保管用 2
大正十四年九月一日(1925年9月1日)
東京市赤坂区北青山
陸軍大学校
洒落た尖塔や洗練された外観で一つの観光名所ともなっている海軍大学校の校舎に比べると、陸軍大学校のそれは何とも無愛想で無骨な鉄筋コンクリート造三階建ての建物だ。外壁の一部こそ赤煉瓦を用いてアクセントとしているが、大部分はコンクリート地肌がむき出しであり、暗灰色の印象しか残らない。
加えて、震災によりモルタルが剥げ落ち、亀裂の生じた外壁に本来であればモルタルを上塗りして修繕するべきところであるのだが、当時の陸相だった秋山元帥が言い放った
「無用である」
の一言により、ひび割れにモルタルを目地塗りの要領で塗りつけただけの簡易な補修で工事を終わらせてしまっている。結果、建物はまるで
「縫い目だらけ」
の様な外観になってしまった訳だが、あまりの見栄えの悪さに閉口し、控え目な態度で苦情申し立てした教官の一群に対して秋山は
「戦傷にまみれた勇ましき者の面構えを君たちは笑うのかね?」
と諧謔で返し、まったく意に介さなかったという。
夏の盛りを過ぎたとはいえ、いまだ暑気の残るその陸軍大学校の本校舎一階の正面玄関近くに、一様に茶褐色の軍袴に白シャツを纏った男たちによる人だかりができている。そこは常日頃から校内行事の計画や優秀な成績を収めた学生の論文、或いは陸軍部内のニュースや偕行社の機関誌に掲載された記事などが校内掲示物として貼り出される場所であった。
陸軍大学校教官を務める東条英機少佐はこの日の午後、教務室から教室へと向かう途中、通りかかったその場所に普段と違う空気が流れていることを感じた。
平素であれば、前列に居並ぶ者たちが大声で故郷や出身連隊の記事などを読み上げて、掲示板が見えぬ後列の者たちに聞かせる光景が見られ、あちこちにて笑い声や歓声、或いは議論する声などが聞こえるものだが、この日、そこはいつにも倍する学生の数が詰め掛けているにもかかわらず、声を上げるものはほとんどおらず、誰もが微かに声を潜めて会話しているのだ。
東条は怪訝に思う。
学生とはいってもいずれも二十代後半から三十代半ばまで、少壮と言っても良い年頃の男たち、世間一般の学生とは違う。大部分は家庭持ちであったし、一家を成す者が大半なのだ。男同士、空騒ぎに興ずることはあっても根本の部分では地に根を這わせた落ち着き、風格がある。
その男たちが、まるで何かに怯えたかのように声を押し殺している。
(さては、また校長が何か言いだしたか……?)
昨年、当時の陸相だった秋山元帥によって強引に押し込まれた現校長カール・グスタフ・エミール・マンチンハイム元帥が強権を発動しながら学内改革に挑んでいるのは周知の事実だった。
専門分野に秀でた参謀型の将校を作り上げるのではなく、視野の広い指揮官を作ることに教育方針を転換した結果、陸大のカリキュラムは全面的に変更された。校内での授業よりも帝国国内各地を巡って実地での教育や海軍大学校生との戦略論争、各省庁の中堅官僚との交流や一般大学の教授を招いての講義などが積極的に実施され、そのあまりに急激な変革の数々には教官である自分たちが軽んじられているような気がし、正直、ついていけない部分もある。
しかしながら、その目新しい方針はおおむね学生たちには好評であるらしく、主たる心労は無垢な学生よりも、旧守に拘る教官に集中しているようだ。
(勘弁してくれんかな……)
掲示物を確認しようと東条は人だかりを掻き分けるようにして進み始めると、教官の存在に気が付いた学生たちが海を分けたモーゼよろしく道を開ける。学生達の視線が奇妙なほど、痛い。まるで東条の顔色の変化を覗おうといった態度だ。
最前列まで進んだ東条は、そこでこの日、貼り出されたばかりの掲示物をようやく確認し……激昂する。
「なんだと!?」
東条が目にした先にあったのは、悩みの種である校長からの通達ではなかった。そこにあったのは内務大臣・浜口雄幸の名が記された一枚の布告文だった。
「失礼します」
怒気のおもむくままに貼り出されていた『内務省通達』を剥ぎ取り、これを握りしめた東条が板張りの廊下を駆け抜けて向かった先は、この掲示物の管理をする校務課ではなく、ましてや校長室でもない。ある時は師として、ある時は先達として、ある時は実の兄の様に慕う同じ陸大教官・永田鉄山中佐の教官執務室だった。
「はいりたまえ」
永田の返答を最後まで待たずに東条は十畳間程の広さを持つ執務室のドアを開ける。入口で半瞬、直立不動の姿勢をとって部屋主に敬意を表しようとした瞬間、室内に永田の他にもう一人の人物がいることに気が付いた。
「小畑中佐……」
室内にいたのは同じく陸大教官を務める小畑敏四郎中佐だった。永田と小畑は陸士十六期、陸大二十三期の同期として私的にも親友関係にあり、小畑は震災で倒壊した永田一家を自邸に住まわせている“大家さん”でもある。その小畑が、執務机に座る永田の前に仁王立ちしており、よく見れば、その握りしめられた拳が小刻みに震えているのが分かる。
「東条か。貴様、ちょっと来い」
顔面を朱に染めた小畑に呼び寄せられ、その剣幕に飲み込まれた東条は部屋の主である永田に挨拶もせぬまま小畑の横にたった。
「少佐、何か用かね?」
憤怒の形相を浮かべる小畑とは対照的に、丸眼鏡をかけたにこやかな表情で永田は話しかける。仏の様に温和な口調だ。
「おい! 鉄さん、まだ俺の話が終わっておらん。東条貴様、下がれ。邪魔だ」
(こっちに来いって今、言ったばかりなのに……)
東条は内心、激昂して半錯乱状態の小畑を迷惑に思いながらも、一歩下がろうとする。
武市半平太の薫陶を受けた土佐勤王党の一員として幕末、暴れまわった筋金入りの攘夷運動家を父に持ち、男爵家を世襲した長兄・大太郎は貴族院議員として現外相・金子堅太郎の側近中の側近、義弟の船田中は若干三十歳にして東京市助役を務める超エリート官僚、加えて現農相で自由党きっての実力者・元田肇を岳父にもつという、この良血の塊のような男は自身を抑えるというところがまるでない。
朝敵・盛岡藩士の裔というだけで事あるごとに隠忍自重せねばならない東条にしてみれば、自由奔放というよりも、あまりに我儘が過ぎる先輩だと、つい感じてしまう。
「待て、少佐。構わないから言いなさい。何か用事があるのだろう? 敏さんとの話は長くなるから、先に聞いておく」
冷静な永田の言葉、口調に更に怒りを露わにした小畑だったが、その道理に納得もしたのだろう、苛立たしげに執務室内にあるソファにどっかりと座りこむと、軍袴から敷島を取り出し、火を点ける。
「小畑中佐、お先に失礼します」
そう言って、東条は掲示板から剥ぎ取ってきた貼り紙のたたみ皺を伸ばしながら執務机においた。
「なんだ? 東条少佐もこの件か……」
差し出されたその貼り紙を見て、永田は軽くため息をつく。
その浜口内相の名において布告された貼り紙の表題にはこう書かれていた。
『内務省国家憲兵隊創設に関わる将校募集について』
それは先頃、国会を通過し、内務省より次年度予算にて新設すると正式発表されたばかりの国家憲兵隊の言わば求人票だった。部隊新設にあたり、内務省は全国の警察官より人材を広く志願によって集めると同時に、陸軍に対しても同様に求人してきたのだ。
もとより、陸軍には陸軍部内における司法行為を担当する本来の『憲兵』が存在している。国家憲兵隊がどの程度の規模を要するかは分からないが、少なくとも、警察官からの募集だけでは頭数が足りないのだろう。故に陸軍にも求人を出すという話は東条も以前より聞いている。
士官と違い、四十代半ばで定年を迎えてしまう下士官達が故郷に帰り、恩給を貰いながら巡査として第二の人生を送る事例は多い。今回の募集も、そんな退役間際の下士官兵に対するものだと東条は理解していた。
だが、実際の募集は違っていた。
内務省は『将校』を募集しているのだ。
「なんだ……とは、既にご存知でしたか?」
永田の意外な反応に肩透かしを食らい、やや戸惑いながら、東条は問い返す。先ほど掲示板の前でこの貼り紙を見た時には、その陸軍を舐め腐ったような内務省の言い分に我を忘れる程の怒りを覚え、収まりのつかないこの激情を敬愛する永田に静めてもらおう、この執務室にやって来たのだ。だが、先客・小畑の激昂ぶりを見て、自身の怒りはすでに急速に収束しつつある。他人の怒り程、醜悪なものは無く、返って己を冷静に保つことが出来た。
「敏さんもこの要件だ。なぁ、おい」
「あぁ」
問われた小畑は敷島をもみ消すと再び立ち上がる。一服して、少しは落ち着いたのだろう。口調が少しだけ柔らかい。
「少佐、貴様からも鉄さんに言え」
「……はい?」
「はい、って貴様、何しに来た?」
再び声を荒げる小畑の問いに東条は返答に窮する。まさか
(陸軍将校を引き抜くような内務省の横暴に腹を据えかねて、先輩に愚痴を言いに来ました)
とは言えない。いい歳をしてそれではあまりに情けないように思えたし、小畑の義弟は内務官僚でもある。「親族の悪口を言われた」などとこの癇癪持ちに受け取られたら先々、付き合いづらい。
「ほれ、これだ」
黙りこくった東条の内心など小畑はまるで意に介さず、永田の執務机の上を指し示す。そこには表に「辞職願」と書かれた一通の封書が置かれていた。
「……これは?」
躊躇いがちに東条は永田に問いかける。尉官時代より常に自分の目標であり続けた存在、ドイツ・バーデンバーデンにおいて共に陸軍改革、ひいては国家総力戦体制の構築を目指すと誓い合った同志。
その永田が陸軍を辞す……?
東条は混乱した。言葉に詰まり、頬は泡立ち、頭髪が逆立つ。同時に先ほどから怒り狂う小畑の真意をも理解した。
元来、その出身故に東条という男は、この男が生来持つ直情型の性格を冷徹な理性によって覆い隠している。つまりは、平素は温和で物静かな控え目な人柄なのだが、一旦、激昂したならば徹底して相手を追い詰め、弾劾せずにはいられない。
今回もその性格が出た。東条は明らかに激情にかられた。
「永田中佐、これはいったい、どういうことでありますか?」
沸点寸前の激情をかろうじて抑え込みながら問い質す。
「そうだろ? 東条。お前からも鉄さんにいってやれ」
東条に訪れた変化に己と同じものがあることに満足したのか、小畑がけしかけるがその言葉に突然、東条の理性の箍が外れる。
「うるさい! だまっておれ!」
「なっ!? 貴様……!」
邪魔するな! とばかりに東条は、この良家育ちの先輩を睨むと怒鳴りつける。しっかり者だが、温和で小心な奴……そう思っていた後輩の剣幕に小畑は思わず怯み、直ぐには言葉が見つからない。
「陸軍を辞めようと思う」
小畑以上、と言ってもよい東条の様子に対し、永田はあくまでも先ほどと変わらず温厚な話し口調のまま答える。
「辞めて……辞めて、どうするのでありますか? 我らの志は……約束はどうなるのでありますか?」
東条は、敬語を使うのがもはや苦痛になり始めていたが、理性の最後の断片がかろうじてこの男を踏みとどまらせている。
「決まっているだろう? 内務省の、この国家憲兵隊とやらに籍を移すのさ」
当たり前じゃないか……永田は丸眼鏡越しにまっすぐ東条と視線を交わす。その瞳に逡巡の色はなく、静かな決意を湛えている。
丸坊主、鼻の下に蓄えた小ぶりの口髭、丸眼鏡、最新流行のスタイルであるチェッコ式軍帽、脇をきつめにつめた軍服……東条の外見は全て永田の真似だ。
永田がこうしたからこうする、永田がこう言うからこうだ……東条にとって永田とは崇拝の対象であり、それは憧れなどという生半可な表現で表すべきものではない。生涯の目標であり、天才肌の人物に決して届かぬ秀才型人間にありがちなが生き方だった。その手の届かぬ存在が、目の前から消え失せる?
「わけを……理由をお聞かせ願えませんか?」
つとめて心の混乱を抑えながら、東条は尋ねる。一瞬の激情は徐々に流れ去り、常日頃の静粛な東条の仮面が再構築され始めた。
「その通りだ。質問に答えてもらおうじゃないか、鉄さん……我らの理想を、大義を捨ててまで何故、こんな似非軍隊なんぞに行こうとするのだ?」
東条の様子を見て、逆に冷静さを取り戻したらしく、小畑も口調を和らげながら問いかける。
「敏さん、東条少佐。君たちは何か大きな誤解をしていないだろうか?」
永田は立ち上がると、机上に置かれた敷島の包みから一本を抜き取り、口にくわえる。瞬間、いつもの癖で東条がマッチを取り出し、炎をともす。
「我々三人に上海の岡村。ドイツのかの地で結盟した我々の理想とするもの、大義とはいったい何だったのか?」
静かで、それでいながらよく通る声。中堅将校に有りがちな無駄で無意味な力強さなどとは対極に位置する、慈母の様に優しく、それでいて己の信念に絶対の自信を持つが故の頑なさを感じさせる口調。
「それは……」
思わず口を挟もうとした東条を手で制すると永田は続ける。
「陸軍の改革か? 何の為に陸軍を改革するのだ? 薩長閥を排除する為なのか? 陸軍を近代化する為なのか?」
ゆったりとした所作で永田は窓際へと移動し、陸大の中庭を見下ろす。
「違う。断じて違う」
東条と小畑、二人の同志に背を向けながら毅然とした口調で永田は続ける。
「我らの願いは、この国の総力戦体制を整えることだ。一朝事あれば、この国の全ての力が勝利を掴む為に必要な体制へと移行が可能な制度を作り上げること……それを研究し、実現するのが我らの望みではないのか?」
「分かっておる。分かっておるからこそ、分からぬのだ。何故、貴様が陸軍を辞め、内務省へと移らねばならぬのだ?」
言葉を一旦切った永田に小畑は問いかける。しかし、相変わらず、永田は静かに外を眺めたままだ。
「陸軍内部の変革など、所詮、大事の前の小事に過ぎぬ」
突然の永田の言葉に、小畑も東条も反論しようとするが咄嗟に言葉が見つからない。
「陸軍や海軍の体制や制度など、いくら改革しようと、そんなものは錆びついた刀の手入れをしているに過ぎん。大事なのは、刀を操る人間を鍛える事だ」
ようやく反論の糸口を見つけた小畑が反発する。
「いざ事が起きてしまえば錆びついた刀など役には立たぬ。だからこそ、我々はただの刀を名刀へと鍛えなおすことにしたのではないか? そう決めたのではないか?」
小畑の言葉に対して、ようやく振り返った永田は、小首を少しだけ傾げると、ゆっくり左右に振る。
「違う、違うぞ、敏さん」
吸いかけの敷島を灰皿でもみ消し、永田は続ける。
「手段に囚われてはいけないよ。目的は一つなんだから、手段は何種類もあっていいじゃないか」
「志を違えた訳ではない、そういう事で宜しいですか? 永田中佐」
沈黙していた東条が永田以上に静かな口調で尋ねる。紅潮していた頬は既にいつもの色へと戻り、怒りに震えた舌はねっとりとした唾液に包まれ落ち着きを取り戻している。
「国家憲兵隊は内務省直属、つまりは内務省の制服組。俺はいずれ背広に着替えて内務省を内部から抑えるつもりだよ。総力戦体制を整えるとなれば、陸軍省を拠点として発言するよりも内務省を利用した方が遥かに容易いだろう。これは間違いない。それに……幼年学校以来、叩き込まれた軍人勅諭にあるだろう? “政論に惑わず、政治に拘らず”と。だが、天下国家を相手にすべき俺たちの目的の為には政治に関わらざるを得ない。この手で、己が意に沿う様に政治を動かさねばならない。しかし軍人である俺たちがそれを志し、動けば」
永田の言葉を東条が引き継ぐ。
「軍規に反しますな」
目を細め、心静かに何事か決心した様子の東条は言葉を続ける。
「かしこまりました、永田中佐。不肖東条英機、お供致します」
「何だと? 東条、貴様まで!」
声を荒げる小畑とは対照的に、永田は東条の言葉に一瞬だけ驚いた表情を見せるが、それは直ぐに消えていく。
「ありがとう、東条少佐」
(そういうと思ったよ、東条)
眩しげに瞼を細める永田の目がそう物語っている。
東条にはそれだけで満足だった。
陸大一期を首席で卒業、日本陸軍きっての戦術家、俊才と呼ばれながら、長州閥に疎まれ、言いがかり同然な理由で予備役編入された父・秀教。その意志を次ぎ陸軍に入隊した半生だったが、その父も既に鬼籍に入り久しく、先頃十三回忌まで無事終えている。
(違う道があってもいい……そろそろ俺の意志で……)
今迄、父の意に沿う様に生きてきた。これからは少し、違う生き方をするのもいい。冥府の父もきっと理解してくれるはず、そう東条は信じたかった。
「ダメだ! ダメだぞ、鉄さん、東条。お前さんたちは間違っている」
頑迷に小畑は否定する。
物静かな理論家然とした永田とは対照的に、小畑はその裕福な生まれからして、後輩の面倒見がよい親分肌、兄貴肌の人物だ。東条との関係は永田と東条の関係よりも長く、実際、最初の陸大受験に失敗した東条を案じた小畑は自宅で寝食の世話までしながら試験勉強に打ち込ませたのだ。その折「家庭教師」として招かれたのが、永田であり、その永田や小畑と陸士同期ながら陸大受験に失敗し続けていたのんびり屋の岡村寧次が東条と机を並べて学んだのだ。
四人の深い関係はここから始まっている。
「認めんぞ。俺は認めない。鉄さんや東条がいなければ、陸軍改革は始まらないじゃないか」
小畑の頑固一徹さに永田は苦笑するしかない。永田の力を信じてくれているからこそ、共に同じ道を進もうではないか、と頑なに主張する。永田も、そして東条も、この男のそんな生一本なところがたまらなく好きだ。
依然として収まりのつかない小畑は大股で床を踏み鳴らしながら入口扉へと向かい、その前で振り返るとひとしきり二人を罵倒し、最後に叫ぶ。
「永田、東条。貴様らとは絶交だ!」
(絶交って、それじゃあ子供じゃないか)
東条は、ガキ大将の様な小畑の言い草に笑い出しそうになるが、かろうじて堪える。まるで駄々っ子だ。肩で荒く息をしながら小畑は扉を開けると廊下に出た後、振り返りもせずに勢いよく扉を閉める。
あまりの勢いに永田も東条も一瞬驚き、扉が壊れていないか、しげしげと見詰めていると再び扉が勢いよく開く。
「永田、そういえば今朝早くに銚子から三馬の初物が届いたそうだ。今夜は酢〆を肴に一杯やろう。東条、貴様も来い」
ケロッとした様子でそう言い放ってから、何かを思い出したのか少しだけバツの悪そうな顔をした小畑は再び、扉が壊れんばかりに閉めると軍靴の音高らかに廊下を去っていく。小畑の並外れた膂力についに降参した蝶番がきしみ、扉がだらしなく開く。
永田と東条は二人、顔を見合わせ、苦笑しあう。
戦術論では尉佐官級で「右に出るものなし」と言われ「作戦の鬼」との異称を学生達から奉られる小畑の子供じみた言動……その全てが愛らしく、同時に二人の先行きを彼なりに案じ、認めてもくれているのだということが身に染みて分かる。
「永田教官、宜しいか?」
その時、扉が壊れ、開け放たれたままになっている出入り口から声が聞こえた。
また小畑か? と思い、そちらを見ると二人の予想は外れ、全く別人が立っていた。その人物は長身で年齢不相応なほど落ち着き払った様子でありながら、それでいて室内に予定外の人物がいた事への困惑の色を表情に浮かべている。
「梅津中佐……」
東条は軍規軍律に口喧しいことで知られる梅津美治郎中佐の姿を認めると、はじける様に立ち上がり、直立不動になる。陸大教官として永田らと同じく教壇に立つ梅津は、天才・永田の首席卒業を阻止した陸大二十三期首席。まさしく天才の中の天才――。
その天才が少しだけ困った様な表情を浮かべ、それでいて双眸に決意を宿しながら問いかけてくる。
「永田教官、少し時間がとれるかね?」
そう言った梅津の左手には「辞職願」と表書きされた一通の封書が握られていたのだった。