第25話 渤海炎上 (11)
合衆国 ワシントンDC
ペンシルバニア通り1600番地
ホワイトハウス 三階
合衆国北東部からカナダ東部にかけては、古くよりカエデ糖の一大産地として知られる。
雪解けの季節、砂糖カエデの生命力が冬の眠りから目覚め、再び活性化する時期、その幹に丁度親指が入るぐらいの穴をあける。
その穴に長さ20センチ程のパイプをいれ、その先にバケツをつり下げると、パイプを介して穴からカエデの樹液がゆっくりと滴り落ち、バケツにそれがたまる。
このバケツにたまった樹液を集め、上下に長いメスシリンダー状の容器に移し替えて弱火でトロトロと過熱する。
この時、沸騰させてはならない。
ただひたすら、弱火で樹液の水分を飛ばし続ける。
微妙な火加減を操り、最後に全ての水分が飛んだ時、容器の底に少しばかりの琥珀色に輝く強粘度の松脂状の物体が残る。
それを別容器に移し、粗熱を取り除くと固形化する。
これがカエデ糖だ。
この固形状の塊を砕き、粉末状にしたものは独特の風味があり、ドーナツやクッキーなど菓子作りには欠かせない味として合衆国においては、古くから親しまれている。
砂糖輸入が自由化されて以来、すっかり廃れてしまった感のある、このカエデ糖作り、それ以前の時代においては貧しい農家の種蒔期前の重要な副業であり、樹液の採取から煮詰めて完成させるまでは農家の少年少女たちの仕事でもあった。
バーモント州の片田舎、清貧な教師の家庭に育ち、幼くして母を結核で失ったカルビン少年は、このカエデ糖造りで稼いだ金をコツコツと貯め、己の学資とした。
寒い早春の朝、樹林を駆け巡ってバケツの中身を採集して歩いた日々から40年あまり……。
至高の権力と名誉を意味する合衆国大統領職に就くという人生の成功を収めた今、幼き日々への感傷に浸れるカエデ糖作りは彼の趣味となっている。
ホワイトハウスの三階の一室、アルコールランプの炎が樹液の満たされたブリキ容器を加熱している。
白い襟なしシャツに濃灰色のズボン、そして大きな白い作業エプロン姿のクーリッジは時折、温度計を差し込んで樹液の温度を確認すると、ランプを遠ざけたり、近づけたりしながら、容器に加わる熱の調節に余念がない。
「大統領閣下、ジョンソン特使への返答は如何、致しましょうか」
一心不乱に炎をみつめ、一人頷いたり、首を振ったりしているクーリッジの横から、そう述べたのは新任の国務長官フランク・ケロッグだった。
法曹界出身で謹厳な眉と厳しい眼光が印象に残るケロッグは、つい先頃まで英国駐箚大使を務めていた人物であり、政権内屈指の英国通でもある。
背後に有力閣僚一同を従え、その代表として大統領に問い掛けるケロッグ長官が口にした「ジョンソン特使」とは、合衆国が国際連盟に派遣している共和党所属でカリフォルニア州選出の上院議員ハイラム・ジョンソンの事だ。
ジョンソンは、この前年の大統領選挙予備選においてはクーリッジの対抗馬の一人として出馬し、大敗を喫した過去を持つが、この予備選挙自体が圧倒的クーリッジ人気を前にした半ば出来レースのような予備選であり、敗北は最初から確定しているも同然のものだった。
それでも民主主義制度の建前上、誰かが対抗馬として立たねばならず、そういうタイミングで立候補する、という決断を下せる人物というのは実に希少な存在である。
だからこそ、クーリッジもそして共和党の幹部達も、ジョンソンに対して敬意を持っていたし、今回の様な“特別な”総会に特使として派遣する名誉を与えたのだ。
ちなみに親日家として知られた故セオドア・ルーズベルト大統領子飼いのジョンソンは、日本と何かと縁の深いカリフォルニア州知事を務めた事もあり、師同様に日本通として政権内部では名が通っている。
一昨年、クーリッジが日系移民排斥を目的とした排日移民法制定の動きに対し、徹底して不快感を示し続ける事が出来たのは、党内人権擁護派、リベラル派の領袖であるジョンソンの後押しも実のところ、大きかった。
古典的自由主義者のクーリッジ、リベラル派のジョンソン、二人は全く違った信念から同法に反発していたのだが、弁が立たない上に感情的に反論することしか出来なかったクーリッジに比べ、あくまでも理知的、論理的にその無法を批判していたジョンソンの力は大きい。
二人は、最終的に同法が東郷訪米の乱痴気騒ぎのうやむやで廃案となったことに関して、合衆国の名誉の為、心底、喜びを覚えたものだった。
クーリッジはブリキ容器に差し込んだ木ヘラを丹念にまわし、樹液が均一になる様に静かに撹拌を行いながら、背後で執事の様に控えるケロッグ長官に問う。
「国務長官はどう思うのかね?」
「調査団派遣など到底、受け入れられません。ここは、否決すべきでしょう。既にベネズエラのゴメス大統領閣下より、いつでもその先陣を切る、との申し出がございました」
ケロッグ長官の言葉に、その背後に居並ぶ閣僚陣も静かに頷く。
「そうか……ネッドはどう思う?」
クーリッジの傍らで、さも興味深げにカエデ糖作りを見学していたエドウィン・デンビ海軍長官。
ケロッグ国務長官はクーリッジがこの道化師をエドウィンの愛称である「ネッド」と呼んだ事に少なからず衝撃を覚える。
(それほどまでの仲なのか……?)
法曹界出身のケロッグにしてみれば、この様な汚職の腐臭を放つ人物を閣僚の地位につけたまま、あまつさえ相談役的なポジションを与えているクーリッジの見識を疑いたくなる。
だが、それは口に出せない。
今や間違いなく、デンビ海軍長官はクーリッジ大統領のお気に入り。
前任者チャールズ・エヴァンズ・ヒューズ国務長官からの申し送りにも、この一件には触れるな、とわざわざ忠告されている。
ケロッグ同様に法曹界出身で、その厳格な人となりで知られたヒューズ前国務長官は申し送り書の最後にこう記している。
「彼は我々とは出自も素性も視点も違う。だが、その違いこそが希少なものであり、一国を率いる者には多種多様な考えや思想を尊重する見識も必要なのだ、ということをよくよく理解しておく様に」
ネッドと呼ばれたデンビ海軍長官は、大統領の質問に答えない。
少しだけ、小首を傾げ、肩をすくめると、再びカエデ糖作りの作業に見入る。
問い掛けたクーリッジでさえ、それ以上、質問をする気はないらしい。
「大統領閣下、では否決で宜しいですね? ベネズエラ大使にはその旨、伝えておきます。それと……」
「それと?」
ケロッグ国務長官の言葉を、作業に没頭しながらもクーリッジは問い返す。
「日本への何かしらの報復……いや、これは語弊がありますな。彼らに何らかの制裁を行うべきでしょう。我らを誹謗し、中傷した罪を贖うべきです」
「ふむ、そうか。あまり、気が進まないな……ネッドはどう思う?」
クーリッジは再び、デンビ海軍長官に問う。
(これでは、誰が国務長官なのか分らないではないか!)
新任とは言え、大統領閣下は自分をないがしろにし過ぎなのではないか? と面目を丸潰れにされた事に対し、怨嗟の黒い炎が腹の底でくすぶる。
「報復? 制裁……? 褒美ではなくて、ですか? ケロッグ長官」
大統領権限継承順位第四位という閣僚中、最上位に位置する云わば格上の国務長官を前にして、デンビはケロッグの方を向くでもなく、まるで格下の相手に対する態度で喋る。
「日本政府は、我が国に合力すると宣言したのですよ? 何故、彼らに褒美ではなく報復を?」
「デンビ長官、おっしゃっている意味が分りません」
デンビの言葉に、ケロッグは正真正銘、面食らう。
それまで英国非難の急先鋒だった日本が、突然、米国が半ば公然と後押ししている連邦の正統性を問うて来たのだ。
無論、各種条約で結ばれた主権国家同士、表立って制裁を行う訳にはいかないが、何がしかの外交的なペナルティを与えて当然ではないか?
それなのに、何故?
「宜しい。状況を整理してみましょう。第一に日本は兵器輸出を問題視し、中立国義務違反だと訴えた。第二に連盟調査団の派遣を訴えた……これでいいですね?」
そう言いながらも、デンビは相変わらず、クーリッジの手元に視線を送り、時折、カエデ糖作りのコツなどを質問し、クーリッジを喜ばせている。
「その通りです」
「第一についてですが……我が国の支配する関東州は張作霖氏の支配域に直結しており、戦場に近い事や満州鉄道の利便もあって彼らへの兵器、軍需物資の供給は非常にスムーズに行われています。翻って英国は各国租界がひしめきあう天津外港を使わず現在、民国政府への軍需物資引き渡しは全て威海衛を介して行っているものと思われます。そして、威海衛は戦場から遠い。何しろ、英国はまだ鉄道の敷設工事を終えていませんからね」
依然として、デンビはケロッグの立つ方向に顔を向けない。まるで、黒板に文字を書き続ける教師の様に。
「関東州も、威海衛も、兵器を陸揚げしたからといって何ら問題はない筈です。それぞれの地域にはそれぞれの国家の部隊が駐留している訳ですから、自国駐留部隊への補給物資という名目でいくらでも言い訳は立ちましょう。我が国も、英国も……」
すっかりコツを飲み込んだデンビはクーリッジから木ヘラを受け取ると、樹液を撹拌する役目を引き受ける。
「ここで問題なのは、英国が何故、公然と天津外港を使えないか? です。戦場至近の天津、補給の便を考えれば理想的な立地条件でしょう? しかも天津には英国駐留部隊が存在するにも拘わらず、です……いいですか?」
「それは……」
ケロッグの答えを遮る様に、デンビは喋り続ける。
「その通り。日本が、我が国と英国の中立国義務違反を提訴したからです。この提訴によって、英国は中国への兵器搬入に関して、天津に租界や公館を持つ各国の目を気にせざるをえなくなったのです。お分りかな?」
「……はい」
「宜しい、もう、お分りでしょう。日本の提訴、これにより最大の利益を享受したのは他ならぬ中華連邦、そして我が合衆国です。それなのに制裁を? 私には理解できませんな、ミスター・ケロッグ」
デンビはこれ見よがしに肩をすくめ、唇を歪めて見せる。
屈辱以外の何ものでもない。
デンビはケロッグを『国務長官』と呼ばず、わざと『ミスター』と呼んだのだ。
まるで「君にはまだ、国務長官職は荷が重いようだ」と言わんかの様に……。
デンビの底意地の悪い言葉に秘められた真意をそう解釈したケロッグは自身の頬が微かに紅潮するのを感じる。
「そして第二の点、調査団の派遣についてですが……言うまでも無い事ですが、我が国は、国際連盟に正式加盟をしておりません。そうである以上、我が国は連盟の決議に対し、何ら拘束されません。無論、日本もこの点を承知しているはず……であれば、日本の真意は我が国に牙を剥いたのではなく、あくまでも公平を装うポーズだという事になります。この点も宜しいですね?」
もはや、ケロッグは頷く努力をするのさえ億劫になっていた。
「邪魔立てせず、日本の好きなように決議させておやりなさい。折角の国際舞台、外交の場では相手に花を持たせることも大事です。いずれにしろ、調査団を受け入れる義務は我が国にはありません。但し、中華連邦には受け入れる様に指示しておく事をお勧めします。彼の国が国際的に認められる為には必要な試練ですから」
まるで出来の悪い生徒を諭すような口調。
「如何です? 大統領閣下」
デンビは「もう、ケロッグ君に興味はない」といった様子で手にした木ヘラの先端をクーリッジに見せる。
木ヘラの先端からは蜂蜜の様な濃度まで煮詰められた琥珀色に輝く樹液がゆっくりと垂れる。
「素晴らしいよ、ネッド」
クーリッジの発した称賛の言葉が、デンビの外交センスに関するものなのか、カエデ糖作りの才に関するものなのか、その場にいる誰もが悄然と悟った。
ケロッグ以下、閣僚陣がその場を去った後、エプロンの裾で手を拭きながらクーリッジは一人残ったデンビに問い掛ける。
「君は日本への褒美、何を贈るべきだと考えているのかね?」
「難しい問題です。ここはあからさまに借款供与という訳にいきますまい。公然と世界に“謝礼”だと分るものを贈ったら、かえって東郷を困らせるだけです」
相変わらず木ヘラを操りながらデンビは答える。
「日本にだけ分る方法で、感謝の意を伝えるか……難問だな。感謝状や勲章を贈ったところで感謝する訳はないだろうからね……だが、君は答えを持っているのだろう?」
その口調は手品の鳩を期待する少年の様だ。
いつだって、我らのネッドは新鮮な驚きを与えてくれる。
「ええ、まぁ」
苦笑を浮かべながらデンビは、わざとらしく咳払いし、小声で喋る。
「現在、トッド・パシフィック、それにニューヨーク造船、ベスレヘム造船の三社がオランダの提示した海軍増強プランの一括受注を狙い営業活動を展開中です。私は、彼らにこれを辞退させ、受注ライバルの日本企業が落札できるようにしたいと思います」
「ほぉ……しかし、三社が納得するだろうか」
海軍軍縮条約締結以降、合衆国内の造船業は民間向け、海軍向け双方の発注キャンセルが相次ぎ、大きな痛手を被っている。
昨年には海軍向け大手造船企業AS&Cが遂に倒産したのを皮切りに、ほぼ軒並み、造船業界はどの企業も赤字経営の泥沼に陥っている状況なのだ。
そんな中で久々の大型受注となり得る可能性を秘めたものとして、合衆国造船業界を歓喜させたオランダ海軍増強計画『プロジェクト1914』、中でもその目玉となるのは『デザイン901』と呼ばれる2万4千トン超級の戦艦9隻。
一昨年、就役した合衆国最新鋭の戦艦『コロラド型』の建造費用が凡そ2700万ドル。
排水量だけを見ればオランダ海軍の希望する戦艦は『コロラド型』に比べるとかなり小さいが、高速力を求められる巡洋戦艦を希望しており、その速力を叩き出す為に高出力の機関を積まねばならない以上、トン当たりの単価はかなり割高になることが予想されている。
仮に1隻2500万ドルとして9隻で2億2500万ドル、これに付随する弾薬や砲身などの消耗品や備品の供給、更には主力艦に付随する補助艦艇まで受注できれば3億ドルは軽く超えるビッグ・ビジネス、その後も艦艇の補修整備が定期的に発生する筈であり、その収益も十分、見込まれる。
昨年末に行われたオランダ王立海軍の仕様発表以来、日米両国の造船業界は千載一遇の好機として企業連合を形成しながら熾烈な受注合戦を繰り広げており、合衆国側は前述した三社を中心とした企業連合、日本側は三菱、川崎、浦賀、藤永田の四社連合が有力候補とされていた。
その状況下、合衆国の三社に手を引け、という……。
それがいかに難しいか、経済政策に関しては完全な自由放任主義者であるクーリッジでさえ理解できる。
「御心配いりません。三社には今後、我が海軍からの発注を優先的に振り分ける様に致しますので……その線で納得させます」
世論が嗅ぎつければ『癒着』と騒ぎ出しかねない恣意的な発注を行う事に、何ら罪悪感も、倫理観も感じさせない口調でデンビは事もなげに言う。
「よろしい。その方法ならば他国にはそうそう、気付かれはしまい。だが、肝心の東郷はそんなことで感謝するだろうか?」
クーリッジはデンビの奇抜で危うげな案に懸念を表する。
「東郷は海軍の出です。海の男同士、言葉にせずとも分り合えるものです。合衆国の本意を必ずや理解してくれるでしょう」
およそ海とは関係ない男、エドウィン・デンビ海軍長官はにっこり笑うと自信たっぷりに、そう断言した。
ほとんど水分が蒸発し、木ヘラでかき混ぜる事も困難になった樹液を鉄製の型に流し込みながらクーリッジは尋ねる。
「ところでネッド、君は日本に贈り物までして彼らの歓心を買い、いったい何を期待しているのかね?」
「良き番犬には良い餌を与えねばなりません、大統領閣下。ただ、それだけです」
クーリッジはデンビの暗喩に微かに眉をひそめる。
彼の倫理観に従えば、この様に他人を動物に例えるのは好ましくない事なのだ。
「ただし、私の経験では番犬には鞭も必要です。甘やかすだけでは決して優れた番犬にはなりませんので」
デンビは容器を操るクーリッジの手元を眺めながら、彼を不快にさせたことに気付く事も無く言葉を継ぎ続ける。
「大統領閣下。今は亡きハーディング大統領閣下の下、私はヒューズ前国務長官と共にワシントン会議のホスト役を務めさせて頂きました……」
突然、話題が変わった事にクーリッジは内心、驚きを禁じ得なかったが、それを表情に出す事はない。
デンビは淡々と喋り続ける。
四カ国条約、九カ国条約、そして海軍軍縮条約。
ワシントンで結ばれたこの三つの条約の真の狙いが欧州大戦の渦中、アジアで一国、ほしいままに振る舞った日本に対する封じ込めであったことは、当時、政権中枢にいた者達にとって揺ぎ無い事実だった。
四カ国条約により日英同盟を破棄させ、九カ国条約により機会均等を実現し、軍縮条約により軍事的優位を築き上げた合衆国外交史上に燦然と輝く功績。
しかし、その功績も日本の満州鉄道売却、関東州租借地譲渡に端を発した各国の一連の動きにより煌めきを失い、既に四カ国条約も、九カ国条約もなし崩し的にその役目を終えている。
残る軍縮条約のみは厳守されているが、三条約によって担保されていたワシントン体制は事実上、形骸化したと言って良い。
「私は、あの頃、来るべき日本との対立に備え、日英同盟を破棄させる事により、米国が両洋戦争の愚を犯さずに済むと考えておりました」
「ネッド、そんな事は今更、君に説明されるまでも無い。私も当時、副大統領だったのだからね」
いつになく神妙な面持ちのデンビの様子を不思議に思いながら、クーリッジは回答を促す。
「我が国がアジアにおける覇権を握る為には、かつて英国が日本に対してそうであったように、日本と結ぶ必要がある……私は今、そう考えています」
「それは……穏やかな考えではないな。日本は信用ならない、というのが合衆国民の心底にある拭い去りがたい印象だろう。それに我が国の国是、孤立主義とも相反する」
「英国が日本と同盟を結ぶ前、何と呼ばれていたか閣下は御存知で?」
「無論だ。『栄光ある孤立』だろう。彼らは誰とも同盟を結ばず、誇り高く、自らをそう評していた」
「でしたら、我々も『栄光ある孤立』を捨てる時期ではないかと」
「よしてくれ、ネッド。それとこれとは時代も状況も違う。違い過ぎる。第一、日本をパートナーとする事に国民は……」
「パートナー? 違います。私は彼らに番犬である事を期待している、と申し上げました。表向きはともかくとして、合衆国の為、英国やソビエトに吠えかかり、必要とあれば噛みつく様に訓練された番犬として彼らを扱うべきだと考えています。但し……」
「但し?」
「もし、中華連邦が我らの望む様に成長すれば、日本の存在はかえって邪魔なもの、いえ、危険なものとなるでしょう」
骨の髄まで帝国主義に染め抜かれた、その残忍極まりない言葉を耳にし、クーリッジは大きく息を吐き出す。
彼には驚きだった。
陽気な道化者、自分とは別物の倫理観や価値観を持ち、時に常識とはかけ離れた、予想だにしない意見や見解を述べる希少さを買い、デンビを手元に置き、侍らせていた。
だが、その道化者はクーリッジ自身でさえ予想も出来ない程の怪物だったらしい。
「ネッド……」
「はい」
「今の話はここだけの話としよう。しかし……」
鉄製の型の中、煮詰められた樹液が完全に冷えてカエデ糖となっても、二人の密談は続いていた。
中華民国 遼寧省
山海関
そこは一面の瓦礫の山だった。
かつて、北方より襲い来る蛮族から中原を守る最前線として難攻不落を謳われたその面影はもはやない。
壮麗を極めた焼きレンガ造りの鎮東門は石くれの山のように姿をかえ、門前に広がる遼寧の野は、双方の激しい砲撃戦によってあちこちに穴が穿たれている。
切り札として期待されていた民国海軍は、『恐怖』撃沈以降、すっかり委縮してしまった。
彼らの軍事常識では絶対にあり得ない航空攻撃による撃沈という事態に、本来、この地域・海域において最強の火力を誇っている筈の民国海軍は夜間、短時間の砲撃を行う以外には積極的に動こうとせず、まるで役に立たない存在へと変化している。
これとは逆に快挙を成し遂げ、意気上がる連邦陸軍航空隊は、毎日、ありったけの航空機を動員して戦線上空を支配し、民国陣地に空爆を加えていく。
更には互いの砲兵同士が対砲兵戦という名の消耗戦を挑み合うが、これはどうやら潤沢な補給物資に支えられた連邦側が優位に戦いを進めている。
一見すると激しい戦闘を繰り広げられている様にも思える両者であったが、どこか腰は引けており、意外な程、死傷者は少ない。
即ち、双方とも決定打が放てていない状況だった。
連邦側先遣部隊を指揮する楊宇霆は数度に渡って錦州の大本営から動かない大総統・張作霖に対し、進撃の許可を求めていたが、張は
「無用である」
の一言でこれを許さない。
張は待っている。
「呉佩孚、動く」
民国大総統・曹昆臨席の下、北京において出陣を祝い、必勝を祈る盛大な式典が催され、民国陸軍参謀総長・呉佩孚が遂に10万の直属部隊を率いて前線へと出撃した旨が張作霖の下に届いた。
待ちに待った、待ち続け、恋い焦がれた一報。
「慶事、慶事」
錦州市庁舎内の執務室でその報告を受けた張作霖は、ただ、そう呟くと人払いをする。
それから、まるで躍り出しそうな自分の精神を、単純作業の繰り返しによって落ち着かせるようとするかの様に、異常な程、長い時間をかけて墨をすると、筆をとり、一通の手紙をしたためる。
宛先は、大日本帝国陸軍大臣・田中義一予備役陸軍大将。
長い時間をかけ、手紙を書き終えた張は厳重に封蝋を施し、在錦州の日本領事館に届ける様に従卒に命じると、自らは参謀や師団長達の待つ会議室へと向かう。
落ち着き、平静を保つ様に自分自身を叱りつけるが、自然と足早に歩いてしまう自分をどうにも抑えられない。
「大兄、驚く事無かれ」
張作霖の頬に勝利の、そして快心の笑みが浮かぶ。
神奈川県 横浜市
田中義一邸
ここ数日、春の雨が降り続けている。
肌に触れずとも微かな温かみを覚える雨の中、陸軍大臣・田中義一予備役陸軍大将は自邸の私室にて、この日、外交行李で届けられた手紙を読んでいた。
その手は震え、吐き出される意気は季節を遡る程に冷え切っている。
手紙の差出人は張雨亭、つまりは作霖。
互いに互いを兄弟と呼び合い、いずれは日本と支那の頂点を極めようと誓いあった仲。
田中にしてみれば、今回の張作霖の中華連邦建国、そして大総統就任は早まった、の一言に尽きる。
何故、今少し、待てなかったのか……。
田中は自身が日本の総理となった後、張作霖を物心両面から支援し、民国の政権をとらせるつもりでいた。
だが、その夢は張作霖の早すぎる決起、そして民国側に対し庇護者・英国が全面的な支援を行った事によって潰えたかと思えた。
その筈だった。
今、張作霖からの手紙を読みおえた田中は、次に自分が何を為すべきなのか、一人、沈思する。
誰かに相談できるような内容ではない。
このまま自分一人の胸にしまっておく事もできるが、それが果たして日本の為に良いのかどうか。
しかし、この手紙が書かれ、田中の元に届くまで既に三日が経っている。
恐らく今頃、彼は山海関に到着し、車上から誇らしげに胸を逸らして、その向こうを睨みつけている事だろう。
―――文中、雨亭は「大兄に謝す」と記し、この企てが事後承諾の形をとることとなってしまった事に詫びている。
その気遣いに、田中だけに対する気遣いに、素直に感動を覚える。
田中の事実上の失脚以降、疎遠となってしまったかの様にも思えた二人の関係であったが、雨亭の中では、以前と少しも変わらぬものであったらしい。
田中は雲に覆われた空を見上げる。
一片の蒼空すら見えぬ灰色の薄暗き空。
春の雨が嵐へと変わりつつあった。