保管用 4
「内相も陸相も何か勘違いしてはおらぬか」
浜口と田中の両者の論戦、そして無策の金子、高橋に対する閣僚達の批判を黙って聞いていた東郷が助け船を出す様にそう言い、言葉を続ける。
「帝国国防方針が先か、対支外交問題の決着が先か、はたまた帝国の外交方針が先か……その様な些末な事、どうでもよいではないか」
浜口も、田中も、東郷の言葉の意味を咀嚼し、異口同音に東郷を咎めるよう様に発言する。
「勘違いとは何か? 今少し様子を見よとでも総理は言われるか? これ以上、この問題に固執して結論を出せぬまま時間が過ぎれば、対支貿易に支障ある各国が日本を名指しで批判しましょうぞ」
「お恐れながら、閣下の言われんとする意味をはかりかねる。独自外交の路線を取るというのであれば、それこそ今日、帝国が各国の不興を買うもとになったものでありましょう。何卒ご再考を」
論戦を繰り広げていた浜口、田中両者が、その興奮冷め遣らぬ勢いのまま、東郷に「黙っておれ」とばかりに冷ややかに言い放つと、東郷はやや不快そうに顔を顰める。
「結論など先に出ておるではないか。我等は法を守る、ただそれだけで十分ではないか。外交問題も国防方針もこの一点に尽きるのではないか」
「国際法に則った結果が今の帝国の苦境にございましょう?」
困惑しつつ、浜口が諭すように諌めるが
「法が守れぬ者の道理無き批判など、聞く耳を持たねば良い。無法者が巡査に悪態をつくのは当たり前のことだ」
と東郷は頑として譲りそうにない。
この場にいる閣僚陣誰もが、東郷がその半生において判断の難しい局面に際して常に国際法に則った行動をとり、その国際的な評価を得ていたことを知っている。
例え小国であっても国家としては対等である事を如実に示した布哇クーデターに際しての示威行動、日清の折の豊島沖海戦における英国船への撃沈命令、そして日露の日本海海戦における降伏の意志を示しつつ逃走しようとした露艦への追撃命令……ギリギリの判断をしなくてはならない瞬間、東郷は常に一時の感情ではなく国際法を範として行動し、個人の名声を上げ、帝国の名誉を守った。
――――しかし、米国が連盟裁定を無視、中立国義務の履行を拒否し、英国以下列強は国際法の裏をかいた行動で日本の「国際法遵守」という中途半端な姿勢を嘲っている。この時点において、尚、日本一国が国際法遵守の姿勢を示して何になるというのか? 他国を屈服させ、強制する力なき正義など軽侮を受けるだけではないか?
浜口達は口々にそう言って東郷を諌めつつ、腹の底で、この老人を守ることに必死だった。天下無双のこの老人の経歴に一片のかすり瑕がついてしまえば、今は息を潜めている反動勢力による反撃が始まるかもしれず、何としてでも法整備が整うまで今少しの間、東郷内閣を延命させなくてはならない、というのが連立与党としての共通した思惑だったからだ。
(東郷閣下は内政改革の切り札として反動を抑え込むために我らが担ぎ出した神輿。これはやむを得ない。しかし金子外相、貴方は違う)
浜口も、田中も、そして居並ぶ第二次東郷内閣の閣僚達全てが大なり、小なり、その想いを秘めている。
この日、それが暴発したと言って良い。
逆に言えば、今回の日本の外交的失敗を金子の首一つ差し出すことで軌道修正してしまいたいと考えていたし、連立与党いずれにも属さない貴族院議員である金子一人を辞職させることで、東郷だけでなく民政党、自由党いずれにも瑕がつかずに済ませられるとまで考えていた。だからこそ、殊更、金子に対して厳しく追及しているのだ。それなのに当の東郷が金子を庇いだてしている……。
「各国の不平不満こそ、我らの望むもの……それがまだ分からぬか」
沈黙していた金子が突然、呟き、首を少し左右に振る様にしながら立ち上がる。
――――各国の不平不満がいくら日本に向かおうとも、日本はあくまでも超然としていればよい。どの様な批難を受けようとも、ただ淡々と国際法の遵守を掲げ、法の下の平等を唱え続ける。目先の不利益、十年先の利益に惑わされず、世界の国々から“気の利かぬ木偶の坊”“話の分からぬ頑固者”の様に扱われたとしても、一切の妥協をせずに一本道を歩み続けること。
そこには奇策も奇手も必要ない。
国際法が正しいかも問題ではない。
必要なのは「法を守る」という絶対不変の意志。
「東郷閣下はそう言われておるのだ。浜口内相、田中陸相。君たちの言い分がわからぬでもないが、いい加減に目を覚まされよ。目先に拘ると道を過つぞ」
「馬鹿な事を……」
「そんな甘い話が通る訳がありません」
「卿ら、法とはその様なものではない」
閣僚一同の腹の底を見透かしたように東郷が発言した。
日清戦争以降、日本と清国の民の間で憎しみが高まったか?
――――否。その証左に終結後、清国よりの留学生が数倍となったではないか。
日露戦争以降、日本と露国の民の間で互いへの不信感が高まったか?
――――否。ポーツマス条約の僅か三か月後には日露両国は同盟ともいうべき第一次協約を締結している。あれだけの大戦争をしながら、日露両国は一片の怨みも残さず、手を取り合ったではないか。
それは何故だ?
「我が国が法を守る姿勢を示したからだ」
(詭弁だ……)
浜口は東郷の言葉を聞きながら、そう心の底で呻いた。
清国からの留学生が増えたのは、漢民族に清国民としての意識がなかったからに過ぎないし、第一次協約は互いへの不信感があったからこそ積極的に結ばざるを得なかったのだ。
もし、生粋の軍人に過ぎない東郷がその事を理解していないのだとしても、それはそれで良い。いずれにしろ、清国も露国もこの地上のどこにも存在している訳ではないのだから、相手に迷惑が掛かる事はない。
(しかし、何故、東郷閣下も金子外相も法の遵守に固執するのだ?)
「卿ら政治家も、英米列強も、同じく法の抜け道ばかり考える。法を如何に軽んじ、無力化するかばかり考える」
珍しく多弁な東郷からは興奮している様子が伺える。
「英米列強と同じ土俵にのって伍することが出来るとでも思っておるのか?」
(これか!)
東郷の発した言葉に浜口はようやく、金子の言葉の真意を理解した。考えてみれば簡単な構図だ。日本は国際法に則り、連盟に提訴し、正式な権限を得て裁定を主導した。法を無視しているのは米国政府であり、軽んじているのは英国政府だ。しかし、それは政府であって両国の国民ではない。
清国や露国との故事を引き合いに出したのは、この事に気が付かせる為だったのだ。
(英米、いや各国の市民に、その市民感情に直接、訴える。誰が法を守り、誰が法を破っているかを……)
国際世論こそ日本の最大の同盟者。
その同盟者の支持を得るには、法を守る姿勢のみが唯一の道。
思わず、浜口は頬が粟立った。彼自身、そして彼の外交の指南役とでもいうべき幣原でさえも、これまで国際協調の名のもとに無風を理想とする観念にとらわれ、結果的に「事なかれ主義」に陥っていたのではないか。協調とは他者に寄り添う事ではない。ましてや他者に自分自身の主義主張を押し付ける事でもない。他国の政治主張と協調するのではなく、日本は“国際法に協調”していく。
(だが、先は長い……此度一回の話で済むわけではない。この先、常に国際法遵守の姿勢を我が国は示し続けなくてはならないだろう)
浜口が己の思考を整理しようと努力しているさなか、立ち上がった東郷はまるで決戦に臨む海軍諸士の士気を鼓舞するかのように、閣僚陣を前に演説していた。彼は最後にこう纏める。
「妥協するは吾らに非ず」
――――親英でも、親米でもない。国際協調でもない。我らが寄り添うのではなく、彼らが我に寄り添うべきなのだ。国際法遵守という錦の御旗を掲げた日本が対支問題で妥協する事などあり得ない。落とし所を考え、譲歩すべきは我らではなく、彼らだ。
激情家の小泉又次郎逓信相は立ち上がると顔を真っ赤にして東郷に拍手を送る。
法曹界出身の元田肇農水相も、手の皮が裂け弾けんばかりに拍手を送り、気性の荒い事で知られる山本達雄司法相は頬を紅潮させながら傍らに座る金子外相に握手を求める。閣僚だれもが立ち上がり、拳を震わせ、東郷の言葉に賛同していく……。
閣僚一同が東郷の言葉に、その理想論に急傾斜していく姿を浜口は茫然と眺めていた。僅か数分前まで、金子一人に責を押し付け、英米との妥協の道を探ろうとしていたこの国最高の政治家たちが、東郷が無謀な国家方針を宣言しただけで、一斉に靡いている。
それは何か奇妙な手品を見ているかのような錯覚に陥る光景だった。
生きながらに神として崇められる男だけが成せる技であり、これが出来るからこそ神と崇拝されるのだろう。
この場において唯一人、浜口は冷静なままでいた。誰よりも激情家で、誰よりも短気であるこの男は、東郷の奇術に乗せられることなく、一人、立ち止まっていた。
(東郷さんが、金子さんを内閣に引き入れた狙いはこれだったのか)
大連立の与党二党出身者からではなく、外務大臣という要職を半ば引退していた金子に任せると決断したのは他ならぬ東郷だった。高橋是清を大蔵相に留任させたのも東郷だった。第一次内閣で秋山を陸相にしたのも東郷だった。柴五郎を現役復帰させ、十か国委員会委員長の座に据えたのも東郷だった。
彼らはいずれも日露戦争を勝利に導いた男達……。彼ら前時代の巨人達を集め、いったい東郷は何をしようと企んでいるのか。
それが浜口にはずっと疑問だった。
そしてようやく、彼ら日露を共に戦った同志的結合で結ばれた集団が何をしようとしているか、浜口は理解したのだ。
(東郷閣下を担ぎ出し、その権威を利用してこの国の“政道”を正そうとした我らであったが……利用されたのは我らだったのかもしれん)
歴史は積み重ね、というが、老人たちが辛苦を重ねて積み上げた土台の上に据えられた建物はいつの間にか傾きはじめ、これ以上、それを無視して積み重ね続ければ轟音とともに崩れ落ちる危険に満ちていた。その事に浜口を含め多くの現役政治家達は気が付き、だからこそ東郷を担ぎ出し、日本という家の傾きを直そうとしたのだ。
しかし、明治という時代を一から築いた老人達の覚悟の程は桁違いだった。
彼らはもう一度、土台から作り直す事をまるで躊躇っていない。国運を担い、死力を尽くして戦った老人たちは、この国を“正道”に正す為なら、本気でこの国を破壊する気なのだ。
既に東郷と高橋は金本位制復帰に際して無茶苦茶な道理と理論を用いて、日本経済を破壊している。そしてここで再び日本外交を根底から破壊しようとしている。いったい次は何を破壊しようというのか……。
同時に浜口は、老人たちの投機的な行動の裏に隠された真の意図に気が付いた。
もし、改革が失敗した時、彼らは汚名の全てを己らで背負って死んでいく気なのだろう、と。
閣議の流れは決した。
それは即ち帝国国防方針が決した瞬間でもあった。日本は例え世界から孤立しようと国際法を重んじる事を国是として、これから先、歩んでいくことになる。
そろそろ散会か、という段階になってそれまで沈黙を守っていた一人の閣僚が、全く場違いな発言を行った。
「高橋蔵相、ひとつお聞きしたい」
発言の主は閣僚最年少の石橋湛山商工相だった。末席に座る彼は丸眼鏡をずりあげながら瞑目したまま沈黙していた高橋蔵相に向き直る。
「金本位制に復帰して早九か月が過ぎようとしております。そこでお伺いしたい。我が国の正貨はいかほど残っておるのでしょうか?」
「……!?」
質問された高橋はその達磨を彷彿とさせる温和な顔立ちからは想像もつかない様な形相で石橋を睨み付けると、一瞬言葉に詰まりながらも質問に答えようとした。
「浜口内相、今日は疲れました。散会をお願いできないか」
突然、東郷が高橋の言葉を遮る。確かに珍しく弁を振るった東郷の表情に疲労の色は濃い。浜口は小さく頷くと
「かしこまりました。これにて本日の閣議は散会といたします。石橋商工相、またの機会に」
と宣言する。
「あ、いや、しかし……」
抗弁しようとする石橋であったが、同じ自由党の尾崎、床次らにたしなめられ、しぶしぶ納得した。
臨時閣議室を三々五々、閣僚達は辞去していく。ある者は己の省庁へと、ある者は事務所や自宅へと帰っていく。
閣議室から下の階へと続く階段の踊り場にて浜口は石橋に突然、声を掛けられる。
「内相閣下、少しだけ宜しいでしょうか」
まだ三十代の石橋と違い、五十代の浜口であっても閣議は精神的に、肉体的に疲れる。ましてや、この日の会議の様に帝国の一大方針が決する閣議ともなればなお一層、疲れている。
「歩きながらでもよろしいか?」
民政党最高幹部にして、内閣の要を務める浜口にしてみれば、犬養の秘蔵っ子とはいえ当選一回で閣僚に押し込まれた石橋の存在など面白いものでこそあれ、それ以上ではない。ハッキリ言ってしまえば、軽んじている。
「はい。正貨なのですが……」
「またその話かね? それなら高橋蔵相に個人的に聞きたまえ。私には分からぬし、閣議の席で議題にするのであれば、事前に大蔵省に質問しておくのが礼儀というものだ。席上、同僚に突然、質問するなど非礼ではないか」
なんで、こんな小僧に俺が政治のイロハを教えねばならぬのだ? 浜口は内心、そう思いながら答える。
「あ、いや……我が商工省の調査によれば、我が国の正貨は七月まで減少の一途を辿っておりました」
「ふむ」
当たり前だ。外貨獲得の主力である生糸輸出が金本位制復帰により壊滅的な打撃を受けたのだ。今、日本は輸入偏重の体質になっている。何を今更――――。
「それが先月より正貨の流出が止まったのです……おそらくは今月も」
「何?」
「そして次月にはおそらく、我が国は貿易黒字に転じます」
「馬鹿な事を」
石橋の言葉に浜口は立ち止まると、反発する。1ドル二円五〇銭を前後していた円ドル兌換レートを1ドル一円の極端な円高レートにしたのは他ならぬ現東郷内閣だ。当面の間、日本が正貨の流出に苦しむのは想定内である。それなのに正貨が流入し始めている?
「あり得ぬことだ」
小柄な石橋を恫喝するように浜口は睨み付ける。しかし、石橋は臆することなく浜口の獅子の様な双眸を覗きかえす。
「我々は一杯、食わされていますよ。内相閣下」
中国大陸海上封鎖。
それによって最大の利益享受国となったのは他ならぬ日本だった。だが、日本は率先して対中貿易を自粛し、それを実施していることを声高に叫んでいる。まず範を示す、という日本の態度は、日本経済が中国への輸出依存していることを知っている各国にとって、模範となるべきものであった。
従来、おおざっぱに言ってしまえば日本経済は米国に生糸を輸出し、綿花を輸入、綿花を綿糸に加工し英国圏に輸出し、代わりに工業原料や工作機械を輸入、最終的にその工業原料を加工し中国や東南アジアに輸出するというシステムだった。
しかし、その根幹である生糸の輸出が極端な円高によって米国企業が二の足を踏むほどの高値となっており、代わりに米国から得た棉麦借款を利用して延命を図っている、というのが日本経済に対する経済専門家や各国政府の見通しだった。その上、日本は最終的な外貨獲得手段である対中貿易を自粛している。生糸を輸出できず、中国との貿易関係も停止した日本こそが、経済的に最も追い詰められている筈……誰もがそう思っていた。
しかし、生糸の需要は好景気で沸く米国にとって、最高級衣料品として他には代替えの利かない存在だったのだ。しかも高値に転じた日本産生糸の代わりに米国市場を席巻する筈の『中国産生糸』が海上封鎖によって輸出が出来ない状況となっている。自然と、米国内で事前に備蓄されていた生糸は枯渇し始め、米国生糸産業界は販売品への価格転嫁を前提として日本産の高価な生糸を買い付け始めた。今の米国にはその高価な絹製品を購買する層がふんだんに存在しており、しかもその層は以前に比べ価格が倍増したとしても、返って高級品としての価値が上がったと考えるような階級層だった。
今、生糸の価格は確実に高騰している。
一連の騒動が起こる前より、米国では以前より高級な日本産生糸と廉価な中国産生糸という住み分けが出来ていたのに、その廉価版が輸入されないとなれば、高級品が更に価格上昇するのは当たり前の事だ。しかも、日本政府主導による製糸業からの業種転換を推進する政策が始まってまだ九か月であり、実質的に日本の生糸生産力はいまだに昨年以前と同レベルにある。つまり、昨年と同じ量の生糸が二倍以上の価格で、米国内において売られているのだ。自然と日本の正貨流出は逆転し、日本は貿易黒字へと密かに、そして確実に転換する。
「冷や汗が出ました」
閣議室に残った三人の老人の一人がお茶の代わりに酒が満たされた湯呑を口に運びながら、大げさな口ぶりでおどける。手にはどこに隠し持っていたのか一升瓶が握られている。
「あの、石橋という若僧、なかなかの切れ者ですな」
「然り。この段階でカラクリに気が付くとは……いやはや見どころがある」
達磨の様な老人とは対照的な、鶴の様に痩せた長身の老人が湯呑を突出し、酒を催促する。達磨は鶴の湯呑に酒を注ぎ、自らの一党の頭領の湯呑にもそれを注ぐ。
「最初に気が付くのは米国政府……それも半年は先、と睨んでいましたが」
「しかし、彼ら米国政府は何も文句を言えん。やつらは見てみぬふりしか出来ぬだろうよ」
三人は互いに顔を見合うと含み笑いを浮かべる。彼らの企みに気が付いた政治家が一人でもいた事、しかもそれが、政治家とはとても呼べぬ青二才であったことが心から嬉しいのだ。
(思っていたよりも、よき未来が見られそうだ)
老人たちは言葉にこそ出さぬが、そう感じていた。