保管用 9
大正十四年十月(1925年10月)
長崎県長崎市 三菱造船長崎造船所
第二船渠
かつて戦艦『霧島』が建造された船渠に往時を思い起こさせるような巨大な竜骨が据えられている。その全長は230メートルを軽く超えており、いずれこの造船所が産み落とすであろう船の巨大さを静かに主張している。
竜骨を背骨として生まれ落ちようとしている船の名は、オランダ王立海軍の新時代を開く巡洋戦艦『マウリッツ・ファン・ナッサウ』型のネームシップ『マウリッツ・ファン・ナッサウ』だ。同じく三菱長崎の第三船渠には同二番艦『フレデリック・ヘンドリック・ファン・オラニエ』が一番艦に敬意を表して1日遅れで起工しており、両艦の工事進捗に合わせるように、かつて戦艦『榛名』が建造された川崎神戸船渠では同三番艦『フィリップス・ド・モンモラシー』が起工している。又、これとは別に浦賀船渠では同四番艦『ラモラール・ファン・エフモント』の年内起工を目指して船渠の拡張工事が急ピッチで進められている。
オランダ独立戦争『八十年戦争』期の指導者の名を冠したこれらの巡洋戦艦は、いずれもオランダ王国より発注されたデザイン901計画艦の一番艦から四番艦にあたっており、同型合計9隻が発注されることになっている。第一期工事として発注された四艦の進水が終われば、第二期工事分三艦が、更にその進水後には第三期工事分二艦が起工されることになる。
対抗馬と目されていた米国造船業界による不可解な入札辞退により、この巨大建造計画を担う事になった三菱・川崎・浦賀・藤永田の四社連合は日本海軍艦政本部の全面的協力の下、一番艦の起工から九番艦の竣工まで六年の歳月をかけ、建造することになる。無論、ワシントン軍縮条約に従いいずれ代艦が建造されることになる金剛型の実艦テストも兼ねての事であり、日本海軍艦政本部もこの巡洋戦艦建造について、一切の手抜きを行わず、もてる最新技術の全てを投じるつもりであった。
発注時点で艦の仕様、そしてそれを実現する為の設計図書は既に完成しており、リベット一本に至るまで見積もられた一隻当たりの建造費用は2550万ドル、つまりは日本円にして2550万円に達する。9隻合計2億2950万ドル、付属する弾薬、予備砲身、艦載艇等の備品や消耗品まで含めれば、その総建造費用は優に3億円を超える金額となり、造船不況の時代にあってこれほどの巨額建造計画受注は日本の造船業界にとってまさしく慈雨となって降り注いだ。
先の大戦において巧妙に立ち回り、この時代において「最も富裕な国家」の一つと目されているオランダ王国は、この巨額の建造費用の捻出に際し、本国政府及び蘭印総督府が折半すると決しており、本国及び蘭印においては、これに伴う予算編成や税制改革が既に行われているという。
艦船の船体設計を所掌する艦政本部第四部長・鈴木圭二造船少将は、全体としては手堅い設計を好み、それでいて新技術の導入にも積極的な姿勢を示す人物として知られている。しかし、鈴木少将の最大の特性は技術者としての面にあるのではなく、上司の命をよく聞き、部下をよく指導し、その長所を伸ばす調整能力にあった。そもそも技術屋、設計屋の集団というのは民間における伝統職人がそうであるように、ともすれば「俺が、俺が……」という自負自信の塊となって人間関係において詰まらぬ衝突を繰り返す。かつて鈴木の下で第四部基本設計主任を務めていた平賀譲造船少将など、その典型的な人物と云えよう。だが、その平賀少将も艦隊側との度重なる衝突の結果、一年間の欧米視察を命ぜられ、先頃帰国した後は設計とは関係のない海軍技研に配属され、艦政本部の花形である第四部にもはや席はない。
ワシントン条約以降、建艦計画の縮小から海軍は造船官の「下放政策」を採用していた。海軍自体の人件費圧縮と、艦艇設計という特殊技術を持つ造船官を民間に放出する事による民間造船の技術向上の両立を目指したこの施策により、四十代、五十代の優秀な造船官の多くが軍籍を離れ、民間造船会社へと転籍を行っている。実際、この下放政策による民間造船会社の技術革新は「造船ビッグバン」のような効果をもたらし、海軍が長年に渡って蓄積していた技術を営利優先の民間企業が吸収した結果、両者が融合し、既存の船舶設計や工程管理面において大きな進歩を遂げたという。
その様な、言わば「大量クビ切り時代」の中、多くの先輩、同輩、後輩が海軍を去っていく後ろ姿を見つめながら鈴木は既に第四部長として二年の月日を過ごし、三年目を迎えようとしている。その事実一点だけで、この鈴木圭二という造船少将が潜在的に保有する「政治的な力」が分かろうというものだ。そして今、鈴木の下には、どちらかというと鈴木好みの人間的に控え目で、熟成された部下が集まり始めていた。
そんな艦政本部第四部の造船官の一人に藤本喜久雄造船中佐がいる。
計画開始時、藤本は艦政本部員の職務と兼任ながら東大工学部に講師として出向していたのだが、この未曽有の建艦計画の開始に伴い、その講師の任を解かれ、四部員の一人として若干三七歳にして『マウリッツ・ファン・ナッサウ』型の海軍主任設計指導官に任じられ、以来およそ半年間にわたって不眠不休の努力を重ね、この大艦の設計を終了させている。
当初、オランダ側が『マウリッツ・ファン・ナッサウ』型の契約入札に際し、示した要求は14インチ砲八門以上、6インチ副砲八門以上、速力28ノットというものであった。しかし、この要求を24000トンに収めるのは事実上、不可能な事だった。排水量の増加はそのまま民間造船会社としての利益減少を意味している以上、安易に増加するのは好ましい事ではない。何しろ1隻当たりの契約金額は既に決定されている以上、日本側としては自助努力によって排水量の増加を抑え、利益を追求する他はないのだ。
鈴木少将直々の命により海軍側を代表して主任設計指導官に任じられた藤本は、入札に際してオランダ側に提示された設計図書を徹底的に読み込んだ。同時に造船会社側の技術者、設計者だけでなく資材担当者から経理担当者に至るまで多彩な人物と協議を重ね、おおむね3万トンに収めれば採算が可能であることを知った。
日本海軍として技術の出し惜しみはしない――――その言質を鈴木から得ていた藤本はこの難題に挑むにあたり当時、最新の造船技術とされ、いまだ実用段階に無いとまで言われる半自動アーク溶接を多用する事を決定、更に機関に関しても軽量化および艦内容量確保の面からディーゼル機関の採用を決め、民間船舶用で最も実績のある大型ディーゼルメーカー・独国MAN社製2サイクルディーゼル機関を四社連合の一社・川崎兵庫にライセンシーさせている。『マウリッツ・ファン・ナッサウ』型では、このMAN社2サイクルディーゼルを合計16基搭載し、各4基を持ってスクリュー1軸と接続し、計4軸とした。元々、蘭印を保有するオランダ向けの艦であり以上、燃料の質や燃費の面は考慮せずとも良い筈なのだが、船体軽量化と航続能力延伸(10ノットで22000海里)の面からこの段階においては、軍用としては実績の少ない真新しい技術の一つであるディーゼルの採用となったのだ。もっともこの時、藤本はA重油よりも粗悪低質な重油を使用できるように独国ヴェストファーレン社より遠心分離式油洗浄機の最新機材導入も合せて行っており、その点において近い将来、自らが携わることが確実視される金剛代艦計画への試金石と考えていたのは間違いないだろう。
アーク溶接、ディーゼル機関の採用に続き重量軽減、製造コストの節約という観点から藤本が放った最大の奇策は、八門以上と要求されている14インチ砲についてだった。これに関しては『金剛型』と同様の連装四基八門が予定されていたが、砲塔数削減によりバイタルパートの全長を可能な限り圧縮し、重量を軽減するという方針を採用した結果、当初計画では三連装二基、連装一基計八門案が採用される見通しとなっていた。しかし、連装、三連装砲塔混載では二種類の砲塔製造を行わなくてはならず、これには製造コスト上のロスが大きくなるとして造船会社側が難色を示した事から、敢えて多少の排水量増大には目を瞑り、三連装三基九門にすることとした。また、次善の策としてこの主砲塔重量の増加に対応する為、砲塔形式を予定されていた6インチ副砲は砲架形式に改められ、艦橋後方両舷及び後部指揮所の両舷に連装砲塔各1基を配置、片舷二基の計四基八門の搭載が計画されている。
結果として基準排水量の増大は計画上4000トン程度に抑えられ、14インチ砲九門、6インチ砲八門、計画速力28ノット以上、計画出力9万5千馬力、基準排水量28000トンの巡洋戦艦として建造されることになったのだ。
帝国学士院と云えば日本最高の学識経験者を選任した機関として知られている。その帝国が誇る当代随一の頭脳集団から贈呈される『帝国学士院賞』と云えば、研究者にとっては末代までの誇りであり、その研究者が所属する公的機関にとっては正に名誉以外の何物でもない。その帝国学士院賞をこの年の5月、若干四三歳にして受賞した人物が三菱造船にいる。
『三菱造船の至宝』とまで謳われる元良信太郎博士は、民間造船技術者としてこの時点において既に高い評価を得ていた。彼は優れた造船技術者であると同時に、学士院賞を受けている事からも分かる通り、優秀な研究者でもあった。
その受賞対象となった研究は
「元良式船舶動揺制止装置」
と呼ばれる物であり、これは船舶の揺れ、とりわけ転覆という大事故につながりかねない横揺れを抑制する為の装置であり、それまで一般に普及していたビルジキールとは根本的な発想を異にしたものだと言える。
その構造は、船舶の艦底部にジャイロを設置、艦底部両舷から突き出した「ひれ」と、このジャイロを連動することによって成っており、艦首方向からの水流をこの「ひれ」によって上下方向に管制、その水流の圧力によって横揺れを抑制するというものだった。
例えば、艦が右に傾けば、ジャイロが傾き、右舷側の「ひれ」後部が下がり、左舷側の「ひれ」の後部は上がる。結果として右舷側の水流は下へと抑え付けられる様に流れ、反対に左舷側の水流は上へと流れ、「ひれ」はその下を抉る事によって艦の傾きが補正される、というものだ。元良のこの装置は、機械構造的に難しいところはなく、むしろ単純な構造に過ぎないのだが、であるからこそ、その独創的な発想が賞されている。
しかし、この「元良式船舶動揺制止装置」の実際の効果に関して言えば、重大な欠点があった。それは「艦首方向からの水流を利用する」という部分にあり、これは「水流の強さによって効果が制限される」事を意味している。簡単に言ってしまえば、相応の水流を作り出せない、つまりは低速な船舶にこの装置をつけたところで全く効果が期待できない――――というところにあった。
東京帝大造船科の先輩後輩――――。
元良と藤本の関係を簡単に表すとしたら、こう言わねばならないだろう。二人が卒業した帝大の造船科というのは、年に十名と入学者がいない程度の小世帯であり、四三歳の元良と三七歳の藤本は同じ時期に学んではいないが、互いに以前より顔を見知った同窓生、という関係にあった。
天賦の才を持った二人の造船技術者は、民間と海軍という違いはあっても、共に「帝大卒」という学閥的な共感もあって、極めて良好な関係にある。片や三菱の代表として、片や海軍の代表者として、理想的なライバル意識を持ちながら切磋琢磨し、知恵を出し合って設計した『マウリッツ・ファン・ナッサウ』型に関して言えば、既に設計者である両者の手を離れ、現場を指揮する船殻主任や機工主任達の腕にかかっている。これから先、元良は三菱の造船技術者として同艦の完成まで面倒を見ることにはなるであろうが、藤本は艦政本部へと戻り「大正十二年度艦艇補充計画」内の「第三十五号駆逐艦」の最終設計を担当する事が決定している。
第三十五号駆逐艦――――。
震災の影響による海軍予算の削減、更には予算執行の延期の影響を受け、大正十二年から延期され続けていた同艦も、ようやくにして次年度半ばには起工される予定となっている。この時点において第一期工事分として5隻、第二期工事分4隻の予算割り当ても決定されており、同計画艦に対する海軍の期待は熱い。
大正十三年に決定された駆逐艦艦型標準により、当時の列強基準を大幅に凌駕する桁違いの砲填兵装と雷装、速力、航続能力を持つ駆逐艦として要求された同艦は、竣工すれば間違いなく世界の海軍関係者が目を剥くようなものになる事は疑いない。
しかし、設計主任を命ぜられた藤本の苦悩は深かった。
要求された性能を小さな排水量に押し込めた結果、極限まで重量を抑え込んだ船殻構造が強度的に脆弱なのは明らかであったし、重兵装故の重心の上昇は「何か」を危惧させるに十分なものだった。
だが、ここにきて『マウリッツ・ファン・ナッサウ』における経験が、藤本を救う。同艦で多用される事になるアーク溶接は『第三十五号駆逐艦』にも多用され、リベット接合による重量増加を抑え込み、その余剰分を船殻構造の強度向上へと回す事が可能となったのだ。その上、先行する『マウリッツ・ファン・ナッサウ』において十分な経験を積んだ工員を建造に投入できる以上、その向上した技量は十分に期待できるだろう。
更に藤本は三菱出向中に仔細に渡って構造や効果を目にしていた「元良式船舶動揺制止装置」の採用を決定する。これは高速艦艇である駆逐艦に装備する事によって得られる制止装置の効果に確信しているのと同時に、重量50トンを超えるジャイロを艦底部に据える事による重心の低下を何よりも期待しての事だ。1680トン程度の艦に50トンという重量物が艦底部に据えられれば、その効果はてき面であり、後に同装置は日本海軍駆逐艦のスタンダードな装備となっていった。
1925年10月
ソ連・モスクワ
クレムリン宮殿 軍事委員会委員長執務室
執務室の窓際に据えられた大きな木製の執務机に座っていたレフ・トロツキーは入室してきた人物を目にした時、
(アジア人にしては目鼻立ちがくっきりしているな……)
という感想を持った。これまで彼とは何度か顔を合わせているが、精悍さと知性を併せ持ち、それを情熱で包み込んだ人物と見込んでおり、自らにとって将来有望な手駒と成り得る、と考えている。
労働組合運動に深く関わったことを理由に故郷を国外追放により追われ、1922年11月の第四回コミンテルン大会に出席して以来、モスクワ市内の居を構えているという浅黒い肌を持つそのアジア人は、まだ二十代か三十代前半の様だが、アジア人の年齢は見た目では判断しづらい。
「同志トロツキー、本日はお忙しい中、貴重な時間を割いて頂き――」
「堅苦しい美辞麗句など使ってブルジョワでも気取っているつもりかね? 無駄口を叩くなど無用。非効率な事はやめたまえ」
トロツキーの先制パンチだ。彼は相手に対し、まず初めに強烈な一撃を与え、怯ませ、そして自分のペースで会話を進めるのを常套手段としている。しかし、この時の相手は少々、トロツキーの想定外の人物であったらしく、怯む様子はなく、むしろ不機嫌そうな顔になる。先頃、コミンテルン議長に就任して以来、世界中のコミュニストを指導する立場にあるトロツキーに対する態度としては妥当ではない。
「では、率直に申し上げる」
たどたどしいロシア語でアジア人は言う。その眼光は鋭く、なみなみならぬ強い意志を湛えているのを感じさせるに十分だ。
「我が党が計画している武装蜂起計画についてです」
(また、その話か……)
トロツキーは内心、ため息をつく。アジア人は故郷の共産党の議長である。しかし、彼は同時に国外追放の身でもあり、既に二年余りにわたって故国の地を踏んでいない。何度か近隣の国にまで足を運び、故郷に残る党幹部たちと会議の席を設け、党を指導してはいたが、やはり国外追放の身では限界があり、党は次第に彼のコントロールと距離をおく様になっていった。彼の管制下を離れた党は、より急進的に、より先鋭的な体質へと変化を遂げている。故郷で虐げられる同胞の姿を見ていない彼と、日々、圧政と弾圧に苦しむ人民を政府への怒りと共に見つめる党幹部の間には明らかな「温度差」があったのだろう。結果として党幹部たちは、この年の七月から全面的な武装蜂起計画を練り始めているのだが、彼はいまだ「その時でない」と主張し、党幹部に蜂起を思いとどまる様に説得し続けており、世界中のコミュニストにとって最高指導者ともいえるトロツキーに対しても、党に対し蜂起を思い止まる様に助言を求めてきている。
「君が反対するのは分かる……」
トロツキーは、似合わないお仕着せの背広を着たアジア人に来客用のソファに座る様に手で示し、自らも執務机から立ち上がり、ソファへと向かう。
「私も君の党の蜂起に関しては少々、早いと考えている」
冷たく硬質な革製のソファは座り心地が悪い。しかし、寝心地は良い。軍事委員長に加えコミンテルン議長を兼任し、多忙を極めるトロツキーは衣食住、全てをこの執務室で済ませている。
「いえ、お待ち下さい」
トロツキーの言葉を、アジア人が遮る。
「私は、この蜂起計画を進めてみたいと思っています」
「ほう……」
相手の意外な言葉にトロツキーは、長い足を組み、無言になる。これまで反対してきた彼が何故、一八〇度、方針を転換したのか? 実に興味深い。
「故郷の同胞は以前より、政治的に無視され、経済的には簒奪を受け、全ての自由と権利を奪われてまいりました。しかし、ここにきて政府は更に同胞に重税を課そうとしています。彼らの権力を守る軍艦を建造する為の費用を、彼らに虐げられる我らが同胞に負担せよというのです」
アジア人――――インドネシア共産党最高会議議長を務めるタン・マラカは静かに言葉を続ける。
「現在、党員は三千名を数え、影響下にある労働組合の組合員は数万人に達します。しかし、植民地人口全体から見れば僅か一握りにすぎません。もし、党の蜂起が中途半端なものとなれば、植民地政府により党は非合法化され、再起を図るには四半世紀が必要となってしまうでしょう。私はそれを恐れていました」
「話は分かった」
トロツキーはタン・マラカが何を言いたいのか察知した。オランダが日本に軍艦を発注し、その費用を植民地政府が負担するという話は聞いていたし、その莫大な費用を調達する為、植民地政府がインドネシア人に対し、新たな税を課すという話も世間話程度には聞いている。
「植民地政府による税制改革に対する人民の反発、それを最大限、利用しようというのだね?」
「はい」
タン・マラカは瞬きもせぬまま、トロツキーを睨むように視線を送っている。これに対しトロツキーは一見すると優しげな温かい視線で応える。
「素晴らしい。いい考えだと思う。かのナポレオン曰く“大事なのは時と場所。場所は取り返せるが、時は取り返せない。よってより大事なのは時である”とも言っている。機を逃すことなく挑戦してみたまえ」
反対を覚悟していたのに、トロツキーの賛意に満ちた言葉を意外なものと受け止めたのか、タン・マラカは一瞬、目を見開く。
「必要な武器弾薬、それと人民の煽動に長けた党員を提供しよう。彼らはきっと君の手足となってインドネシアを革命に導くだろう」
幸い、中国共産党向けに用意しておいた武器弾薬、そして洗練された革命思想に燃える工作員がトロツキーの手元にはあった。彼らの武装蜂起用に用意したものだが、国民党右派が離脱した結果、国民党内部の実権を掌握するのに武力を使わずとも済みそうな気配が濃厚だ。これをいつでもインドネシア向けに転用できる。
「但し、君たちに用意してもらいたいものが二つある」
今度はトロツキーがタン・マラカに鋭い視線を投げかける。思わぬトロツキーの賛同と援助に興奮を隠しきれない様子の彼は前に乗り出す。
「一つは人民の怒り……これは、どうやら植民地政府自身が用意してくれたようだね」
トロツキーの諧謔にタン・マラカも追従の笑いを浮かべる。
「もう一つは、殉教者だ」
「殉教者?」
無神論者には聴き慣れぬ言葉にタン・マラカは眉を顰める。
「そう。革命に殉じて死ぬ者。彼らの無念の死が人民の怒りを呼び、人民の怒りは新たな殉教者を生み、そして新たな殉教者の登場が更なる人民の怒りを生むだろう。革命とは人民の怒りと殉教者の死が相互に作用する事によって成功へとつながる。それが私の持論だ」
「怒りと殉教者……」
死を前提にした戦略にタン・マラカは明らかに怯んだ様子だった。しかし、このまま植民地政府による重税政策が長引けば、人民の死者は遥かに多くなるだろう。それに、支援を切り出しておいて、ここで断ればアジアで最も歴史ある共産主義政党であるインドネシア共産党の威信が揺らぐ。
「ご期待に添うよう努力いたします」
タン・マラカは意を決し、頭を下げる。コミンテルンの助力により、来月にはモンゴルにおいて世界で二番目、アジア初の共産主義国家が誕生する。これ以上、自分たちが遅れをとることは許されない。
「蜂起の時期はいつ頃を考えているのだね? 仔細はまた説明を受けるとしても時期ぐらいの目算はたててあるのだろう?」
相手の内心の葛藤を愉しみながら、トロツキーは気楽な様子で尋ねる。植民地における革命政府の誕生は、トロツキー自身の名望を大いに上げることになるだろうし、彼の持論である「世界革命」にとって偉大な一歩となるはずだ。
「お許しが頂ければ早々に帰国したいと考えております。おおよそ一年を準備に充てたいと考えておりますので……遅くとも来年の十二月には、と考えております」
「十二月か……よろしい、楽しみにしておこう。私も準備を急がせる事としよう」
「感謝いたします……1926年のクリスマス、オランダ人は自分達の馬小屋にキリストが生まれていないと気が付く事になるでしょう」
押し戴く様に差し出された両手を軽く握り返したトロツキーは、愉快な予感に静かに微笑んだ。