保管用 1
京城の秋は早い。9月ともなれば既に肌寒く、ほぼ連日、雨が降り続く。ただでさえ暗さの漂うこの半島の困窮した経済情勢の中、日々の雨模様は人々の心を否応なく苛つかせる。
しかしながら、昨秋、新任の朝鮮総督が突如、雷鳴の如く放った咆哮は、一年を経過した今、この地において確実に実を結びつつあると同時に人々の心に一筋の光明を見せていた。
近代以前のままの資産配分が日々の糧にさえ事欠く多数の民を生み出し、極端な富の偏在が人々の生活を、そして精神をも支配していた。過去数十年、数百年に渡って変わらなかったこの構造が未来永劫、変わらぬとあきらめていた民衆。
その民衆の心を鷲掴みにした
「もしかしたら、何か変わるかもしれない」
という、淡い光の予感。
犬養木堂という不世出の煽動政治家が歴史上、語り継がれるほどに偉大だったのではない。誰かが、この時代、この地に石を投げつけてさえいれば、それは因習という名の腐臭漂う濁りきった湖面を貫いて数百年の恨みを抱きながら眠り続けた湖底の泥を舞い上がらせていた筈なのである。
大正十四年九月一日(1925年9月1日)
京畿道 京城府
朝鮮総督府 総督執務室
アジア趣味の欧米人が見たら泣いて喜びそうな日朝混合の調度品に埋まる執務室の中、二人の老人が座っている。
「そりゃあ、お前さんの頼みなら否やとは言わぬが……ちょいとカラクリを聞かせてもらってもよいかね?」
愛用の長煙管をシャミ皮で磨きながら年長の老人は怪訝な声音で言葉を発した。
通常の朝鮮総督としての職務に加え、日々、各地での講演・啓蒙活動に追われるこの老人を訪ね、率直過ぎる程の物言いで己の要求を言い立てたのは、老人の帷幕において謀将の地位を得ている石光真清だった。
この日、石光は犬養を訪ね、一つの頼み事をした。それは
「新設されたばかりの京城帝国大学の名義で京城府郊外に広大な土地を買い求める。購入予算はこちらで用意するが手続き上、帳簿の操作をお願いしたい」
というものであった。
産声を上げたばかりの京城帝国大学、本来であれば中央の文部省が所轄すべき存在ではあったが犬養の政治力によって今や文部省から切り離され、朝鮮総督府が所管している。
当初、文部省が企図していた学部構成は自然科学と人文科学、医学、工学であり、政治問題や近現代史問題を扱わざるを得ない社会科学分野の学部創設は敬遠されていた。これは朝鮮という内地とは違う立地によって引き起こされる悪影響を文部省側が恐れていたからだろう。しかし、犬養はこの学部構成にも露骨に介入し、当初予定にないこの社会科学分野の学部創設に加え、語学教育にも重点を置くことを決しており、その結果、京城帝大の網羅する学術分野は東京帝大に匹敵する規模となっていた。
無論、犬養とて「革命の原資」となりやすい学生に政治学を教える危険は承知している。一つ間違えば、京城大学が発火点となって朝鮮全土に独立運動が野火の如く広まる可能性があるのだ。だが、犬養はあえてそのリスクを許容し、むしろ己の理想の為に利用しようとさえ考えていた。
内地や朝鮮、台湾だけでなくアジア各地から留学生をかき集め、植民地独立運動に身を投じる闘士を育む……十年先、二十年先、この地で学んだ者たちがそれぞれの故国で狼煙を上げた時、彼らはきっと知るはずだ。アジア唯一の列強・大日本帝国という国が亜細亜の未来に備え、既に準備を終えていたことを。
「語学講師」
それが京城大学における石光の正式な肩書だった。語学という点においては朝鮮語、露語、支語を自在に操る石光であり、誰からも怪しまれる事はない。そして彼はもう一つの肩書を公式に保有している。それは
「京城大学狩猟同好会顧問」
というものだ。組織作りの天才と自負する石光がこの何の変哲もない肩書を自ら欲したのは言うまでもない事であったが、その隠された意図はかつてポーランド独立に際して、ポーランド人軍事組織の中核を形成したヨゼフ・ピウスツキの私設軍隊『ポーランド軍団』の故事にある。
欧州大戦開戦前、オーストリア・ハンガリー帝国政府の監視の目を逃れる為にピウスツキは「射撃とスポーツの愛好クラブ」と称して各地で独立派青年を集め、山野において狩猟用ライフルをはじめ各種銃器の訓練や軍事教練を施し、組織の基盤を予め用意しておいたのだ。この民間の交流クラブという仮面を被った母体なくして、一昼夜にしてピウスツキが大規模な私兵軍団を組織することなど不可能であったし、同時に単純な軍隊組織と違う地下組織にありがちな横方向に根をはる血盟的紐帯があったからこそ、会員は正規軍人となった後もピウスツキを信じ、支え続け、最終的には『五月革命』へと繋がっていったのだ。
学内におけるスポーツクラブという体裁をとる「狩猟同好会」は犬養の理想を具現化する為に石光が選択した「大アジア主義の牙城」の母体の一つとなるべきものだった。石光はこの同好会を拠点として彼の手足となって動けるような目端の利いた学生をスカウトし、戦闘技術を持った現場工作員として育て上げるつもりであり、その為には当然ながら小火器や爆薬類の取り扱いも学ばせなくてはならない。だからこそ石光は京城郊外の人目に触れぬ場所に広大な『演習用地』を欲したのだ。無論、銃器を持った学生が原野で活動していれば人目についた時に怪しまれるのに決まっている。それに対する言い訳が「狩猟をしていただけだ」であり、それは事情を察する知恵者が知れば噴飯しかねないほどの言い訳ではあったが方便を押し通すのも政治の内であり、非は認めなければ罪にはならない。
現在、石光の配下にいる者の多くは旧満鉄調査部門系の荒事師達であり、暴力という点において、彼らは豊かな実績・経験を有している。しかし、専門家である彼らをアジア解放の最前線に投入する事は出来ない。解放の先兵となるのはあくまでも犬養の唱えるアジア主義の理念に共鳴した現地の若き戦士でなくてはならない。石光自身も、その部下達も、あくまでも闇であり、裏方でなくてはならず表に名を残す様なことがあってはならないのだ。石光は口にこそ出していないが、腹の底でそう決めている。
それと同時に、もう一つの決意もしている。
「犬養門下でない者が独立の英雄になることなど断じて許さぬ」
石光にとって、独立の指導者が例えどれだけ見識に富み、人物人格が優れていようが関係ない。彼らを生かすも殺すも、その選抜基準はただ一つ「犬養の系譜に属するか、否か」ただその一点にあった。
「金の出どころですか? 閣下はお聞きにならない方が良いかと思いますが……?」
間もなく58歳にならんというのに、目に薄笑いを浮かべた時の石光はとびっきりの悪戯を思いついた悪童の様な表情になる。
「例え出自が怪しげな金だったとしても石光君を問い詰める気はないが……気はないのだが、どうにも知らねえっては俺の性分に合わないのだ。もし君が俺の政治家生命を案じてっていう気遣いをしているのなら無用にしてもらいたい。どうせ一蓮托生だ」
第四代朝鮮総督・犬養木堂は食い下がる。石光が何を企もうと、それが露見した時に知らぬ存ぜぬで通す気など端から無い。石光という毒を食った以上、皿まで食わねばならぬのが犬養の道理であったし、濡れぬ先こそ露さえ嫌っても一度濡れてしまえば大雨でも大して気にはならぬものだ。
一蓮托生――――。犬養の寄せてくれるこの信頼を、石光ははにかみたくなる様な心持ちで聞く。自分自身、士官学校を出た後、組織に守られたもっと簡単で安易な人生をいくらでも選ぶ機会はあった。だが、それら全て投げ打ち、故国の為、陸軍の為にと心に決し、諜報活動の専門家となる道を選び、そしてその思いは踏み躙られた。まるで使い捨ての駒の様に扱われ、多くの部下や協力者を無為に失い続けた人生、そしてその最後の最後に見えた淡い光……。
「よろしいんですかね? 後悔してもしりませんよ?」
木堂の反応を、おそらく石光は読み切っていたのであろう。さほど、反論らしい反論はせず、卓上の煙草入れから数本の紙巻を失敬しながら、座っていたソファから立ち上がる。
「閣下、お時間はありますか? お連れしたい場所があります」
犬養と石光、二人は石光の用意したT型フォードの後部座席に肩を並べている。車窓から外を覗けば、内地から進出した近代的な商業施設の建設ラッシュが続く京城中心街の街並みはほんの数分で途切れてしまい、そこから先は未舗装道路の続く前近代的な住居が立ち並ぶ地域へと移り変わる。
生活習慣の違い、それに下水の未普及により、中心街を一歩離れた居住地域の臭気は凄まじい。衛生上の問題から朝鮮総督府衛生局が口喧しく「糞尿は道路に捨ててはいけない」と喧伝してはいるものの、そう簡単に長年の習慣が変わる訳がなく、依然として汚物は道路の隅に打ち捨てられ、それが原因となっての伝染病の発生も内地とは比べられないほど多発している。
「ひどいものだ。江戸の昔でさえ、こうではなかった」
安政二年生まれの犬養はあまりの臭気にハンカチーフで鼻を押さえながら嘆く。糞尿を肥料として処理する事で街並みの清潔さを維持した日本に比べ、農地への肥料添加という基礎知識の欠落から、単に作物を作り続け、結果、痩せた土地で細々と生きていくしかない農民の実態。無論、糞尿を肥料化することによって日本人の寄生虫保持率は極めて高くなってはしまっていたが、少なくとも同じ面積であれば収穫量は朝鮮のそれに数倍しているのも事実だった。また炭鉱採掘権を総督府より譲り受け、朝鮮北西部の工業団地に地盤を築きつつある野口遵率いる日本窒素が朝鮮進出を企図したのは、その電力事情が魅力であったこともあったが、何より、肥料を使うという概念に乏しい朝鮮農業に自社の窒素肥料を大量供給することにもあったのだ。
「愚痴を言っても始まりますまい。貧乏総督府に何が出来るっていうんです?」
犬養の言わんとするところを察した石光がせせら笑う。犬養に見いだされる前の石光は朝鮮農民協会という農業団体の職員であり、朝鮮の農業実態に関する知識は人一倍ある。
「閣下。こう、お考えになられては如何でしょう?」
そう一呼吸おいてから石光は語りだす・
「この地の農業生産力は今が最低なのです。つまり、これからいくらでも伸び代はあるんですよ。どうです? 希望が持てるでしょう?」
石光はからかう様に場を茶化す。
「そんな事は分かっている。だが、君が言った通り、我々には金がない。肥料を農民たちに与え、灌漑設備を整えれば生産力はたちまち数倍になるだろう……分かっているさ。だからこそ俺は口惜しい。何をすれば良いのか明らかなのに、それが出来ぬことがな」
犬養の漏らした苦衷の言葉に、石光はフンと鼻をならす。詰まらぬことを言うな、とでも言うかのように……。
「間もなくつきますよ」
秋の長雨続きの中、石光が案内したのは京城の西に位置する仁川だった。この地は現在、東郷内閣の政策により決した仁川臨界港湾施設整備計画に従い船渠の建設と、その周辺に企業誘致する為の工業団地造成が行われている。京城府への黄海側からの出入り口として四〇年程前に港湾都市として開港されて以降、急激に開発が進み、人口増加しつつある仁川府は十分な平地と漢口の水運に恵まれており、また湾を形成する沖合の島々が外海の荒波から湾内を守っている事から天然の良港と言える地だ。
内地と比べても安価な労働力と工業用水に恵まれたこの地の開発に熱い視線を向ける内地資本は多い。加えて平坦な河口地帯という事で造成工事は比較的簡単に可能であり、その分、出費も少ない。また、法的な意味でも内地と比べて規制が少なく、短期に工場の稼働が期待される仁川府は新設される五つの臨海工業地帯の中で最も工事の進捗が早い。それに何より、黄海を挟んだ対岸は大市場・中国大陸という相対的な優位。間もなく出現するこの近代化された工業地帯にとって、それが最大の武器となるはずだ。
「あぁ」
小雨が降り続く中、陸軍工兵の操る土搬車が行き来しているのが目に入る。二月事件で不慮の死を遂げた故・上原勇作元帥と盟友関係にある秋山元帥が上原の手塩にかけた工兵の為に調達した米国製の車両だ。日露戦争の折り、工兵の力不足に歯ぎしりした経験から工兵への機力導入を夢見続けていた上原の墓前に供えた贈り物であり、死者への追慕でもある。勿論、本来であれば正規陸軍部隊ともあろうものが、いくら政府が絡んでいるとはいえ民間主導の開発行為に手を貸す、などという事は考えられない。しかし、機材予算獲得に際しての条件として内閣側から強く求められた事もあって苦肉の策として「あくまでもこれは機材習熟の為の訓練である」と称して、協力しているのだ。陸軍側のせめてもの意地というべきか……。
犬養が案内されたのは仁川港内の沖合へと伸びる桟橋の一つだった。その桟橋には古ぼけた中型の貨物船が一隻、停泊している。排水量は三千トン内外であろう。あちこちに錆の浮き出たその灰色の船体は、どこの国で作られた船舶なのか分からぬほど特徴もなく、船籍を示す船名すら書かれてはいない。どこにでもある、全く目立つところのない中古の貨物船。きっと、その船の前を通り過ぎたところで、そんな船が存在していたかどうかでさえ、記憶があやふやになるほどに外観上、目を引くところはない。
沖合から吹き付ける風が巻き上げる海水と、降り続く雨に身を濡らしながら、犬養は案内する石光について船へと向かう。
犬養は石光の行動を不信に感じ、怪訝に思う。
思うが口には出さない。
それよりも、心の底からかつて感じた事もない程の不安感が湧き上がるのを覚える。
(こいつぁ、本当に知らなかった方がいいような事をしてやがるな)
酸いも甘いも噛み分け、他者を驚かすことはあっても世の中の大概の事には驚かない自信のある犬養ではあったが、今回に限っては胸の高鳴りが抑えようもない。
ついつい無言になりがちな主人の反応を横目に、石光は実に屈託無げに舷梯を駆け上がっていく。後に続く犬養が上を見上げると、数名の作業服を纏った船員がいる。これといって荷卸しなどの作業をしている様には見えず、どちらかというと、この雨の中、甲板上をぶらぶらと歩いているようにしか見えないのだが、その目の動きには無駄も油断もなく、犬養に対しても遠慮会釈なく値踏みする様にぶつけてくる視線は恐ろしく冷めたものがある。
(見張り……か)
犬養は無表情な船員の様子から、そう察する。よく見れば、彼らの作業服の左脇の部分は微かに盛り上がっており、その服の下に何が隠されているかは容易に察しが付く。船員と石光が二言、三言を、言葉を交わすと上司の連れが誰なのかを知った船員が途端に犬養に対し慇懃に振る舞い始めた。その変わり様、明らかに常から「敵と味方」しか存在しない世界に身をおく者である事が分かる。
「閣下。腰を抜かさないでくださいよ。ここに医者を呼ぶわけにはいかないんでね」
薄ら笑いを浮かべた石光は雨に濡れた山高帽を船員に手渡しながら、犬養へと話し掛ける。
「おふざけになるなよ」
からかう様な石光の調子に合わせた犬養に耳に船内から微かに機械音が届く。その規則正しい機械音は通常、船舶から聞こえるような類の唸るような機関の駆動音などではない。
案内の船員に前後を挟まれる形で、二人は船内を進む。途中、幾度も曲り角や階段、扉を通らねばならず、容易に目的地へとは近づけない。まるで迷路の様な作りだ。
小さな船とはいえ、さすがに老齢な犬養に階段の昇降はきつい。そろそろ膝が笑い出したくなる頃になって、ようやく目的地らしい船室の前に着く。先ほどの機械音はこの船室が発生源であったらしく、扉越しであっても大声を張り上げなくてはならないほどに喧しい。その扉の前には二人の男が立っており、彼らはもはや「船員ではないこと」を隠そうともせず、ドラム弾倉を抱えたシカゴ・タイプライターを両手に構え、石光と犬養に対しても一切の油断を見せることがない。
「閣下、本当に……本当によろしいんですね? お止めになった方が御為かと愚考しますが……」
先ほどまでの軽い調子が消えうせた石光は、改まった口調で犬養に再考を促す。その声音に微かではあったが哀願に似たものが含まれていることを感じる。それはまるで己の素性を知っても、相手に嫌わないで欲しいと願う花街出身の芸妓の様な匂いだ。
「くどい」
吐いて捨てるようにそう答えた犬養ではあったが本心では、見ない方がいいのではないか? と自問を繰り返していた。
「……はい」
短い沈黙の後、返事をした石光は小さくため息を吐き出すと、意を決したように重い鉄製の扉を押し開ける。
「なんてぇ真似、しやがんでぇ……」
長い沈黙の果て、犬養はようやく声を発した。
思わず、膝が震えだす。長々と階段や廊下を歩いたからではない。それとは異質の震え……。
「だから、申し上げました」
犬養をここに案内したのはやはり失敗だったか……自分への信頼を失ったのではないか? という恐怖を胸に、石光は顔をやや硬直させたまま答える。
その船室の中におかれた機械の数々。
それは「印刷機」と呼ばれるものだった。
そして、その印刷機の凹板から吐き出される紙……それは紛うこと無く紙幣。昨今、中華民国の承認の下、英国系の二つ銀行が造幣を許可された通称・中国ポンド。
「どういう……どういう事だ?」
「買いました」
意を決した石光は説明を始める。
馮玉祥の反乱、曹昆一派の壊滅、そして張作霖による民国総統位継承――――その一連の動きの中で曹派残党と張・呉新政権側との間で大規模市街戦の行われた天津。その天津市街の一角にあった英国系銀行の造幣所は両派の激突に巻き込まれ、戦火の中で焼け落ちた。
しかし、混乱の中、印刷機は曹派残党によって接収されており、その情報を得た石光が買い取ったのだ。無論、その購入資金は彼がホイットワース&カリフォルニア銀行奉天支店の地下に隠匿していたルーブル金貨から出ている。
原版は無事ではあったものの印刷機自体は損傷しており修理が必要だったが、幸いにも交換部品は造幣所に勤務する現地職員を買収して正規品を英本国から取り寄せることが可能となった。印刷機丸ごとであれば怪しまれもしようが、こまごまとした部品の注文、足がつく恐れはない。また、延焼を免れた造幣所の倉庫には未使用の紙幣用特殊用紙や、紙幣独特の手触り感を出す高粘度のインクが大量に保管されてもいた。
原版、印刷機、用紙、インク。
全てが本物であり、そこから作り出される中国ポンドは本物の紙幣と寸分たがわぬ偽札。一つ間違えば、中国経済を破滅させかねず、一件が露見すれば日本は犯罪国家の汚名を甘受せざるを得ない代物。
「残念ながら我々の手に入れた原版は壱元と伍元のみ。せめて十元であったならばもう少し稼げたのですが……この偽造紙幣を上海の幇(犯罪組織)に流します。彼らはこの紙幣の普及により力を失いつつある銀荘との関係が深いですから、彼らにとっても悪い話ではありません。彼らは格安で紙幣と銀の兌換が可能となり、我々は対価として手に入れた銀で正規の中国ポンドに兌換し直しますので、我々が市場に直接、偽札を流すことはありませんし、現在は正規紙幣が流通をはじめて時間がたっておりません。故に彼の地にては少なからず混乱が続いておりますので、その隙に乗じて……」
淡々とそこまで言うと石光は一旦、言葉を切る。周囲に沈黙が訪れ、静寂の中、印刷機の喚く作動音のみが響き渡る。犬養は無言のままだ。
「勿論、幇には我々が取引相手であるとは知られていません。念の為、いくつもの組織や銀荘を介して少量ずつ流していますので……その危険はないとお考えいただいて結構です」
(慰めにもならねぇ)
そう言いたげな顔で沈黙を続ける犬養の気配に気圧されたのか、ついには石光も押し黙る。
(この心地よき関係もここまでか……)
やや物哀しげな表情を浮かべている主の横顔を盗み見ながら、猟犬は諦念とこの関係が解消された後の事を考える。果たして自分はこの先、何を求め、生きていくのだろうか……。
(いやだ)
野良犬の様に打ち捨てられ、見限られていた自分を拾ってくれた狂犬の二つ名を持つ主。主の為なら、どんな汚名も悪名も受け入れる。愛する妻や子たちの孫々に至るまで世間に指差されようが構わない。
沸き起こる想いを言葉にしたいが、それが唇から洩れ出すことはない。自分の存在が主の枷になる……その理性が寸前で全てを押しとどめる。
「石光君」
犬養は呟く様に微かな声を出す。感情のこもらぬ、平板で氷の様に冷え切った声。
「私が下船したら、この船を直ちに出港させなさい」
「……はい」
石光は、犬養の命、全てを受け入れるつもりだ。沖合で自沈させよというのであれば、自らも、そしてこの一件を知る部下全員もろとも黄海の底で黄泉へと旅立つ。
「行先は旅順が良い。旅順港に向かいなさい」
「……?」
主の意図することが分からず、猟犬は一瞬、困惑し……そして気が付く。
「なるほど……閣下にはかないませぬな」
先ほどまでの焦燥は既に消え去った。今では主の意図を寸分違わず理解していた。
「この一件、露見した際には米国の仕業にみせよ……と?」
「ふん」
その顔は、皆まで言わすな、と語っている。石光が犬養に己の悪業を見せてしまったことを後悔しているように、犬養は犬養で石光に己の策士としての悪辣な一面を見せてしまったことを少しだけ悔いている様子であった。