30.形勢一変
「あー、ごめん。やっぱり気にしないで。ところであの鳥がいたのってこの辺?」
「ん」
『まだ何かあるの~?』
「封印とかないかなって。でも二人が感知しないなら残ってないのかな」
森に戻ってきたのには理由がある。
あの鳥がこの森の魔気を全て吸収して、それをミレスちゃんが取り込んだから現状の問題は解決している。ただ一つ気になることがあった。それは元々の魔気の原因が何だったかということ。
かつての危獣が封印されていたのなら多分祭壇みたいなものがあると思う。魔晶石だけだったなら痕跡は残らないかもしれないけど、どうしてここにあったのか説明がつかない。大型の危獣を倒せる武力がこの国にはありそうにもないから。
禁域と呼ばれてるくらいだから、きっと昔からその原因があったはず。封印の線が濃いかなと思ったんだけど、見当違いか。
何かしら魔気の原因となったものが残っていたら危獣のこととか分かるかなと思ったんだけどな。あとあわよくばもう少し幼女の餌──もとい魔気が残ってないかなと。
「……ひぃ」
「ん?」
『やめたほうがいいんじゃないかな……』
幼女がどこかを指差し、霊獣がいつになく弱々しそうな声を出す。
「何かあるの?」
幼女の指差した方を向くと、なぜか自然と足が動いた。まるで引き寄せられるように歩みを進める。
──あハっ。
「え──?」
「ひぃ……」
頭の中に声が響いたと思えば、幼女が腕の中から飛び出した。腕とローブに残る、湿った感覚。滴る、赤黒い何か。
「ミレスちゃん……?」
「だ、め」
『主さま、離れて!』
キィちゃんの声と同時に幼女から黒い枝が放たれる。いつもは敵に向かっていくそれが、こちらへ来る。詰められた距離に死を覚悟する間もなくただ呆然と見つめることしかできない。
しかし黒い枝が身体を貫く前に、急に方向転換をして木にぶつかった。メリメリと音を立てて倒れる大木、暴れる黒い枝。
『主さま!』
蹲る幼女を置いて、巨大化した霊獣が私のフードを引っ張る。その場から逃げ出すように走った。どんどん幼女から遠ざかっていく。
加護がうまく働いていないのか、突き刺すような風や草木が痛い。苦しい。制止の声も出ない。
突然何が起きたのか分からないまま、ただただ幼女の容態が心配だった。腕とローブについた赤黒いそれが特有の臭いはしないものの血だということ、愛しの彼女が自分を攻撃しようとしたことは理解できた。
後者は、いっそどうでもいい。だけど最後に見た表情が頭を支配する。
あの子が苦しんでいるのは嫌だ。
『主さま!』
霊獣が銜えるローブとリュックを脱ぎ捨て、その拘束からどうにか逃れる。支えを失った身体は地面へと叩きつけられ、そのまま数十メートルほど転がる。
「ぁ……っ……ぅ」
落下の衝撃と打撲で全身が痛い。息をするたびに肋骨が痛む。
『主さま……っ、ごめんね……!』
暗転する視界と意識の中、遠くでキィちゃんの声が聞こえた気がした。
◇
~~~~♪
軽快な音楽が聞こえる。何だか懐かしい気がした。
そうだ、最近は耳にすることもなかった電子音。
「──っ!」
ハッとして飛び起きる。辺りを見渡すと、知っている部屋、そのベッドに寝ていたことが理解できる。
鳴り続けるスマホのアラームを確認すると、一気に血の気が引いた。
「遅刻する!」
急いで顔を洗って身支度をして、鞄を持って家を出た。
いっそタクシーでも呼ぼうかと考えたけど、その時間すら惜しくてひたすらに走った。
久々の全力疾走で汗は凄いし息も切れて散々だ。
瀕死になりながら職場に辿り着くと、先に出勤の打刻をしている人がいた。
「お、珍しいね。こんなギリギリなんて」
「は、はい……寝坊してしまって」
いつもゆっくりと出勤する先輩に会った。どうにか間に合ったらしい。
せっかく皆勤なのに、寝坊で皆勤賞を逃すのは惜しいよね。
「寝坊なんて初めてじゃない?」
「ここではそうですね」
「今日はリーダーやだなー。早く帰れるといいけど。朝ちゃんはフリーだからまだいいよね」
「あ、今日フリーでしたっけ」
他愛ない話をしながらエレベーターに乗り、更衣室で着替える。制服に着替えて更衣室を出た瞬間、そこは廊下ではなくとある部屋の中だった。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
心配そうにこちらを覗き込むその顔には見覚えがあった。確か、転職前の職場の後輩だ。
あれ、この職場は数年前に辞めたところだったはず。しかも、何で座っているんだろう。
「採血、やめときます? 顔色悪いですけど」
「あ、いや……」
そうだ。健康診断があるんだった。だから後輩に採血を頼んだ。
「大丈夫、続けてくれる?」
「もう、倒れても誰も介抱してくれませんよ~? あ、でも今は個室空いてるから大丈夫ですね」
冗談を言いながら採血の準備を進める後輩。台の上に左腕を出して、違和感に気づく。
腕が、綺麗だ。
いや、当たり前なんだけど。大怪我をしたわけでもないのに何でそんなことを思ったんだろう。
「血濃いですね~。朝野さん、ちゃんと水飲んでます? ちゃんと絶食するのはいいですけど、ここまでだと脱水レベルですよ」
「まあ昨日から何も飲み食いしてない……から……」
笑う後輩の声が遠く感じる。
そういえば、昨日は何を食べたんだっけ? 血も、もっと黒かった気がする。
そう、どす黒い赤で、鉄臭さは感じなくて……何が? 何で?
何で、腕と服に血がついてるの? こんな服、持ってないよね。知らない……知らない?
「いた……」
なぜか痛い。針が刺さってる腕じゃなく、胸が、全身が痛い。
「しっかりしてくださいよ~。来月は推し? の誕生日なんでしょ? しっかり仕事して稼がないとって言ってたじゃないですか」
「そ、う……」
ちゃんと休みの希望まで取った、推しの誕生日。金髪碧眼の女の子。
そのはずなのに──なんでだろう。心臓までが痛くなってきた。ぎゅっと鷲掴みされたような、そんな感覚。
──こっちだよ。
誘われるように前を向くと、さっきまでいた後輩も、採血セットもなかった。職場ですらない。真っ白で何もない空間。
──こっちだよ。
「だれ……?」
浮遊する小さな声を辿りに歩く。
もう少し、もう少しで手が届きそうな瞬間──小さな鳥の姿が見えたような気がした。
◇
「……ぃっ」
ズキズキと痛む胸を抑えながら目を覚ますと、土の香りや硬さに五感を支配された。
「──ぺっ」
口の中に入った砂を吐き出し、ゆっくりと顔を上げる。
変な夢を見ていたような気がしたけど、どのくらい時間が経ったんだろうか。まだ辺りは暗くなっていない。そんなに時間が経っていないことを祈る。
少し遠くに落ちていたローブまで這いつくばって取りにいく。恐らく転落の衝撃で折れているだろう肋骨を抑えるためにローブを強めに胸に巻きつけ、必死に立ち上がった。リュックも持っていきたいところだけど、さすがに無理そうだった。
「~~~~っ」
全身の痛みに悶えながら、少しずつ歩く。じんわりと滲む涙を必死に堪えながら進む。気を紛らわすために記憶を整理することにしよう。
確か、巨大な鳥を葬送し、お姫様を送り届け、封印があるかもしれないと森へ戻ってきた。魔気が残っていたらと思っていたけど、特に何もなさそうだった。
──そうだ。声が聞こえた。女か男かよくわからない声が、笑っていた。気がついたら、ミレスちゃんが苦しんでて──私を攻撃しようとした。まるで、何かに操られているように。
まさか、あの黄緑頭……? いや、あいつはガヴラから追い払われてどこかへ行ったはず。実体がなければ何もできないようなタイプだ。それにあの茶髪の男が大丈夫って言ってたし──いや、何で大丈夫だって言葉を信じ切れる? あいつが黄緑頭の仲間だったら? でも、そうだとしたら今まで私たちを助けてくれた意味が分からない。
駄目だ、分からないことだらけだ。一つだけ分かるのは、あの子が苦しんでいるということ。
だから行かないと。一人になんてさせておけない。
それにしても酷い霊獣だ。私が気絶したのを放置するなんて。
いや、ごめん嘘。謝る声は聞こえてた。私がいても邪魔だからだよね。分かるよ。一応主だし、守ろうとしてくれたんだよね。
でもごめん。足手纏いだろうが何だろうが、私はあの子の傍にいる。




