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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
98/111

保管用 15

大正十四年十二月十五日(1925年12月15日)

朝鮮半島 京城

朝鮮総督府 総督官邸


 「ほう……」

 「なるほどねぇ」

 「そりゃあ、大変な思いをしなすったねぇ」


 ――――今は亡き横田千之助は生前

 「木戸銭を払ってまで聞く価値のある演説会をやるのは犬養の爺さん一人だけだ」

 と、その圧倒的な弁舌の巧さに関して嫉妬心を押し隠しつつ評していたが、第一回総選挙以来、地盤も金も人脈もなく連続当選を重ねてきた歴戦の強者だけに、犬養のその聞き上手ぶりも実に堂に入ったものだった。彼の支持基盤である農村青年層の不平不満、憤懣を聞き取り、汲み上げる力、生半可なものではない。ただ単に卓越した煽動政治家というだけではなく、この他者の言い分を存分に、そして丹念に聞く姿勢こそが彼の支持を広げた要因でもあるのだ。

 その聞き上手ぶりが、この日も馬占山を前に発揮されている。石光真清配下の岩畔豪雄が救出した馬占山が洗いざらいぶちまけた北京政府、ひいては英国政府の奸計を聞きながら、犬養は時に眉をひそめ、時に口端に泡を飛ばし、時に膝を打って聞き続ける。その様子、犬養の本性を知る石光自身が感心してしまうほどであった。

 話しを終え、満足した馬占山は犬養と石光に感謝の言葉を残し、岩畔に伴われ、官邸内の迎賓館へと下がる。今頃、石光が用意した山海の珍味に舌鼓を打ち、旅の疲れを癒している事だろう。


 「如何でしょうか? 馬将軍のお話……というよりも彼の身の今後についてですが……」

 石光は犬養に尋ねる。その表情にはそこはかとなく、得意げな下心が見て取れる。自分自身の手柄が誇らしいのだろう。

 「如何でしょうかって言ったってなぁ……」

 馬占山の前では見せなかった困惑の表情を犬養は浮かべる。心なしか煙管に煙草を詰める指先に落ち着きがない。

 「英国に引き渡せば、身代金が得られるでしょう。米国に引き渡せば、恩に着て先々、様々な便宜をはかってくれるのではありませんか?」

 石光も煙草入れから敷島を抜き取ると口に咥える。意外なほど気のない答えをする犬養の反応を不審に思い、思わず痩身が前屈みになる。

 「俺達が内幕を全て知った上で英国さんに取引を申し入れたとする……英国さんは、これ幸いとばかりに『馬将軍を操りしは日本政府なり』って米国さんに注進するだろうよ……何しろ、身柄を抑えているのが俺達である以上、米国政府がどっちを信じるかは分かりきったことだ」

 犬養の思わぬ言葉に、マッチの炎を見つめたまま石光は固まる。

 「米国さんに引き渡せば引き渡したで『何故、日本政府は企みを知っていながら、事が起こる前に注意を喚起しなかったのか』ってさぞかし不義理に思うだろうよ……俺が今の今まで、馬将軍なんて奴を知らなかったなんて言ったところで信じやしまい」

 敷島の先でマッチの炎が揺らめく。依然として煙草に火は移らない。

 「どうやら……しくじりを犯してしまったようで」

 敷島に火をつける事が出来ず、石光は犬養を見上げる。彼は今、自身が痛恨のミスを犯してしまったことに、ようやく気が付いたのだ。全ては主人の為に良しと思ってやったことだが、それだけに主人を窮地に追い込んでしまった自分が許せない。

 「始末……しますか」

 石光と馬将軍の付き合いは途方もなく長い。馬は石光にとって重要な情報源であり、かつて第二次奉直戦争開始の第一報を石光に提供したのも彼だった。

 その馬の口を封じる。

 石光にとっては身を切られる様に辛いことではあったが、自ら招いた結果である以上、致し方ない。しかし、こと馬に対しては友情にも似た感情を抱くだけに自分は殺人の凶器に成り果てても、殺人者と成りたいとは思わない。殺害の意志表示はあくまでも、主人である犬養によって為されるものでなくてはならず、凶器が意志を持つ事は許されない。

 「よせやい。お前さんの知り合いなんだろう? 窮鳥、懐に入らばって言うじゃねえか」

 犬養は、にべもなく跳ね除ける。温かみのある言葉だった。石光にとってはそれだけで十分過ぎる言葉だった。しかし、そうは言ったものの、火のついていない煙管を咥えながら、犬養も考えあぐねている様子だった。底冷えのする官邸の中、窓の外では音もなく雪が降り積もる。海風に煽られた湿っぽく、重い雪だ。

 「馬将軍の身柄を抑えたのは悪くねえ……悪くねえが、利用する事も出来ねえよ。あの男を英国に引き渡せば、さっきベラベラ喋っていた話しなんぞ全部、ひっくり返しちまうだろうからな」

 「いえ、その様な人物では――――」

 「存外、甘いねぇ、お前さんも……。そんな事じゃあ、人殺しは出来たって政治はやれんぞ。奉天を裏切って国民党に付き、国民党を見限って北京に付き、北京から寝返ってお前さんを頼ってきた……なんで、次が無いなんて言える?」

 「……」

 「ともかく、将軍を英国に渡すのだけは止しといた方がいいだろう。証人が犯人の手元にいたんじゃ、こっちに火の粉が降りかかってくるどころか火元にされちまう。悪事の一件が俺達に知られた以上、英国は全ての罪を日本に被せてくるに違いねえ」

 「承知いたしました。私が軽挙でした」

 石光は素直に頭を下げる。

 「ただ、このままじゃあ面白くねぇよなぁ」

 犬養は煙管を煙草盆に置き、腕組みをすると瞑目する。その小さな双眸に再び光が宿ったのは、深夜を過ぎた頃だった。

 「後藤を呼べ」

 犬養の口にしたのは石光の思いもよらぬ人物、新官僚団の頭目にして、総督府内務局長後藤文夫だった。



 「真の官僚とは、真の愛国者である」

 それが後藤の思考の全てだった。41歳、血気盛んな野心家ではあったが、その思考の全てが愛国に向いている。凄まじいばかりの上昇志向の持ち主であったが、同時にその上昇志向は己の理想の国家像を作り上げる為に全て費やされている。彼は故に絶対的に無私であり、弁舌を弄して国民を愚弄するかのような政党政治家を唾棄し、嫌悪していた。


 犬養毅という人物を除いて……。

 

 自身の率いる新官僚達が犬養に次々と魅了され、籠絡されていく中、最後まで反発していた後藤であったが、自身の予想の常に上を行く犬養の手並みを見せつけられ、今となっては自身が本来の「官僚」という組織の歯車に立ち戻った事を誇りとも思っている。

 「官僚とはこうでなくてはならぬ」

 今では、犬養に年端もゆかぬ丁稚の如く顎で扱われる事に心地よささえ感じている。政治家が明確に方針を示してさえくれるのであれば、官僚が己の意志を持って頑なに抵抗する必要などなく、むしろ機械仕掛けのカラクリが如く、スラスラと実務を動かす喜びさえ覚えてしまう。

 その犬養から夜陰に思し召しがある。深夜をまわった時間に官舎に車を差し回し、官邸に来いと言う以上、重大かつ火急な用件であろう。

 後藤は奮い立つ。

 自分もようやく犬養の帷幕に召されたのだ、と思うと全身が興奮に包まれ、吹きすさぶ寒風さえ快然と感じる。

 昨年に始まった朝鮮人の租税滞納者を対象とする代替納付事業、明日より年末までの二週間はここ京城府を中心として十数万人の勤労奉仕団が動員される予定となっている。昨年は市内の清掃や下水道設置の為の掘削、市電や軽便鉄道の敷設作業などの総督府直接事業が主体であったが、今年からは民間土建業者への人足派遣によって総督府収入の確保という新たな手立てもついた。これについては「癒着だ」と批判の声も聞こえたが、内実厳しい朝鮮総督府の健全財政化を目指す以上、背に腹は代えられないというのが本音だった。

 これら事業一切を監督する内務局は局長後藤以下、ここ数日、その準備に追われて一秒を惜しむほどの忙しさであり、精神にも肉体にも疲れがたまってはいたが、それでも犬養の召しとあれば、心中に爪先程の否やもない。

 ボンネットに雪を積んだ差し回しの車に乗り込みながら、後藤は犬養が何を考え付いたのか、愉しみで仕方なかった。



 後藤は無言のまま、天を仰いだ。

 石光は目を見開いたまま、表情を凍らせ動けずにいる。

 一方、齢七〇、犬養毅は皺深い顔を機嫌よさ気に綻ばせている。犬養の妙案を聞かされた二人の反応は、もし、その場に十倍の人数がいたとしても全く同じ様子が見られた事だろう。

 石光は犬養の言葉が「無茶苦茶だ」と感じていたし、後藤は後藤で「気が狂っている」と思わざるを得なかった。それほどの内容だった。だが、犬養を諌めようとも、宥めようとも思わなかった。この先、何が見えてくるのか見てみたい――という欲求の方が遥かに勝っていた。

 「閣下はいったい……いったい、朝鮮を如何するおつもりなので?」

 恐る恐る石光は問う。

 「自分もそれが知りとうございます。閣下は民族自決を標榜される民族主義者、アジアの自主独立を目指すアジア主義者であることは十分、承知しております。しかして、何故、この朝鮮の総督位につかれたのか……閣下の信条とは相反するものなのではないか、と常々思っておりましたので」

 後藤も、か細い声で問う。

 二人とも総督府内では強面の強硬派で通っている人物だ。公的にも、私的にも、敢えて近寄りがたい雰囲気を醸し出し、自らを犬養の盾としてきた二人だ。だが、二人は犬養にこの質問をぶつける事が今の今まで出来なかった。

 「触れてはならぬこと――――」

 直感的に、そう感じていたのだ。


 「朝鮮をどうするか――まぁ、最終的には独立させるしかねぇだろうな。理想を言えば、これに台湾を加えて同君連合、それも自治国的な関係でってところだろうが……完全な独立国でも別に構わねぇと思っている」

 「ならば、何故? 何故、この時期、この方法で?」

 後藤が身を乗り出して尋ねる。後藤は中央政界にいずれ立ち戻るつもりで、朝鮮に来ている。この男にとって朝鮮半島は自分たちの政治理論を検証する為の広大な政治実験場に過ぎない。

 「引き延ばしだよ。この政策は朝鮮の独立を一日でも遅らせる為の手品、或いは『まじない』みたいなものだ」

 「独立させるのに何故、引き延ばす必要があるのでしょうか?」

 納得できない、という顔で石光が問う。

 「最終的に独立させるおつもりなのであれば、閣下が総督をされている今こそ、機会でしょう?」

 石光の言葉は困惑に満ちている。

 「石光君、当時の朝鮮政府が何故、併合を望んだか? 分かっているか」

 「……それは、旧弊悪弊が蔓延り、独力で近代化を遂げるのが難しいと考えたからでしょう」

 「後藤は?」

 「私はもっと下衆な発想だったと考えています。一等国の民となるか、二等国の民となるか……これは今の時代において死活問題です。幸い日本人は日清、日露での勝利により、ご維新からごく短期間で一等国へと成長を遂げました。当時の朝鮮政府は、言わば日本という勝ち馬に賭ける事で、自身も一等国民となれると……それが列強に植民地化される寸前で、日本との合邦という選択をした理由だったのではないかと存じます」

 「ふむ。後藤君はよく見ているな。大したものだ」

 犬養は頷く。

 「だが、彼ら朝鮮の民のあては大いに外れた。日本は半島に総督府をおき、内地とは別物として統治した……対等併合だと思っていたら、実質的に内地・外地として区別されたっていう訳だ」

 「それは仕方ないのでは……? 儒教社会の朝鮮民衆と我等日本人ではそもそも物の考え方、価値観が違いすぎますので」

 「そりゃ日本人の都合ってやつだ。確かに日本人から言えばそうだろうが、朝鮮側から見れば、騙されたって思わねえ訳でもあるまい。今更言っても詮無きことだが、この問題の肝はここにある」

 犬養は言葉を切り、ゆっくりと煙草を煙管に詰める。

 「この朝鮮の歴史が千年あるのか、二千年あるのか俺は知らねえし、興味もない。知らねえが常に中国からの侵略に怯えながら、以小事大の精神で国を保ってきたんだろうなってとこは推し量れる。明治以降、衰退した中国にとって代わり、俺達日本人が新たな以小事大の対象となった訳だが、俺たち日本人はいまだ朝鮮の民衆に、その恩恵を与えているとは言えねぇ」

 「我々がこれだけ莫大な投資を行い、この地に近代の恩恵を与えたにも関わらず、ですか?」

 犬養の言葉に後藤が反駁する。朝鮮総督府が莫大な公債を発行して日本国内の金融市場から資金を調達し、それを結局、内地の住民の支払う血税によって弁済している現状を知るだけに犬養の言葉は「道理に合わない」と感じたのだ。

 「日本国籍を得た朝鮮人が治外法権を盾に大陸でやりたい放題をやっていたとしても、ですか?」

 石光も堪らずと言った様子で犬養の言葉に反発する。大陸に知人知己の多い彼にしてみれば、領事裁判権があることをいい事に違法行為に手を汚す朝鮮人大陸浪人のやり方が腹立たしいのだろう。現地警察が逮捕しても「自分は日本人だ」と主張して抗弁し、身柄引き取りに来た領事館職員が話しかけたら日本語が通じないという事例のなんと多い事か。

 「二人とも随分と料簡の狭い事を言うじゃねぇか。明治の先人たちはそんなもの、全部飲み込むつもりで併合したんだ。今更、くどくど言うなんて恥の上塗りをするようなもんだぜ。覚悟が足りねえや」

 心地よさ気に犬養の口から紫煙が吐き出される。

 「もし、日本がこの先、どこかの誰かと戦争したとして……負けたとする。負けて朝鮮を割譲するか、独立させるように迫られたとする。朝鮮人は日本人をこの先ずっと恨むだろうぜ。連中、勝ち馬に賭けたつもりなんだ。その勝ち馬が負けたら、『日本人に騙されて我慢してきたのに、その上、負けやがった』って孫やひ孫の代まで繰り言を言い、日本人を罵り続ける。だからよ……俺たち日本人は勝たなきゃならねぇ。勝った上で独立させる。そうすりゃあ、朝鮮人達の心持ちも全く違うんだよ。勝ち馬に賭けた先人たちの先見を誇り、我々が施した投資に対しても恩恵だったと感謝するだろう。だから――――」

 「だから?」

 「いつか、勝てる戦が出来る日まで、朝鮮人が独立しようなんて考えない様に工夫しなきゃならねぇ。それの手品がこれだ」

 「閣下の言いようでは、まるで日本人は朝鮮人の為に血を流さなくてはならない――と聞こえます」

 後藤が咎めだてる様に、憤懣を湛えて応じる。

 「いいや……違うな」

 犬養が答えるよりも先に、顔面を朱に染めた後藤と違い、いち早く、犬養の真意を理解した石光が落ち着き払った口調で諭す。

 「アジア植民地の自由と独立を究極目標とするアジア主義。閣下が昨年の勤労奉仕団結団式以来、あちらこちらで弁舌会を開き、朝鮮人にこれを説いたのは、そういう事ですか……深慮、合点がいきました」

 石光の言葉に、後藤も気が付く。

 「しかし、十年、或いは二十年かかるかも知れませんな……彼ら朝鮮民衆が以小事大の精神を捨て、同胞アジアの民の為に汗を流し、涙を流し、そして血を流す事を厭わなくなるのには……。その十年、二十年を稼ぐ為の手品、という訳ですか」

「可愛い子には旅をさせよって言うだろう。別に可愛い訳じゃねえが、いずれは独り立ちさせなくちゃならねえ。だが、ただ単に独立させたら、こいつら元の事大に戻っちまう。だからこそ、俺は事大に代わる価値観、思想を広めておかなくちゃならねぇ……これは俺にしか出来ねえことだ」

 「三寸の舌をもって帝者の師と為らん、ですか。古今に冠絶した煽動政治家である閣下―――いや、失礼。確かに閣下以外には出来そうもない」

 ようやく敷島に火を点けた石光が笑みを浮かべ、面白げに呟く。

 「明日は、大変な祭りになりそうですな」

 得心し、全てを理解した後藤も冷めきった茶をあおる様に飲み、手の甲で口端から零れた茶を拭う。

 夜明けは、もう間もなくだった。

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