30.泡沫の世界
そこは白い世界だった。辺り一面に白が広がり、空も、地面も、木や小石一つすらない。
歩き出そうとして、踏み出す感覚がないことを知る。ひたすら前に進もうとしてみても、前後左右すら分からない。
自分を見ようとして、手足がないことを知る。自分が人間という認識はあれど、どこを見渡しても白しかない。
そういえば、息をしていない。息遣いも聞こえない。
いや、音すらなかった。
ただ視界いっぱいに広がる白。
何も聞こえない。何も触れない。何も感じない。
ただ、白があるだけ。
瞬きをする。
その一瞬で、目の前に薄っすらとした黒が現れた。
人の形を成していないはずなのに、瞬いたことは理解できた。視界に白が広がっている認識からも、目だけは機能しているらしい。
再び瞬きをする。
先ほどよりも黒が濃くなった。近づくという手段がない今、瞬きをしてその黒を待つしかない。
どんどん黒が濃くなっていると認識したときには、目の前にそれが迫っていた。
黒は靄のようで、触れた瞬間、そのまま手が飲み込まれる。
手を認識したとき、その前腕には黒く太い血管のようなものが纏わりついていた。
やっと身体を動かせると思ったときには、すでに身体ごと黒に飲み込まれていた。
◇
目を開けると、そこは暗闇だった。白の世界とは違い、赤や青の濁った色が揺らめいている。
ぐらりと視界が回る。濁った様々な色が点滅する。
気分が悪い。吐き気がする。
今度は自分の身体を認識することができた。ただ、指先すら動かず、声も出ない。
ただ暗闇に身体を横たえているだけだった。
濁った紫が近づいてくる。それは不規則に揺らめき、人影を模していると認識したときには、片腕を大きく振りかぶっていた。
「──ッ」
頭に衝撃が走り、目が回る。ズキズキと頭が痛む。
殴られたのだと理解した瞬間、四肢に次々と衝撃が加わる。
「──ァ」
痛い痛い痛い痛い。
頭が、腕が、足が、焼けるように痛い。
抵抗したいのに、動けない。
それでも暴力は続く。濁った紫は緑に変わり、黄色に変わり、灰色に変わっていった。
「──ぅ」
濁った人影が、両腕を振りかぶる。キラリと光るそれが鋭利な刃物だと理解しても、呻き声しか出ない。
「──ッァ」
ゆっくりと、映像のスローモーションを見ているかのように、胸に刃物を突き立てられる。ずぷり、肉に食い込んでいく。
スローモーションが、終わる。
「ぁぁぁぁぁあああああああッ──!!」
一気に押し進められた刃物が、胸を貫き、血飛沫を上げた。
◇
「──っは」
水中から顔を出すように酸素を求める。
じくじくと全身が痛む。胸に突き立てられたはずの刃物はない。
辺りは薄暗く、茂った木の葉をつけた木々が揺れているのに、不気味なほど静まり返っていた。
心臓を刺されて死んだはずだった。
それなのに、視覚も、聴覚も、触覚も正常に働いている。
息苦しく、胃から何かが競り上がってくるような感じがする。四肢は鉛のように重たい。
「──っハァ、ぁ」
今度は動ける。酷く気怠さと頭重感があるものの、身体を起こせた。
「……」
どこか既視感を覚える場所だった。薄暗く、辺りを見渡す限り静寂と暗闇が広がるのに、犇めくほどの木々に見覚えがあるような気がした。
木に手をつきながらゆっくりと立ち上がる。眩暈と吐き気を必死に堪えながら、両足を地につけた。
ここがどこかも分からないまま、まるで重りをつけられたかのように動いてくれない足を引き摺る。
「はぁ……はぁ……」
腕も上がらず、映像で見るゾンビのような恰好だった。まるで、四肢を鎖に縛られたような──。
「──っあ!」
突然、右肩に激痛が走る。衝撃に耐えられず、地面に転ぶ。
肩に突き刺さったそれは、矢だった。
「ぁ、ぁ」
痛い、痛い、痛い痛い痛い。
じくじくと傷口が痛む。腕が痺れる。
そして、次々と飛んでくる矢。
「ぃっ、あ!」
腕に、足に、容赦なく矢が突き刺さる。
逃げようにも、腰が抜けて動けない。痛みに蹲るしかない。
「は、ぁ、ぁ、ぁっ」
気がつけば、黒い人影が、目の前に迫っていた。
「──っひ」
きらりと何かが鈍く光った。
「っぁぁぁぁあああああッ!!」
うでが、ない。ひだりうでが、いたい、ちが、
「ぁぁぁぁぁっぁぐッぅ!!」
あしが、へんな、ほうこうに、まがっ、
「ぎゃぁぁぁぁあああああッ!」
くびが、ぐ、くる、じ、ぃ、い、ぁ、ぁ、
「──ッひ」
腕を切断され、足の骨を折られ、首を絞められ、
「────ァ」
最後に、頭を潰された。




