第9話 上原元帥 (2)
大正十三年一月七日
(1924年1月7日)
その日、上原元帥は東京・三宅坂にある陸軍参謀本部に出仕する為、副官・今村均中佐の手配した公用車に乗り込んだ。品川の自宅を発し、今村の読み上げる時事報告に耳を傾けつつ、車窓へと目線を移す。
目に入るものと言えば、十数年間の毎日の通勤で見慣れた筈の風景……ではなく、震災により無惨に破壊された帝都・東京の、かつて街並みと呼ばれたものの残滓だけであった。
未だ手付かずのまま放置された瓦礫の山や焼け跡の合間合間には、雨どころか露霜さえ防げそうにない半壊した家が散見する。その半ば落ちかけた様な屋根の下では、恐らく地縁血縁で結ばれた数家族が肩を寄せ合う様にして、助け合いながら生きているのだろう。
瓦礫の廃材を利用して、共同で炊煙をあげる婦人たち。
寒風吹きすさぶ中、半裸の上半身から湯気を立てながら復興作業に勤しむ男たち。
再開されたばかりの学校に通う幼い赤子たち。
貧しくとも、なにかしらの豊かさを感じさせる彼ら庶民の姿。
薩摩の下級藩士の家に生まれ、庶民以下の幼年時代をおくった上原の胸には、彼らに対する親近感にも似た痛みが突き上げてくる。
彼らに今日の糧を与えるのは誰の役目なのか?
彼らを守るとはどういうことなのか?
帝国軍人たる自分に何が出来るのであろうか?
ふと、考える。
政治を志すべきなのか…と。
同じ元帥とは言うものの権力、影響力という点では昨日までの自分より遥かに微力であった筈の東郷が、秋山が、何故に老いさらばえた体に鞭打つが如く、馴れない、否、馴れる筈もない政治の世界に身を投げ入れたのか…。
それに対して自分は何をしているのだろうか?
自分の半生が、堪忍という言葉を朋として、いたずらに時を待ち続けたものであるという事実。昼行燈が如き存在だった秋山に比して、陸軍部内に隠然たる勢力を構築しながら、ただひたすら更なる権力を得んが為に、堅忍し続けた人生。
「卑しいな……」
思わず、思考の迷宮から独り言がこぼれ出す。
「ハッ?」
助手席から半身を振りかえらせるようにして、書類を読み上げていた今村が怪訝そうな顔で上原を見つめる。
今村のその視線に気づかぬまま、上原の中で別な上原が否定する。
俺は軍人だ……と。
軍人にはその本分があるのだ……と。
奇跡的に倒壊を免れた瀟洒な洋風煉瓦造りの参謀本部の建物。その玄関先では、既に今村から連絡を受けていたらしく、現参謀総長・河合操大将、参謀次長・武藤信義中将、東京南部警備司令官・石光真臣中将、関東大震災により発令された戒厳令の司令官を務めた軍事参議官・福田雅太郎大将といった上原の系譜に連なる将校達の中で在京の者が敬礼で出迎える。
上原は不機嫌を絵に描いた様な顔を更に顰めながら、彼らに軽く答礼を返す。軍服の裾を直し、軍刀の柄に手を添え、勝手知ったる我が家である参謀本部の中を大股で歩み続ける。目的の部屋に辿り着くまでには、何箇所かの通用扉を通らねばならなかったが、その木製の重々しい扉にはいずれも仁王の如く腕章を付けた兵が2名、警杖を持って立っており、上原の歩む歩速に合わせて絶妙なタイミングで扉を開ける。上原は一切、その歩む速度を変えぬまま、軍事参議官詰所が並ぶ2階の一室に入室した。
その部屋こそ、現在の軍事参議官・上原勇作元帥陸軍大将の執務室であり
『九州閥の参謀本部』
という訳である。
上原が、楽に3人は座れる程の幅を持つ、上質な皮製の長ソファの真ん中に深々と腰を据え、軍刀を傍らに立てかけると、その正面、長ソファと対の材質を用いて作られた二つの一人掛け用のソファには、大将の階級を持つ河合参謀総長と福田参議官が、一同を代表するかの如く腰を下ろした。他の将官達は、手近に木製の椅子が用意されてはいるものの、誰一人、腰をかけようとする者はおらず、いずれも河合、福田の背後に居並び、直立したまま、上原の言葉を待つ。
「石光中将」
席に座るや否や、上原が一人の将官の名を呼ぶ。石光真臣中将は東京南部司令官として、甘粕事件の責任を取って解任された福田戒厳令司令官に代わり復興中途の帝都の治安維持を任されている。細面で、逞しさとは無縁の、どこかしら神経質そうな顔立ちの石光は、著名な大陸浪人である石光真清・元陸軍大尉(実際には、関東軍情報部・錦州特務機関の属する諜報員であり、対露・ソ諜報網の創設に手腕を発揮した)の実弟でもある。
「ハッ」
石光中将が半歩、前に進み出で上原の顔に自らの目線を持って行く。上原は独特のかすれた様な声で、椅子に座ったまま、上目使いにその目線を石光と合わせる。
「東郷元帥が首相となったようだの」
「ハッ」
「秋山が陸相になったと聞いたが」
「ハッ」
「貴様は東京南部司令官であったの」
「ハッ、閣下のお陰様を持ちまして」
「わしは、何もしとらん」
嘘である。
「ハッ」
「東郷元帥……いや東郷首相と秋山陸相、お二方の警護に責任を持って当たりたまえ」
「ハッ、無論、我が一身に変えましても両元帥をお守り致す所存であります」
「よいな? お二方の私邸、官邸、それに行く先々……全て余すところなく警護するのだぞ」
「ハッ、畏まりました。小官がその責を持って、お二方の身辺を警護奉ります」
「……分かっておるな?」
「ハッ、お二方の動向、細大漏らさず……」
「うむ、よい」
会話が終わったと感じた石光中将は敬礼し、前を向いたまま半歩下がると列に戻る。
「河合」
今度は参謀総長……共に親補職ではあったが職責上は軍事参議官に過ぎない上原よりも上位に位置する……河合操大将に目線を合わせる。
「どういう事か? 此度の秋山の陸相就任の一件、わしは何も聞いておらんぞ」
「ハッ、申し訳ありません。実は私も寝耳に水の出来事でありまして」
「ふむ。なるほど貴様は、露助が夜襲をかける前に、起床ラッパを鳴らしてくれると思っておるのだな?」
「いえ、決してその様な事は……」
「はらぐれるな!(ふざけるな)」
「ハッ、申し訳ありません」
「何の為の陸軍参謀本部か? 貴様の襟についている星は飾りか?」
「ハッ、面目ありません」
上原はすっかり委縮し顔面を震わせる河合大将を睨みつけたまま
「陸相には福田を推すつもりであったが……」
「ハッ、過分にございます」
と、これは河合の隣に座る福田大将。どことなく、その顔には常に追従笑いを浮かべている。上原は、福田をちらりと見るが何も言わず、
「武藤」
「ハッ」
今度は参謀次長・武藤中将に声を掛ける。武藤中将も先程の石光中将と同じく、列から半歩、前に進み出ると上原に目礼する。
「陸相の件はやむを得ぬとしてだな……次官にはお前をねじ込む、そのつもりでおれ」
「ハッ、ありがたき幸せに存じます」
「大庭(二郎。陸軍大将。山県有朋の副官出身で代表的な長州閥)が教育総監になったのはやむを得なかったが……秋山め、この上原に一言の断りもなく……」
遠慮がちに武藤が尋ねる
「閣下は、東郷内閣を揺さぶるおつもりなのでありますか?」
「出過ぎた事を言うな、武藤」
上原は、それっきり目を瞑った。
(迷っておられるのか……)
武藤信義中将は上原の思考の迷路に気がついた。
一介の下士官から驚異的な出世を遂げ、今や「閣下」と呼ばれる地位を得た奇異なる存在、武藤信義。
その異例とも言える立身出世の原動力となったのは、この上原に目をかけられ、庇護され、そして後押しされた故にである。
武藤はわきまえている。
これが閥に属するという事なのだと。
もし、上原が自分に目をとめてくれなければ……。
そしてその勧めがなければ……。
一介の下士官にすぎなかった自分が陸軍士官学校へと進む道があるという事など、夢にも考えず、そして気が付きもしなかったであろう。
あの時以降の出世の道など開くはずもなく、五十歳に手が届く頃まで軍に奉公し続けていたとしても所詮、曹長どまりで除隊していたであろう。
その後は退役して、故郷で田舎巡査として平穏な生涯を終えたか、さもなくば日露の攻防において、名もなく戦死していたか……。
無論、自分が帝国軍人として抜きんでて優秀である、という自負はある。
陸士を経て、陸大に入校。
英才揃いの13期を首席で卒業したのは、誰の匙加減でもなく己自身の努力の賜物であったのだから。しかし同時に、上原の後見がなければ、今日の自分は存在しないという事も。
上原が一言、
「東郷内閣を潰す」
と言えば、内閣を熱狂的に支持する民衆から、例えどんな罵詈雑言を浴びせられようとも、万が一、家族に危害が及ぶ事になろうとも、自分は持ちうる限りの手練手管を使い、それを為す。
それが、閥に属するという事なのだから。
平成21年12月19日 サブタイトルに話数を追加