保管用 10
大正十四年十月十日(1925年10月10日)
茨城県稲敷郡 阿見村
霞ヶ浦飛行場
霞ヶ浦飛行場は、霞ケ浦の西南に位置する広大な埋め立て地にあった。どこまでも続くような田園風景の中に埋没する滑走路は幅広く、また平坦であり、隣接する霞ヶ浦はあくまでも波静かであり、水上機の発着水訓練には最適な環境が整っている。
陸上機と水上機、双方の訓練を行うのに恰好な場所である霞ヶ浦。
多くの海軍航空兵は、この地で生まれ、この地で育つ。彼らにとって霞ヶ浦は第二の故郷とも呼ぶべき地であった。
滑走路の横、駐機場には海軍航空の基礎を築いた『アブロ式陸上練習機』や正式化されたばかりの『十三式練習機』が翼を連ねて駐機しており、又、霞ケ浦に突きだした桟橋からはもやい綱に繋がれた『アブロ式水上練習機』が微かに風に揺れながら水に浮いている。
全部で百機はあろうか。全てが稼働機という訳ではなく、このうちの何割かは整備訓練の為に幾度となく発動機を分解され、再び組み立てられたものであるからして、飛行練習に堪えないものもある。
「来ました」
双眼鏡に両眼をあてていた副長が小声で傍らに立つ霞ヶ浦航空隊司令を務める安藤昌喬少将に告げると、安藤は左手にした腕時計にちらりと目をやる。
「見事なものだな。時間どおりではないか」
双眼鏡を手にした安藤もやはり小声で傍らの副長に返す。安藤の言葉は文字にすれば称賛ともとれるが、声音にはどこか棘があり、その棘には皮肉な響きがこもっていた。
「陸軍さんもなかなかやりますね」
南から霞ヶ浦に接近してくる編隊を双眼鏡で追いながら副長がそう言う。その声音にも、やはりどこか棘がある。
「これくらいやってもらわねば困る」
安藤は、霞ヶ浦航空隊司令に着任した後、少将という階級でありながら若い練習生に交じって航空操縦を学んでいる程、航空に熱心な男だ。近づきつつある編隊の機動を見れば、その技量はおおよそ見当がつく。陸軍航空兵の操る機体の動きは実に滑らかであり、先頭機の誘導も巧みなものだ。文句のつけようはない。
双眼鏡を覗きこんでいる二人のもとに従卒が走り寄り、来客を告げる。
「司令、閣下もおつきになったようです」
「分かった。行こう……なぁ、副長」
「はい」
「これからは窮屈になりそうだな」
安藤は、ため息交じりにそう呟く。そんな上官のぼやきに対し、副長は気の毒そうに頷く他はなかった。
「霞ヶ浦海軍航空隊司令・海軍少将・安藤です。遠路お疲れ様でした」
航空隊司令部のある官舎の玄関先で安藤は客人を迎えた。
「陸軍航空兵総監・陸軍大将・白川です。海軍さんには無理を言って申し訳ないですが、これからは一つ、仲よくお願いしますよ」
短躰といって良い小男の白川だが、軍服の上からでも内にこもる筋肉の厚みが分かる。人事畑を中心とした辣腕の軍政家であると同時に、前線に立てば一歩も引かぬ闘将として知られ、現在では無骨で口下手な上司・秋山好古参謀総長に代わり陸軍談話を新聞紙面に頻繁に発表する機会が多い事から「秋山の手乗り文鳥」などと陰口を叩かれる事もある。そのクリクリとした丸い両眼は年齢と不相応に愛らしく、鼻の下に蓄えられた口髭は童顔の白川には全く不釣り合いな代物にも見える。
(随分、気さくな人だな……)
安藤は白川が差し出した右手を握り返しながら、そう思った。陸軍大将自ら飛行学校の開校式に出席すると聞き、ただでさえ杓子定規な堅物が多い陸軍軍人との先々の付き合いを考えると辟易としていたところであったので、余計に気持ちが沈みがちであったが、実際に白川と会った感触は物腰軟らかく、堅苦しさとは程遠い、こなれた人物の様に見受けられる。安藤は少しだけ安心した。
海軍における航空兵育成の中心地は横須賀海軍航空隊だった。しかし、その横須賀は震災により教育機材がほぼ壊滅。その上、官舎や練習機を収容していた格納庫も大半が焼失してしまうという災厄に見舞われ、現在、教育の中心地はこの霞ヶ浦に移っている。
一方の陸軍航空兵練成の中心地は、所沢飛行場に併設された所沢陸軍飛行学校にあり、こちらも震災によりほぼ壊滅と言って良い程の甚大な被害に見舞われている。
航空兵の教育一本化――――。
陸軍が新設した航空兵総監部の初代総監に補職された白川義則大将が、海軍側にこう申し入れたのはそんな折だった。陸海軍共に乏しい予算の中から、正面装備を優先するあまり、教育機材は後回しにされがちな時期であり、共に首都圏の中核部隊に致命傷に近い損害を出した直後だ。陸軍の申し出は、その乏しい教育機材を持ち寄って、航空兵の教育を陸海共同で行おうというものだった。
もとより、海軍は陸軍の申し出により先年、機材共用化に同意している。何から何まで陸軍主導でというのは面白い話ではないが、航空関連に投じている予算は、艦艇の整備に吸い上げられてしまう海軍に比べ陸軍の方が圧倒的に多い。陸軍との縄張り意識という対立感情さえ克服できれば、海軍にとって陸軍の申し出はむしろありがたいものであった。以来、陸軍省、海軍省双方の間で幾度となく協議が繰り返され、最終的にここ海軍霞ヶ浦航空隊が駐屯する霞ヶ浦飛行場に形式上は併設という形で、陸軍所沢飛行学校が移転してきたのであり、明くる年には陸軍航空士官学校の新設まで決定している。
海軍航空隊、陸軍飛行隊。両者の首都圏中核部隊が大合同する――――。
尉官、下士官の航空練習生教育を本分とする後方部隊ではあるが、同時に新機種選定を任される実験航空隊の性格を併せ持ち、教官クラスには両軍屈指の手練れが揃う猛者の集団……。
英国センピル教育団によって育成された海軍航空隊に対し、陸軍は仏国から教育団を招聘し、その薫陶を受けている。つまりは陸海軍の航空思想は「英国式」「仏国式」という違いが発生しているが、今後は航空兵の教育のみならず、整備や航空管制など、いろいろな面において両者はすり合わせを行い「日本式」を考えていかなくてはならないだろう。
安藤は先の長い戦いに想いを馳せると、再びため息をついた。
大英帝国・ロンドン
ダウニング街10番地 首相官邸
「伊達男」スタンリー・ボールドウィン首相は、一分の隙もなく優雅に、そして見事に背広を着こなす。映画俳優もかくや、というほどの端正な顔立ちの中に垣間見える荒ぶる野性が女性達を魅了してやまない彼は大きな姿見の前で、この日も己の見栄えを丹念にチェックしていた。
「さあて」
ボールドウィンは背後に立つ二人のチェンバレンに声を掛ける。
一人は、ボールドウィン同様に髪をきれいにオールバックに撫でつけ、右目に単眼鏡を嵌めたジョゼフ・オースチン・チェンバレン外相。もう一人はボサボサの行儀の悪い癖毛に無理やり櫛を入れた野暮ったい雰囲気を持つアーサー・ネビル・チェンバレン厚相。
兄ジョゼフの典型的な英国紳士然とした雰囲気と違って、アーサーの方はボールドウィンと対照的に背広が全く似合っていない。疲れた様な風貌は、まるでウェールズの片隅に住む田舎紳士の様であり、手にする高価な象嵌が施されたステッキよりも、鋤や鍬の方がずっと似合いそうだ。
「はい」
問いかけに返事をしたのはアーサーの方だった。ジョゼフは無言のまま、視線を鏡越しにボールドウィンに向けただけに過ぎない。
「ジュネーブの様子は如何でした?」
――――この年、仏国の提案により連盟加盟各国は一つの議定書に次々と署名を行っている。『ジュネーブ議定書』と呼ばれる生物・化学兵器の使用禁止に関する条約だ。先の大戦にて互いに毒ガス兵器を使用し、甚大な被害を受けた欧州各国にしてみれば、どうしても結んでおきたい条約であり、この条約の基礎交渉に関して保守党の先輩政治家であるボールドウィンとジョゼフは経験を積ませる為にアーサーを特命全権として送り込み、この協定に関する協議の“仕切り”を任せたのだ。
「はい。つつがなく」
「そうか。大役、ご苦労でしたね。では、もう一つの件に関しては如何でした?」
「ロカルノにおける交渉の件でしたら、七条約全てが交渉を終えました。12月頃までには正式発効すると思われます」
先頃より、スイス南部マッジョーレ湖畔の保養地ロカルノにおいて英、仏、独、伊、ベルギーの五か国が参集、欧州における新たな集団安全保障体制を構築すべく交渉にあたっていた。その下交渉が全て完了し、各国代表は自国内における政治的な根回しを開始しており、それが終われば、正式署名・批准という事になる。発効すれば『ロカルノ条約』と呼ばれる物になるだろう。
アーサーは、この条約交渉に関しても特命全権として出席し、ジュネーブ議定書交渉と並行して会議を主導している。ボールドウィンは問う。
「ドイツは我々に恩を感じているでしょうか?」
“更生した”独国の国際社会への復帰を保障する同条約、英国は独国の国際連盟への加盟承認だけでなく、連盟常任理事国への就任を内々に提案している。欧州本土における発言力を確保する為にも、依然として大国であるドイツに恩を売っておくのは悪い事ではない。
「ドイツ全権より、英国の御好意に深遠なる感謝を表する、との言葉を頂いています」
「うむ……恋多きフランス人どもが、ドイツに色目を使い始めているからね。少しバランスを取っておきたい。この条約は良い条約になるでしょう」
ボールドウィンは満足気に頷くと、今度はジョゼフに問いかける。
「米国大使は我が国の申し出に対し何と?」
「検討する、とのみ」
「ふん。全く底知れぬほど欲の深い連中ですな」
昨日、英国政府は米国政府に対し、中華連邦の国家承認を打診している。現在、山海関を境に南は中華民国が、北は中華連邦が実効支配を行っており、両者は互いに自らこそ中国大陸唯一の正統政府であると主張し、相手の政権を「反逆者」「帝国主義の傀儡」と悪しざまに罵り合い、譲る気配はない。
一方、民国の後見人である英国、連邦の後ろ盾である米国。
両国の関係は切っても切れぬほど深く、経済的にも、政治的にも依存しあっている。故にお互いに相手に対して直接的に害を加えようという意識はなく、当然、相手もそう思っているだろうという確信があった。だからこそ、両国政府によるこの「火遊び」は、思いもよらぬほど長引いてしまっているのだ。例えるならば英米は、分裂した中国がリングの上でボクシングしているのを眺めるセコンド役だ。ボクサー同士が殴り合うからこそ興行が成立するのであって、セコンド同士の殴り合いに金を払う観客はいない。
――――中華連邦など中華民国の十分の一程度の人口しかない小さな市場、しかも支配地は北の辺境に過ぎない。米国が欲しいのならばくれてやってもいい――――それが英国の本音だった。
無論、条件はつける。
英国がポンド・スターリング圏に中国本土を組み込んだ以上、そこに過度な野心は持たない事。多少、商売がしたければ租界ぐらいは認めてやってもいいが、間違っても鉄道を敷こうとか、港湾を租借しようとか、機会均等などという怠惰な愚か者の戯言は言うな――――。
ボールドウィンにしてみれば、随分と寛大な条件のつもりだ。いや、むしろ中国東北地域に最大脅威・ソ連との緩衝地が存在し、しかもその緩衝地域の防衛を米国が一手に引き受けるというのだ。感謝状の一枚、勲章の一個ぐらいであれば謹んで贈呈したい気分だ。
「ど素人と思ったが……やすやすとは乗らんな」
執務机の上に片方の尻を預けたボールドウィンは内ポケットから爪やすりを取り出すと、神経質な様子で指先を研ぎ始める。女性参政権を認め、彼は今や英国婦人達のアイドル、身だしなみには気を付けなくてはならない。
「英国を教師としているのでしょう」
保守党の先輩議員である自分に対する態度としてボールドウィンの爪研ぎを腹立たしく思ったのか、ジョゼフは窓の外に視線を移すと単眼鏡のかけ具合を調節する。
「彼らは、山海関に兵力を集中し、中華民国と対峙する事だけで安心しているようですね」
ボールドウィンは一本一本、爪を研ぐ。柔らかなシーム皮で整えられた爪先は丸みを帯び、滑らかな光沢を放ち始めている。
「はい」
ジョゼフの返答は素っ気ない。
「だったら……彼らに動いてもらいましょうか」
「彼ら?」
ボールドウィンの言葉に反応したのはジョゼフではなくアーサーの方だった。先ほど、スイスでの交渉結果について褒められたことで気をよくしたのか、実に興味津々といった感じの声音だ。兄としてジョゼフは弟のこの軽さが厭わしい。
「薄汚いヒグマのケツを蹴り上げて、いつまで寝ているんだとどやしつけてやろうじゃないか」
豹変――と言って良い。それまでの上品で優雅な上流階級然として立ち居振る舞いから突然、ボールドウィンはその生まれ育った環境そのままの粗野な言葉づかいになる。彼が発した言葉は、あまりに野卑で荒々しく、彼の本性を端的に示しており、“サー”の称号を持つジョゼフは微かに眉を顰める。内心では「所詮は庶民出の一代政治家……」と冷薄にこの政敵を評しているのだ。
「危険ではありませんか? 彼の国は最高のジョーカーですが、ジョーカーがなくともカードは楽しめると思われます」
対するジョゼフの口調は麗しい程に洗練され、機知に富んでおり、責任回避の術策に満ちている。彼はやんわりとしたこの一言で後々「何か」あった時に「自分は反対した」と言い逃れるだろう。
慎重さだけが取り柄の時代遅れの臆病な老人――――それが外務大臣に対するボールドウィンの評価だ。かつては政敵だった老人に対し敬意は払ってはいるが、それも今となっては必要経費以上のものではない。
「いい手札が揃わないからといってゲームを降りるようではいつまでたっても勝てないだろう? それともリスクを伴わない外交があるとでも外務大臣は言われるか?」
冷ややかに、あくまでも冷ややかにボールドウィンは告げる。保守本流の継承者であると自負し、この国で最も真っ当な政治家である事を誇りと思う兄弟に対し、成り上がり者の二枚目気取りは、猛禽類のそれの如く研がれた爪を見せつけながら言葉を継ぐ。
「私は英国に生まれた事を心から感謝している……もし、我が国が欧州本土と陸続きだったら、これほどまで外交を楽しめないだろうからね」
兄ジョゼフと上司ボールドウィンの冷たい戦争に驚きながら、人の好いアーサーは胸の奥から沸き起こる高揚感を抑えきれずにいた。