4.決意の果て
古びた狭い家。そこの一室で身支度を終えた男に、それまで黙っていた女が決壊したように声を出す。
「あなた……!」
「行ってくる。後のことは頼んだぞ」
今にも泣きだしてしまいそうな女に背を向け、男は短く告げて家を出る。
「おとうさん、どこか行っちゃうの?」
「……っ……えぇ……ずっと……ずっと、遠くにね」
心配そうに見つめる少女を抱き締め、女は小さく震えながら声を絞り出した。
◇
「別れは済んだのか?」
「はい」
とある兵士が部下へ声をかけると、その部下は表情の乏しい顔で小さく答えた。
「恐らく最期の会話になるだろう。後悔はしてないか?」
「大丈夫です」
きっとどれだけ言葉を紡いでも、家族を悲しませるだけだ。それなら最低限の一言でいい。冷たい夫だったと、父親だったと、割り切って、すぐに昇華できるように。
いっそ憎んでくれていい。それで少しでも前を向いてくれるのなら。
「もし、無事に戻れたら──」
「よしましょう。虚しくなるだけです」
「……そうだな」
今から彼らは、この国──フォールサングのために尽くし、その命を捧げようとしていた。
その部隊は国中から集められた数万の兵士たち。疲弊した国からどうにか抽出した総戦力だった。
そして彼らは編成された軍の先発隊であり、死に最も近い立場だった。
二年前まではこんなことになるなど、国中の誰もが思わなかっただろう。
約二年ほど前、国境近くにある平原に危獣が出現し、その数を増やしてから誰も近づくことができなくなった。
以前は小さいながらも平原の中央には霊大樹が鎮座し、両国の繁栄を支えてきた。だが危獣の数が増えるにつれ、霊気を放って撃退してくれるどころか“気”に侵されてしまった。最早見る影もなく枯れてしまった霊大樹に、人々の心は荒んでいった。
誰も平原へは近づけなくなり、次第に両国の繋がりは希薄化した。荒れ地に囲まれたこの国は貿易相手を失い、衰退の一途を辿っていった。それだけでなく、理由は分からないが今までは平原に留まっていた危獣が町にまで現れるようになり、国は消耗する一方だった。
だから国は今回の出兵に命を懸けた。最初で最後の総力線だ。これが失敗に終わればこの国も終わる。危獣に攻め込まれて蹂躙されるだけだろう。
ただでさえ危獣を相手に戦うなど無謀だ。それなのに相手は一匹ではない。一体どのくらいいるのか分からない上、それぞれの特性や力など知る由もない。霊術を使えるとはいえ、人間一人の力など微々たるものだ。
それでも、戦うしかなかった。国を守るために、家族を守るために。この身がどうなろうとも、前に進むしかなかった。
「まずは俺たちの部隊が先行して様子を探る。情報を後方に伝え、必要に応じて部隊を再編制。少しでもこちらが有利な形で戦闘を進める」
「はっ」
「フォールサングの未来は我々の手にかかっている。心して行くぞ」
おおー! と野太い雄叫びが響き渡る。士気は十分だった。
平原に現れた危獣たちは、そこが縄張りだとでも言うように、一定の範囲内に立ち入れば攻撃をするものの、距離を取っていれば特に反応もなくその場から大きく移動することもなかった。かなり広大な地ではあるが、そこへ留まってくれていただけよかったのだろう。
最初の報告が上がってから約半年、短い幸せだった。国境を隔てた向こうの国・ダナレではどんな対策を取られているか気になるところだが、それを知る術はない。
男が先発隊に志願した理由は、しっかりと危獣を、国との戦いを、この目に焼き付けるためだった。愛国心の強い彼は、家族と同じくらいにこの国そのものが大切だった。
だから、たとえどれだけ危獣がいようとも、できるだけ多くの相手を屠るつもりだった。
男を始め、命を賭して挑む戦いが、あのような事態となることなど誰にも想像できなかった。
◇
いよいよ危獣の群れに近づく。すでに周囲の雰囲気は重く、空は晴れているというのに薄暗く感じる。
異常と不調を身体が訴える。じんわりと汗が滲む。それは男だけではなく、先発隊の皆も同じだった。
かの“気”というものは、これほどまでに不快で心身に悪影響を及ぼすものなのか。
「……」
ごくり。誰かが唾を嚥下する音がやけに大きく聞こえた。
今までないほどに緊張をしている。いや、緊迫感を与えられている。
「……これは」
大小様々な獣が広大な平原を闊歩している。かのグルイメアの森と同じなのではないかという疑問が皆を襲う。
その数ももちろんだが、一匹一匹の強さも計り知れない。歴戦の兵でさえも、これが負け戦であると悟った。
それでも。
「行くしかない」
ゆっくりと皆が頷く。
男は懐に隠した家族の姿絵をぎゅっと握り締めた。
「最早悠長にしている暇などない。これ以上我々の身体が動かなくなる前に、総攻撃を仕掛ける! 後方へもそう伝達せよ!」
先発隊の隊長の声に、ある者たちは伝達を、そしてその他の者たちは武器を構え、ヒスロを走らせようとした──その時だった。
「いっけー! グラオザーム・ツヴァイグ!!」
どこからともなく聞こえた叫び声とともに、黒い何かが平原を横断する。
閃光とともに迸ったそれは、危獣の群れを穿ち、大きく分断させた。一気に数の減った危獣に驚く間もなく、再び何者かの声がする。
「もういっちょ~!」
ドォォォォォン! という地響きとともに次々と黒い何かに攻撃され倒れていく危獣たち。悲鳴を上げることすら叶わず駆逐されていく危獣の群れに、いっそ同情の念を覚えるほどの圧倒的な力だった。
「あっは、爽快! 楽しー!」
弾むような声を追えば、やっとこの事態を引き起こした主の姿を捉えた。それぞれ術や器具を使って確認する。
羽の生えた白い動物に乗った、黒髪の人間。恐らく容姿と声から女だろうと推測できる。その腕に抱えられていたのは、白髪の幼子。何とも奇妙な組み合わせだった。
いや、おかしいのはこの状況だ。数万の兵力を動員するほどの危獣を、たった一組の人間たちが蹂躙している。
「し、信じられん……」
「一体どうなってるんだ……?」
「何なんだ、あれは……」
呆気にとられる皆をよそに、女は高らかな声とともに次々と危獣を屠っていく。戦いに慣れた兵士たちの動きを止める“気”を物ともせず、むしろ楽しそうに白い動物と舞うその姿は、少しばかり神々しく見え、兵たちは僅かに高揚感を覚えた。
その圧倒的な力が自分たちに向くのを恐れてか、ただ目の前の光景が信じられないからか。
誰一人として動けないまま、状況はどんどん変化していく。
「これで最後~!」
あれだけいた大小様々な危獣は瞬く間に仕留められ、黒い血だまりの中心には黒髪の女たちだけが残る。危獣が死ぬにつれ徐々に濃くなっている黒い煙が、彼女たちを包む。
そんな大量の“気”の中にいながらも平然としている彼女たちから目が離せなかった。
今度は一体何を仕出かしてくれるのか、遂に矛先がこちらに向かうのか。
誰しもがそんな思いで見つめる中、黒髪の女──いや、その腕の中の幼子に引き寄せられるように、死骸から漂う黒い煙が収束していく。
「んー、終わりか~。数の割にそんなにって感じか、残念」
まるで家の掃除をしただけとでもいうような物言いだった。
驚きの連続に皆が固まっていると、彼女たちは白い動物に乗って颯爽と去っていってしまう。
あれほど圧倒的な力を持つ者が万単位の兵を感知できないはずがない。見逃されたのか、戦う価値すらないと判断されたのか。
その真意は誰にも分からない。
ただ、荒れ果てた平原には無数の亡骸だけが残った。




