幕間 近づく二人
「ハァーーーー」
大きな溜め息を吐いた赤髪の男は、後ろに倒れるようにドカッと椅子に座る。
黙々と書類に目を通しては筆を走らせる少女は、男を一瞥もせず口だけ開いた。
「状況は」
「やってもやっても終わらねぇ」
短い言葉でのやり取りだったが二人にとっては十分だった。
赤髪の男──エメリクが鉱山の後処理に向かい、状況は思わしくないということが分かる。
少女も実際に目にした訳ではないが、結界外での状態ですらあの有様だ。結界内はそれ以上に危獣の死骸が転がる悲惨な光景が広がっているだろうことは想像に難くない。
「本当にヒオリちゃんとあの子、有り得ねぇよ」
鉱山の結界の外で危獣と戦っている時、そして少女がやられてしまった時、エメリクは死を覚悟した。
しかしあの幼子は、ヒスタルフ一と言っても過言ではない剣の腕を持つ少女が苦戦した相手を難なく倒した。あの時はそれだけで頭がいっぱいだったが、いざ鉱山の調査をしてみれば、結界の中は危獣の死骸だらけだった。
一体どれほどの力を持っているというのか。
ヒオリの話にあった聖獣の功績もあるかもしれないが、それにしても数が多すぎる。そして害獣ではなくどれも危獣、しかも一体一体が結構な強さだった。
「報告することが多すぎる。纏めきれねぇよ」
「歪み、か」
「いっそそのせいで状況が分からねぇってことにしたいくらいだ」
「危獣の調査についてはどうにかしよう。数や種類など途方もないことは分かる」
「さっすがテアちゃん。話が分かるな」
「周囲への影響は?」
「まあ多少荒れてはいるが、危獣の数にしてはそんなに、って感じだな。どいつもこいつも瞬殺だったみたいで、想定していたより修復に時間はかからなさそうだ。それに死骸の割に発生している“気”が少ない」
「それもミレスと聖獣のお陰か」
「可能性はあるだろうな。危獣が死んで数日経っても大した“気”の量じゃない」
「……」
「追加報酬でも出すか?」
「どうせ断られるだろうな」
領主である少女とその護衛騎士の命まで救った報酬は、とても金に変えられるものではない。
地位も土地も欲しくないというヒオリに渡せるものといえば金くらいだったが、それすらも辞退するくらいで、彼女との契約の報酬として少し上乗せするのが精一杯だった。あとは彼女に渡す身分証明の札を一番高級な素材で作り、誰が見ても特別な身分だと分かるようにしたり、札を照会した際にメイエン家の名前を大きく出したりするくらいしかできなかった。
他にできることがあるとすれば、一番彼女が気にしている幼子の評価を上げることくらいか。
「とにかく国にいいように報告しておこう。この国内で彼女たちに誰も手出しができないほどには」
「それ、本人たちは知らねぇんだよな」
「やり過ぎだと言われそうだからな」
「違いねぇ」
ヒオリが貧民街の水源を確保したり、建物の強化のための素材を作ったり、幼子も領地内の新たな資源を見つけたりと鉱山の件以外での様々な功績を残した。しかしその分の報酬を受け取ろうとしないどころか、また別にその報酬分の働きをするというかつてない状況になった。遠慮をするため不用意に報酬を用意できない。
いっそ勝手に彼女が所持する札へ報酬を振り込みしようかとも考えたが、数字だけは分かるらしい彼女が不信感を抱く可能性がある。文をしたためようにも彼女は文字が読めない。
以前、読み書きの練習をしないのかとエメリクが聞いた時、「この歳になってまで、というか異世界に来てまで勉強したくない……それで不利益を被っても仕方ない。今のところ大きな問題はないし」とやる気がなさそうだった。
平民以上の知識や技術を持っているのに貴族のような対応は嫌い、地位や富は遠慮する。そんな彼女に渡せるものがあるとすれば、彼女が唯一信頼している幼子への評価しかないだろう。
「いい加減、自分たちがやったことの重大さに気づけばいい」
「ま、確かにな」
今回の様々な件でメッズリカ領の資金や資源が潤沢となり、これまで手の届かなかった貧民街などの復興が進んだ。貴族たちも今までの生活と変わらず過ごすことができ、平民たちもより良い暮らしができるようになった。それが彼女たちのお陰だということは周知の事実であり、領民は皆感謝している。知らないのは本人たちだけだ。
「再開はいつになりそうだ」
「周囲の景観に文句言わねぇなら三日あればってとこだな」
「発掘作業を優先させろ。危獣の処理は後回しで構わん」
「はいよ」
筆で頭を掻きながら書類を睨みつけるエメリク。
万事が上手く行き過ぎている。それ故に人手が足りない。
「貧民街の噴水の作業が終わり次第、鉱山の方へ人を回してもいいか?」
「ああ」
以前はベルジュロー家のこともあり、メイエン家所有の鉱山へ信頼できない人間を立ち入らせることはできなかったが、状況が変わった。
ヒオリたちのお陰で貧民街も活気づいている上、労働者として申し分ない。
「少し休憩しようぜ、テアちゃん」
ハァ、と深く息を吐き、エメリクは紙束を近くの机へ放る。
「今頃ヒオリちゃんたち何してるんだろうな。テア、旅先の助言してたんだろ?」
無言で少女が一枚の紙をエメリクへ投げる。
どうやら地図のようだ。危獣の出没地域を重点的に回りたいというヒオリの要望を取り入れた経路になっている。その中には、危獣だけではない国として頭を抱えるような問題を抱える場所も含んでいた。
きっとお人好しの彼女たちはその依頼もこなしてしまうのだろう。
「この経路、ツェビフェリューも近──」
言いかけて、少女が近づいてきたため後の言葉が続かない。ただ近づいたのではなく、椅子に座るエメリクの開いた膝の間に、片膝を乗せてきた。
ギシリ、と小さな音が鳴る。
少女の薄い青緑の髪が、さらりとエメリクの肩に落ちる。
「テ──」
思わず息を詰めるエメリクを余所に、少女はその頬に優しく触れた。
僅かながら身を震わせるエメリクに少女は小さく笑う。
「生娘のような反応をする」
「おっ、まえは、どこの変態オヤジだ……!」
エメリクは自らの顔を手で覆いながら、少女を押し退けることもできずに悪態をつくことしかできない。
「俺に甘い態度を取るなんて寒気がするとか言ってたのは誰だろうな」
「歩み寄れ、態度に出せと言ったのはそっちだろう」
どこか余裕そうで楽し気な少女に少々腹が立つ。
「ツェビフェリューも近いが、遺棄場に入るには特殊な結界もある。あの二人とはいえ、立ち入ることはないだろう」
「この状況で話を戻すか、普通……」
甘い雰囲気から一転、エメリクが言いかけた言葉の返事を宣う少女に少し呆れる。
エメリクも男だ。まだ同じ気持ちにまで至っていないとはいえ、好意を向けてくれる女の子に迫られれば吝かではない。ヒオリにも据え膳食わぬは何とやらと言われた。
「ハァァァァ……」
またも深い溜め息を吐きながら、椅子に背を預けるエメリク。両目を瞑り、両手で顔を覆ったままだ。
そんな赤髪の男に、少女は満足気に微笑む。
エメリクが見たことのないその表情のまま、彼の赤髪に指を通した。
反応しまいと無言のままの男の肩を、首筋を、耳を触る。
そしてそのまま、額に軽く口づけをした。
「存外、お前が反応を返してくれるから嬉しくてな」
遂に耐えられず勢い良くエメリクが上体を起こすと、少女はあの時の笑みを湛えていた。
固まるエメリクを置いて、少女は颯爽と部屋を出て行く。
「クソ、覚えとけよ……」
紅潮した顔を手で隠しながら、エメリクはどう仕返ししてやろうかと再び椅子に深く背を預けたのだった。




