保管用 16
大正十四年十二月十八日(1925年12月18日)
東京・永田町
民政党 本部
「何を考えているのだ! あの気狂いは!」
そう怒声を発し、手にしていた新聞を会議卓の上に叩きつけたのは民政党第二代総裁・若槻礼次郎だった。
知的、温和、紳士――――若槻を評して並べられる麗句の数々だ。その若槻が激怒している。会議卓の周囲に参集した民政党幹部達、即ち高橋是清、浜口雄幸、江木翼、幣原喜重郎、三木武吉らはその平素の仮面を脱ぎ捨てた紳士の変貌に静かな驚きを禁じ得ない。いずれも若槻とは数十年単位で交友を重ねてきた者達だけに、その尋常でない逆上ぶりに気圧されてしまっているようだ。
浜口は卓上の新聞に手を伸ばす。無論、彼もこの会議の席に着く前には、この新聞に目を通しており、その内容は熟読している。
「京城大行進――普通選挙制度施行を求めて朝鮮民衆が京城市内を行進」
「京城のデモ、参加者は十数万人か――――」
「朝鮮外地にも普選実行の声、上がる」
「台湾議会請願運動への影響も必至か!?」
新聞各紙が報じたのは一昨日、京城市内で行われた普通選挙施行を求める朝鮮人のデモ行進の様子だった。
東郷政権下、緩やかなペースで普通選挙実施の準備が進められている。普通選挙制度を担当する無任所大臣、尾崎行雄自由党総裁代行が責任者となり、次回総選挙より内地に居住する日本国民男女二五歳以上の者に選挙権が与えられ、同じく三〇歳以上の者に被選挙権が与えられる事を想定して、様々な立法が行われ、選挙管理の為の国勢調査や審査が行われている。中選挙区制限連記制が採用される新選挙においては、立候補者が膨大な数にのぼると予想されており、その事前資格審査の基準や方法論に関して十分な研究討議が必要であり、同時に二大与党である民政、自由両党共に東郷内閣という強固な地盤を持つ『完全体』を現・衆議院の任期が終わる二年二か月後まで延命させる気でいた為、この普通選挙制度の策定に関しては
「急がず、じっくりと」
の姿勢で準備を進めていたのだ。予定では、選挙権も、被選挙権も「内地に居住する者」に与えられる権利とされており、外地に住む朝鮮人や台湾人はもとより、日本人にも与えず、逆に内地に住む者であれば朝鮮人、台湾人にも権利を付与する事と両党合意が出来ている。
事もあろうに、犬養毅はそれをひっくり返そうとしている。
軍服に似た詰襟の洋装に身を包んだ群集――――勤労奉仕団に参加した者への報償として本年から支給された国民服――――。
報道各社のカメラが放つ砲列が如きフラッシュを前にしても、どことなく当惑した表情を浮かべた群衆整理の警察官たち。普通選挙実施を求める横断幕の前、洋装、和装、韓服、そして漢服を纏った大群衆の先頭をステッキ片手に闊歩する機嫌よさ気な羽織姿の老人をカメラは捉えている。
「総督自らデモの先頭に立つなど前代未聞ではないか」
民政党幹事長を務める三木武吉がため息を交えて呟く。
「そもそも、勤労奉仕団に徴用された朝鮮人を組織して、このデモを企図し、煽動したのは、あのご老人でしょう。いやはや……」
外務官僚から本格的政治家へと転身を図るべく、現在は民政党執行部の一員として若槻を補佐している幣原喜重郎が嘆く。
「三木幹事長、朝鮮の群集はそれほどまでに普選実施を求めていたのかね? 小生は寡聞にして知らぬが」
党重鎮・江木翼の問いに、若い三木は首を左右に振る。
「いえいえ。台湾であれば現地有力者の代表が国会開催毎に台湾地方議会制定の請願を出していますが……朝鮮でその様な動きがあるなどと言う話は聞いたこともありません」
「うむ、だろうな。本邦が台湾を統治して三〇年が経つ。台湾人の気持ちもわからぬ事はないが……英国の南アイルランド議会の一件もある事だから、この扱いは正直、難しい」
江木は語尾を濁す。
欧州大戦後の1921年、アイルランド。民族自決の風潮に感化され、英国よりの独立闘争が激しさを増す中、過激な民族主義者を懐柔しようと英国は「南アイルランド議会」という地方議会を発足させた。この地方議会に自治権を付与し、民族主義者グループを独立派と自治派に分断し、アイルランド完全独立への動きを弱体化させるのが狙いだった。
しかし、英国の意図はものの見事に外れる。
この小手先の自治権付与に激昂した民族主義者は、かえって急進化し、南アイルランド議会の正統性はおろか存在すら認めず、結果、独立運動は先鋭的な民族運動から一般大衆化し、より一層激しくさせてしまう事となり、紆余曲折の果て、南アイルランドは1922年、英本国との同君連合という形式ではあったが「アイルランド自由国」として事実上の独立を果たしている。
英国とアイルランドの現状を見れば、日本政府、帝国議会が台湾における地方議会制定に二の足を踏むのも致し方ない。独立性の高い地方議会の存在は、即座に分離独立への起爆剤と成り得たし、逆に地方議会に中途半端な自治権を与えただけではアイルランドと同様の結果を招くだろう。
帝国議会の代議士の中には、個人的に台湾地方議会請願運動に協力している者も少なからず存在したが、帝国議会はこの法案が提出されるたびに議会会期末まで審議を先延ばしし、審議未了のまま廃案にするというのが既存政治勢力の既定方針でもあった。表立って否決するのは簡単であったが、そうすれば反発した台湾民衆による独立運動が一気に燃え上がる可能性もある。それを避けるには「結論は先延ばし」が賢明な策であり、先延ばしは又、和を尊ぶ日本人が最も得意とする常套手段でもある。
(さて……我らが総裁の決断は如何に?)
浜口は若槻の激情と距離を置き、この一室に漂う憤怒と困惑の流れからも身を一歩退いて眺めていた。
(東郷さんの次は若槻さん、その次が恐らくは犬養翁。犬養翁が退いた後、仕上げは俺がやる)
浜口は向こう十年の政界をそう見ている。故に今、若槻の足を引っ張る事までして総理、総裁の座を狙う気はない。協力を惜しむ気はないが、若槻との間に適度な隙間風が吹いている位の方が世間体には調度良いとさえ思っている。
現実問題として東郷政権という巨大権力の次代を背負うのは少々、危険が大きい。
若槻の才は認めるが、東郷政権による強権支配下、依然としてくすぶり続ける反動勢力による東郷退任後の反撃は必至であったし、東郷のカリスマに追従している民衆達も憑き物が落ちた様に既成政党政治家を冷めた目で見るだろう。後継政権が期待に応えられずに短命で終わるのは確実と見るべきだ。
苛立たしげに室内を歩き回っていた若槻はおもむろに執務机の電話を手にすると、交換手を呼び出し、接続先を告げる。
「民政党の若槻です。御当主に至急、御面談をお願いしたい」
(ほう……)
浜口は意外な思いで、その言葉を聞いた。民政党幹部の間で「御当主」と呼ばれる人物は、ただ一人しかいない。三菱財閥第四代総帥・岩崎小弥太だ。初代総裁・加藤高明以来の民政党最大のスポンサーであり、ここに同席している幣原とも姻戚関係にある。
電話口の相手は岩崎家に仕える執事か秘書か、或いは書生であろう。彼が当主に若槻の用向きを伝えると程なくして先方より今夜、一席をもうけると返答がなされる。若槻は相手に丁重に礼を言って受話器を置き、肩で息を吐く。心なしか表情が和らいだ様に見える。
若槻は、一同の方に向き直るとすかさず第二の指示を下す。指示を受けたのは、意外な事に浜口だった。
「浜口君、伊沢君と連絡をとってくれ」
若槻の言葉に浜口は面食らう。
「伊沢君というと……台湾の?」
「無論だ」
台湾総督を務める伊沢多喜男、それに幣原と浜口は第三高等中学同級生の間柄だ。その関係もあって伊沢の政治的立ち位置は民政党に近い。
「何と?」
浜口の問いに、顔を顰めた若槻はやや呆れた物言いで応ずる。
「惚けていては困る。何を聞いていたのだね? 朝鮮で普選の動きが始まったのだよ? 当然、台湾でも同様な動きが起きる事を警戒せねばならぬ」
「……伊沢君には陸軍の宇垣大将がついていますから、こちらから言わずとも」
「そうではない」
浜口の言葉に若槻は首を左右に振る。
「朝鮮で普選が施行される、となれば、当然、台湾でも行われる可能性があるだろう。その時に備えて我が党の地盤を築かなくてはならぬ。台湾府内の有力者と人脈を築いておきたい。これ以上、犬養の爺さんに好き勝手されてたまるか。爺さんが朝鮮に自由党の地盤を築く気ならば、我々民政党は台湾に根を下ろす。伊沢君が総督をやっている今が好機ではないか」
「うむ――それは、台湾に議席を配分する……という事ですか?」
行政区分上、台湾は総督府の下、五つの州と二つの庁に分けられ、台湾全体の人口は約400万人である。現在、内地総人口5940万人に配分されている議席数は466議席。議席一つ当たりの人口数は12万7千人となるので、台湾の人口で割れば31議席配分が妥当となるが、さすがに外地である台湾にそこまでは配分できないだろう。
「違う。これはあくまでも可能性の問題だよ。朝鮮に普選を敷くのであれば、台湾とて当然……いや、むしろ帝国の一員となって、より久しい台湾の方が先に施行すべきではないか、相応しいのではないか、と世論が流れる可能性がある」
「ちょっとまって下さい。若槻総裁は朝鮮に普選制度を敷くことを了解されるのか?」
三木が慌てた様子で腰を半ば浮かせる。
「ふん。議席が欲しければくれてやってもよいと考えている。但し、犬養の爺さんの思惑通りにはさせん」
目を充血させた若槻は言葉を切る。
「私案だが、朝鮮への議席配分は13道に各1議席。それに総督府のある京城、開発中の仁川と元山、それに海軍が要港部を置く鎮海と近郊の釜山は在住する日本人が多いのでこれにも合わせて1議席。加えて陸軍の駐留する羅津にも1議席の都合18議席。このあたりでどうか」
「18議席……」
微妙な議席数だ。仮に18議席が一つの勢力にまとまったとしても内地466議席の4%に達しない。そうかと言って、二大政党が拮抗した時には、左右を分かつ勢力となるかも知れず、安易に無視できる数字でもない。但し18議席全てが一つの勢力に結集されたと仮定しての話だが、実際には内地出身者が多数を占める羅津や仁川、元山あたりは他の半島政治勢力とは一線を画すだろう。
「どうせ大部分の朝鮮人は選挙人登録なぞせぬ。人口が多くても、実際に選挙に来る者はしれているだろう。18議席も与えれば十分だ」
この時代、普通選挙と言っても、今日の普通選挙の形態とは似て非なる物だ。25歳以上の男女全てに選挙権があるといっても、実際に投票権を行使するには事前に選挙人登録を自身で行わなければ投票権は与えられない。
朝鮮は合邦して僅か15年。
欧米基準で考えれば、この時期に本国国政に参画可能な投票権を新領土に与えるなど正気の沙汰ではない。もっとも、山岳部族を中心に日本の支配に激しく抵抗し、流血を繰り返した台湾と違い、日本の官憲によって半島を追われた独立派諸勢力は大正十年に発生した『自由市惨変』事件によりロシア赤軍によって殲滅されており、武力を伴った急進的な独立運動は当面、再起不能の状態となっている。つまりは朝鮮半島内における分離独立運動の芽は、現段階においてほぼ完全に終息している状況にあるのだ。このタイミングで武装抵抗勢力に追い討ちをかける意味でも“気休め”程度の議席数を民衆に配分して、半島住民を宣撫するのも悪い方法ではない。
(若槻さんを説得するのは俺の役目だと思っていたが……まさか若槻さんが乗ってくるとは思わなかった。犬養さんが聞いたら腰を抜かすだろうな)
朝鮮半島に議席を配分する……無論、浜口は犬養が総督職を欲した時に、この件について聞いている。初めて聞いた時にはさすがに
「時期尚早ではないか」
と考えたものだが、冷静に考えれば朝鮮を未来永劫、帝国の一部として統治するのであれば議席配分は必要な統治手段であったし、もし仮に同地を独立させるのであれば、国政に参画経験を持つ見識ある政治家、政党人を育成しておくのも悪くない。中途半端な自治権など与えるよりも一挙に中央政界に進出させ、内地政財官界と密につながった人脈は構築させる。これを大事に育めば、将来に渡って帝国にとって何よりの宝となるだろう。まかり間違って独立後、野卑で無学な急進派などがうっかり政権を主宰する事になれば、近傍だけに後々、帝国本土にどんな災厄がもたらされるか分かったものではない。
それを防ぐ為にも、早い段階から機知と識見に富む外地出身者に政治経験を積ませる土壌を作り上げておくべきだ。
「翻って台湾。こちらにも同数議席を割り当てる」
「何と!? 台湾の人口は朝鮮に比べれば四分の一です。普通に考えれば4、5議席が妥当かと……」
若槻の言葉に三木が悲鳴を上げる。
「良いのだ。それで良い。併合した半島と、割譲を受けた台湾では、そもそも扱いが違う。聞けば半島出身者は台湾出身者を格下扱いし、二級国民と蔑んでいるというではないか」
充血した眼を見開き、仮面を脱ぎ捨て異相を露わにした若槻は尚も言う。
「帝国千年の安寧を考えるのであれば、この先、台湾と半島は常に競わせ、争わせておいた方が内地にとって都合が良い。朝鮮の統治には台湾を、台湾の統治には朝鮮を大いに利用するのだ。両者が常に感情面では対立する政治状況を作り上げ、我ら内地は素知らぬ顔をして両者に対して公平公正であると装う。その為には、両者の議席数は同一でなくてはならない。人口の多寡などこの際、問題ではない」
若槻の冷徹な言葉に一同は沈黙する。
「お歴々、私はこう考える。半島も台湾も権利を欲しがるのは良い。むしろ、当然だ。だが、両者とも内地に庇護された身である事を忘れているようだ。彼らが権利を欲するのであれば、同時に責任と義務が発生する事を理解して貰わねばならぬ。もし、外地に対する普選を施行するならば、同時に租税軽減措置及び徴兵猶予措置の解除も行うべきだ、と我が民政党は公式に表明し、次回総選挙において議論の俎上に載せたいと思う。宜しいか?」
内地との経済格差是正及び現地の経済的自立を促す為、外地は税法上、個人法人を問わずあらゆる軽減措置、減免措置が取られており、その上、内地であれば適正年齢に達した男子に対し、特別な理由がない限り徴兵が義務付けられている。現状、予算上の問題から、陸海軍共にこの徴兵義務を時限解除して志願兵制度に移行しているが、この猶予措置はあくまでも単年度単位の時限立法であり、陸海軍から要望があればいつでも義務は復活する。
――――成人した大人には権利を与えるが同時に責任と義務を課す。年端もいかぬ成長期の少年に権利は与えぬが、その代わり責任も義務も問わないし、何事も大目に見てやろう。もし、権利が欲しいと言うのであれば自らが大人である事を自覚し、まずは義務を果たせ――――。
若槻に限らず、当節の内地政治指導者の外地住民に対する認識とは、つまり『未成年者』に対する扱いと何ら変わりはないと言って良いだろう。
若槻の問いに一同は沈黙した。
自由党総裁でもある犬養老人が勝手放題に動き回り、遂には京城で権利付与を求める大衆を煽動し始めているのに対し、同格の二大政党党首でありながら品の良さ、線の細さ故に、どことなく侮られていた若槻禮次郎という存在。その若槻が、犬養率いる朝鮮民衆に対する答えとして用意したのは完全なる否定ではなく、むしろ肯定した上での『義務の履行』『責任の追及』という対案。外地の民がこれらを受け入れてまで権利を欲するか、或いは、それを逃れる為に権利授与を見送るか……。
それは都合よく権利だけを求めようとする外地の勢力に対し
「よろしい。認めても良い。だが本当に一人前の大人として扱われたいのか? それとも子供のままで今少し過ごしたいのか? それはお前ら自身が決めろ」
という恫喝であり、挑戦だった。