39.黒いソレについて
沈黙を破ったのは爺やの声だった。治療を終えたらしい彼が物々しい雰囲気で睨んでくる。
「あの黒い何か、“気”と同じようなものを感じました」
“気”って、この森に漂う悪い空気のことか。確かにミレスの攻撃が纏う黒い靄は、この世界の住人の言う“気”と同じように見えた。
でもこの森の“気”は私にとって害でしかなかったのに、ミレスと一緒にいて、こんなに接していても害どころか恩恵しかない。違うと思いたいけど、そういえば暴漢たちに襲われたとき、ミレスに切り落とされた腕からも黒い靄が出ていたし、彼らにとってはそれは有害だった。私が平気なのは何でだろう。
それに、爺やの言うようにミレスが“気”を使うのだとしたら、調査隊──ローイン隊長にはもっと早い段階で気づかれていたはずだし、決別も早かったはず。森の奥に行くほど“気”が濃くなると言っていたし、紛れて分からなくなっていたとでも言うのか。
まさか、分かっていて行動を共にしていた? 国と連絡を取り合いながら様子を見ていた?
思わず浮かんだ考えに、頭が痛くなる。
最初から警戒されてはいたけど少しは信用してくれたと、そう思ってしまっていたことが少し悔しい。
最初からずっと、私とミレスは危険人物のままだったってことね。裏切られたとまでは思わないようにしてたけど……ローイン隊長、あんた策士だよ。俳優にでもなればいい。
これだからイケメンは嫌いなんだ、と特にイケメンから何かされたエピソードはないけど苦々しい気分になる。それと同時にダズウェルさんの株が右肩上がりで、彼の安否について少しだけ心が痛んだ。
ダズウェルさんだけは無事でいて欲しいけど、そんなことを願う権利などない。
「……フェデリナ様」
「仮に、そうだとして。どうしてアサヒは平気なの?」
「それは……」
それは私も知りたい。ぜひ術の師という爺やの見解を聞かせてくれ。
「……それは、いや、ううん、しかし」
何か心当たりがある様子だけどなかなか話してくれない爺や。フェデリナ様がいる前でいきなり攻撃しては来ないだろうと踏んで、周囲を見渡す。
危獣の亡骸が散乱する不気味な光景。森を描いたキャンパスに、黒い絵の具をぶちまけたようなそれは、若干違和感というかイメージが違った。
危獣もその名の通り獣、というか動物の一種のようなものだと思っていたけど、流す血は赤くない。多少青みがかったり赤みがかったりしていることはあれど、黒だった。この世界の人たちの血は赤いし、危獣は普通の生き物とは違うんだろう。
ぼんやりとそんなことを思っていると、何だか空気が悪くなっている気がした。爺やとフェデリナ様たちの間に漂う沈黙は別として、物理的に気分が悪い。軽い乗り物酔いのようなそれは、何度も体験したものだった。
この世界に体質が合わないのだと思ったときもあったけど、もちろんその可能性もあるけど、明確な原因に一つだけ思い当たる節がある。
辺りに薄っすらと、黒い靄が漂う。
今まで何度も同じ状況に遭って慣れてしまったのか、頭痛や吐き気はそこまで酷くない。ふらつかずに立っていられる。
「フェデリナ様たちは──」
大丈夫? と声を掛けようとして驚く。
皆、膝をついて倒れそうになっていた。今にも吐きそうな、苦悶の表情だ。
「ここまで濃い“気”は、初めてね……っ」
「フェデリナ様、こちらへ! 結界を張りますぞ。ただそれも時間の問題でしょう」
爺やが何かを唱えると、薄っすらと何かが光るのが見えた。これが結界なのかもしれない。フェデリナ様に無理矢理手を引かれ、薄い膜のようなものを通り抜ける。
「安全区域で危獣が出たこともそうだけど、こんなに濃い“気”がここで発生するなんて……」
可視化されたその黒い靄が“気”だというのは、以前のローイン隊長から聞いた話でもあったことだ。気分が悪くなるし、今では大分マシになったけどぶっ倒れそうになったこともある。
最初に私が目覚めたときにいた場所──第四指定区域は比較的“気”が多いと言っていたけど、私が平気だったのは何でだろう。可視化するほど濃いものは有害だったけど、見えない“気”に関しては今のところこれといった害はない。
見えないと言えば洞窟での体調不良は“気”の有害そのものだったけど、暗すぎて見えなかっただけで実は“気”が充満していたのかもしれない。というかそれだと辻褄が合うし、多分そう。そうであって。“気”以外の問題が浮き彫りになって欲しくない。
「どうして……アサヒたちは、あんなに濃い“気”が平気そうなの?」
「それは私も知りたい」
弱々しく尋ねるフェデリナ様に対して、黒い靄に触れていない私にはもう自覚症状はない。
私に霊力はないらしいし、これといってこの世界の人たちと違った能力も見られない。
もしかして、あの黒い靄……“気”への耐性があるとか? 最初は症状が強かったけど段々慣れたのも、異世界から来たせいなのか、そういうスキル的なものを持っているのか。
せめて何か言いかけた爺やが知っていることを話してくれたら少しは分かるかもしれないのに。濃くなった“気”への対応、当てられた者たちへの治療で今はそれどころじゃない。
そういえば、あの時……黒い靄が“気”だと聞いた時、異形の死体から生じたようだった。もしかしたら、今回もそうなのかもしれない。
周囲には散乱する危獣の死体。“気”が濃くなる原因が、危獣の死体のせいだったとしたら。
「……でも、なぁ」
あの時は異形の死体の元にあった大きな宝石のようなものをミレスが粉々に粉砕したことで解決したみたいだけど、今回はそれが見当たらない。今までの危獣の死体からはこんな現象は起きていないから、あの大物が特例だったと考えるべきなんだろうけど。
今のところボス的な危獣はいないみたいだし、この考えが間違いでただのレアイベントだったとしたら、途方もない話に思える。この無数の危獣の死体の中からあの宝石を見つけるなんて、無謀すぎる。症状が軽くなっているとはいえ、安心材料にはならない。虱潰しに探したところで身体が持つか分からない。
それに、あの時はミレスが自ら元凶と思われる宝石のような塊を処理しに行った。だから今回はまだその元凶がこの場にないと考えるのは軽率だろうか。
「な、何だアレ……!」
ない知恵を絞っていると、一人の男が声を上げた。
「何て大きさだ……!」
視線の先に現れたのは、散乱する死体より一際大きな危獣だった。
いつぞやの爆散した熊より大きいくらいか。二足歩行で、大きな身体を左右前後に揺らしながらゆっくりと近づいてくる。
「ォ……ォ……」
低く唸るような音。遠目からは硬質に見える皮、胴長の身体に繋がる両腕はだらんと下がり、地に着きそうなまでに長い。顔はヤギとかアルパカに近いけど、耳はなくて坊主みたいな頭をしている。何といっても開いた口からぼとぼとと黒い液体が零れ落ちているのが気味悪い。地面に落ちた黒い液体は、まるで何かを溶かしているかのように小さく煙を放っている。
あの異形の危獣ほどではないものの、どこか既視感のある動物のキメラであることには違いない。
「──ひぃ」
金色の左眼が私を捉える。
あれが、元凶か。




