保管用 11
大正十四年十一月十三日(1925年11月13日)
中華連邦 南満州鉄道 安奉線
中華連邦首脳――――国民党右派により『国父』の尊称を奉られた孫文、その生誕の日である十一月十二日は「國父誕辰紀年日」とされ、同国の祝日の一つに制定されている。建国間もない中華連邦にとって初めて祝されるこの日の式典に賓客の一人として招かれた犬養木堂が満州入りをしたのは一週間ほど前の事である。
「国父が最も信頼した海外要人の一人」として中国大陸においても抜群の知名度を持つ犬養の来訪に林森主席以下、政府首脳陣は大いに気をよくしたが、彼が所謂「芳名帳」に記したのは『犬養毅』という個人名のみ……いまだ、帝国政府が中華連邦を正式承認していない現状、犬養は公人として訪れる事は許されておらず、あくまでも私人としての訪問という形式をとる他はない。その事を連邦政府首脳は熟知していたが、やはり実際に記された名を目にしてしまえば「国父の盟友」とまで呼ばれた人物と国父の遺児たる自分達との距離を改めて感じ、同時にほろ苦い寂寥を覚えざるを得なかったという。
現在、中国国民党右派と日本政府の間に直接的な懸案問題は発生していない。戦争認定による臨検活動は二国間問題ではなく、あくまでも国際問題であったし、仮に連邦が民国の継承国家であるとすれば租界、そして関税自主権などの不平等条約がらみの話は日本との間にある限られた問題ではなく、他列強を巻き込んだ多国間の問題だ。これは日本一か国が批難されるべき事柄ではなく、日本自身はその先鞭をつけることに関して東郷ドクトリンにも明示された様に意欲的ではあったが、いずれにしても対等な政府交渉を経ての妥結、締結を目指すものであり、民衆による不買運動や排斥運動が改定早期化への圧力になるとは考えていない。事は条約という「法」の問題であり、正邪善悪の観念が絡む「内輪の感情論」の話ではないからだ。
その点において、東郷とその内閣は頑ななまでの原理主義者であり、法に照らして不当であると判断すれば、一歩も引かぬ気構えでいるのは先の英米中立国義務違反への弾劾でも明らかである――――というのが一般的な認識であった。
名目上は「私人」であったが、事実上、日本を代表して「國父誕辰紀年日」の式典に参加した犬養は、かねてより知己懇意の者の多い孫文直系の国民党右派の面々と会談を繰り返し、朝鮮総督府が頭を痛める満州東南部・吉林省を中心に拠点をおく共産系朝鮮独立組織に対する取り締まりの強化と逮捕協力に関して連邦政府側の快い回答を得ることに成功していた。
これには実のところ、連邦政府側もソ連共産党の支援を受けた共産主義者による抵抗と、日中ソ三国の辺境国境線を自在に越境しながら追捕の手を巧みに逃れる彼らに煮え湯を幾度となく飲まされていた折りでもあり、むしろ、情報の交換や逮捕協力には連邦側こそが積極的な姿勢を示したからでもあった。
連邦政府が犬養の為に南満州鉄道株式会社に依頼し、特別に仕立てられた汽車に揺られ、国境の街・安東へと帰路を急ぐ車内個室に今回の奉天行に同行した三人の男がいる。勿論、随員は他にも大勢いたが、犬養の個室で自由に振る舞えるのは彼ら三人だけだ。
一人は石光真清。京城帝国大学講師の肩書を持つ男。一人は朝鮮総督府外渉通商局長として犬養の外交ブレーンを務める廣田弘毅。そしてもう一人は、渡辺勝三郎。東洋拓殖株式会社総裁を務める男だ。
東郷政権によって南満州鉄道株式会社が米国に売却されるまで、日本の二大国策会社と言えば『満鉄』と、この『東拓』の二社の事だ。
満鉄が租借地である金州半島から満州の奥へ奥へと突き進む尖兵の役割を果たしたのに対し、東拓は京城を本拠地に朝鮮半島の開発を担う兵站の役割を担わされていたと考えて良いだろう。朝鮮総督府が株式の四割を保有する特殊会社として、朝鮮半島における農地購入を行い、内地から朝鮮半島への植民斡旋と植民者への農地売却を中心事業に据えつつ、鉄道敷設やダムや灌漑施設の建設、鉱山開発、更には金融業に至るまで営む複合企業である東拓は、満州からの引き上げ資本の受け皿となり、今や東アジア最大級の法人として名を馳せる。
その総裁を務める渡辺勝三郎は犬養と同郷の岡山生まれ。古株の内務官僚でありながらも、その経歴に本省勤務経験は少ない。徳島、新潟、長崎などの各知事、横浜市長などを歴任した実務家タイプで、その「田舎回り」経歴から内務省本流である『旧山県閥』の系譜に属していないことが分かる。恐らくは犬養との親密な関係が山県系に忌避されたのであろうが、この年の四月より東拓第六代総裁に内務省の非主流派である渡辺が就任できたのは、無論、犬養の政治力によるものだろう。
「実り多い旅になりましたね」
どちらかといえば小柄で、痩せた鼠の様な印象を受ける石光の横で肥満体の渡辺は三人掛けの座席の三分の二程を占領しながらにこやかに話す。途中駅のホームに店を出す中国人からたっぷりと買い込んだ『羊肉串』を既に両手の指の数ほどに食べており、その逞しい健啖ぶりは、とても六三歳とは思えない。成長した羊独特の臭気が吐息と共に流れだし、臭み消しのクミンや朝鮮唐辛子が放つ刺激が室内には充満している。粘膜が弱い者であれば、目や鼻を焼かれ、涙と鼻水で溺れる羽目になるだろう。
更に、この大食漢の足元には鳩肉の油漬け『香酥鶏塊』が詰まった壺が置かれており、羊肉の次にはこれを食べるつもりらしい。香酥鶏塊は唐揚風の物が代表格だが、渡辺が買ったのは紹興酒、砂糖、ウイキョウ、山椒、シナモンなどに漬け込み、香りづけした肉塊を低温の動物性油脂で長時間、素揚げにし、芯まで火が通ったらそのまま油脂ごと冷して固めたタイプのものだ。フランス料理のコンフィに近い技法の地方料理であり、表面を覆う油脂により数か月単位の保存が容易に効く。庶民が家庭でも作れる安価な保存食の代表格であり、中国人にとっては長時間に渡る汽車旅や船旅の最良の友でもある。
老人と言って良い年齢の渡辺だが、その健啖ぶりからも分かる通り、頭髪は黒々とし、顔面は皮脂でテラテラと輝いており、見た目は実に若々しく精力的だ。地方首長として演壇に立つ機会が多かったせいか、とにかく地声が大きく、密談には全く向いておらず、その性格も地声同様に秘事密談向きではなく、隣に座る石光とは好対照だった。
「鴨緑江発電の目途がこれでついたようだな。後は東拓の方で推進してくれ」
まるで機関車が突進してくる様な圧力を感じる耳障りな渡辺の声に、両の人差し指を己の耳穴に入れたい衝動に駆られながらも、犬養はにこやかに応ずる。
――――鴨緑江発電所。
推定発電量60万キロワットと言われる鴨緑江における発電事業計画は、犬養総督府が推進する朝鮮半島工業化の中でも最有力事業の一つであり、犬養らの策略により平安南北道において炭鉱開発・液化石炭事業に取り組むはめに陥っている日本窒素の総帥・野口遵との約束でもある。
総工費1億5千万円に達すると見られる発電所建設計画、勿論、朝鮮総督府にその主体となれるような経済力は無く、最初から「誰かの財布をあてにする」つもりであり、そのあてにされた財布の持ち主は無論、関東州民政長官を務めるフーヴァーだった。犬養は今回の奉天訪問に際して、敢えて海路を用いて旅順経由での満州入りを行い、同様に式典に招かれていたフーヴァーと会談の席を設ける事に成功、両者は旅順と奉天において二度にわたって直接会談を行い、朝鮮総督府、関東州民政局の共同事業としての建設計画推進に合意している。
会談を終えた後、犬養はフーヴァーに対して
「思っていたより、大人物そうだ――――」
という感想を抱いた。貧民から苦学して一代で巨万の富を築き上げたアメリカン・ドリームの体現者であり、「タフガイ」の異称を持つ剛腕型の政治家という先入観を抱いていたのだが、実際のフーヴァーは縦にも横にも大きな体躯に似合わず、言葉一つ一つを選んで喋る慎重な人物であり、そこが如何にもな「苦労人」という感じが見て取れた。しかし、その立ち居振る舞いに小賢しさや卑屈さは感じられない。
権力を握る為、金儲けをする為に、或いは志を持って政治の道に入ったのではなく、人の羨む大富豪になってから政治家として歩み始めた人物特有の
「余暇としての政治」
を楽しむ為に政界入りした名士の余裕が感じられ、それだけに己の信条、主義に徹底して忠実な人物だろう。
フーヴァーが直接統治する旅順・大連の金州半島は飲料水にも難儀をするほどの水資源に乏しい土地だった。加えて以前、フーヴァーが街並みを見て漏らした感想の通り、電力事情に関しても完全にお寒い状態だった。消費に慣れた米国市民が急増している現状では慢性的な不足状態が続いており、電力使用量のはね上がる冬季には灯火時間制限の実施を視野に入れねばならぬと思える程に困窮している。
民政局の豊富な予算を用いれば水力や火力発電所などいくらでも作れそうなものではあったが、残念ながら急傾斜が連続した山がちの地形で、降水量が少ない遼東半島は水力発電所に適した水源に乏しく、石炭は大量に手に入れられても火力発電所に必要な真水を賄えるような河川も無い。
しかし、それでいながら、堰を切ったように米国資本は進出を加速しており、広大な農地分譲を約束された難民同様の南部貧民は毎週1000家族単位で流入している。米本土からのこの企業進出と移民によって人口急増中の金州半島では、今は何をおいても水と電力が不足しているのが現状だった。
そのタイミングで犬養が持ちかけた発電所共同開発――――。
民政局内部でも、最終的に日本を利するものになるだけではないか? という意見もあるにはあったが、それでも深刻な電力不足を一挙に改善できる程の妙案がある訳ではない。結果として総督府は日本側事業主体として東拓を指名、民政局側は満鉄に出資する形をとり、半官半民企業である東拓と満鉄が共同で合弁企業を設立、この合弁企業を建設運営主体として発電所建設に向けスタートを切ろうとしている。もっとも、総督府は東拓の発行する社債の元本保証人になるだけであり、実質的な負担は皆無と言って良く、その社債の引受人も米国投資家が大半を占めることになるだろう。
推定発電量60万キロワットを折半し、30万キロワットずつが日米双方に供給される見通しだが、豊富な水資源、石炭資源を背景に火力発電所を数多く建設している今の日本側にそれほどの需要がある訳ではなく、逆に米国側は先々の開発に要する莫大な需要を見込んでいる。犬養総督府も、東拓もそれを見越しており、当面の間は余剰電力を米側に輸出し、朝鮮の貴重な外貨収入源につなげたいと考えていた。
「資源のない我が国が、資源の有り余る米国に資源を売る……こりゃあ痛快ですな」
犬養の傍らに座る廣田が快活に笑う。柔道で鍛え上げたその筋肉質の体躯は五十手前となった今でも変わらず、猪首に締めたネクタイが如何にも窮屈そうだ。
僅か一年余り前、日本が統治していた頃の旅順・大連を知る四人の目に映った現在の同地は全く別な場所の様に見えた。元々がロシア人の建設したロシア風の街並みを基礎に、日本人が西洋風建築物を好んで建てた事から、日本風の街並みではなかった同地だったが、米国人の進出とともにその傾向は一層、推し進められており、高層建築が市街地のあちこちに建築中だった。しかし、犬養一行にとって最も奇異に映ったのは、街を行き来する米国人の多さ、取り分け、以前はほとんど見ることがなかった黒人達の姿だった。
米国政府が同地を「ニュー・フロンティア」と喧伝し、盛んに本国から移民を行っているのは聞き及んでいたが、これほどまでに大規模なものだとは思ってもいなかった。英語の看板や会話が氾濫し、軽やかなジャズや哀愁を帯びたブルースのメロディーが街路を流れ、ダンスホールからはフォックストロットやチャールストンのステップが聞こえてくる。
「以前、上海を訪れた時、ここは本当に支那なのか? と目を疑いましたが……旅順大連はそれ以上に西洋化していましたね」
廣田の言葉に、渡辺も頷く。
「各国租界が入り混じる上海に比べ、旅順大連は米国の一人舞台だからね。好き勝手やっているのだろう……それにしても、気が付きましたか? お歴々」
渡辺の問いに廣田が反応する。
「彼の地の支那人の少なさですか? いや、驚きました。恐らく一年前の半分以下でしょう」
「うむ。米国は相当、強引に植民政策を推し進めているようだ。中心街の貧民窟がいくつも封鎖され、支那人は郊外へとどんどん追いやられているらしい……」
「気の毒な事を……」
生粋のアジア主義者である廣田の思考では支那人は同胞の様なものだ。彼は眉をしかめ、唇を捻じ曲げる。
「下らぬことを言われるな。アジアでは別に珍しい事でもありますまいに……我々日本人だってやってきたことではないか」
廣田の感傷に水を浴びせたのは石光だった。冷徹な現実主義者であるこの男にとって、アジア主義者の同情に満ちた憤りなど滑稽以外の何物でもない。共に犬養の腹心を自負する者同士だけに微妙な空気が車内に流れる。
「そういえば、面白い噂を聞きました」
やや変調した空気を払う様に、渡辺が殊更、快活に振る舞う。如何にもな白々しさだが、そこは年の功だろう。
「馬将軍が式典に出席しなかったとか……噂では途中まで来て何故か引き返したのだそうです。四巨頭の一人である彼の動向を怪しんで、随分と楽屋裏では様々な噂が流れていた様です」
渡辺は、まるで小耳に挟んだ人づての話――といった態で話す。しかし、渡辺は特殊会社・東拓の総裁である。東拓は当然ながら各地に支店を保有しており、その支店ネットワークを隠れ蓑にかつての満鉄がそうであったように信用調査部門という名の特務機関を傘下に有している。渡辺の言葉は噂などではなく、無論、東拓調査員が渡辺に提出した報告書を読んでの話だろう。
「馬将軍か……厄介な事にならねば良いが」
渡辺の言葉に石光が渋い顔をする。馬将軍とは日中ソ三国国境が交錯する吉林省に拠点を持つ旧奉天軍閥系の馬占山の事であり、張景恵、臧式毅、熙洽と共に「満州四大軍閥」と目される軍人だ。張作霖の息子・学良に近い人物と見られており、張作霖変節の後は、新たな中華連邦の支配者となった国民党右派に大人しく従ってはいるが、奉天派内部でも戦上手として知られていただけに、その扱いは連邦政府としても頭の痛い存在となっている。
「私も面白い噂を聞きました」
渡辺のさり気ない報告に続き、負けじとそう言いだしたのは廣田だった。彼は外務官僚上がりだけに、古巣の外務省から豊富な情報を仕入れやすかったし、元を正せば右翼界の元老・頭山満の薫陶を受けた男だ。頭山門下のアジア主義者、大陸浪人を経由しての情報も入りやすい。それに加えて最近では、朝鮮総督府外渉通商局長としてアジア各地の公使館、領事館内に設立した外渉通商局の出先機関による情報収集にも力を入れている。
「東京の英国大使が面白い問い合わせをしてきたのだそうです。なんでも『朝鮮北東部の港湾開発に英国企業が投資参加する事は可能か?』という質問だったそうですが」
「元山にかい? なんでえ、そりゃあ?」
犬養は片方の眉を吊り上げ、不快気な表情になる。自身が手塩にかけて育てようとしている朝鮮に英国資本が絡もうとしている、と聞いて、多少なりとも頭にきたようだ。これは英国資本がどうのこうのというより、自分の頭越しに本国の外務省に話を持って行かれたのが気に入らない、という部分もある。
「いえいえ、元山の臨界港湾整備施設計画にではなくもっと北の……咸鏡北道の方です」
「咸鏡? じゃあ三菱に投資するっていうのか? まあ、それならそれで結構な事だが……」
なんだ、民間同士の話か……と、犬養が矛先を収めようとする。長津、赴戦の水利権を得た三菱による同地の開発は、現在、用地買収がようやく終えようとしているところだ。この買収には、朝鮮における土地取得で一日の長がある東拓もノウハウ面で相当に協力している。
「それが、もっと北の方で……羅南の北にある清津という町だそうです」
「清津? 聞いたこともねえ。羅南の北となると……それじゃあ、川の向こうはもう、ソ連に満州ってあたりじゃねえか」
「はい。清津は良好になる地形だという話ですが、北の外れにあるただのちっぽけな漁村に過ぎません。英国さんもおかしなところに目を付けたものだ――と本省の連中が困惑していました。それに南隣の羅南には十九師団が駐留していますので、その近傍となると随分、きな臭い話の様にも思えます」
口ではきな臭い、と言いつつ本質的に外務官僚である廣田には本心から興味ある話ではないようだ。どこか他人事の響きがある。
「面白いですな……英国と言えば、私もちょいと気になる噂を耳にしています」
いつもと変わらぬ、よれて古着の様になった背広を着た石光が口を開く。
「長春とハルピンに最近、見慣れぬ英国人の一行が入ったようです。なんでも一行はあちこちでチャータード銀行の名刺をばらまいている、という話です」
満州鉄道北の終点・長春、そしてその北に位置するハルピン――――対立する中華連邦の支配域の中央部、それでいながらソ連が中東鉄道権益を保持している関係で米国も、そして米国の後押しを受けた中華連邦政府も微妙に手を出しかねている国際都市だ。
ソ連が権益を保持する中東鉄道付属地内の公会(自治議会に相当)の公選議員構成をみれば、この地の複雑さ分かる。60議席のおよそ半数がロシア人、残りの半分が中国人、更にその半分が日本人、他に英国人、仏国人、米国人、独国人、ベルギー人などが議席を有しているのだ。投票権が納税義務を果たしている者への特権的扱いの時代とはいえ、まるで濃密に国境が入り組んだ欧州の様に各国勢力が鎬を削る場所になっている。
その長春とハルピンに英国の銀行が?
チャータード銀行と言えば、中国ポンドの発券銀行でもある。その銀行が米国ドルの優勢な満州で、いったい何をしようと?
石光は自身がかつて構築した中露の特務機関や人脈に加え、今では旧満鉄調査部員を配下に持つ。その情報の確度は相当に高い。
「雲行きが怪しくなってきたな……君達、もう少しこの件に関して仔細に調べてくれんか」
犬養はそう帷幄の謀将を気取る三者に指示を出した。
渡辺の東拓信用調査部、廣田の総督府外渉通商局、石光の京城帝大亜細亜経済研究所――――。
東拓が主として担当しているのは今日で言うオシント(開示情報収集分析)であり、外渉通商局が主に担当するのがコミント(通信傍受解析)とリーガル・ヒューミント(合法情報収集活動分析)、そして亜細亜研がイリーガル・ヒューミント(非合法情報収集活動分析)と分類できる。
一見すると、犬養の為に情報収集を行っている組織が三つに分かれていたのでは非効率で合理的でないとも思える。しかしながら、諜報活動は完全に「分権化」「細分化」され、むしろ組織同士が対立するぐらいの方が調度良いのだ。もし、一本化して、ある出先機関に不都合が生じ、工作員が相手方に捕縛され、組織に関する情報を漏らしたら、全て終わりになる。
だが三つに分かれ、互いに互いの存在を知らなければ、少なくとも他の二つは生き残るし、芋づる式に工作員の身に危険が迫る事もない。情報の連続性、整合性から分析し、その確度を求める以上、組織が一度、断絶してしまえば再起を期すのは難しく、その点において非効率でも、組織が一つにならない事こそ、望ましいのだ。各国の軍や省庁が例え非効率でも、それぞれ情報部を保有し、情報の共有化をしないのはその為だ。
「安東駅に着いた様です」
特別列車が国境の街・安東駅の構内に停止する。ここからは満鉄ではなく、朝鮮総督府鉄道へと乗り換えなくてはならない。事前に到着時間を電報で知らされていたのだろう、既に迎えの汽車は構内で盛んに煙を吐き出し、主人の到着を待ち侘びていた様子だ。
「寒いな……雪になるか」
特別列車を降り、11月の乾いた寒風が吹きつけるホームを歩きながら、濃厚な灰色の空を見上げ、犬養は少しだけ不安を覚えた。
1925年11月13日(大正十四年十一月十三日)
中華連邦 南満州鉄道 連長線
犬養と同様に奉天における中華連邦政府が初めて開催した公式式典「國父誕辰紀年日」に賓客として出席したフーヴァーは本拠地・奉天への帰路にあった。帰ったら民政局主催の感謝祭の準備で忙しくなる。この新しき開拓地で迎える二度目の感謝祭、その昔、ピルグリム・ファーザーズを助けた古の善きインディアン達と違い、この地の信用ならない原住民共は神への感謝を奉げる食事会に招待する価値もない。
「中国人は信用ならない」
張作霖の変節は、フーヴァーをしてそう思わせる程にショッキングな出来事だった。元々、義和団の乱に際しても、自身と妻、幼い愛息の命が危険にさらされているだけに、口には出さないが心の奥では中国人に対する漠然とした警戒感を持っていた彼だ。中国における鉱山の開発成功により、その巨万の富の基礎を築き、この地に少なからぬ縁を感じていただけに、平気で約を違えた張作霖の行為はフーヴァーの心に拭い難い傷を負わせてしまったようだ。
仁川から海路・旅順入りした犬養と最初の会談を行い、奉天へと向かう列車の中でも両者はじっくりと話す機会を得、奉天に着く頃にはある程度の信頼関係を構築出来た様に思える。その点が、フーヴァーにとって今回の式典への参加の中でも最大の収穫の様にも思えていた。
フーヴァーと犬養の繋がりは、張作霖決起の報をその張作霖が動き出す以前に報じてきたところから始まる。最初は、張作霖の背後に日本がいるからこそ知り得た情報――と穿った見方をしたものだが、その後の日本政府の一貫した態度を見る限り、その線は無い。今回、ひざ詰めで長時間、話せたことは互いに国境を接する地域の支配者同士、意義ある物だったように思える。
「電力の供給に目途がつくのはありがたいな……今直ぐではなくとも、計画さえ軌道に乗れば政治的な言い訳はいくらでも出来るし、責められることもない」
国境を形成する鴨緑江は国際河川だけに民政局側で単独の開発を行う訳にもいかず、火力発電用の真水を取水するにも日本側に話を通さなくてはならない。しかし、交渉相手となった犬養はフーヴァーの望む物全てに対しにこやかに頷き、条件を飲んでくれた。本国から移民してくる南部農民を失望させない為にも、これから電力はいくらでも必要になるだろう。国境地帯という敏感な問題にもかかわらず、小難しい注文など一切つけず、ビジネスをビジネスとして成立させようとする犬養の態度は、フーヴァーにとって実にありがたいものだった。
高価な調度に埋め尽くされた特別列車の個室で、フーヴァーは一人、車窓ガラスに映る己の姿に対し、グラスを掲げる。禁酒法が睨みを効かす本国とは違い、ここでは好きなアルコールが公然と飲み放題だったし、旅順近傍の天津には在留英国人も多いのでインド産の上質なウィスキーがかなり安価で手に入る。英本国産と違い、ピート臭が弱めなので呑みやすいし、これを炭酸水で割って丸削りの氷を叩き込めば、暖房の効きすぎた車内においては最高の生命の水となる。
特別列車が旅順に着いたのは深夜に近い時間だった。石河鉄橋を過ぎた辺りから雪が降り始めた為、予定よりも大分、時間が過ぎている。
旅順駅のホームを降り、専用口に設けられた改札を過ぎると迎えの黒いクライスラーが待っていた。主人の到着に気が付いた黒人運転手が後部座席のドアを開けると、車内に顔見知りの人物が待っている事に気が付いた。
長旅、お疲れ様でした――――などと、愛想の良い言葉を吐く人物ではない。才能と気位が異様に高い歪な性格の持ち主ダグラス・マッカーサー少将だ。
「何かあったのかね? 少将」
上等なコートを着たまま、フーヴァーは後部座席に尻を滑らせると、挨拶も省いて話し掛ける。この高圧電線の様に触れがたく、鉄塔の如く高々と聳える男が用もないのに自分を迎えに来ることなど、まずあり得ない。何かしらの緊急を要する事柄が起きたに違いない。
「国務省から緊急の用件です」
「国務省……国務省からの伝言を報告する為に貴官がここに? わざわざ?」
マッカーサーの言葉にフーヴァーは噴き出しそうになる。第一、国務省からの伝言ならば、この男ではなく、民政局の職員でその任にあたっている者も大勢いるではないか。どこまで出しゃばる気なのだ。
「いったい何事かね?」
哄笑したいのを無理矢理に抑え付けた為、歪んで奇妙に厳めしい表情になったフーヴァーの様子を見て、マッカーサーは誤解したらしく、自らも殊更、顎を引き締める。
「英国の駐日大使が、東京の日本外務省に対し、先頃より頻繁に接触しているそうです」
「……」
フーヴァーは口を挟まず、話の先を促す。だから何なのだ? とは言わない。口を開いたら笑いが止まらなくなりそうな予感がしたからだ。
「問題はその案件の内容ですが……」
マッカーサーは芝居がかった口調でわざとらしく声を潜める。
「英国は朝鮮半島北東部に日本と共同で港湾の開発が可能か問い合わせている様なのです」
「……ほう」
何か言わねばならない、と思ったからこそ返事をしたが、実のところ訳が分からない。日本国内に英国が港湾建設を求めたからといって何だというのだ? 列強の一国である日本国内に港湾を建設し、それを租借しようというのであれば話は別だが、マッカーサー自身が言っている通り、共同開発というのであれば、何の問題があろう。英国紳士が得意とする投資行為に過ぎないではないか。勿論、租借などという国辱的行為を日本政府が、ましてや日本国民が許す筈もない。何を慌てている?
「英国が問い合わせしているのは日本領の北東の先端部、中ソ日三国の国境に接した場所だそうです。そして、国務省からの連絡にはもう一つ――――」
もったいをつけた様にマッカーサーは言葉を一旦、切る。
「英国がソ連政府に対し、中東鉄道の買い取りを打診しているそうです」
「……何っ?」
「中東鉄道は、満州里からハイラル、チチハルを抜けハルピンへ、更に牡丹江から綏芬河を超えて再びソ連領へ抜けます。その東端である綏芬河から南に折れた場所……そこが中ソ日三国の国境、つまり英国が日本に打診しているのは中東鉄道から海への出入り口という事になります」
フーヴァーは悲鳴を上げたかったが、かろうじて堪えた。黒竜江省、吉林省の奥地で採れる満州最大の輸出品・大豆の多くは中東鉄道によってハルピンに集積され、そこから長春、奉天を経由し旅順、大連から積み出される。この大豆貨物輸送の運賃収入こそが満鉄の鉄道営業収益の過半を占めるものだからだ。それが中東鉄道を使用して朝鮮半島北東部から積み出される、となれば我が国は、いったい何の為に満州鉄道を購入したのか分らなくなる。
「少将は、日本が応じる可能性は高いとみているのかね?」
「高いと見ます。我が国に満鉄を売り、英国に中東鉄道への接続可能な港湾を提供したら、我々は日本に対する認識を変えねばなりませんね」
「裏切り者だと?」
「裏切り者? いえ、むしろ彼らの外交技術の向上を侮れないものだと……」
「……そうか。そうだな」
踊らされる政治家達を冷笑しながらマッカーサーはそう言うが、フーヴァーにして見れば、日本の行為は二枚舌以外の何物でもない。米国が善意と良心の化身として満州鉄道を購入した訳でない事は誰よりもフーヴァー自身が承知していたが、だからと言って競合路線の命運を握る積出港を提供するなど、彼自身の道義上、許されて良いものではない。自身が何一つ困らない最大級の富裕層なだけに「金の為なら何でもする」という行為に対しては理解も出来ないし、到底、容認出来ないのだ。
「しかし……」
「しかし? なんです?」
「綏芬河から日本領に向かうには鉄道を敷設しなくてはならない筈だろう? 中華連邦政府が新たな鉄道敷設を許可せねば済む話にも思えるが」
マッカーサーは喉の奥を小刻みに鳴らした。今度は彼が笑いを堪えている。
「閣下もお人が良い。第一に鉄道権益がソ連政府のものである以上、我々も連邦政府も手出しは出来ません。もし、連邦政府が許可を出さねばウラジオストックを積出港とすれば良いだけの話です。しかし、共産主義国家に鉄道の出入り口という生殺与奪を握られるのはリスクが大きい。だから日本政府に港湾整備への投資を打診しているのでしょう。第二に……」
「第二に?」
「綏芬河周辺の吉林省東部は誰が実質的に支配していますか? 中華連邦の支配権が及んでいるとお思いですか?」
「馬占山……か」
「その通りです。小官は馬将軍が今回の式典に出席しなかった、という噂を耳にしておりますが……そもそも馬将軍は裏切り者・張作霖の息子・学良子飼いの将ではありませんか」
血生臭い未来絵図を思い描き、功名の機会が再び巡ってきたことに興奮を隠さぬマッカーサーの皮肉にフーヴァーは黙り込む。視線の先は車窓が映し出す旅順の街並み……。
旅順駅前の広大なロータリーを発した公用車はヘッドライトの明かりで旅順の暗い街路を睥睨しつつ疾走する。日本橋を通り、第一中学校前を抜けると旧ロシア帝国極東総督府の建物を改修した民政局のある小高い丘までは僅かな距離だ。
フーヴァーは車を降り、旅順の街並みを見下ろす。駅近くの繁華街は不夜城の様に明るく、本国同様のそこだけ見ていれば、ここが太平洋の果てである事を忘れてしまいそうだ。
「少将」
フーヴァーは一歩下がった場所に立つマッカーサーに声を掛ける。
「はい」
明瞭な返事と共に、功名心に逸る政治家志望の軍人は一歩前に足を踏み出し、フーヴァーの横に並ぶ。まるで、自分たちは同格だと言わんばかりに。
「我々は、最悪の状況に備えねばならないようだ」
「私の第一師団は既にその準備を終えています、閣下」
西部開拓時代に幼年期を過ごしたフーヴァーには一つの哲学がある。それは同時代を生きたアメリカ人達と共通した哲学でもあった。
(この権益を得る為に、アメリカ人が血を流すなどという事はあってはならない。しかし、権益を守る為に血を流すことが必要とされるのであれば……我々は何を躊躇うだろう)