからは、気持ちのいい川のせせらぎが聞こえ、二分咲きであろう桜並木が続いていた。乗っていたタクシーが去って行く音が無くなれば、辺りは寝静まったかのように静まり返る。
「えっと……確か二階だよな」
気を取り直してビルのドアを開け、テナント看板を見ると、二階の部分に『安全制作部妖怪課』と書かれていた。しかし、そもそも二階以外の所には何も書かれてはおらず、不気味な雰囲気が漂う暗い階段を、一歩一歩踏みしめながら二階へと向かった。
ようやくたどり着いた新たな職場。
すぐさま明かりが漏れるドアに向かって走ったが、ドアにたどり着く前にその足は止まってしまった。
「でか……! え、警備員さん?」
ドアの前でただじっと佇む、帽子を深く被った身長百九十センチ越えの男。
これも妖怪なのかと思いながらも、軽く会釈だけ済ませると、ドアを引いて部屋の中へと入った。
「おはようございます。今日からここでお世話になる……」
挨拶をしようとするのと同時に、部屋中へと響き渡った耳を塞ぎたくなるような怒号。
「食ったら片づけろって何回言えば分かるんだよ‼」
「朝から声がでかいんだよ、お前は」
「誰のせいだと思ってんだ!」
「だからぁ、まだ食べ途中なのよ。分かる?」
「黙れ、無駄遣い野郎」
綺麗に並べられたデスクから、離れた場所にあるソファへ寝転がる男性と、テーブルの上に散らかっていたゴミを指差しながら怒る男性のやり取りに、ただ立ち竦んだまま見守ることしか出来ない。
しばらく待っていると、言い合いがひと段落したのか、怒号をあげていた男性がこちらへと視線を向けた。
「誰?」
急に向けられた視線に何も発せられずにいると、男性は視線を鋭くさせた。
皴一つないスーツに、輝く革靴。
マッシュスタイルの黒髪と白すぎる肌。
気づけば男性は、目の前にまで迫っていた。
「お前に口は無いのか?」
「あ、えっと……」
自分よりもはるかに小さな男性から圧倒されてしまい、上手く喋られずにいると、後ろから優しく肩へと手が置かれた。
「今日からここで働いてもらう、新人の泉晃明君だよ。皆仲良くしてあげてね?」
「これが、噂の新人……」
「あ、い、泉晃明です! よ、よろしくお願いします!」
深く頭を下げた晃明は、後ろに居た男性に思わず声を漏らした。
「神林さん! 本当にお誘いありがとうございました!」
「いいんだよ。この部署は、いつでも人手不足だからね」
「だからって人間を雇うなんて、何故ですか?」
「人間の割合を増やしたくなってね」
穏やかな笑みを浮かべる男性こそ、晃明をこの事務所に呼んでくれた張本人、神林出雲さん。
今年で四十歳とは思えないほどにつやのある肌。
一番窓際にあった椅子へと腰かけた彼は、この事務所の課長という立場だ。
「少しだけ口が悪い小さな彼は、河井颯君。仕事は完璧に出来るから、沢山頼ってあげてね?」
「初めまして。ビビりさん」
「ビビり……」
「目つきが悪いのは生まれつきなんで」
「すみません。目つき鋭いなって少しだけ思っただけで……」
その時、晃明の頭の中に小さなしこりのような疑問が浮かび上がった。
鋭いとも、目つきが悪い人だなとも、思ったのは心の中でのことだ。
口には一切出していないはず。
なのに、河井はすべてを見透かしているような――。
「僕に隠し事をしようとするのは、やめた方がいい。僕は河童だ。どんな奴でも『心の中を読む』ことが出来る。覚えておけ、ビビり」
「河童……」
晃明は心の中で、誰もが思い描く河童についての自問自答をしてしまった。
これが、河井に丸聞こえであることに気づいたのは、直接聞こうとした瞬間だった。
「僕はキュウリも相撲も好きではないし、泳ぎも得意じゃない。それと、頭の皿について次聞こうとしたらどうなるか、知らねぇからな」
「やっぱり、全部丸聞こえなんですね! 凄いです!」
「うるさい。黙れ」
顔を顰め、耳を両手で塞ぐと、河井は入り口に一番近い自分のデスクへと戻っていった。
普通の人間のように見えるのに、実は河童であるという河井の姿に、晃明は興味津々だった。
しかし、驚きはこれで終わりではなかった。