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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
91/111

保管用 8

1925年10月(大正十四年十月)

ポーランド・ワルシャワ市街北部

ツィタデル


 ポーランド共和国大統領兼首相を務めるヨゼフ・ピウスツキ国家元帥はワルシャワ市郊外にある『ツィタデル』と呼ばれる要塞跡を散策していた。ツィタデルはこの地が帝政ロシアによって支配されていた時代にあってはロシア兵の駐屯基地としてワルシャワ市に睨みを利かせていた軍事要塞であり、同時にポーランド独立運動の活動家を収容する監獄でもあった。他ならぬピウスツキ自身、その青年時代にはこの要塞に幾度となく拘留された経験を持つ。

 赤煉瓦製の高い塀に囲まれたツィタデルの内部には、今も往時と変わらぬ収容施設が冷たく立ち並ぶ。建物の大きさに比して極端に少ない窓の数と面積、分厚い煉瓦造りの壁、遺棄された古風な大砲がかつて軍隊の駐屯地であったことを示す墓標のように整然と並び、裏門から土手にかけての道沿いには政治犯として投獄され、拷問により、或いは簡易裁判により処刑された者たちの十字架が延々と並木道の様に列をなす。

 数名の護衛の軍人たちに囲まれ、ピウスツキはこの地をゆっくりと歩む。

 頭によぎるのは粗末な鉄パイプ製のベッドと薄手の毛布一枚を与えられて過ごした冬の夜の事。室内に置かれた水差しの水が底まで凍るような極寒の夜、同室の者同士、抱き合って朝を待つ。

 朝になれば再び拷問が待っている。それでも骨まで凍るような闇よりも、太陽の日差しを僅かに感じられる朝の方が遥かにマシだと思えた日々……。

 英雄の孤独を知るヨゼフ・ピウスツキは何かを決断しようと思う時、この地を訪れる。



 「東郷に贈り物をしよう」

 彼がそう思い立ったのは数か月前の事だった。軍事クーデターにより政権を掌握した後、ピウスツキの新政権が速やかに国際社会の承認を得られ、復帰できたのは日本の、そして東郷の外交上の支援によるところが大きい。どんなに実効支配を国内で行おうと国際社会から継承を認められなければ既成の諸条約は効力を失い、どんな介入を招くか想像もつかないのだ。

 以来、ポーランドは連盟総会の場において常に日本と行動を共にしてきた。ポーランドがジュネーブに派遣している連盟大使には「議決前には必ず日本大使と面談し、その真意を問う事」が命じられており、全ての議決においてポーランドは日本と同じ側に立っている。

 時代は民族主義の吹き荒れる1920年代。

 「汎ツラン運動」という一風変わった民族運動が盛んなハンガリー、ブルガリア、フィンランド、エストニアであれば、彼らが言うところの(そして言われている側の日本が困惑を隠すために引き攣った愛想笑いを浮かべている)汎ツランの盟主である日本礼賛に動くのは、この時代にあってはまったく珍しくもない事であったが、東欧の新興大国として日増しに存在感を増しつつあるポーランドまでもが、その様な動きを見せる事に関して言えば西欧諸国の多くは小首を傾げただろう。

 そしてまたしても西欧諸国が首を傾げざるを得ないような、ある種の事件がこの日、大統領官邸であるラドズィウィフ宮殿の会議室にて行われようとしていた。



 「先日、長崎の三菱造船所を見学させて頂いた我が共和国海軍視察団より報告は受けております」

 会議は実務的な会話から始まった。ポーランド側を代表して出席しているのは外務大臣を務めるヴワディスワフ・シコルスキ陸軍大将。見上げるような長身の背筋を伸ばし、薄くなった銀髪は丁寧に櫛を入れられ、眼鏡越しでも分かるほどに輝く炯炯たる鋭い瞳は見られた者を怯えさせるだけの力が宿っている。彼は、大統領ヨゼフ・ピウスツキ最大の政敵であり、同時にピウスツキをして「あの頑固者」と嘆かせるほどの生粋の軍人でありながら、政治経済方面にも通用した一流の政治手腕を持つ優秀な人材でもあった。

 彼は五月革命で政権を獲得したピウスツキに対し、軍関係者の中で真っ向から異議を唱えた唯一の人物であり、また現在、独裁体制下あるポーランドにおいて唯一人、その権威を恐れずに直言できる人物でもある。加えていうならば「ヴィスワ河の奇跡」のもう一人の立役者として国民的人気が高い彼は、ピウスツキ自身が己の独裁体制を自浄する為に必要とする物差しでもあった。故にピウスツキは自身の政権を維持する為にシコルスキという存在を野に放っておくのは危険なものであると考え、疎んじてはいたが積極的に排除しようとは思っていない。

 「当方にも海軍省より貴国視察団との協議内容については報告が入っております。我が国としては進水式が終わった艦艇の売却というのは前例がない事ですが、東京よりは極力、貴国の希望に沿う様にとの指示を受けておりますので、何なりと」

 日本側を代表して会議に出席しているのは、ワルシャワ駐箚公使である芳澤謙吉。間もなく五〇歳に手が届こうという初老の芳澤は“あの”犬養毅の女婿であり、外務官僚として長年の経験を持つ。ポーランド駐箚公使として赴任する前には中華民国駐箚公使を務めており、同じく北京に駐箚していたソ連大使レフ・カラハンと国交回復交渉の任に当たっていた人物でもあった。この交渉こそ主として日本政府側が積極的に軌道に乗せようという意志が薄弱であった為、不調に終わってはいたが、ソ連側との間にパイプを開いた点には十分に評価されてしかるべきだった。

 この日、両国の間では一つの条約に関する最終確認がされようとしていた。

いや、これは条約というよりも契約というべきだろう。かねてよりポーランドは日本が現在建造中の巡洋艦「古鷹」「加古」両艦の売却をはじめ駆逐艦十二隻、潜水艦十六隻の建造とグディニャ港の整備開発計画一式を発注することを希望しており、日本はライバル・フランスとの落札競争に勝利を収めたのだった。

 

 独立当初、ほぼ内陸国と言って良いポーランドという国は海には面しているものの、バルト海に面した大部分の土地は“ダンチヒ自由都市”によって占められており、輸出入に必要な自前の有力な港湾を保有していなかった。ダンチヒの北西、グダニスク湾に面した漁村から発展した小さな港町グディニャだけが同国における唯一の港と言って良く、この港を自国の海の玄関として整備開発すべく防波堤や波止場、桟橋の工事、港湾施設の整備を行っていたのだが、五月革命という政変を理由として請け負っていたフランス企業が、政情不安や新政権による支払いの遅延を恐れ、工事を中断して以降、開発が頓挫していたのだった。しかし、ポーランド自身に港湾開発の経験は無く、独力での工事続行・開発継続を断念した政府は、この工事の再着手契約の入札をフランス及び日本政府に依頼、両国企業連合が競争入札に参加していた。最終的に価格面において両者に大差はなく、そうである以上、ピウスツキが推し、尚且つ独自の付加価値をつけてきた日本企業連合に発注される事となったのだ。

 しかし、もとより海軍にしろ、民間にしろ、船舶艦艇の運営ノウハウなど皆無に近い国である。独立に際して旧宗主国から砲艦や沿岸警備艇などを譲渡されてはいたが、それらはいずれも小艦艇であり「海軍」というよりも「沿岸警備隊以下」の域を出ないものであった。

 民間船にしても大部分はダンチヒ自由都市に住まうドイツ系住民たちの持ち物であり、彼らは祖国と故郷ダンチヒを分断したポーランド政府に対しては敵愾心以外の何物も持っていない。ポーランド回廊の自由往来解禁という大譲歩をして以降、本国ドイツ人の評判は上々でも、ダンチヒのドイツ系住民からはさしたる評価を得られてはおらず、返ってポーランド産品に対する輸出関税を上げる有り様だった。

 日本政府・海軍省・逓信省の全面支援を受けた日本企業連合は交渉に際して、工事請負だけでなく港湾都市として必須な税関業務に従事する職員の研修受け入れや、将来に備えての各国領事館区画の整備、更には商船学校、高等商船学校、海兵団、海軍士官学校、海軍大学校などの乗組員教育機関の設置協力や教官の派遣についても計画の一部として行う旨を提案しており、このインフラと付加サービスをセットにしたパッケージ輸出という点が、ノウハウを持たないポーランド側を文字通り、大いに満足させたと見え、日本への発注の決め手の一つともなっている。


 一方の日本にしても満鉄売却以降、初となる海外インフラ計画への入札である。

 「多少の採算は度外視して良い。とにかく国際的な実績を作る」

 という考え方に政府財界共に凝り固まっていたと言って良いだろう。本来であれば欧州に基盤のない日本企業がフランスのお膝元である欧州での受注など、分が悪い以外の何物でもない。資材の調達価格は足元を見られるし、日本から労働者を派遣できる訳でもないので人件費の安さというメリットは使えない。

 しかも一日でも早く海軍の整備を行いたいポーランド側の意向に応える為、建造途中、しかも艤装段階まで進んだ最新鋭巡洋艦を提供するという暴挙にまで出ての受注だった。何しろ、摂政宮が候補より選定して命名し、一度は菊の御紋を戴いた軍艦である。過去、仏国海軍などに駆逐艦を売却した前例はあったが、正真正銘の軍艦を売却した事などただの一度もない。

 もっとも、この古鷹型に対する日本海軍関係者の目線は驚くほど冷淡であったのも事実だった。公式にお披露目すれば世界の海軍関係者が瞠目する様なカタログスペックではあったが、設計者である平賀譲博士は事実上、艦政本部を追放された過去の人物と見られていたし、艦政本部側の仕様要請を無視したかのような強引な設計には憤りすら覚えていた。だからこそ古鷹型就役を前にして改良型である青葉型の建造に踏み切っている。実際問題として『古鷹』『加古』を売却した代金で『青葉型』の三番、四番艦を建造した方が、艦政本部としては「アヤのついた」艦の建造を続けるよりも遥かにマシな選択に思えていたのだ。

 また、当初、ポーランド側が要求したのは巡洋艦二隻、駆逐艦六隻、水雷艇十二隻、小型近海用の潜水艦十六隻というものであったが、この要求に対し日本側は遠浅のバルト海における潜水艦の運用には無理があると考え、代替案として小型潜水艦十六隻の発注は将兵の訓練目的に供するという名目で四隻まで減らされ、代わりにやや大型で高い航洋性を持つ高速敷設駆逐艦八隻に変更すべきと唱え、十数回にわたる協議の結果、最終的に大筋、日本案に決せられている。



 数日前の事である。

 ピウスツキ大統領よりラドズィウィフ宮殿に呼び出されたシコルスキ外相は事前に命じられた通り、日本政府と締結が予定される条約の原案を持参していた。条約の内容自体は日本からの艦艇の売却条項、開発を受注する日本企業連合に対する日本政府としての保証条項、各種学校の設置に関する条項、ポーランド政府の支払いに対する細則などよりなっており、契約対象や規模こそ大きいが内容的には一般的な売買契約と大差はない。既に日本政府にこの原案は送られ、その事前承認を得ている以上、この段階における条約内容の変更は重大な背信行為となる。

 自分が予想だにしない突拍子もない行動力を持つが故にピウスツキを尊敬し、同時に警戒するシコルスキは条約書原案を手渡すに際して、日本政府が事前承認している以上、変更は難しい旨をさりげなく説明し、釘を刺す。

 「ふん」

 執務机の前で軍帽を左脇に抱え、軍人宰相らしく直立不動の姿勢で立つシコルスキをつまらない人間でも見るかのような態度で鼻を鳴らす。

 シコルスキは、ピウスツキのこういう横柄な態度が嫌いだった。嫌いであると同時に、残念にも思う。この人がこういう部分を今少し気を付けていれば、クーデターなどという非常手段を用いずとも政権を取れたであろうし、つまらぬ理由から政敵を作らずにすんだであろう。政治的にはライバルと言って良い関係ではあったが、個人的にはピウスツキを嫌いではないだけに、そこがとにかく残念であり、憐れみすら覚えてしまう。

 ピウスツキは、手渡された条約原案に目を通す。文字の羅列を明らかに斜め読みしており、ページの何枚かは読み飛ばされてさえいる。その様子は明らかにシコルスキにとって予想外だった。


 (決定されている条約内容を確認する為に私を呼んだ訳ではないようだな)


 ピウスツキの意中が日本との条約締結にあったのは最初から明らかだった。日仏による国際入札は見せかけの様なものだったし、フランスが体裁良くダシに使われたのも確実だった。条約の下交渉から締結に至るまでの実務を任されたシコルスキはその辺の事を理解している。本来であれば外相であるシコルスキがこの様な雑務といってレベルの条約を任される事すら異例な事だ。外務省の次官級どころか局長、課長級の人間と駐箚公使館の書記官あたりが折衝すれば済ませられる話に思えた。それでも、シコルスキは軍人であり、上官であるピウスツキ直々の命令である以上、多忙な中、日程を調整してまでこの条約の事務レベル交渉にまで当たっている。

 「条約は全四条……間違いないな」

 老眼鏡である鼻眼鏡を外したピウスツキは条約の最後ページを見て、そう確認する。座ったまま故、目線は上向きであり、自然と睨まれているような気分になる。

 「はい。見ての通りです」

 シコルスキの返答は素っ気ない。自分自身でもこの素っ気なさが災いとなって、他者との間に自然と壁を築く原因となっている事は理解している。何か当たりの柔らかい言葉でも添えようか――とも考えたが、その政治家じみた考えに腹が立ったのでやめた。

 「ふん」

 ピウスツキは再び鼻を鳴らすと、執務机の上のペン皿から書き味に定評がある日本製の万年筆を手に取る。彼が愛用する物は先年、日本滞在時に購入したものだ。万年筆は日本の重要な輸出品の一つであり、世界中に輸出されている。

 万年筆を握りしめながらしばらくの間、ピウスツキは最後のページを睨み付けている。目線が注がれている先は何も書かれていない余白部分であり、その険しい視線には余白部分と何やら真剣勝負をしている様な緊張感が漂っている。

 5分か6分、長くても10分は超えていない時間の後、意を決したように万年筆を余白に走らせる。


 (追加条項か……まったく! また交渉を一からやり直さなくてはならないではいか)


 シコルスキは腰の後ろに回した右手を握りしめ、固い拳を作る。嫌味の一つでも投げかけてやりたい気分を抑え、努めて平静を装う。

 やがて書き終えたピウスツキは満足気に頷くと、そのページに息を吹きかけ、インキを乾かす。

 「第五条を追加したい」

 ピウスツキはそう言いながら条約原案をシコルスキに手渡す。胸ポケットから老眼鏡を出したシコルスキが、大きく角ばった特徴あるピウスツキの文字列を目で追う。

 「但し、この条項は秘密条項としてもらいたい。決してこの条項が国内外に漏れることがあってはならん」

 シコルスキはピウスツキの言葉を聞いていなかった。条約原案に書き足された第五条の内容に言葉が出ない。

 「ずっと迷っていた……だが、今日、腹が決まった。この条項は万が一の時、必ずや我が祖国を救うノアの方舟となるだろう」

 ようやく我に返ったシコルスキがピウスツキに目線を移すと、彼の右手は机に置かれていた黒革表紙の聖書の上に載せられている。正式な意味で宣誓している訳ではないだろうが、少なくともこの信心深い男が今、嘘を言ってない事だけは確かだろう。

 「万が一……ですか」

 シコルスキはそう独り言の様に呟く。

 「私はこの条項を明文化する事に反対です。決して許されざる事であると考えるからです。しかし、この条項が万が一に備えたものであることは理解できます」

 そこまで言ってからシコルスキは気が付く。

 「この追加条項はいつからお考えだったのですか?」

 「……最初からだ。日本に入札を依頼する以前から、私はこれを腹案としてずっと考えていた」

 「なるほど……」

 ピウスツキの返答にシコルスキは少しばかり沈黙した後、改めて問いかける。

 「閣下は、この秘密条項がある故に私に条約を担当させたので?」

 ピウスツキは不機嫌そうに頷く。

 「秘密であるからこそ、他の誰でもなく君に頼んでいるのだ」

 シコルスキは沈黙する。平素、嫌われていると自覚していた人物から示された思わぬ信頼の言葉を微かな驚きとともに咀嚼する。

 「他の誰でもなく、私に?」

 念を押すかのようなシコルスキのその言葉は完全に余計なひと言だった。ピウスツキは長身の政敵を上目づかいに睨み付けながら、鼻を鳴らした。

 「ふん」

 ヴワディスワフ・シコルスキは意気揚々と大統領執務室を後にした。



 条約条文に新たに第五条を設けること。

 その第五条を秘密条項とすること。

 この二つの提案をシコルスキが芳澤公使に伝えた時、ほんの僅かな時間、十分の一秒か百分の一秒の間、芳澤は迷惑そうな顔と驚きの顔を半々に見せた。

 シコルスキは考える。

 

 (老練な公使殿だな。もし、私が貴方だったとしたら、もっと露骨に面に出しているでしょうよ)


 「これは……万が一に備えたものである、と考えて宜しいのでしょうか」

 「タック(はい)」

 「なるほど」

 シコルスキの短い返答に、芳澤も最小限の返答を言うのがやっとのようだ。

 「公使閣下。勘違いはしないでほしい。私は心からこの条項が効力を発揮する事態に陥らない事を祈っています。また、その為に全力を尽くすつもりです」

 日本人らしく愛想のよい笑いは浮かべているが、それが無表情の意味であることは今回の交渉を通して理解している。彼らは表情を隠す時、無表情になるのではなく、ブッダの様に柔和な表情を作るのだ。

 「私もです、外相閣下。この様な条項が有効になる様な事態になる事は、貴国にとっても、我が国にとっても不幸な事であると考えます」

 「結構です、公使閣下。閣下がもし嬉々として締結に前向きな姿勢を示されるのであれば、私は私の一存でこの席を立ち、条約を蹴るつもりでいましたが……では早速、本国政府にてご検討をお願いできますか?」

 「……はい」

 シコルスキの飾り気のない直截的な物言いに面食らったのか、芳澤の返答は一瞬だけ間があき、それから聞きづらい事を聞くような口調で言葉を搾り出す。

 「外相閣下。何故、この条項を秘密になさるのでしょうか? 本国に問い合わせは行いますが個人的な見解として我が国側にこの条項を秘密にする理由があまりないように感じられますが……」


 (何故、秘密にするかだって? そんな事も分からないのか)


 シコルスキは芳澤の外交官としての能力を買い被っていたかもしれない、と内心思う。同時に


 (日本人はやはり外交下手なのかもしれないな)


 とも感じた。列強の一角を占めるとはいえ世界の舞台に立って六〇年足らずでは仕方のない事か……。

 「貴国側ではそうかもしれませんが、我が国の国内事情もお察し頂けますでしょうか? 独立を勝ち取って間もない我が国にとってこの条項が意味するもの……悲願を果たしたばかりの国民に賛意が得られる内容に思えますか?」

 噛んで含めるように、三つ子を諭すように、シコルスキは芳澤に話す。しかし、芳澤は小首を少し傾げる。あまり理解をしていない様子だったが、傍らの随員たちと日本語で何やら二言三言、会話すると例の微笑を浮かべる。

 「外相閣下。畏まりました。私たちはずっと不思議に思っていたのです」

 「何でしょうか?」

 シコルスキも微笑みを浮かべ問い返す。

 「この様な交渉に外相閣下御自らが携われることです。閣下が席に着く以上、我々としましても書記官たちではなく、公使である私が交渉段階から席に着くべきであると考え、今日、ここに居る訳です」

 「はい……」

 シコルスキは芳澤が何を言いたいのかよく分からなかった。彼のフランス語は完璧だったし、自身のフランス語能力にも自信はあったが、日本人独特の結論をなかなか言わないしゃべり方をされると、本当に理解できているのか、或いは聞き逃してしまったのではないかと不安になる。

 「この条項があるからなのですね? 貴国の民衆に反発を買うかもしれないというこの内容であるからこそ、他の誰に責を負わせることなく閣下ご自身が交渉に臨まれたのは……いや、ご立派です。不肖芳澤、感服いたしました」

 芳澤の微笑みは、今度こそ笑みだった。納得できて、すっきりした時に人が浮かべる無邪気な笑顔だった。

 日本公使の言葉が耳から入り、脳を駆け巡る。

 言葉が理解されるとともにシコルスキの顔面から血の気が引いていく。

 

 (くそっ! 嵌められたのか!)


 誰にも知られたくないからシコルスキに任せたのではなく、国民に知られたとしてもシコルスキに責任を負わせられるからこそ、直接交渉を命じたのだ。そしてピウスツキ最大の政敵であるシコルスキは、自身が署名することになるこの条約の存在を、権力闘争において政治的に利用できなくなるだけでなく、自身の秘密を守る為にピウスツキを守らなければならない。

 

 (あのイタチ親父め……)


 面前でしきりとシコルスキを称賛する芳澤を前に、シコルスキはブッダの様な微笑みを浮かべる。怒りの表情を消す為に……。


 


 「航海協力及びグディニャ広域開発に関する日波協定議定書」、通称『グディニャ議定書』と呼ばれるこの条約に付属する秘密議定書に記された第五条が長き眠りから覚め、その鎌首をもたげるのは遥か後年の事である。

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