21.舞い込む厄
症状が軽快したところでゆっくりと立ち上がる。立ち眩みはしない。
少し安堵して他の負傷者を探そうと辺りを見渡すと、兵たちが次々と来た道を引き返しているのが分かった。負傷者に肩を貸したりしているせいか歩みはそれほど早くないものの、どこか忙しない。
「急げ!」
聞き覚えのある声が響く。
何かあったのかとその方へ足を進めると、視界に薄く黒い靄が広がっていた。
開けた場所の入り口近くで木々に囲まれていたからか全然気づかなかった。
「アサヒ、君も早く行くんだ。“気”が濃くなっている」
これが“気”? 可視化された“気”が、この黒い靄なの?
どう見てもミレスに関係した靄だ。靄の違いなんて分からないけど、この吐き気と眩暈、頭痛を催す感じは一緒だ。
ミレスはある一点を見つめている。吐き気等の症状を堪えながらそこへ近づいた。
異形の死体だ。頭から、身体から、千切れた四肢から、そして飛び散る肉片からも黒い靄が溢れ出している。
どんどん濃くなる靄はもはや霧だ。
耐えきれず、地に膝をつく。さっきの負傷兵の靄に触れたときの比ではない。
「っう」
胃から逆流する液を堪えようと口を押える。
「あっ、ッく」
吐き気以上に割れるように頭が痛い。蹲り、加勢する息苦しさに悶える。
「ミ──っ」
抱き締めておくことができず、放り出されるように腕の中から抜け出したミレスは、ゆっくりと黒い霧の中へ向かっていく。
「っアサヒ」
絞り出すような声で呼ぶ隊長の顔を見ることはできないものの、多分穏やかではないだろうことは想像に難くない。
私に合わせているのか、隊長ですら立っていられないのか。彼の膝が目に入る。
注意を無視して倒れた私なんて無視して逃げたらよかったのに。この時の私はそんなことを思う余裕もなかった。
「うッ、ぐ」
ミレスは歩みを止めない。
黒い靄が幼女の小さな身体を包んでいく。幼女は気にも留めず歩き続けていると、まるで体内に取り込まれるかのように周囲のそれが薄くなっていった。
黒く染まっていた視界が開け、靄の発生源が見える。中でも特に濃く量も多いのは身体だった。
ちょうど、心臓がありそうな位置。
そこで幼女は屈む。
溢れ出る黒い靄はまるで異形の危獣が気化しているかのように、徐々に死した肉塊が小さくなっていく。そして幼女の身体を包み、回旋しながら、消えていった。
頭痛と吐き気は少し軽くなったものの、身体に力が入らず立ち上がれない。動く度に眩暈がする。
「あれは──」
小さく呟いた隊長の視線の先。屈んだ幼女の前には、鈍く光る石があった。
くすんだ濃い赤。大きさはミレスが両手いっぱいに抱えるくらいだろうか。
大きな宝石にも見えるそれに手を伸ばす幼女。彼女の手が触れると、遠目にでも分かるほどピシリと音を立てて割れた。
二つに割れたところから徐々にひびが入っていき、ついには粉々に飛散した。
きらきらと赤い粒子が舞う。それは黒い靄と同様にミレスの周囲を旋回し、風と共に消えた。
「──っはぁッ」
石が消えた途端、息苦しさから解放される。いつの間にか頭痛と吐き気も消えていた。
「……レス」
掠れた声で名前を呼ぶ。立ち上がれずにいる私の元へやってくる幼女。
「……」
「……ミレス」
「……ぃ」
「ん」
「……ひぃ」
小さな両手を広げて見上げる彼女を、思いきり抱き締めた。
「……それ、私のこと?」
もぞりと首を縦に動かす幼女。
「──っ」
「おい! しっかりしろよ、ッなあ!!」
切羽詰まった怒声に呼び戻される。
初めて名前を呼んでくれたこれ以上ないというほどの喜びに浸らせてはくれないらしい。
ミレスを抱いたいつものスタイルで声の方へ向かう。
いつの間にやらローイン隊長はすでにその場にいて、倒れている部下に手を当てて何か呟いている。
「起きろよ!」
血に伏す彼と叫ぶ彼には見覚えがあった。
さっき傷を手当てした二人だ。
倒れているのは足を負傷した男。叫んでいるのは腕を負傷した男。固定されていないもう片方の腕で、彼の肩を叩き、揺すっている。
この人は初めから意識がなかったけど、致命傷のような傷は見当たらなかった。それでも治癒術をかけているらしい隊長と取り乱す男の様子からして状態が悪化したということになる。
「──」
しばらくして、隊長が倒れている男から手を引く。
そして、首を小さく横に振った。
「そ、んな……嘘、でしょう?」
「……」
「嘘だって言ってくださいよ、隊長!!」
ローイン隊長の胸倉を片腕で掴みかかる男。
「……こいつ、結婚したばかりなんです」
ミレスを下ろし、男に触れる。
息をしていない。脈もない。
「今度……子どもも、生まれるって……」
いつ心臓が止まったのか分からないけど、最後に確認してから十分は経ってないはず。
男に跨り、手を重ねて心臓の上に当てる。腕は曲がらないようにまっすぐ、垂直に押す。力を込めて、一定間隔に、ひたすら押す。
「そんな……そんな、やつが……」
とある有名曲を脳内で流しながらやるといい、とよく言われるけど、個人的には余計疲れるだけなので私はやらない。
「お前何してッ」
「った!」
ドンッと突き飛ばされ地面とぶつかる。
痛い。許せん。
「うるさい! 助けたいなら邪魔しないで!」




