第26話 渤海炎上 (12)
大正十四年四月十日
(1925年4月10日)
スイス連邦・ジュネーヴ
国際連盟 総会議場
「賛成47、棄権1。以上の結果により連盟総会は、十カ国特別委員会に本件調査及び裁定の全権を委任することを議決する」
英国との事前打ち合わせに何らかの齟齬があったのか、英国一党が賛成票を投じる中、何故かフランスが棄権するというハプニングに対し、議場のあちらこちらから失笑がもれる。
フランス代表を嘲る上品な野次が飛び交い、思わぬ開票結果に目を丸くしたフランス代表は頬を赤らめ、ただ、うつむく。
紛糾を極めていた中国問題に対する一つの解決案としてイタリア代表が提示した『十カ国特別委員会』への全権委譲が今、決議されたのだ。
『全会一致』を金科玉条とする限り、出口の見えない論争を続けなければならなかった各国代表はフランスの粗忽さを嘲笑しつつも内心、安堵のため息をつく。
そのため息を吐く群れの中に、日本全権・安達の姿もある。
後に国際的な問題発生の度に有志各国により結成され、連盟総会が陥りやすい機能不全状態を補完しつづけた『十カ国特別委員会』は、この中国問題を嚆矢として始まったとされる。
この日、中国問題を調査し、裁定を下す権利を与えられた委員会の理事国には、本来であれば四常任理事国プラス加盟六カ国の編成となるべきであったが、英国は当事国であるからして当然ながら参加はできない。
同じく常任理事国のフランスは決議への棄権という痛恨のミステイクを犯した事により、参加は見合わせざるを得ず、結果、自薦他薦により立候補した十七カ国のうちより、互選により十カ国が選ばれた。
満場一致で文句なしの当選を決めたのは大日本帝国、イタリア王国の二常任理事国。
これに続いたのは常任理事国拡大が噂される中、理事国入りを目指して存在感を示したい三カ国、即ち「スペイン語圏の宗主国」スペイン、「南米の超大国」を自負するブラジル、そして先年のクーデター以降、日本との急接近が噂されるポーランド。
更には国民総生産世界第六位で列強に次ぐ存在として欧州大戦以降、メキメキと頭角をあらわしてきた南米の雄・アルゼンチンがブラジルへの対抗意識剥き出しに立候補し当選を決める。
利害関係がなさそうで、実はさりげなく共同租界の顔役的存在である北欧諸国を代表してデンマーク、続いては「米国の代理人」格のベネズエラが中南米票を、同じく「英国の代理人」格のオーストラリアが英国一党票を手堅くまとめ上げて当選、最後の一国は関東大震災に際して、米英に次いで三番目に巨額の緊急資金援助を日本政府に行い、その気前の良さで世界を驚かせた「欧州金融界の首領」ベルギーの以上十カ国。
総会より全権を委譲された『十カ国特別委員会』は、無記名投票の多数決により最終裁定を下す事とされ、その前段階として委員会は日本の提案にあった『調査団』の派遣を即日、決定した。
この『調査団』による調査期間は最短でも数か月を要すると見られ、中華民国、中華連邦、英国租借地・威海衛、米国租借地・関東州を巡り、日本が提供する東京帝国ホテルのライト館を拠点に年内中には、その報告書を提出する事を求められた。
そして幸か不幸か、この『調査団』の責任者には、この問題の「言いだしっぺ」として日本が選任される事となった。
東京 千代田区九段南
東郷邸
暖かな春の日差しの中、東郷とその一党は彼らの本丸・東郷邸の中庭に面した濡れ縁に参集していた。
東郷好みに渋く淹れられた茶を手に彼らは濡れ縁に居並び、腰かけている。
老人の目に春の日差しは眩しい。
彼らは自然と目を細め、雀のさえずりや、宙を舞う燕の軽やかな姿をただ見つめる。
今更、交わす言葉とて多くはない。
中央に座る東郷の右手に山本、金子、高橋。
左手には秋山、柴。
「柴さん」
そろそろ昼時を過ぎようかという頃、ようやく東郷が口を開く。
「はい」
手にした元帥刀を地面に突き立てる様にして立ち上がった柴は、東郷の前に進みいでる。
今にも片膝をついて、右こぶしを大地に突き立てて頭を垂れかねない雰囲気はまるで古武士の様だ。
「お願いできますか」
「はっ」
柴は即答し、うっとりするほど見事な敬礼を行うと、東郷邸を後にする。
何をしろとも、どこへ行けとも言わない。
言わずとも、互いに何をすべきか、知っている。
東郷が、柴に元帥杖を与えてまで現役への復帰を求めた理由は、柴という人物の過去を振り返れば明らかだ。
――――今を去ること四半世紀前、1900年に発生した『義和団の乱』に際して、素人同然の義勇兵を含めて八カ国連合軍を実質的に指揮し、数十倍の義和団兵を相手に北京籠城五十五日を戦い抜いた闘将・柴五郎中佐
その指揮能力、折衝能力自体の高さも尋常ではないが、何より籠城開始当初、柴以下の日本人を軽んじていた英・米・仏・独・露・墺・伊の白人国家関係者を瞠目させ、最終的には心服せしめた胆力、人間力。
そして、この時の柴以下、日本兵の働きは北京駐箚英国公使マクドナルドに感銘を与え、ひいては英国に「栄光ある孤立」の国家方針を捨てる事を決意させ、日英同盟結成へと動かし、数年後の日露戦争勝利へと繋がる。
元帥陸軍大将・柴五郎軍事参議官に求められたのは日本がホスト役を務める『調査団』の団長として各国代表をまとめ上げること。
英仏支語を自在に操る語学能力に加えて列強間における知名度、信用という面において柴五郎は正にうってつけであり、実際、この人選に最も素早く歓迎の意を表明したのは他ならぬ当事国の英国だった。
後の世に『シバ調査団』として知られる十カ国特別委員会調査団はこうした経緯を持って派遣される事となった……。
先手、先手と先を読み、着実に手を打ち、主導権を握り続けてきた東郷一党。
しかし、やはり、彼らは神ではなく、思わぬ誤算が静かに始まっていた。
中華民国 北京
――――中華民国陸軍参謀総長・呉佩孚、山海関へ出陣。
待ちに待った、この一報を耳にした民国陸軍検閲使・馮玉祥は予てよりの計画に従い、直ちに指揮下の西北辺防軍7万に対し、出撃を命じた。
作戦計画によればこの時、先鋒部隊を指揮するのは、馮玉祥配下で『十三太保(十三人衆、或いは十三将の意)』の一人に数えられる第一軍第二師団長の孫良誠の筈だった。
何故、筈なのか?
その理由は、馮玉祥の発令した事実上の「略奪解禁命令」によるところ大きい。
北京制圧には、一分一秒を争う。
馮は自身の部下達の欲を刺激する事によって、この一分一秒を稼ぎだそうと画策し、その結果、導き出された命令が事実上の「略奪解禁命令」であり、この解禁により7万の大軍は味方同士、先陣を争うように進撃を開始した。
張家口から北京まで僅か150キロ。中国北方の騎馬の地を支配下に収め、馬賊、野盗の類でさえ指揮下に吸収して肥大化した馮玉祥の部隊は大半が騎兵化している。
剽悍にして苛烈、蛮勇無比なる北の猛兵は天馬を駆り、張平北道を一路、南下した。
その経歴から『現代の呂布』と陰口を叩かれる馮玉祥であったが、裏切りと叛逆に塗れた半生だけでなく、その勇猛ささえも、しっかりと呂布から受け継いでいた。
方天画戟や弓矢こそ用いないが、馮玉祥は部隊の先陣にあることを好む質の将であり、卑怯な人物ではあっても、決して臆病な人物ではない。
呉佩孚が、北京周辺の守備兵まで根こそぎ動員して山海関へと向かった事もあって途中、抵抗らしい抵抗こそなかったとはいえ、文字通り北京への『一番槍』を成し遂げたのは彼と、彼の直属部隊であった。
「揉み落とせ!」
北京の北を守る白玄門を前に馮玉祥は車上から腕組みをした体勢のまま、命令を下す。
十をもって一に当るどころではなく、百をもって一に当る程の戦力差。
僅かばかりの警備兵、それも一門の砲すら持たない軽火器ばかりの警察部隊と、重火器装備の軍隊との激突、たとえどんなに地の利を得ようとも端から勝負になる筈もない。
阿鼻叫喚の地獄絵図を描きながら、馮玉祥の部隊は拳銃弾を撃ち尽くし、警杖しか持たない警官達を一方的に殺戮し、城内への突入を成し遂げる。
見る見るうちに北京市内の数十か所から一斉に火の手が上がり、血と硝煙の異臭が辺りに立ち込める頃には、命乞いも、神への祈りも、何ものも興奮した彼らを止める事は出来なかった。
哀願と銃声、そして悲鳴が繰り返される北京市内に安全な場所は無く、大地は下卑た笑い声とすすり泣く声が支配する暗黒の夜へと向かう。
職務に忠実で勇敢な警官達の命を奪い、非道への義憤に駆られた市民の抵抗を嬲る様に押し潰し、馮玉祥軍は広大な市内全域へと散り、戦闘地域という名の無法地帯を拡大する。
いまだ支配下に入っていない町区の街路では、難を避けようとする市民が押し合い、新たな罪のない悲劇が次々と生まれ落ちる。
運悪く、道に転び倒れ込んだ者は、後から続く者に「すまない」と声を掛けられながら踏み殺され、奔流の様な人波に押し出された者が民家の壁に押し付けられたまま声も出せずに圧死していく。
年頃の女達は皆、自らの髪を切り落とし、麗しい柔肌に泥や人糞を塗って災厄を逃れようとし、男達は子を抱き、老父老母を背負い、逃げまどう。
果てしない闇の帝国が北京に出現しようとしていた。
大総統・曹昆の立て篭もる大総統府の城門がついに破られたのは、既に闇が空気を支配する頃であった。
夕刻間際に始まった北京市内突入からまだ数時間しかたっていない。
「奸賊・曹昆は捕えよ、殺すな」
命令が部隊を駆け巡り、この日、兵の勢いのままに指揮をしていた馮玉祥は初めて命令らしい命令を出した。
正面門を吹き飛ばし、第二門を瓦礫へと変え、大総統府本館前の広場に面した第三門を蹴破ろうとした頃には、完璧な勝利を確信した馮玉祥自身も先頭に立つ部隊の一員に紛れて、側近たちと談笑している。
張作霖との決戦に向かった呉佩孚は大総統府の守備兵まで動員していったらしく、既に組織だった抵抗どころか、散発的な銃声さえ一帯からは聞こえない。
工兵の手によって第三門に爆薬が仕掛けられ、点火される。
轟音と共に炸裂した大量の爆薬は、門の左右数メートルの漆喰塗土塀ごと吹き飛ばし、砕けた土塀や木材が周囲に飛び散り、砂塵が辺りを覆いつくす。
内部からの抵抗が先程来、止んでいた事から、馮玉祥は既に大総統・曹昆が降伏するつもりであると確信していた。
最後まで門を開かなかったのは、大総統としての最後の意地だろう。
「褒めてやる、曹昆」
漂う砂塵の収まるのを待ちながら、余裕の馮玉祥は、こみ上げる笑いを抑えられない。
(今日の曹昆の運命こそ、明日の張作霖よ……)
馮玉祥が北京を制圧した事によって、山海関に向かった呉佩孚は補給線を絶たれた上に、前後から挟み撃ちの状態に陥る。
呉佩孚が中国の未来に自らの未来を重ね合わせる事を選ぶのであれば、名声を保つ為に馮玉祥と一戦を交え、何とかして、その本拠地である洛陽へと落ち伸びようとするだろう。
しかし、恐らく
(そうはなるまい)
と、読んでいる。
馮玉祥の知る、呉佩孚は実に合理的で、計算高い人物だ。
名誉よりも、利を尊ぶ質であり、その結果、自分は裏方に徹し、曹昆を擁立して実権を握るという現在の直隷派体制が生まれたのだ。
挟撃される可能性が分らぬはずはない。
恐らく呉佩孚は戦う道よりも確実に生き延びる道を選択し、天津辺りで軍を解散し、英国を頼って威海衛へ逃げ込むだろう。
(俺なら、そうする)
知将であるが故に臆病な一面のある呉佩孚を古くから知る者として、馮玉祥はそう確信していた。
問題は、その後……。
勝利を掴んだ張作霖の北京入城を待って
(殺す)
張作霖をおびき出す為には、曹昆の身柄が絶対的に必要だった。
長年のライバルであり、敗軍の将となった曹昆に屈辱的な降伏文書を書かせる席に、虚栄心に満ち溢れた張作霖は必ずや同席を希望し、少数の兵を率いて先行し、入城して来るはず。
驕れる張作霖を誘い出し、そこを
(殺す)
薄れゆく砂塵を見つめながら、馮玉祥は心の闇の底で呪文のように、その言葉を繰り返す。
何度も、何度も、繰り返し続ける。
曹昆も、呉佩孚も、張作霖の運命も我が手に握った。
見果てぬ夢であった大総統の地位まで、あと一歩。
砂塵が舞い落ち、視界が開けた大総統府本館前の広場は、電力が遮断されたのか闇に包まれていた。
「中隊、前へ!」
「何でもよい、灯りを! 急げ」
馮玉祥の親衛隊とも言うべき中隊を率いる中隊長は矢継ぎ早に命令を下す。
さすがに大軍閥の正規部隊、精鋭揃いであり、その動きに迷いも乱れも無い。
兵達は無意味な吶喊の声もあげず、粛々と、一切の恐れを見せず漆黒の広場内に足を進め、その辺りに落ちていた木切れに布を巻き付け、灯油で湿すと松明がわりにして広場の奥へと侵入を開始する。
(曹昆は頭を垂れ、両腕を前に組み、両ひざを地につけ、俺を出迎えるだろう)
昨日までの主人の憐れな姿を想像した馮玉祥は、焦れったい気持を抑えつつ、松明の灯りが広場の中央に届くのを待つ。
ようやく、灯りが闇を払い、何かを照らし出す。
広場の中央におかれた、一抱えほどある三つの庭石の様なもの……。
それは、生首だった。
「馬鹿な!?」
剃りあげた頭部、見事な口髭、炯炯たる三白眼。
半白の短髪に威厳のある顎髭、棘のある細く鋭い切れ長の目。
こけた頬にくぼんだ眼、異様に高い鼻。
大軍を自在に操り、この国の政治を壟断し続けた兄弟の首が、いずれも憤怒の形相を浮かべたまま、石畳の上に三つ並んでいる。
一つは、中華民国大総統にして直隷軍閥総帥・曹昆。
一つは、その次弟で直隷軍閥天津派の領袖・曹鋭。
一つは、三兄弟の末弟で精強を謳われる民国第二十六師長・曹英。
首の近くには後ろ手に縛られた三人の亡き骸が無惨にうち捨てられている。
「何故……?」
困惑が馮玉祥の脳裏に広がり、次第に不安へと変化を遂げる。
「誰が……?」
「随分と勇ましいな、玉祥。やはり、貴官自ら来たな」
その声と共に突然、広場が投光機によって真昼の様に照らし出される。
灯りの広がりと共に、広場内各所に積み上げられた土嚢、数十丁の機関銃、広場を埋め尽くす様に蠢く、薄い茶褐色の軍服を纏った民国兵が次々と馮玉祥の視界に入る。
だが、その民国兵達の姿は馮玉祥の脳細胞には届かない。
まるで視神経が麻痺したかのように……。
馮玉祥の視線はただ一点、大総統府本館玄関前の一段高くなった、ポーチに注がれており、そこには在ってはならない、居てはならない人物が床几に座っている。
その人物は、大股を開いてどっかりと座りこみ、左膝に左肘を預けて頬杖をつき、右手では大地に突き立てる様に軍刀を手にし、馮を睥睨している。
「呉……佩孚!」
馮玉祥の口から呻く様にその名がこぼれ出す。
「あまりに遅いので心配したぞ、玉祥」
呆れる程、あっさりとした挨拶、呉佩孚の口調に裏切りに対する怒りは無い。
ただ、静かに勝利の味を愉しむ様子だ。
「ところで、貴官が信じる神は今、何と言っているのかね?」
クリスチャンを気取り、白人社会におもねる馮玉祥に痛烈な嫌味を言い放ち、快心の笑みを相貌に浮かべた呉佩孚は優雅な仕草で胸ポケットから煙草を取り出し、唇に咥える。
そのまま、口をパクパクとさせただけで、うまく言葉を吐き出せない馮玉祥が落ち着くの待つつもりのようだ。
ようやくにして、馮玉祥が何がしかの「一身上の弁明」を口に出そうとした瞬間、それを遮るように告げる。
「さようなら、玉祥」
呉佩孚はスッと立ち上がると広場に背を向ける。
「ま、待て!」
その絶叫はもはや呉の心に届かず、振り返らせることは出来ない。
「馮玉祥! 曹昆大総統閣下殺害、並びに国家反逆罪により即時、死刑に処す!」
呉の横で侍立していた腹心の部下、白堅武がニヤついた顔を引き締め、大声で命令を下す。
「待ってくれ! 呉! 俺じゃない!」
一代の梟雄・馮玉祥の最期の言葉は、北京の夜を貫く銃声にかき消された。
足早に大総統府本館の奥へ、奥へと呉佩孚は歩む。
「済みました」
後ろから追いかけてきた白堅武が、まるで用便でも済ませて来たかのような軽い口調で報告する。
馮玉祥の部下を殺戮しているのだろう、いまだに広場の方向からは絶え間なく銃撃音が聞こえてくる。
「御苦労」
目に少しだけ笑いを浮かべ、前を向きながらそう短く答えた咥え煙草姿の呉佩孚は、そのまま本館の裏門の階段を駆け下りながら、思い出した様に命ずる。
「白、貴官に辺防軍を預ける。市内にいる馮の配下は一人残さず殺せ。市民も喜んで協力してくれるだろう」
「はっ」
馮玉祥は既にこの世になく、その事実を知らない配下の兵達は暴虐の限りを尽くすべく北京市内全域に散っている。
七万を数える馮軍だが、民国最強最精鋭部隊である辺防軍三万に比べれば、兵力以外の全ての面で劣っているし、指揮系統が消滅した今となっては、各個撃破は思いのままだ。
白堅武は北京市民の復讐を遂げられる喜びに一しきり打ち震えると、跳ねるような勢いで、その場を離れていく。
――――盛大な出陣式まで行い、わざと北京の守りを疎かにした呉佩孚は、山海関へと向かう十万の民国軍から密かに辺防軍三万を引き抜き、自らが直率して引き返して来ていたのだ。
しかも、馮軍に気付かれぬ様に大きく北京市の南側を迂回した辺防軍は、曹昆兄弟の籠る大総統府を馮軍来襲の混乱の中、たやすく制圧し、訳も分からず茫然自失の態の三兄弟の身柄を確保すると馮軍が突入してくるのをひたすら、待ち続けていたのだ。
無論、曹三兄弟殺害の罪を全て馮玉祥になすりつける為に……。
大総統府裏門前には黒塗りの高級乗用車の群れがいずれもエンジンをかけたまま停車していた。
その内、一台の後部座席ドアが従卒によって開かれ、呉佩孚は迷いも無くその車に乗り込む。
一群の乗用車はいずれも北京駐箚英国公使館に属する車両、つまりは、たとえ復讐に怒り狂った馮玉祥の配下であっても、おいそれとは手だしの出来ぬ存在であり、この北京において現在、最も安全な場所だと言える。
もし、万が一、手を出せば、大英帝国がその総力をもって相手をする事になるからだ。
「首尾は如何ですかな?」
呉佩孚の乗り込んだ乗用車の後部座席には先客がいた。
「全て順調です、リットン公使閣下」
「よろしい……至極、よろしい」
返答に満足気な笑みを浮かべた北京駐箚英国公使ビクター・リットン伯爵は前を向くと運転手に命ずる。
「急げ。邪魔立てする者は、誰であろうと轢き殺しても構わぬ。事は一刻を争うのだぞ」
血と、炎と、哀しみに満ちた北京の夜、一群の高級車が場違いな猛スピードで東へと疾走していく。
特別列車の待つ天津へと。
中華民国 山海関
翌朝
一夜が明けた。
昨夜半に発生した北京での変事はこの地にいまだ報じられてはいない。
軍服の袖裾を少しめくった張作霖は時間を確認し、無言で立ち上がる。
傍らには緊張した面持ちの先鋒軍を率いる楊宇霆、そして中華連邦軍参謀総長・郭松齢。
「誠に行かれるので?」
張作霖股肱の臣である楊宇霆が躊躇いがちに再考を促すと、傍らの郭松齢も小さく頷き、不安げな様子を見せる。
問われた張作霖自身も悠然とした風を装っているものの、顔色は酷く蒼褪めており、その内心の緊張を隠しきれないでいる。
「参る」
問いには答えず、張作霖は自らを鼓舞するかのように短く命ずると、その決断に翻意を促す事を諦めた楊宇霆、郭松齢の両者は無言で頭を垂れる。
自軍の両翼とも言える二人の知将を幕舎に残し、幌の外された軍用乗用車に乗り込む。
大きく息を吐き出した張作霖は、後部座席で立ったまま、白手袋に包まれた左手で助手席の背もたれをしっかり掴むと、拳にした右手を自らの腰にあてる。
視線を前方の一点に固定し、傲然と胸をそびやかす。
威風堂々たる偉丈夫姿。
幕舎の前をゆっくりと滑る様に走り出した軍用自動車は無数の着弾孔を避けながら静かに前線へと移動する。
張作霖の姿を見つけた連邦軍将兵が歓声を上げ、その名を連呼する中、実に見事な男振りで彼らの士気を鼓舞する。
彼の乗る軍用自動車は前へ、前へと進んでいく。
中華連邦軍の最前線、塹壕と鉄条網を超え、両軍の睨み合いが続く1キロほどの空間に軍用自動車は進み出る。
前方には瓦礫の山となった山海関。
周囲に人影はなく、張作霖と運転手、そして副官の三名だけが、その空間で動き、息をする者だった。
ちょうど軍用自動車が空間の中間点辺りまで進み出て、停車した時、山海関側から一台の車が進み出てくる。
その自動車には、張作霖と同様に後部座席で仁王立ちし、奇しくも、全く同じポーズで中華民国将兵の歓声を背後に受けている人物がいる。
呉佩孚だ。
張作霖と呉佩孚をのせた車は両軍最前線から等しい距離で停車する。
先に着いていた張作霖は車上、姿勢を変えぬまま、遅れて登場した仇敵・呉佩孚を半眼で静かに睨みつける。
両車の距離が数歩となった時、呉佩孚は軽やかに車上から飛び降りると、徒歩で張作霖に近付く。
視線が一瞬交錯するが、先に目を逸らしたのは呉佩孚だった。
彼は、片膝を付き、頭を垂れ、両腕を頭上で組むと、用意の口上を述べる。
「お待ちしておりました、“新”大総統閣下」
「出迎え大義である。面を上げられよ」
「はっ」
自らも車上から降り、呉佩孚に手を差し伸べて立ち上がらせる張作霖は実に鷹揚に振る舞う。
二人は固く握手を交わす。
瞬間、両軍の陣地より爆発的な歓声が上がり、それはいつしか張作霖の名を連呼するものへと変化していく。
地響きの様な歓呼の中、張作霖は無表情なまま、問い掛ける。
「全て終わったか?」
「つつがなく。“前”大総統・曹昆閣下を弑殺した馮玉祥、既にこの世の者ではございません」
「曹昆は……苦しまずに?」
「決して」
「うむ、さようか……御苦労であった」
二人は呉佩孚の乗って来た車に並んで乗り込むと、両軍将兵の歓呼に答えつつ、山海関へと向かう。
そこには、大英帝国北京駐箚公使ビクター・リットン伯爵が待ち受けている筈だ。
シルクハットを手にしたリットン公使は大袈裟な挨拶で中華民国の新たな大総統に就任する張作霖を出迎える。
「御祝いを申し上げます、“新”大総統閣下」
「これは公使殿、このたびは我らの仲介にご尽力を頂き、感謝の言葉もありません」
「何の、何の」
リットン公使は張作霖の言葉に、にこやかな笑みを浮かべて返す。
「それはそうと、大総統閣下……御約束に相違はございませんな?」
英国紳士は、あくまでも優雅に釘をさす。
「御心配には及びません。私の大総統就任式と同時に現・中華連邦政府は解散し、民国政府に合流致します」
張作霖の言葉に一瞬、リットン公使は不快気な表情を見せるが、それは極短い時間であり、紳士の仮面の下にたちまち消え去る。
中華連邦政府の解散宣言は、英国が張の民国大総統就任を保証する為の保険だという事に気がついたからだ。
もし、英国の対応や出方が気に入らなければ、張はいつでも中華連邦に戻れる。
さすがは張作霖、一筋縄ではいかない。
「心配召されるな。大英帝国はその全力をもって民国政府並びに張閣下の庇護者としての責を真っ当致します。世界の誰にも……たとえ米国であっても閣下の正統なる地位継承に口出しはさせませぬ。全て我らにお任せを」
「貴国の御心遣い、感謝に堪えません。この作霖、安心致しました……ところで、呉将軍」
「はい」
二人の会話を、頭を垂れて聞いていた呉佩孚がようやく面を上げる。
「故・曹三兄弟の地盤、保定と天津は貴官に委ねよう。それと国務総理への任命、これも約束通りに」
「有りがたき幸せに存じます」
面体に喜色を浮かべつつ、呉は畏まる。
内陸の保定はともかくとして、華北最大の港・天津を支配する旨味は、今は亡き曹三兄弟の巨大な経済力を見れば容易に想像が付く。
名より実を尊ぶ呉佩孚にとって、天津は喉から手が出る程、欲しい街だ。
その上、他国で言えば首相に相当する国務総理への就任……。
非公式な実権を掌握していたとはいえ、陸軍参謀総長に過ぎなかった曹昆時代に比べれば、国務総理への就任により、その権限は完璧な合法性を帯びる。
「貴官に注意すべきはただ一点、私を曹昆と一緒にするな……それだけだ」
やや厳しい口調で張は言う。
自分を傀儡として実権を握ろうなどとは思うな……という意味だろう。
「肝に銘じております」
元より自ら大総統への就任など、全く欲してはいない。
欲していれば、曹昆の首などいつでも取れた。
それをしなかったのは己の力量、器を見切っているからであり、欲しい物を手に入れた以上、その上を望む気はない。
両者の利害は一致している。
――――大英帝国の威信を賭けた、秘中の秘策。
中華連邦臨時大総統・張作霖は、ここに中華民国第七代大総統の地位を継承。
内戦は終結した。