第24話 渤海炎上 (10)
東京・千代田区九段南
東郷邸
震災後の都市計画により建設された上六公園の隣、そこに東郷の私邸がある。
イチョウの巨木が各所に配され、鬱蒼とした林間の様な雰囲気を醸し出す庭園の中程には母屋である平屋瓦葺の日本家屋が置かれている。
全体的に、どこか雑然とした印象の残る庭園内には巨大なライオンの石像やら、江戸期庶民の伝統を継ぐ五十七貫目の力石などが実に無造作に配されており、悪い意味での和洋折衷感が漂っている。
庭園を見た印象を述べるとするならば、変に日本文化にかぶれてしまった小金持ちの米国人が日本人庭師の意見も聞かずに自身の脳内で想像した日本庭園を、そのまま作り上げてしまった様な感じ……と言えばよいだろうか。
もっとも、この庭園の場合、主人が極めてそういうことに無頓着な性格だった故の結果であって、趣味嗜好が一般人の感覚と著しくかけ離れていた訳ではない。
内閣総理大臣である東郷平八郎、本来であるならば首相官邸に住まうのが当然であるが、震災の影響で素人目にも傾いている事が分る官邸の取り壊しと新官邸の建設工事が始まったことによって、先頃より住み馴れた私邸へと帰ってきたのだった。
芽吹き始めた草木の香りは、雨上がりの午後にも似て清々しい。
御世辞にも手入れが行き届いているとは言えない庭ではあったが、それがかえって小さな草花達にとっては安住の地ともなっている。
春の先触れを告げるオオイヌフグリが淡い水色の花を繚乱と咲き誇らせれば、ヒメオドリコソウは赤紫の小さな花を身につけたまま、天へ天へと丈を伸ばす。
シバザクラが茎を伸ばして己が勢力圏の確保を狙えば、ツクシを御大将にスギナの群れが鉄壁の要塞で迎え撃つ。
雑草達の勢力圏争いは強靭な生命力を背景とするだけに人間のそれより遥かに熾烈であるのかもしれない。
邸宅の庭、芝生に敷かれた毛氈の上では老人達がそれぞれ思い思いの格好でくつろいでいる。
山本権兵衛、高橋是清、金子堅太郎……言わずと知れた“東郷とその一味”の正規メンバーであり、彼等は小春のぬくい風が吹くこの日、東郷に招かれて、その邸宅へと参集していた。
彼らが陣取る毛氈からさほど遠くない位置には、小さな七輪が据えられている。
赤々と熱を発する、その七輪は暖をとる為のものではない。
あくまでも調理を目的にその場にしつらえられたものであり、その周囲にはいくつもの皿や壺などが置かれている。
しかしながら、今、七輪の上に置かれているのは鍋や焼き網といった調理器具ではない。
それは傍目にも“年代物”だと分る角ばった石炭スコップ。
邸宅の主、東郷の愛用品だ。
そのスコップにのせられた味噌漬けの鰆やらホタテの下からは、ふつふつと粘り気のある泡が沸き立ち、焼けた味噌の香りを辺りに漂わせている。
香ばしきその香り、実に良い。
明治海軍名物『石炭焼き』
七輪の脇で炭とスコップを自在に操るねじり鉢巻き、和装にタスキ姿の東郷は、わがままな客達の注文に応じて用意の魚や野菜を次々と焼き上げていく。
時折、傍らに置いたコップの薩摩焼酎で喉を湿らせると、客人達の交わすたわいもない話しに耳を傾け、笑い声をあげる。
これといった趣味のない彼にとって、野趣あふれる野外料理を気のおけない仲間にふるまう事は唯一の楽しみの様なものだった。
ほどなくして、この日の主賓が秋山好古に伴われて顔を出した。
来る四月には元帥号を授かることが内定している柴五郎である。
これまでの半生、陸軍と海軍、その上、会津と薩摩という事もあり、柴と東郷にさしたる接点は無い。
無論、東郷邸を訪れたのはこの日が初めてであり、まさか、その庭先で宴会が催されているとは完全に予想の外だった。
焦げた味噌の香りに脳髄を痺れさせられてしまったのか、仲介役の秋山は柴の紹介もそこそこに、銘酒を抱えて上機嫌の高橋に飛びかかり、それを難なく奪い取ると胡坐をかいてさっさと歓談の輪に加わってしまう。
傍らでは文字通り、ダルマの様に転がされた高橋が大きな笑い声を上げながら、秋山の無法を詰り続ける。
すっかり、取り残された形の柴は、味噌漬けの壺に手を突っ込み、何やら探っている東郷の横で少し、困っていた。
先着していた老人達いずれとも、取り立てて親しい訳ではない。
それでも礼だけは述べておこうと思い、話しかける。
「この度は、元帥叙任につき閣下の御推薦を頂いた様で……」
「何を召し上がる?」
「はぁ……」
「魚がよかかな? 肉ならば……そうそう、尾の身のよかのがあいもす」
「……では、それで」
「承知しもした」
東郷は縁まで味噌が詰められた壺の中から目的の鯨肉を探し当て、指先で余分な味噌を絞る様に取り除くと硯ほどもあるそれをスコップの上におく。
瞬間、ジュッと小さく音がし、立ち昇る煙と共に新たな味噌の香りが放たれる。
「柴さん、ちっと待って下さい」
指先についた味噌を舐めつつ、東郷は柔らかい笑みを浮かべている。
「お手伝い致しましょう」
引き込まれるかのように柴は思わず、そう口に出してしまう。
そんな笑顔だ。
寡黙な東郷に比べると、柴は能弁な方だった。
元々、海外駐在経験が長く、任地を転々としてきた半生だけに、初対面の相手と話すのは慣れていたし、誰とでも人懐っこく会話が出来るのは一つの特技と言えるだろう。
柴はあれこれと調理方法に関する質問を織り交ぜながら、次第に会話のペースを掴み、互いの共通点をようやく見出す。
柴は大使館付駐在武官として二年半、その後、大正七年の東伏見宮依仁親王殿下の英国訪問に際して随行している。
一方、東郷は明治の初めの英国留学を経て、その後は同じく東伏見宮殿下の随員として明治四四年、ジョージ五世の戴冠式に出席している。
今は亡き東伏見宮殿下に仕えた経験、そして英国滞在時の思い出が二人の間で交わされる。
ほとんど一方的に柴がしゃべり、東郷が笑みを浮かべたり、頷いたりという形ではあったが、それでも短期間にしても同一人物に仕えた共通の過去は互いを知る上で重要だった。
ふと、東郷が尋ねる。
「柴さんは英国がお好きかね?」
「好きか嫌いかでしたら、好きですね。閣下は如何ですか?」
柴は問い返す。
「おいも好いとりもす。じゃっどん……」
焼き上がった尾の身を皿に移し、柴に差し出しながら東郷はつかの間、思案顔をすると答える。
「好きなおなごにんには、いたずらをしたくんもんで」
東郷が笑う。
柴も笑った。
東郷夫人てずから漬け込んだ厚く輪切りのレンコン。
これを芯までゆっくりと蒸し焼く様に火を通すのは、加減が実に難しい。
早ければ固くなって詰まらぬものになるし、繊維質が強いだけに単に遠火にしておくだけでは全く火が通らない。
その点、東郷は七輪とスコップの扱いに関してまさしく名人だった。
ほくほくとした食感に焼きあげられたレンコンは、箸先に力を入れずともスッと切れる。
味噌の微かな塩気が干し柿にも似た素材の甘さを引き出し、これまた実にうまく、品が良い。
東郷と語り、その手伝いをしながら、ちびりちびりと酒をやっているうちに、すっかり酔いがまわってしまった柴は、先程から自分がこの席に招かれた理由を推量している。
一同の打ち解けた様子からして、この様な宴がこの日、初めての事ではないだろう。
二十余年前の大戦争を指導し、本来であればいずれも楽隠居の身でおかしくない老人たち。
不始末をしでかした不肖の弟子、その行いを正す為、ゆらりと自然体で立ち上がりたる老いた獅子の群れ。
悲壮な現実を前にしても、彼らからは爪の先ほどの気負いも、使命感も感じ取れない。
言わば、腰手拭一枚ぶらさげて銭湯にでも出かける様な佇まい……。
柴はふと、気が付く。
(ああ、これは入隊の儀式なのだな……)
そう思った途端、全てに得心する。
得心すれば、自分がこの「日露戦争の同窓会」の様な席に招かれたのが素直に嬉しかった。
ここに並ぶ人物達の功績に比べれば、一介の砲兵大佐に過ぎなかった自分の日露における実績など、実にたわいもないものだとさえ思えてくる。
だがきっと、彼らはこの先、この様な宴がある度に自分を招いてくれるだろう。
招かれた理由など、もはや、どうでもいい。
ただ、一座最年少の柴は、この国の長者達に囲まれ、少しだけ誇らしかった。
スイス連邦・ジュネーヴ
国際連盟 総会議場
何かがおかしい。
安達は直感的にそう感じた。
何か、何か重大な見落としをしている……そう彼の全てが言っている。
総会で追い詰められた英国、間違いなく彼らは舞台を密室に移して日本側と妥協案を探るべく接触して来るはず。
それへの誘い水が民国駐箚公使の大使への昇格であり、国際舞台だけでなく二国間協議の場を設ける用意があることを表明した外交的なサインであった筈なのに……。
しかし、日伊の総会提訴より既に一週間が過ぎようとしているにもかかわらず、英国大使は総会議場から舞台を移そうとしない。
戦争認定、そして民国の交戦国認定までは賛意を示したものの、自国の兵器輸出については知らぬ存ぜぬを繰り返し、民国の自由貿易継続を求め続けていた。
あくまでも、のらりくらり。
英国は議案の採決をただ、先延ばししている。
まるで、何かを待っているかのように……。
採決が一日延ばされるたびに、英国の主張は詭弁の領域へと踏み込んでいき、その立場は悪くなるばかりだ。
ここにきて、常任理事国入りを目指しているスペイン、ブラジル、ポーランドらが存在感をアピールすべく次々と日伊側に立った論陣を張った事もあり、彼の国を擁護していた国は日をおうごとに数を減らし、日伊が提出した非難決議、そして海上臨検活動を担保する不干渉委員会の設置へと大勢は傾きつつある。
無論、総会は全会一致を旨とする以上、採決が可決される見込みは無い。
連盟総会の会則に従えば「当時国」と名指しされた国の票は最終的に除外される。
この場合、当時国とされているのは中華民国、そして英米両国。
連盟に正式加盟をしておらず、オブザーバーに過ぎない米国は、発言権こそあるものの、議決権は有していないから最初から除外できる。
残る民国、そして英国の票は反対票であっても決議には影響されない。
だが、連盟には英国の分身たるカナダやオーストラリア、ニュージランド、南アフリカも加盟しており、不干渉委員会の設置だけならまだしも、彼らが宗主国への非難決議に同調する筈はない。
例え、心情的にどうあっても、だ。
そしてもう一つの連盟理事国・フランス。
彼の国も政権交代以降はすっかり英国との蜜月を取り戻し、昨今、常に共同歩調をとり続けている。
現状、棄権する可能性が高いと思われるものの、英国の要請があれば反対票を投じる事を躊躇う理由は無い。
つまり、日伊の提訴は最初から成立する見込みなど無いのだ。
だが、それでいい。
東郷達の狙いもそこにある。
連盟という桧舞台で、殊更、正論を訴え、自国の国際法遵守の姿勢を示す……。
今や世界中の報道機関が日伊の主張する完全無欠の正義を礼讃する記事を掲載し、要領を得ぬ答弁を繰り返す英国の態度を批難している。
民国の内戦に際して、至近に位置する国家が示した遵法精神は、かつてその国が欧州大戦のどさくさに紛れて民国を脅かした前科を持つことや、列国が保持する権益が実は東洋のその国に与奪を握られているのだという事実を忘却の彼方へと押しやろうとしている。
誰が法を守り、誰が法を犯すのか。
誰が信用でき、誰が出来ないのか。
東郷は世界にそれを問おうとしている。
「そろそろ次の舞台へと向かうべきかな……」
総会議場という公衆の面前における議論が続くのは日本にとっては理想的な状況な筈だったが、これでは如何にも悠長に過ぎる。
この膠着状態が必要以上に長引けば、緊急招集された総会自体が最初から達成される見込みのない議決を目指した日本の「茶番劇」であることが露見してしまう。
日本の理想は、議決に持ち込み、英国一党に否決させること。
それで世界は是非を知る。
しかしながら議決に持ち込めないまま審議が長引き続ければ、日本の不甲斐なさとリーダーシップのなさを世界中に知らしめることとなり、それでは本末転倒もいいところだ。
安達の腹の中には、舞台が密室に移り、そこで極秘裏に何がしかの譲歩を勝ち取れば、名誉だけでなく戦利品も得られる……という手前勝手な読みも成立していたが、英国が露骨に「時間稼ぎ」を方針とし、遅滞戦術に固執している以上、戦利品の方はもはや諦めるべきだろう。
一方、すっかり盟友気取りのイタリア代表ジョルジョ・ダ・ガンビーノ侯爵は安達に対し、
「こちら側から英国に妥協案を提出したらどうか」
としきりに投げかけて来ている。
この時、イタリアが提案してきた「五カ国借款団の結成」という草案は、うっとりするほど魅力的だ。
英国、米国、フランス、イタリア、そして日本の五カ国で借款団を結成し、民国に対する全ての借款はこの借款団を介して行うこととする、というのがその骨子となっている。
現状、民国に借款を施しているのは英国、そして(事実上、奉天派に対してだが)米国、フランスの三カ国であり、それぞれが独自の判断で借款に応じているが、反対にイタリア、日本にその様な経済的余裕はない。
結果として民国政府(そして奉天派)は借款の代償として各種の権益を三カ国に対し提供しており、この三カ国と日伊を含めたその他大勢の国家群の差は開くばかりだ。
イタリアの提案する「五カ国借款団」は、云わばこれ以上、この差がひろがらないシステムであり、五カ国が等しく出資した借款団を窓口とすれば、民国がいくら借款を申し込もうと五カ国間の権益は等しく向上する。
無論、出資金が足りなければ、少ない国(この場合、日伊)に出資額を合わせる事になるので、借款団の規模は自然に日伊の経済力に連動する筈であり、無益な借款競争に巻き込まれる事も無い。
日本にとって、実に魅力的な提案だ。
しかし、「五カ国借款団」の結成は、日伊の主張に同調した国々への裏切りに他ならない。
民国内における権益は確実に得られるが、失われる信用も、やはり大きい。
今の日本にとって、どちらが大きいか……。
よほどの近視眼でも無い限り、誰にでもわかる。
ならば、五カ国に限らず、他にも参加を希望する国を募れば良いではないか……とはならない。
イタリアはともかくとして、少なくとも日本は今回のこの民国内戦に関して、公には自国の利益を一切、求めてはならないのだ。
求めれば、ここまでの動き全てが、己の欲得から出たものと解され、無駄になる。
欲深い日本が最大の利益を得るには「自国の利益を求めない姿勢を信じさせる」事にあるのだから。
長引く議論に一つの終止符を打つ為、再び演壇に立った安達は用意の腹案を議題として俎上する事を決意する。
かねてより本国政府より指示されていたものだが、使うならば今しかない。
既にマンネリ化しつつある英国への批難演説を淡々と行い、聴衆である各国代表の精神が弛緩し始めた時、安達の手によって第二幕が上がる。
「中華連邦及び威海衛、関東州への調査団派遣を提案する」
日本の提案に総会場は静かにどよめく。
これまで民国、そして英国の胸に切っ先を突きつけ、怒鳴りつけていた日本が、返す刀でいきなり米国、そして米国の影響下にあると見られる中華連邦に白刃を煌めかせたのだ。
この提案に、それまで日伊の英国批難の主張に同調していた中南米のいくつかの国々、つまりは米国の影響下にある国は一斉に身構えはじめ、反対にこれまで英国に同調していた国々は、立ち上がって賛意を示す。
「果たして連邦に主権国家としての資格、ありや?」
という日本の問い掛けは、不本意な立場に追い込まれつつあった英国とその一党にとって大いに「我が意を得たり」の提案であり、調査団の報告如何によっては「そもそも戦争そのものが存在しない」と裁定される可能性さえある。
同時に各国は思い知る。
英国に続き、米国に対しても等しく揺さぶりを仕掛ける大日本帝国という国家が、ことこの一件に関しては、絶対中立の存在であるという事実を。
第二幕が始まる。