第8話 上原元帥 (1)
大正十三年一月七日(1924年)
元帥陸軍大将・上原勇作は日本陸軍史上に残る変り種であった。
無論、その性格とか、素性とかの話ではない。
出身兵科の話である。
彼は『工兵科』出身にして元帥という軍人として最高到達点にまで達した日本陸軍史上唯一人の存在であり、そして恐らく、世界の軍事史上においても彼の他には米国のマッカーサー元帥ぐらいなものであろう。
何故なら、『工兵』とは裏方であり、兵科の花と謳われた『騎兵科』、古来よりの主力部隊として君臨する『歩兵科』、現代軍事力の評価を決する火力の体現者『砲兵科』の所謂『三兵科』に比べて、一段落ちると思われていたからである。
ちなみに……。
当時『戦車科』『航空科』などの新兵科はいずれも研究段階にあり、独立した兵科として存在を認められ、発展するのはまだまだ先の話しである。更に言えば、当時、どういう訳か『航空科』は『工兵科』内の一部門であったのだが、この話しは置いておこう。
『工兵科』とは簡単に言うと『戦場技術者集団』の事である。地雷の撤去やトーチカの破壊の様な戦闘の最前線において最も危険な任務に従事する時もあれば、塹壕線の構築や架橋工事など地味なものまで行う。しかしながら当時、軍の中において最新鋭の技術者集団である事に疑いは無い。
同時に軍偏重の時代において、それは即ち世間一般的に言っても最先端の技術を有る集団という事でもある。
とにかく、その日の上原元帥は憂鬱だった。
その晩年に至るまで、陸軍の最先進国・陸軍大国と言われたフランスより建設業界報や学会論文を送らせ、これを原文で愛読し、建設工学の知識習得に貪欲だった技術者・上原であったが、彼は同時にもう一つの顔を持つ。
つまり『日本陸軍九州閥の総帥』という顔であった。
繰り返しになるが、陸軍の主流派は元勲・山県有朋の流れを組む長州閥である。
これに対して、宮崎県出身の上原は薩摩閥に属していた。
しかしながら、この薩摩閥、長老格である元老・松方正義が政治的な覇気というものと無縁であったこと、加えて山本権兵衛に代表される海軍系薩摩閥と、この上原に率いられる陸軍系薩摩閥の間にどうしようもないほどの距離間が存在した――――というより、単にまとまりに欠けていたのだが――――その集団としての実力に見合わない評価・待遇に長年、甘んじざるを得なかったのであった。
山県有朋、そしてその後継者である長州軍閥の首領・寺内正毅、桂太郎が存命中、上原はひたすら低姿勢に終始し、隠忍自重していた。一日でもいいから、彼らより長生きする事で、彼自身の手塩にかけ、庇護し続けた陸軍薩摩閥……薩摩藩出身者に限らず、九州出身者全般を数多く引き立てた事から『九州閥』或いは『上原閥』とも称される……が陸軍主流派となる日を夢見つづけていた。
そう、上原勇作は耐え続けていたのだった。
大正二年に桂が、大正八年には寺内が、そして遂に大正十一年、長年の重石であった山県がこの世を去った。
当時、既に陸軍大臣、陸軍教育総監を歴任し、参謀総長の地位にあった上原は「山県逝去」の報に接し、ようやくにして自分自身の時代がやってきた事を実感した。
昨年三月には長年務めた参謀総長の職を辞し、後任には同じ九州閥出身の河合操陸軍大将を据え付け、自らは院政に入る事により、彼の野望の仕上げ、即ち長州閥への精神的復讐に入ったばかりなのだ。
日本陸軍史上初めて陸軍大臣、教育総監、参謀総長の三顕職を歴任したにも関わらず、常に山県有朋という巨人の前に卑屈な態度を取り続けねばならなかった上原が、本当の意味で手腕を発揮できる機会がやったまわってきた筈だった。
のだが……。
「秋山がのう…」
この日の早朝、士官学校の同期である元帥陸軍大将・秋山好古が新政権である「東郷内閣」の副首相兼陸軍大臣として入閣する事が決した…との連絡を九州閥の子分である参謀次長・武藤信義中将より受けたのだった。
上原は、その報告を茫然自失という言葉と共に咀嚼せねばならなかった。
この日、正式に発表された東郷内閣の顔ぶれは、当代一流の人物・政治家が結集したと言っても過言ではない。加えて、内閣だけでなく議会に関しても元老・西園寺のお膳立てにより、政友会、憲政会、革新倶楽部ら主要政党が一致協力して、東郷与党として国難に立ち向かう……という図式であり、正に挙国一致内閣と言えるものであった。
その主要閣僚は…
総理大臣 東郷平八郎
内務大臣 加藤高明(憲政会総裁)
大蔵大臣 高橋是清(政友会総裁)
外務大臣 幣原喜重郎(外務官僚、浜口雄幸の幼馴染)
司法大臣 横田千之助(政友会幹部)
文部大臣 浜口雄幸(憲政会幹部)
農商務大臣 若槻禮次郎(憲政会副総裁)
陸軍大臣兼副首相 秋山好古(元帥陸軍大将)
海軍大臣 財部彪(海軍大将、山本権兵衛の女婿)
鉄道大臣兼復興院総裁 後藤新平
逓信大臣 犬養毅(革新倶楽部総裁)
内閣書記官長 尾崎行雄
なかでも、各界各勢力に衝撃的に受け止められたのは、元帥陸軍大将・秋山好古の副首相兼陸軍大臣就任だったであろう。
秋山は無私性善なる人物として知られ、昨年三月まで陸軍教育総監の地位にあったのだが、これを退任するにあたり本人は固辞していたものの、周囲に乞われてやむなく生涯現役である元帥杖を受けとった事からも分かるように、この当時、非常に権力に対して無欲な人物として知られていた。
加えて、過去一度も政治的な発言や、政界進出への意欲といった事を他人に語った事がないだけに、この就任劇は東郷内閣の軍部改革に対するドラスティックな意思表明として国民に受け止められた。
秋山好古、元帥陸軍大将。
安政六年(1859年)、愛媛県生まれ。この時六四歳。
日露戦争中、第1騎兵旅団長を務め「騎兵」「砲兵」「歩兵」「工兵」などを組み合わせる事により、世界に先駆けて画期的な諸兵科連合部隊である「秋山支隊」を編成、日露戦争最大の会戦「奉天会戦」勝利の原動力となり、「日本騎兵の父」と呼ばれた人物である。
そしてもう一つ、東郷との因縁と言えば、日本海海戦の参謀であり「トーゴーターン」即ち「丁字戦法」の発案者として知られる故・秋山真之海軍中将の実兄なのであった。
秋山という苗字、ただそれだけで「東郷―秋山」の日本海海戦の完全勝利を民衆に思い起こさせ――――勿論、突き詰めて言えば違うのだが――――この内閣の顔ぶれ発表に際して、その分かり易さも相まって、秋山陸相就任に対して報道各社は、ドラマティックな要素を加えて熱狂的に賛辞を送った。
曰く「弟・真之の墓前に誓う」
曰く「日本海海戦の勝利再び」
曰く「帝国の国難に際し、英雄並び立つ」
と…。
そう、上原元帥はこの日、憂鬱だった。
史実での秋山好古大将は教育総監辞任後、元帥叙勲を固辞、予備役編入となりました。
その後、中学校の校長先生を務め、平穏な晩年を送ったのですが…
拙作では、ある目的の為に、今少し表舞台に残って頂く事に致しました。
平成21年12月19日 サブタイトルに話数を追加