番外編 オルポード家 前編
全部書き終えてからと思ったのですが、全然終わりそうになかったので分割しました。次で終わるように頑張ります。
シィスリー国のメッズリカ地方にあるヒスタルフ。ここには地方の領主が在住し、国と隣接するグルイメアの森から現れる危獣を留める役目を担っていた。決して安全とは言えない土地ではあったが、代々領主が有能であり領民からの支持は得ていた。
領主を含め貴族が平民の上に立ち政が行われており、メッズリカ地方、中でもヒスタルフの貴族から領主が選定されていた。
貴族の中で推薦と多数決が行われ、選出された家が国から承認されて初めて領主となる。つまり他の家であれ領主にはなれるのだが、ここ数代はメイエン家が領主のままだった。もちろんメイエン家が有能だったということもあるが、領主の役割が重く、それに全うしている内にその他の貴族は楽ができるという構図が出来上がっていたからだ。
メイエン家が領主として奔走している間、その他の貴族は税収で豊かな暮らしを満喫していた。
ところがそれでも満足できなくなった彼らは、次第に領主に隠れて税収を少しずつ増やしたり横流ししたりとあらゆる手段を使って自らの生活をより贅沢にしようとした。
グルイメアからだけでなく時折町にも出現する危獣に対応している内、気づけば貴族たちと平民、貧民の間は大きく広がっていた。特に貧民街はその日暮らしもままならない人間が増え、平民ですら近づかないようになった。
──などという話は、当事者にとってはどうでもいい。貴族や領主を憎んでもこの生活から脱することができる訳でもない。むしろ何かを考え企てでもしようことなら自分たちの命などすぐに消え失せてしまうだろう。
ただ必死に生きるしかなかった。他には何も考えられなかった。
その日を生きられるように、僅かな金を稼ぎ、盗みを働き、ひっそりと息をするしかなかった。
オルポード家は互いに子連れ同士の再婚だった。長女ミリエンは妻の子、アダル、ダニラ、パトリーは夫の、そして一番末っ子のヘロラフは夫婦の子だ。もちろん全員が納得して一緒になったとは言え、七人の家族を養うのは簡単なことではなかった。
当時、ヒスタルフでは危獣の出没で仕事が常時よりかなり減っていて、いつ騒ぎが収まるか分からない状態が続いていた。夫は妻と子どもたちをもっと楽にしてやりたいと考え、ヘロラフが二歳の頃に出稼ぎに行った。
最初こそヒスタルフで働くより少し多めの金額を送ってくれていたものの、ここ一年は送金どころか消息すら不明になってしまった。
夫がいない間、住んでいた家の周囲は危獣被害のため貧民たちの集まりとなった。不要で処分に困るようなものを遺棄されるようになった。
皆、生気のない顔をしていた。飢えや病に命を落とす者も少なくなかった。
元より街から離れた場所だったが、隔離されたような気分に陥った。
替えのない服は洗っても汚れが落ちないようになり、穴は拾った布生地で塞いだ。
やがて送金よりも夫の安否を心配して証明札をエコイフへ確認しに行くこともしなくなった。
母のモレガナは五人の子どもを抱えながら、家事をして僅かながらの金を稼いだ。物乞いもした。
ミリエンとアダルも下の子どもたちの面倒を見たり、仕事を探したりと懸命に尽くしてくれた。
毎日水を飲むことも厳しくなってきたところ、モレガナは心労と身体への負担が大きく倒れてしまった。
「おなか、すいた」
誰かが小さく声を出す。
狭い部屋の中で固まる子どもたちは、声を出せば喉が渇くだけだからと話すことも次第になくなっていった。
「ねぇちゃん、ちょっと街に行ってくる」
外で土いじりをしている姉に声を掛け、アダルは家を出た。
どうにか頼み込んで分けてもらった種が実をつけるのはいつだろうか。その頃に生きているだろうか。
そんなことを考えながらアダルは歩く。
「……」
いつ見ても街は活気で溢れていた。皆笑顔で楽しそうだった。
いつ死ぬかも分からない自分たちとは大違いだと思った。
「……はぁ」
空腹で少し気分が悪い。腹一杯に食事をしたのなんていつが最後だっただろうか。
店が立ち並ぶ裏路地を歩く。たまに金や食べ物が落ちている。運が良ければ破棄された商品が見つかる。一般人には食べられたものではないかもしれないが、腐敗した部分を除けば十分に食せる。貧民にとっては貴重な食料だ。
しばらく薄暗く人気のない道を彷徨うがこれといった収穫はなかった。
仕方ない。なるべくやりたくはないが、生きるためだ。
アダルが小さな拳を握り締めたところで一人の男がやってくるのが見えた。綺麗な恰好とは言えないが、明らかに貧民ではないしそこまで体格がいい訳でもない。他に仲間がいるようにも見えず、ちょうどいい標的に思えた。
相手は荷物を持っていない。となれば衣類の袋に金品を入れているに違いない。
男とすれ違う瞬間、ふらつくのを装ってぶつかる。
「痛ぇな!」
怒鳴られることなど想定内だ。少しの隙を見て衣服を探る。
ない。それらしきものは触れない。
「おいガキ! ふざけんなよ!」
「いっ」
「待ちやがれ!」
気づかれた。
素早く身を翻したものの、男に服を掴まれ地面に転がされた。
殴られ、蹴られ、必死に逃げた。
失敗した。もっとうまくやらなければ。
「いって……」
暴力を受けた腕や足、腹が痛む。どうにか顔は死守したものの、家族に見つかるのは時間の問題かもしれない。
それでもこのまま帰る訳にはいかない。何の収穫もないなんて殴られ損だ。
アダルはもう一度だけ試してみようと路地に入る。すると女の声が聞こえた。
「ん~! おいしい!」
女は串に刺さった肉を食べていた。少し遠くからも分かるその匂いに思わず腹の音が鳴った。
──いいな。あんな肉、食べたことない。
隠れて様子を窺っていると、女と一緒に小さな子どももいた。外套でよく分からないものの見る限り武器を所持している訳でもなければ強そうにも見えないし、さっきの男たちよりは絶対にやりやすいはず。身なりも整っているし金品を少しくすねたくらいで気づかないかもしれない。
少しだけ、あんなに大きな肉の串なら食べ残しもあるのではないかと期待していたが、意外にも小さな身体に収まるのを見て残念に思った。さっきの男よりは罪悪感が燻る。
小さく頭を横に振って、気を持ち直す。
すでに悪いことは両手で数えられないほどやってきた。今更何を思っても遅い。
今生きることで精一杯なのだから。
女と擦れ違う間際、さっきと同じようにぶつかる。
「わっ!」
力加減ができずに女が蹌踉めくが、気にしていられない。
盗みに気がつかれる前にひたすら走った。
「やった、やったぞ!」
さすがに追いつかれないだろうという距離まで逃げてきたアダルは、ガラクタの山に隠れながら成果品を確認する。
それは見たことのないくらいに綺麗な石がついた首飾りだった。きっと高く売れるだろう。
これでみんなにおいしいものを食べさせてやれるし、しばらく食べ物に困らないかもしれない。母も治療院に診せることができるかもしれない。薬もきっと買える。もしかしたら今にも崩れてしまいそうな家にもさよならできるかもしれない。
薄暗い帰り道、道とは言えないほどの遺棄物の山を通りながらもアダルは熱に浮かされていた。鬱蒼とした草木でさえも花道に思えた。
彼女たちと再び会うまでは。
「アダル! アダル、あんた……!」
血の繋がらない姉が血相を変えて名前を呼ぶ。
そういえばさっき誰かが来たようだったが、滅多にない来訪者よりも首飾りをどこで換金するかを考えていたアダルには些細なことに思えていた。
「わっ、ねぇちゃん何だよ、うわっ」
姉のミリエンが思い切りアダルの腕を掴み、痛みで自然と身体が強張る。
持っていた首飾りを衣類の内袋に押し込むが、ミリエンに見抜かれ阻止された。
「見せなさい!」
力では負けないはずなのに、痛みで怯んだ隙に首飾りを取り上げられてしまった。
まずい。見つかった。どうにかしなければ。
「街に行ったと思ったらなんてことを……」
悲しみと怯えの混じったミリエンの表情に思わずアダルの胸が痛む。
「こ、これは拾って……!」
「嘘! 拾ったならすぐに返すべきでしょ!? あんたが盗んだんでしょ!」
──なんで見つかったんだ。ねぇちゃんは知らないはずなのに。
誰にも告げていない悪事を暴かれてアダルは焦る。
「とにかく返しなさい!」
「あっ!」
ミリエンに首飾りを取り上げられ呆然とするアダル。
せっかくこれで食事が手に入ると思っていたのに。母の具合がよくなると思ったのに。
アダルの絶望など知らず、ミリエンは来訪者の元へ向かうと大きく頭を下げた。
「本当に、本当にすみません! うちの馬鹿な弟が……! どうか、どうかお許しください……!」
ミリエンの言葉にさらに胸が締め付けられる思いがした。
だがアダルの内心など知るはずもなく、今度は床に膝をついて頭を下げるミリエン。
アダルは固まる身体を叱咤し、来訪者を確認する。
「あ、いや、大丈夫。無事に見つかったから大丈夫だよ」
「あんたも頭下げなさい……!」
アダルはミリエンに無理矢理頭を押さえつけられながら、焦りと恐怖に襲われていた。
あの女だ。来訪者はこの首飾りの持ち主だったらしい。
なぜ、どうして。
聞き込みでもして判明したのかと思っていた。あれだけ高価そうな首飾りだ。もしかしたら貴族のもので、それを衛兵が取り戻しにきたのかもしれないと考えた。
違う。どれも間違っている。
あの女たちは、自分でここを突き止めたのだ。
「アダル? ミリエン……?」
頭を下げながら確信に恐怖していると、後ろから弱々しい母の声がした。
「お母さん……!」
「二人とも、どうかしたの? そちらの方は……?」
「何でもないの、ごめんなさい。お母さんは寝ていて」
体調の優れない母を心配してミリエンが何でもないように装う。今にも倒れそうな母は、こちらも血の繋がらないはないものの残された兄妹のために必死に働いて養ってくれた大事な人だ。これ以上の心労はかけたくない。
きっとミリエンもアダルと同じ気持ちだったはずだ。だからこうして寝室へ戻ってもらおうとしたのに、さすがは母と言ったところか。来訪者を見て踵を返す訳にはいかないと悟ったようだった。
どうにかしてこの場を取り繕うかと考えるが、何も思い浮かばない。何より女の──いや、女が抱える幼子が怖くて頭を上げられずにいた。
「あの、その子が私のネックレスを拾ってくれたみたいなので、お礼を……」
しかし何を思ったのか、来訪者はアダルを庇うような発言をした。
「まあ、そうだったのですね」
「違うの、アダルが盗んだのよ! だから謝らなくちゃ……!」
来訪者の意図が分からず様子を窺っていると、納得しかけた母とそれを否定するミリエンの声。正義感の強い姉は、来訪者が勘違いをしていようとも、それがオルポード家にとっては都合のいいことであっても、正しくないことは否定する。それはミリエンにとって当然のことであり、アダルも特に驚きはしなかったが、同時に来訪者に違和感を覚えた。
盗まれたと分かっているはずなのに、なぜアダルを庇おうとするのか。
何か裏があるのだと思った。そうでなければわざわざ貧民街にまで赴き、家を訪ねるなんてことしないだろう。
しかしオルポード家に取り入る理由も利点も思いつかない。せいぜい幼い子どもくらいしか──。
「──ぁ」
まさか、身売りの強要か。
どこにでも幼い子どもを欲しがる変態はいる。趣味に合えば値段もそれなりに上がる。
だが、碌に食事も摂れず貧相な身体、身なりも整っていない自分たちにそれほどの価値があるとは思えない。
それに来訪者は、あのとても高価そうな首飾りをつけるでもなく無造作に服に入れていた。とても金に困るようには見えない。
だとしたら、あとは生贄だ。あの幼子がとんでもない化け物で、人間の命を餌にしているに違いない。
「も、申し訳ありません、うちのアダルが……!」
「本当に、本当にすみません……!」
いつの間にか、母までも姉と一緒に床に手をつき頭を下げていた。
それを見て固まっていたアダルもようやく目を覚ます。
「ね、ねぇちゃんとかぁさんは悪くない! お、おれが悪いんだ!」
悪いのは自分だ。だからどうかみんなには手を出さないでほしい。
その一心でアダルは再び頭を下げた。床に額を擦りつけ、来訪者に懇願した。
「おれが何でもするから、許してください……! 二人には何もしないでください……!」
三人が頭を下げているため来訪者がどんな表情をしているのか分からない。
とても気難しいようには見えなかったが、突然怒り出すかもしれない。許さないと静かに罰を与えるかもしれない。
恐怖が母と姉弟を包む中、来訪者は少し唸ったあと、
「とりあえず、中に入ってもいいですか」
と言って小さく溜め息を吐いた。
来訪者はヒオリと名乗った。外套を脱ぐと珍しい黒髪が現れて少し驚いた。抱えている幼子はミレスというらしい。
狭い家の中で一人だけ小奇麗な女がいる異質な空間だった。他の姉弟もいつもと違う雰囲気を感じ取って怯えている。
「あの、本当に、この度は……」
「あ~、いや、本当に大丈夫です。怒ってもないし、そちらに何か罰を与えるなんてつもりは全然ないですから」
改めて謝罪を試みる母に、来訪者の女は想定外のことを口にした。
あんなに高そうな首飾りを盗んだことを怒ってもいなければ、罰を与えるつもりもないなんて。それならなぜこうして対面しているのか、理由が分からず一家は女の言葉を待った。
「えっと、アダルくん? の事情もあったんだと思うので、責めたりはしません。が、それがダメだということは肝に銘じておいて」
女がちらりと一瞥した際にアダルと目が合い、それと同時に幼子の気配も感じて何度もアダルは首を縦に振った。
「大変なんですね」
「……はい。お恥ずかしながら」
何を思ったのか、女は同情して一家の事情を聞き出した。母はせめてもの誠意を見せるためか、晒す恥もない事情を話している。
それからの展開が早かった。
なぜか持っていたという手土産を貰い、いつ振りか分からないきちんとした食事に感動した。先のことがあったためアダルとミリエンはあまり食事が喉を通らなかったが、それでもおいしさは感じることができた。これが最期の食事なのかと思うほど、女は機嫌がよさそうにこちらを見ていた。
それから、女は仕事を紹介してきた。
「じゃあ、この子の服を作ってくれませんか?」
こんな貧民街に住んで利も何もあったものじゃない一家に、だ。心底意味が分からなかった。
女が抱えていた幼子の外套を外すと、見事なまでに白い長髪が現れた。少しだけ母が驚いていた様子だった。
「あ、もちろん生地はこちらで用意しますし、道具も必要なものがあったら買います。これは仕事の依頼なので報酬も出します」
オルポード家しか得をしないような条件で、女は話をまとめた。
アダルは絶対に何かあると思った。
やはり、生贄しかない。
「ヒオリさんも、きっと苦労されているのね」
その夜、寝台の上で母がそう呟いた。アダルは意味が分からず何も答えられなかった。
確かに女と子ども二人で行動するのは大変かもしれないが、何かに不自由しているようには見えなかった。こちらに有利な条件で仕事を斡旋するような女だ。金持ちの道楽と言われても仕方ないのではないか。
押し黙るアダルに、母は幼子の話をした。
古くから伝わる忌み子の話だった。
「お母さんが小さい頃はね、悪いことをすると忌み子に攫われるよって言われてたの」
「でも、あいつはその忌み子じゃないじゃん」
「ふふ、そうね」
母はアダルの頭を撫でながら言う。
「それでも容姿が同じだから……白い髪に金色の目は不吉だからって強く当たる人がいるのよ。私たちより辛い思いをすることもあるの。知らない人たちから殴られたり蹴られたり……化け物って罵られたりね」
あの幼子がそういった暴力や謗りを受けているようには思えなかったが、衣服から覗く痛々しい傷の痕を見たら嘘だとも言い張ることはできなかった。
アダルたちは貧しいものの見ず知らずの人間から理由もなく暴力を振るわれることはなかった。汚いからと無視されることが普通だった。
「アダル、心配しないで。きっとヒオリさんたちは悪い人ではないわ」
「……うん」
まだ生贄の可能性は捨て去れないものの、母の話を聞いて納得できる部分もあった。衣服の製作に関しては、金持ちの道楽や施しではなく、互いの利益のためだと。
「でも嘘は駄目よ。どれだけ辛くても、盗みも駄目」
「ご、ごめんなさい」
アダルの身体がびくつく。
優しく頭を撫でる手つきはそのままに図星を指され、やはり母には逆らえないと思うのだった。




