第1話 辞令
桜井智也は、ある朝、突然の辞令を受ける。それは単身赴任という事だが・・・。
2000年7月夏、それはまだ梅雨が明ける前の蒸し暑い日から始まった。毎朝繰り返される朝の通勤ラッシュ!そして、今日も、ぎゅうぎゅう詰めの電車に押し込まれ、揉みくちゃにされながら出勤する一人の青年がいた。彼の名は桜井智也、28歳。彼は普通の大学を出て、就職浪人をする事もなく普通に就職して日々、仕事に追われる毎日を送っている。彼の仕事は新聞記者である。と言っても、バリバリに仕事をこなすというタイプの記者でもなかった。それは彼の配属された、文化推進事業部という部署柄という事もあったが、彼自身の性格からというところも大きかった。何故なら智也は本当は経済部を希望していたが、会社の意向で仕方なく勤務をしているという気持ちもあったからである。
押し潰されるような電車内から開放されるように駅に降りた智也は、ビタミン補給も兼ねて駅構内のジュ−スバ−で軽く一杯飲むのが朝の日課であり、一つの小さな贅沢だった。そして、今日は智也はキウイジュ−スを頼んだ。選んだ理由はその日の気まぐれだった。緑色のキウイジュ−スを手に智也は、小さな幸せを感じ軽い微笑みで一気に飲み干そうとした時、突然後ろから肩を軽く叩かれた。
「智也!おはよう!」
振り向くとそこには、ス−ツ姿の女性がいた。彼女の名前は吉田麻衣子、28歳で智也とは同期入社の女性である。そして、智也の彼女である。二人は入社して二年目頃から付き合い始めてもう、付き合って五年程になる。麻衣子は芸能部の所属で智也とは違い、テキパキと仕事をこなすキャリアウ−マンタイプである。
智也「あ!おはよう!今から一気に飲もうとしたところだったから、少し焦ったよ!ハハハ」
智也は麻衣子を見るなり微笑みながら言った。
麻衣子「ゴメン!でも、智也は毎日、同じ時間にこのジュ−スバ−にいるから、また発見って感じで嬉しくなって声かけちゃった。」
麻衣子は愛嬌を振り撒きながら言った。二人の付き合いは普通に順調である。ただ、先の未来がわからないという不安を少しはお互いにあった。そして、智也はキウイジュ−スを一気に飲んだ。
智也「よし!朝のエネルギー充電完了!」
智也は満足した様子だった。すると麻衣子は
麻衣子「朝ちゃんとご飯食べてる?」
智也「今日はちょっと寝坊したから、朝はこれが始まりかな!ヘヘ!」
麻衣子「フルーツジュ−スもいいけど朝はちゃんと食べないと!」
麻衣子は少し説教じみた感じで言った。
智也「だったら、麻衣子が毎朝、飯でも作ってくれてもいいんだぜ?例えば結婚してとか…」
麻衣子「何、それ?例えばって…」
麻衣子は少し、膨れた感じだった。
智也「ハハハ、冗談だよ!」
そう言いながら、軽く麻衣子の頭を撫でるように叩いた。しかし智也は内心、結婚の事を考えてはいたが、あと一歩踏み出せなかった。そして、二人は会社に向かった。智也と麻衣子の勤める、「東明新聞社」の本社は駅を降りてすぐだった。朝のざわめきととも、たくさんの社員が出勤して来た。二人は、その人混みの流れに乗るように、会社の建物に向かっていた。すると麻衣子が
麻衣子「ねぇ、智也!今日、仕事終わったら飲みに行かない?すっごく雰囲気のいいバ−を見つけたんだ。」
智也「お!いいねぇ〜!最近、仕事、仕事で全然飲みに行ってないもんな〜!」
麻衣子「じゃあ、決まり!仕事終わったらメールするから」
麻衣子は、目一杯の笑顔だった。
智也「俺も仕事終わったらメールするよ!」
するとその時、後ろから
「チィ−ッス!相変わらず仲がいいね!」
とテンションの高い声で挨拶をしてくる男性がいた。彼の名前は、中澤司年齢は智也と同じ28歳で、智也と同じ部署の同期である。元々、智也と麻衣子が付き合う事になったのは、司の幹事で開かれた合コンで出会ったのがきっかけだった。そして、司はかなりの遊び上手な男で、悪く言えば遊び人である。
麻衣子「あ、中澤君おはよう!」
智也「おお!司、おはよう!」
司「仲むつまじく、いいねぇ〜!俺も、早く彼女作らないと、結婚が…。」
麻衣子「中澤君なら、大丈夫よ!」
司「ハハハ、慰めてくれてありがとう。じゃあ、麻衣子ちゃん今度、相手してよ!」
その瞬間、司は智也を見て
司「と言っても先約がいるか〜!ハハハ、冗談だよ!じゃあな」
そう言って、司は軽いジョ−クを言い残して、司なりに智也と麻衣子の仲を邪魔しないようにという気遣いから先に行った。しかし、智也はそういう司の軽さから、もしかしたら自分の彼女が奪われるのかもしれないという心配があった。
麻衣子「中澤君て、なんか相変わらずの自由人て感じで、人生をいつも楽しんでいるように見えるね?」
智也「そうだな!」
智也は麻衣子に歩調を合わせるように言ったが、内心は司の冗談が少し、冗談に聞こえないと感じていた。何故なら、司と麻衣子のノリが自分より波調があっているように見えたからである。そんな、会話をしながら二人は建物内に入り、相変わらずの朝のぎゅうぎゅう詰めのエレベーターに乗った。エレベーターは4階は芸能部のある階に停まった。
麻衣子「じゃあ、また!」
智也「ああ!」
智也は、小さく手を振って合図するように答えた。そして、麻衣子は4階の芸能部のある階に降りた。麻衣子が降りた瞬間、開閉したエレベーターからは、芸能関係を扱う部署という事で、朝から慌ただしい雰囲気を智也は感じた。それから、エレベーターは8階の文化推進事業部のある階に停まった。そして、エレベーターの扉が開いた瞬間、いつもならまったりした雰囲気が流れる部署にどこか違う雰囲気を感じた。それは政治部や芸能部などと同様の慌ただしい雰囲気とどこか似ていた。よく見ると廊下の掲示板にたくさんの人が群がっていた。すると、さっき会社の前で軽く挨拶を交わした司が智也を探していたかのように近づいて来た。
司「あ!智也!」
智也「何?」
司「おまえに辞令が出てるぞ!」
智也「辞令?それで、あの騒ぎなのか?」
智也は心の中で、以前より希望を出していた経済部への異動が叶ったのかもという期待をした。そして、期待に胸を膨らませながら群がっている人の後ろから掲示板を見た。すると
智也「は?何だ?」
掲示板を見た瞬間、ただア然としてしまった。そして、その智也の様子を見た司が
司「残念だったな!」
智也「5ヶ月の単身赴任?って…」
それは、何の前ぶれもない、智也に出された突然の辞令だった。智也は少し意外とも言うべき辞令に言葉が出なかった。
司「ついてないな〜!楽しい夏が来る前に単身赴任だなんて…。」
しかし、司の慰めの言葉に智也は何故か優しさを感じなかった。それは、司が遊び人であるというイメージからだった。そして、智也は司の言葉に答える事なくその場で掲示板をただ見つめていた。するとそこに一人の女性が智也を探してやって来た。
「桜井君!原田課長が朝一ですぐに来るようにって言ってたわよ!」
彼女は二宮知香、32歳で智也や司の先輩で現場の主任である。
智也「課長がですか?」
知香「たぶん、辞令の事よ!早く行ってらっしゃい!」
そう言って智也は知香に背中を押された。智也の足どりは重かった。
智也「おはようございます。」
智也は、当たり障りのない挨拶をして課長のデスクの前に立った。
原田「おはよう!」
原田は、机の上の書類を忙しそうに整理していた。
智也「あの〜お話というのは…」
原田「ああ〜、ちょっと待ってくれ…。これと、そして…これと」
原田は慌ただしく、書類を確認するように集めていた。そして、それを一枚のクリアーファイルにまとめて
原田「会社から辞令が出た。もう、掲示板で見たと思うが!」
智也「はい〜!」
智也は少し乗り気でない返事をした。
原田「それで肝心の赴任先での取材内容が、これだ。」
そう言ってたくさんの書類が入ったクリアーファイルを智也に渡した。そして智也は、そのファイルから書類を取り出して、企画書の取材場所のところに目がいった。
智也「風下村?聞いた事ない地名ですね?」
驚きと疑問を混ぜながら言った。
原田「おまえの赴任先だ!最近、新しくできた村で、場所は愛媛らしい」
智也「愛媛に?新しくできた?ですか?」
原田「ああ、そうだ!だから愛媛出身で地元に詳しいおまえを赴任の適任と思って選んだ!」
智也「理由はそれだけですか?」
原田「別に中澤でもよかったんだが、やはり土地勘のあるやつの方がいいからな!それに、家庭があるやつだと何かと迷惑をかけるし、幸いおまえは独身だからすべてを考慮して適任だと思ってな!」
智也は、なるほどと思って聞いていたがもちろん、不満であり納得できなかった。もし、麻衣子と結婚でも決めていたらこんな事にならかったかもとも思った。
智也「でも、財政難で村や町が合併して市になっているこの時代に、村として存続するなんて不思議ですね?」
原田「ああ、よくわからんがな!」
すると智也は
智也「じゃあ、村として生きて行くという自治体についての取材という事ですね?」
すると原田は
原田「バカヤロ−!企画書をよく読め!」
智也「え?」
智也は、自分の希望している経済関係の仕事と関連しての赴任だと思い、はやとちりした。
原田「自治体周辺の取材は政治部や経済部の仕事だ!おまえの赴任先での仕事は、野鳥の取材だ!」
智也「野鳥!!」
智也は一瞬、気が抜けたような反応だった。
原田「実は、その村で絶滅をしたはずのリョコウバトが見つかったというネタが他社の新聞で取り上げられて、ぼやけてはいるがそれらしい写真も公開されて…。うちとしても是非これは、おさえておきたいという事だ!9月から連続4ヶ月で毎月の最後の日曜の朝刊に特別版として特集を組む事になった。毎週末には松山の支社から原稿を送ってくれ!責任重大だぞ!我が文化推進事業部始まって以来の大プロジェクトだからな!」
智也「わ、わかりました〜」
智也は、少し暗い返事だった。仕事として大きなプロジェクトを任されると言っても正直、乗り気でなかった。何故なら新聞記者になって野鳥の取材というのは、自分の仕事の方向性と違っていたからである。そんな考え事をしていると原田が
原田「それから、これが現地先までのチケットと宿泊のチケットだ!来週の月曜に出発だ!頼んだぞ!期待しているぞ!」
智也「来週の月曜?!は、はい〜!」
相変わらず、元気のない返事をした。そして、智也は貰ったチケットを見て
智也「ん?ちょっと課長!」
原田「なんだ?」
智也「現地までの交通手段は飛行機じゃなく夜行バス?ですか?」
原田「ああ〜それか?」
智也「はい〜」
原田「経費削減だ!」
智也「経費削減?」
原田「とは言え、仕事は楽しくやって貰いたいという気持ちだ。到着までの景色をゆっくり楽しんくれ!では、戻っていいぞ!」
原田は、智也の沈んだ気持ちとは正反対のテンションで言った。そして智也は、ため息を我慢しながら自分のデスクに戻った。戻る途中、智也は
智也「景色を楽しむと言っても、夜じゃねえか〜」
と心の中で小さくつぶやいた。それから、智也はデスクに戻った。すると、智也が戻るや否や司は
司「どうだった?」
智也「来週の月曜に出発だよ!」
智也はため息混じりで答えた。
司「来週の月曜?もうすぐじゃねぇか?で、赴任先ってどこなんだ?」
智也「愛媛の風下村ってとこだよ!なんか、絶滅したはずのリョコウバトが目撃されたらしくて、他社の新聞社がそのネタを取りあげたからうちも毎月、月末の日曜に特集版を出すんだってよ!ハァ−!」
智也はイマイチ、テンションが上がらなかった。すると司は
司「愛媛?おまえの地元じよねぇか?」
智也「だから、赴任に選ばれたんだよ!」
司「そうか〜!でもリョコウバトって要するに野鳥の観察か?ハハハ…!」
司は、智也の赴任内容を聞いて少しバカにした感じで言った。
智也「うるせ−!仕事だよ!観察じゃなくて、取材だ!」
司「わかった、わかった!でも、こんな時期に単身赴任とはついてないな〜!これから楽しい夏が始まって、麻衣子ちゃんと…」
智也「黙れ!」
智也は、司にすごい剣幕で怒鳴った。すると、それを聞いた知香が
知香「ちょっと、二人とも、何やってんの?しゃべってないで仕事しなさい!」
司「あ、すいません!」
智也「すいません!」
二人は上司から注意されてただの平謝りだった。
知香「ところで、中澤!今年の花火大会の日程一覧を次の日曜特別版に出すんだけど、調べてくれた?」
司「あ、すみません!まだです。」
知香「今日の夕方5時までに、東京周辺のデ−タを全部集めて!どこかのタウン情報誌よりも先にうちが出すからね!」
司「はい!」
司は、威勢のいい返事をしたが、自分のデスクの前の本棚に隠れて
司「夕方5時って…。無理じゃね?」
愚痴をこぼしながら司は智也を見た。すると知香は
知香「中澤?何か言った?」
司「あ、いえ!なんでもないです。」
知香「足りない情報は足で稼いでも拾ってくる。記者の基本!」
司「あ、わかりました。」
智也「ハハハ…。がんばれよ!残業決定だな!」
司「うるせ−!」
そう言って司は、情報収拾のためか外に出て行った。智也は、さっきの赴任の件で仕返しができたような気持ちで司を見ていた。だか結局、智也も司も朝一でそれぞれ愚痴を言ったに過ぎなかった。それから、時計は夕方6時近くになっていた。智也は、麻衣子との約束があったが主任の知香が司の帰社を待っていたため帰りづらかった。すると課長の原田が
原田「じゃあ、お先に!」
知香「お疲れ様です。」
智也「お疲れ様でした。」
課長があがったのをきっかけに智也も会社を出ようと思った。そして、智也は、自分のデスク周りを片付けて
智也「あ、では、主任お疲れ様です。」
智也は、少し遠慮がちに仕事を切りあげようとした。すると知香は
知香「あ、桜井君!」
智也「は、はい!」
智也は一瞬、気まずい感じがした。
知香「頑張ってね!原稿を待ってるから」
智也にとっては普段見ない上司の優しい笑顔だった。その優しい笑顔の裏には、やはり仕事に対する期待があるように見えた。そして智也は
智也「あ、ありがとうございます。頑張ります。」
智也は少し、演技をしたような返答だった。もちろん、本心で愚痴など言えるはずがなかった。その時、息を切らしながら走って戻って来た男性がいた。司だった。
司「お疲れで〜す。」
知香「中澤!遅いよ!」
司「すみません!どうしても、1件だけ寄りたいところがありまして…」
司はいつものチャラチャラした雰囲気を消して、仕事に没頭したような雰囲気で会社に戻って来た。智也はそんな、司を見ながらも
智也「あ、司!お疲れ!」
振り切るように、仕事を切り上げようとした。すると司は
司「智也!」
帰ろうとする智也を呼びとめた。そして司は
司「来週の月曜に見送りに行くよ!頑張ってな!」
司は、昼間に情報収拾のために走り回って疲れきっているにもかかわらず、爽やかな笑顔で智也を見て言った。
智也「サンキュー!じゃあ!お疲れ!」
智也は司に単身赴任の事で朝一で少しからかわれながらも、今は改めて同期入社としての友情を感じていた。それから智也は会社を出た。そして、麻衣子との約束で、仕事が終わったというメールを送った。しかし、麻衣子からのメールの返信はすぐに来なかった。智也は、麻衣子がまだ仕事が終わってなかったからと思い、会社を出て近くの喫茶店で時間をつぶす事にした。辺りは仕事帰りのサラリーマンで溢れていた。もちろん、智也もその仕事帰りのサラリーマンの一人であった。そして、喫茶店で一人、アイスコ−ヒ−を飲みながら単身赴任のために貰った書類を見ていた。
智也「来週の月曜か〜!」
独り言で小さくつぶやいた。上司から期待されながらも、智也は不安でいっぱいだった。野鳥の取材と言われても、どういう原稿を書けばいいかわからないというのが本音だった。何故なら、自分の目指して来た事なら、それなりの準備やスキルが自分自身に備わっているが、全く方向性の違う仕事を任されるという事の大変さや不安を大きく感じていたからである。また、地元出身で土地勘があると言われても、智也にとっては初めて踏み入れる場所である事から、原田の言う土地勘などはないというのが現実だった。そんな考え事をしながら智也はアイスコ−ヒ−を飲み干した。しばらく、智也は喫茶店で書類を見ていた。時計はすでに、夜9時近くになっていた。すると、智也の携帯が鳴った。麻衣子からだった。
智也「もしもし」
麻衣子「ゴメン!今、仕事終わった。智也は今どこ?」
智也「お疲れ−!会社前の喫茶店にいるよ!」
麻衣子「OK!今からそっちに行くから」
そう言って電話は切れた。智也は喫茶店で実質、3時間近くも待っていたが、麻衣子に対して遅いという気持ちはなかった。それは麻衣子がそういう仕事をしているという理解をしているからこその優しさであった。また麻衣子の方は仕事が長くなって待たせたとしても、智也が不満を口にする事なく、自分を受け入れてくれてずっと待ってくれているという信頼や安心感を感じていた。そして数分後、麻衣子は喫茶店に現れた。
麻衣子「お疲れ−!ゴメン!ちょっと仕事が長引いちゃって」
そう言う麻衣子はなんだか、かなり嬉しそうだった。そして智也は
智也「まあ仕事じゃ、しかたないよ−!」
微笑みながら麻衣子に言った。すると麻衣子は
麻衣子「私も何か、頼もうかな〜」
そう言いながらメニュー表を取った。そして麻衣子は店員を呼んで
麻衣子「すみません!麦茶ってあります?」
智也「へ?麦茶?」
智也は一瞬、耳を疑った。メニューにない事はわかっていた。すると店員が来て
「すみません!麦茶は置いてなくて、ウ−ロン茶ならありますけど…」
とメニューにはないために当たり前の答えが返って来た。
麻衣子「じゃあ、ウ−ロン茶でお願いします。」
麻衣子はすんなり、ウ−ロン茶を頼んだ。
智也「おいおい、麦茶なんてメニューにないぞ!」
麻衣子「知ってる。ちょっと聞いただけよ!」
智也「聞いただけって…。普通、メニューにない物を頼むなんて…」
麻衣子「普通だったら、普通の情報しか拾えないよ!別の視点から見れば何か新しい物が見えて、わかる事があるかもしれないじゃない?」
智也「まぁ〜、それはそうだけどよ〜」
何か、記者という仕事柄の特性なのか、麻衣子の答えに記者らしい物事の見方をしているように智也は感じた。すると麻衣子は
麻衣子「智也!実は今日、私に辞令が出たんだ!」
麻衣子はかなり嬉しそうだった。
智也「え!辞令?」
智也は一瞬、自分の単身赴任の事が頭をよぎった。そして麻衣子は
麻衣子「私、現場主任に昇格だって!だから、これからはもっと柔らかく、いろんな角度から物事を見れないといけないかなぁ〜と思うんだ!」
智也「なるほど〜そう言う事か〜」
智也は、麻衣子のメニューにない物を注文した意図がわかった。しかし、同じ辞令でも、昇格と単身赴任では何か差があるような気がして、智也は複雑な心境だった。しばらくして麻衣子の頼んだウ−ロン茶が運ばれて来た。そして、それを麻衣子は喉の渇きを潤すように飲んだ。
麻衣子「あ〜!おいしい!」
智也「ハハハ…よっぽど喉が渇いてたんだな!そういえば、麻衣子の見つけたいい雰囲気のバ−ってどこなんだ?」
麻衣子「行きたい?」
智也「え?」
麻衣子は軽く智也をからかうような感じで言った。すると智也は
智也「行こう!」
麻衣子「じゃあ、決定!」
麻衣子は昇格という辞令で、いつもに増してハイテンションで楽しそうだった。それを見ていた智也は、何故か今日、自分に出た辞令の事を言えなかった。それから、智也は麻衣子に案内されるように、麻衣子が見つけたという雰囲気のいいバ−に向かった。場所は電車を乗り継いで渋谷だった。そして、二人は渋谷の郊外にある一階建てのプレハブを改造したようなお洒落なお店の前に着いた。
麻衣子「ここよ!雑誌で紹介されていて、芸能人の方がお忍びで通う程のお店らしいわよ!また、店主の早坂さんは、業界でも指折りのバ−テンダーらしいの!しかも、あるタレントの方から聞いたんだけど、裏メニューでオリジナルカクテルをその場で作ってくれるみたいなんだ!」
智也「オリジナルカクテルか〜!何か、おもしろそうだな〜!さすが、芸能部記者だな!そっち関係は情報通だな!」
智也は少し、感心したように麻衣子を見た。それから二人は店の中に入った。
「いらっしゃいませ」
少し、低い声が店内に響いた。ドアを開けると、すぐ目の前にカウンター席が店の奥まで続いていた。智也と麻衣子はカウンターの端に寄り添うように座った。すると麻衣子は座るや否や
麻衣子「すみません!ちょっとお聞きしたいのですがオリジナルカクテルって作って頂けるのですか?」
すると、店主のバ−テンダーが
「お客様、失礼ですがオリジナルカクテルは正式メニューとして置いてはないのですが、どこかでお知りになられたのでしょうか?」
すると麻衣子は自分の名刺を出した。
麻衣子「私、東名新聞で芸能部の記者をしてまして、オリジナルカクテルの事を聞きまして…」
すると店員は、納得した様子で、自分の名刺を麻衣子に差し出した。
麻衣子「早坂宏さんですね?雑誌やテレビでも拝見させて頂いています。」
宏「ありがとうございます。光栄です。以上、お見知りおきを」
麻衣子は普通に営業トークをしているように智也は感じた。そして、その二人の淡々とした会話に見とれながら、今はデ−トなのか?それとも麻衣子にとっては仕事を兼ねているのかと智也は疑問に思う程だった。それから、麻衣子は裏メニューを勝ち取ったようにオリジナルカクテルを作って貰いそれを楽しんだ。隣で智也は、麻衣子の芸能記者の仕事を通して知っている社会の広さを実感していた。また、麻衣子は昇格という事で嬉しそうだった。それを見た智也は
智也「今日の麻衣子はいつも以上に嬉しそうだな?」
麻衣子「わかる?私も仕事がやっと認められて来たかと思うとなんだか、嬉しくなっちゃって!でそっちはどう?」
智也「え?俺?ああ〜、まあまあかな!」
智也は、麻衣子の順調な仕事の話しの前で、何故か曖昧な答えをしてしまった。
麻衣子「まあまあって?」
しかし、麻衣子が深く聞いて来た。すると智也は
智也「実は、俺も今日、辞令が出たんだ!」
智也は少し暗い表情だった。それを察したように麻衣子は、さっきまでのテンションが少し下がった。
麻衣子「どんな、辞令…?」
智也「5ヶ月の単身赴任という辞令が出て…ハハハ」
智也は、軽く笑って済ますつもりが、麻衣子はさっきまでテンションとは一転した暗い表情になった。
麻衣子「単身赴任?」
智也「ああ〜!なんか、絶滅したはずの野鳥が見つかったとかいう取材で…」
麻衣子「赴任先はどこなの?」
依然暗い表情だった。
智也「愛媛の風下村ってところ!」
麻衣子「出発はいつ?」
智也「来週の月曜日!」
麻衣子「そっか〜!」
麻衣子は聞きたくない事を無理して質問しているような感じだった。そして麻衣子はしばらく黙り込んでから
麻衣子「寂しくなるな〜!」
麻衣子は、それ以上言葉は出なかった。すると智也は
智也「あ、でもずっと会えなくなる訳じゃないし…。5ヶ月経つと、また東京に戻って来る訳だし…」
しかし、寂しそうな麻衣子の表情を、智也は変えられなかった。そんな二人の会話は、静かにグラスを拭いている宏の耳に自然に入っていた。しかし、宏は二人を横目で観察するように見ていた。すると、その時、店のドアが開いた。
「宏!お待たせ!」
そこには小柄な一人の女性が立っていた。智也も麻衣子も、静かなBGMが流れる店内に突然、ドアが開いたために何事かと思って振り向いた。するとその様子を見た宏が少し慌ててフォローをするように
宏「申し訳ありません。お客様の雰囲気を壊してしまいまして、こちらは妻の恵美です。」
そう言って、宏は謝りながら軽く紹介した。
麻衣子「早坂さんて、ご結婚されてたんですね?」
宏「はい、結婚までにいろいろありましたが…。今は二人でお店を切り盛りをしております。」
そう言いながら、宏は微笑んで恵美を見た。恵美もまた、照れながら宏を見ていた。すると麻衣子が
麻衣子「結婚か〜!」
遠くを見るような目で、笑顔で何か黄昏れている感じだった。智也は隣で少し切ない気持ちで麻衣子を見つめていた。すると
智也「失礼ですが、先程、早坂さんのおっしゃられた、結婚までいろいろあったというのは何かあったのですか?」
智也は他の人の結婚にたどり着くまで経緯にすごく興味があった。それは自分が今、麻衣子との結婚について踏み切れずに、少し足踏みをしているように感じての質問だった。
宏「そうですね〜!お互いに離れてからその大切さに気付いたという事ですかね!」
そう言っている宏の隣で恵美は微笑んでいた。
智也「離れてから?」
宏「実は私達、一度別れているんですよ!そして、その後は、それぞれ別の恋人がいて、私も結婚までいったのですが…でも、私は婚約者と離れ、一度はお店をたたんで一人になりました。その時に本当に大切な存在が誰かと考えた時に気付いたんです。答えは今の妻でした。例えるなら、離れている時は闇の愛でしたが、今はたくさんの思い出が奇跡を起こしてくれたと思っています。」
宏の隣で恵美は、恥じらいの微笑みを見せていた。すると、麻衣子は
麻衣子「ステキ!本当の恋人同士は離れてもどこかで必ず繋がっているって事ですね!まるで映画のストーリーみたい」
智也「そうだな〜!」
智也は少しうらやましいような、信じられないような話として受けとめた。すると麻衣子は
麻衣子「離れていても繋がってるって本当に奇跡だよね!智也!」
智也「あ、ああ〜そうだな!」
智也は、麻衣子から問い掛けられた瞬間、会社からの出た単身赴任の辞令が頭に浮かんだ。そして、どこか寂しさを感じた。それから、智也と麻衣子はしばらく、店の中で宏の作ったオリジナルカクテルを楽しんだ後、店を出た。
そして、店を出た二人は駅を目指して歩いていたが、二人の間に会話もなく麻衣子は少し暗い表情だった。智也は自分に出た辞令が原因なのか?または、さっきのショットバーでの宏と恵美のような関係に何か憧れを感じての事か?いろいろ頭の中をよぎった。すると麻衣子は沈黙を破るように
麻衣子「智也!」
智也「ん?」
麻衣子のテンションの低い呼びかけにうなずくように返事をした。
麻衣子「私達って、ずっと繋がっていられるかな?」
智也「え?どういう事?」
智也は麻衣子の質問の意図はわかっていたが遭えて聞き返した。
麻衣子「5ヶ月も会えなかったら、お互いに気持ちはどうなるんだろう?」
麻衣子は会えなくなる事によって気持ちが離れるという不安を智也に率直に言った。すると智也は
智也「大丈夫だよ!絶対に!会えなくても、麻衣子の事をいつも考えてるから!」
智也は立ち止まって麻衣子に言った。
麻衣子「智也!」
麻衣子は智也から、離れないという何か確信できる言葉が欲しかった。そして、さっきまでの暗い表情から一転して笑顔になった。すると智也は自分の人差し指にしていた指輪を外して、それを麻衣子の左手の薬指にはめた。
麻衣子「智也!」
智也「お互いにこれからも繋がっているという証かな」
智也は少し照れながら言った。麻衣子は微笑みながら智也を見た。
麻衣子「ありがとう。」
すると、麻衣子は
麻衣子「じゃあ、智也も左手出して!」
智也「左手?」
すると麻衣子は自分の中指にしていた指輪を外してそれを智也の左手の薬指にはめた。そして麻衣子は
麻衣子「私のは智也の浮気防止!」
智也「浮気防止?なんだ?」
麻衣子「フフッ…智也が赴任先で女性に言い寄られないように!魔よけみたいなものかな?」
智也「魔よけ?それを言うなら女よけだろう?」
麻衣子「そうだね!ハハハ」
智也「ハハハ…!」
二人はお互いの不安を掻き消すように指輪を交換して、笑い合った。しかし、これで会えなくなるという寂しさや不安を解消できるとはお互いに思っていなかった。ただ、二人は離れても繋がってているという約束の証で信じれる物が欲しかった。その週の次の日曜の昼に智也と麻衣子は、ある喫茶店で会っていた。それは二人にとっては出発前の最後のデ−トであった。天気は、これからの二人の不安な気持ちに反して爽やかな快晴であった。麻衣子は店の窓際の席で、窓の外の流れる街の様子と、空を眺めながら
麻衣子「いよいよ、明日だね?」
少し寂しそうな表情だった。麻衣子は左手で頬杖を付きながら言った。その左手には、あの時に渡した指輪が、太陽の木漏れ日を受けて輝いていた。智也にはその輝きが、麻衣子の表情同様に寂しく見えた。すると、智也は開き直ったように
智也「大丈夫だよ!たった5ヶ月だから!俺は麻衣子の事しか考えてないし、これからも麻衣子だけを見ているし!」
麻衣子に微笑みながら言った。しかし、そんな智也の開き直った態度に反して、麻衣子の寂しい表情は変わらなかった。
麻衣子「私達って付き合ってもう5年経つよね?」智也「そうだな〜!」
智也は、麻衣子の言葉の裏には、結婚という2文字が隠れているように思えた。しかし、智也はその話題に触れようとはせずにただ、寂しげな表情の麻衣子を見た。すると麻衣子は
麻衣子「そう言えば、愛媛って、智也の実家があるんじゃない?」
智也「ああ!大学も地元だからな〜!だから、俺が赴任に選ばれたんだって!課長が言ってた。」
智也は、赴任の理由を納得してない様子で言った。
麻衣子「じゃあ、久しぶりに実家にも寄れるかもね?」
智也「そうだな!時間があったら寄りたいな。でも、着いたら松山の支社の方に挨拶に行かないといけないからわからないな」
麻衣子「そうなんだ?もしかしたら、元カノにも挨拶をしに行ったりして!」
麻衣子は、少しニヤつきながら智也を見つめて言った。
智也「元カノ!?」
智也は、麻衣子の意外な言葉に少し声を張って言った。智也はその時、すっかり忘れていた過去の恋愛が頭の中をよぎった。しかし、智也は麻衣子には少しでも不安を与えたくないという気持ちから
智也「ハハハ!絶対ないよ!別れてからもう6年くらいで、その後連絡もとってないし…。ハハハ!」
智也は、夢のような話だと思ってあしらうように言った。麻衣子は、自分の中にある不安要素の選択肢の一つを智也に、冗談混じりに言った。それは、先日の宏の話を聞いてから一つ新たにできた不安だった。それに対して、智也は先日の宏の結婚までの経緯の事を思い出して、無意識に自分の元カノの事を照らし合わせてしまっていた。しかし、智也は麻衣子の寂しい表情を目の前にして、蘇りそうな思い出を無理やり閉じ込めた。すると麻衣子が
麻衣子「離れてから本当にお互いに大切な存在に気付くってあるのかな?」
寂しそうな表情で言った。智也にとって、麻衣子の質問の意図は二つに取れた。それは、これから離れる自分と麻衣子の事か?それとも、自分と既に別れて離れている元カノの事か?
智也は、自分と麻衣子の事であって欲しいと思った。そして智也は
智也「麻衣子!俺は変わらないよ!」
今の智也には精一杯の答えだった。すると麻衣子は、笑顔を取り戻した。
麻衣子「智也!出発は何時?」
智也「明日の夜8時!新宿から夜行バスが出てるからそれで出発だよ!」
麻衣子「仕事、早く終わらせて見送りに行くね!」
智也「ありがとう!」
二人とも笑顔になっていた。しかしお互いに内心、不安を抱えていた。
それぞれの恋人には、それぞれの辿って来た思い出。一緒にいれば、同じ思い出を重ねるはずが、離れて別々の思い出を重ねる事になろうとする時、その答えは「不安」だけでは語れない。






