38.イウリオ 後編
それからまた月日が経った。
あの人は相変わらずで、ぼくがどれだけ冷たい態度を取ろうとも態度を変えることはなかった。誰にでも優しい人だから、見返りも求めることはない。だからぼくもあの人の優しさに甘えてしまっていた。
あの人が討伐者としての活動を再開して、この町も以前の活気を取り戻しつつあった。すっかり身体の調子がよくなった彼が町の人たちの依頼を次々とこなしていったお陰だ。
それでも、安心で安全な町とは言えなかった。以前に張られたモッダ平原側の結界が不安定だという噂が流れ始めたからだ。
もし結界が破られて危獣が町に攻め入りでもしたら、あっという間にここは死人で溢れかえる。あの人でも、一人で危獣を相手に戦うことなんてできない。
一番モッダ平原に近いこの町が危険だということはみんな分かっていた。早く術士が来てくれれば、モッダ平原の危獣がいなくなってしまえば。祈るような思いを思っていたのはぼくだけじゃないはずだ。
そして、その時は本当にやってきた。
いつものように森への調査に向かい、討伐者もどきの人間に絡まれた。どうせぼくの身体を見たら逃げ出すくせに、何が面白いのかこうして声を掛けられることは少なくなかった。
いつもならあの人が現れたり、どうにか隙を見つけて逃げ出したりするけど、今回は違った。
遠くから近づいてくる誰かの声に男たちは警戒し始めた。
「~~♪」
明るい歌うような声。踊り出してしまいそうなくらい楽しそうだった。それに気を取られている男たちから逃げ出そうとした瞬間。
「ガッ」
二人の男は、短い悲鳴を上げて地面に倒れた。黒い何かが横切ったような気がする。
一体何かが起こったのか分からないまま、とにかくここから離れようと走った。
途中、男たちの気を逸らせてくれた恩人とぶつかりそうになって申し訳なかったけど、早くエコイフに戻りたい一心で走り続けた。
◇
町は活気と笑顔に溢れていた。モッダ平原が閉鎖される前のようだった。
それもそうだ。モッダ平原の危獣が全滅したらしいのだから。
町長から話を聞いた。フォールサングの使者が来たと。初めはどうにかフォールサングがモッダ平原の危獣を倒したのだと思っていたら、違うらしい。
モッダ平原へ進軍はしたものの、予想以上に数を増やしていた危獣相手に勝てる戦いではなかった。でも、戦わずに勝利した。
「黒の聖女、と。そう呼ばれているらしい」
何とも言えない表情をしていたのは、多分ぼくと同じことを思ったからだろう。
ある時読んだ本には、力が強い聖女ほど髪の色が白に近いと書かれていた。純度が高い精霊石が白いように、霊力が強く精霊から愛されるほどに色を失っていくと。
黒とは真逆だ。町長も黒髪の聖女は聞いたこともないらしい。それに聖女は教会で保護され手厚い対応を受けるという。出陣するとなれば護衛の数も多く、各地の長へ話が行かないということはあり得ない。
モッダ平原の危獣は国が戦うのを諦めたくらいの相手だ。それを討伐したのだとしたら、かなりの実力者に違いない。
だからフォールサングの使者たちが興奮気味にその雄姿を語る様子に困惑したんだろう。
国が戦うのは危険だと判断した危獣たちを一掃した聖女一行が、黒髪で、幼子を抱え、翼を持った霊獣に乗った、たったの一組だというのだから。
ただ、その容姿に思い浮かべる人たちはいた。
「んん~、おいしい! イウリオさん、どうです?」
「……おれ、甘い物はあんまり」
「そうなんです? 残念。じゃあこっちどうぞ」
満足そうに甘味を頬張る黒髪の女と、幼子と、翼の生えた霊獣。珍しいものたちの組み合わせだ。ただ霊獣は人を乗せられるほどの大きさではないし、このヒオリという人も本で読んだ聖女の特性とは何一つ当てはまる様子はない。それでもここまで偶然が重なることはないのではないか。
あまり甘くない菓子を口に入れる。
ふと、白髪の幼子と目が合って視線を落とした。
何だか怖い。遭遇したことはないけど危獣や襲ってくる男たちより恐ろしく感じる。この人は平然と接しているし──いや、それどころか溺愛している。だから恐ろしいものではないと思いたいのに、身体が自然と強張る。
「おい、狡いぞ。オレも交ぜてくれよ」
急に肩にのしかかった重さと密着する温度に、なぜか安心した。
「まーたイウリオさん追っかけてきたんですかストーカー」
「す、何だ?」
「何にも~?」
気軽に接する彼女が少し羨ましいと思ってしまった。ぼくにそんな資格はないのに。
そうして数日が過ぎた頃。森からの帰り道で二人の男から絡まれた。
一体この容姿にどんな価値があるというのか。呆れと怒りを覚えながらも必死に逃げた。
あともう少しで人通りの多いところへ出られる──というところで、追いつかれてしまう。男たちの気持ち悪い笑みに嫌悪感が募る。
いっそ身体を暴かれてしまえば、その気味の悪さに逃げ出すのではないか。
そう、諦めた時だった。
急に男たちが声もなく倒れる。
何が起こったのか理解できないまま、身体が浮遊する。
「……もう大丈夫ですよ、イウリオさん」
よく分からない方法であの場から連れ出してくれた恩人は、優しくそう言った。
そしてぼくが無性だと、役立たずだということを知っても、態度を変えたりしなかった。それどころか、まるでぼくを肯定するかのような言葉も送ってくれた。
あの人の傍にいることが、許されるような気がした。
「私、ミレスが好きです。ずっと一緒にいたいです。でも二人とも女だから、子どもはできません。これって悪いことですか?」
一緒にいることは、悪いことじゃない。子が産めないのは、仕方ない。
「私かミレスちゃんが男になっても……子どもがつくれる、産めることになっても、欲しいと思いません。それも悪いことですか」
女だからでも、男だからでもない。ただ、傍にいたいだけ。それ以上は望まない。
「色んな形があっていいと思うんですよ」
許された気がした。みんなの役に立たなかったぼくが、今生きていることが──無性であることが。
ああ、なるほど。これがこの人が聖女と呼ばれる理由の一つなのか。
強い力を驕ることなく、使い方を間違えず、欲もなく人助けをする。この温かさが聖女でなければ、何だというのだろう。
◇
すっかり陽は沈み、僅かな明かりだけが暗闇を照らす。眠れずに夜道を歩けば、心地よい風が身体を包む。
凝りもせず一人で出歩くなんて怒られそうなものだけど、今はなぜか大丈夫な気がした。
ヒオリさんからもらったこの腕輪のお陰だろうか。
黒い腕のようなものからできる瞬間、少し嫌な感じがしたけど、霊獣から発せられる淡い光に包まれてからは一気に安心感が押し寄せた。腕につけている今もじんわりと温かさを感じる。ぼくを害から守ってくれると言っていたけど、本当にそんな気がしてくるから不思議だ。
「──っ!」
そろそろ帰ろうか、という時。振り向いた先に人影を見つけて驚く。
息が、心臓が、止まるかと思った。
風に靡く長髪と服、全てが白く一体化したそれは、暗闇と対比してこの世のものとは思えないほどの存在感だった。
「……」
それがヒオリさんの大事にしている幼子だと気付いた時には、目の前まで迫っていた。
「……」
「……」
「……あの」
「ん」
どうして一人でここにいるのか。どうして言葉を待ってくれるのか。
言いたいことは色々とあったけど、ふと口から出てきたのは頭に浮かんだこととは違った質問だった。
「……ヒオリさんの、どこが好きなんですか?」
言葉にしてみて気付く疑問。
あの人が強いのは心だ。身体能力は普通の人と変わらないように思う。鍛えているようにも見えない。この子や霊獣がヒオリさんに付き従うのは、能力の問題じゃないだろう。
「ぜんぶ」
「え?」
「ひぃが、いい。ひぃじゃないと、いや。ひぃじゃないと、だめ」
たくさんの言葉を話す幼子に圧倒される。
「ひぃ、とらないで」
「あ、いやそんなつもりは」
怒っているようには見えない。敵意も感じない。その無表情はいつもなら恐怖を覚えるのに、なぜかそれもない。
本当に、言葉通りのようだった。幼子が親を慕い、取られてしまうと嫉妬するような。ぼくには理解できないものだったけど、この町にいて親子とはそういうものだと分かった。
「ふ、ふふ」
自然と笑いが零れた。本当にぼくのことが邪魔なら、その圧倒的な力を使えばいい。それもせずただこうして抗議してくる存在が、可愛く思えた。
「ヒオリさんは、おれみたいな弱い存在を放っておけないだけですよ」
「……ひぃ、びじんに、よわい」
……美人? 顔が整っているということだろうか。そんなものが何の役に立つというのだろう。
確かに富を多く有する人間がそんな趣味を持っていると聞いたことはある。だけど、普通に生きていく上で金持ちに飼われる幸運なんてないし、そもそも扱いがいいという保障もない。
ヒオリさんは毎回ぼくに食事を奢るし色々な報酬を断るくらい裕福ではあるんだろうけど。
「二人の間に入れるものなんて何もありませんよ」
多分、ヒオリさんならそれをこの子に十分に伝えているはず。二人をよく知らないぼくでさえそう思うのだから。
「それに……」
この子がヒオリさんを慕うように、ぼくにもそんな人がいる。誰にでも優しくて、いっそ誰のものにもならなければいいのにと思う人が。
少し、この子とは違うかもしれないけど。
──イウリオ!
そう、この場にいるはずのない声が聞こえるなんて。あの人の存在がぼくにとって大きくなってしまったのだと嫌でも感じる。
「イウリオ!」
「──え?」
「こんな時間に一人で外に出るなんて危ないだろ!」
肩を掴まれて驚く。まさか本物だったなんて。
気付けば幼子はいなくなっていた。
「い、イウリオ? その腕輪は……」
何だったんだろう。幻でも見ていたのか。
「イウリオ?」
腕に収まる装飾品が、あれは夢でも何でもない現実だと教えてくれる気がした。
「ブライジェさん、“すとーかー“ですか?」
「へ!?」




