第23話 渤海炎上 (9)
大英帝国・国連代表部特命全権大使・レディング侯爵ルーファス・アイザックスは、苦り切った心の想いをため息と共に体外へと吐き出すと肥満した体躯を動かし、議場中央の演壇へと進む。
自由党出身、サー・ロイド・ジョージの腹心として知られるこの老練な外交官は、かつての同盟国が何故、これほどまでに牙を剥き出しにしているのか理解できぬまま、不甲斐ない民国大使を助けるべく歩みを進める。
アイザックス大使は演壇上から完璧なる自信を言葉にのせて各国に問い掛ける。
広大な中国、一部の部隊が反乱したからといって、貿易・投資を止めてもよいものだろうか? と。
これまでも、広州政府をはじめとして各地の軍閥が勢力拡大や独立を求め、激突しているではないか。
その過去を一切、無視し何故、今更、戦争だ、交戦国だ、貿易停止だと騒ぐのか?
確かに戦争かもしれないが、これは極めて小規模な、限定され、管制された戦争ではないだろうか。
戦時国際法に抵触する行為の全面禁止に踏み切って本当に良いのか?
流暢なフランス語、重厚な口調と利害に重点を置いた説得力ある論理。
日本が提出した写真を見て以降、議場の空気は既に各国の利害打算を超え、民国の行為そのものへの批判へと傾いてしまっていた。
しかし、英国代表の演説により、振り子は戻りつつある。
外交技術には定評のある英国人の中でもアイザックス大使は稀有な才覚を持っている様だった。
長時間に渡る演説で議場の空気を再構築しはじめたアイザックス大使の手に代表団随員の一人より一枚の紙片が届けられる。
(議長から、そろそろ持ち時間の注意か?)
と思い、額から汗を滴らせながら熱弁を振るっていたアイザックス大使はその紙片に書かれたメモをチラリと見る。
『大日本帝国政府より東京駐箚英国大使に対し、以下の通告が手交された模様。
“大日本帝国海軍は、渤海海上において遭難中の英国人総勢34名の身柄を救助、現在、帝国国内において保護しております。負傷者の看護治療に関しては万全を期しており、現在、我が国において遭難の経緯についてお聞きしておりますが、御一同は国籍認否に至るまで何故か拒否されておられましたので、通告が遅れました事を深くお詫び致します”
以上』
最悪だ。
瞬間、アイザックス大使は頬から血の気が退くのを実感する。
“遭難中”などと形式的に書かれており、意図的に断定を避けてはいるものの、彼らが撃沈された砲艦に乗り組んでいた英国海軍軍人である事に疑い様はなく、名目上は観戦武官だが30名を超える人数とあっては、それが易々と通用する数ではない。
日本側は素知らぬ顔でこの事実を公表していないが、公表されれば英国が海上砲撃に手を貸した動かぬ証拠と断定されかねない。
……ならば、認めよう。
これ以上、強弁すれば大英帝国は残虐行為を擁護していると思われかねないし、それだけでなく、日本が公表に踏み切った場合に備えて英国を正当化するには「これが戦争である」と認めるしかない。
戦争であるのならば、死は当然のものと受け入れられる。
仮に受け入れられなくとも、十分に弁解の余地は残り、失地はいずれ回復出来る……。
アイザックス大使の高尚な演説はメモを読み終わった瞬間より、至極、歯切れの悪いものとなる。
当事国として名指し批難されている英国代表の微かな変化に議場の空気は再び白けはじめ、イタリア代表が時折叫ぶ野次の方に皆の関心は向き始める。
胡椒の効いたユーモアをおりこみ、笑いを誘うイタリア人のおどけた野次に弛緩しはじめた議場内の空気に慣れたらしく、各国代表はイタリア代表のコーラス隊を編成して民国擁護の論陣を張る英国に対する批難と弾劾の合唱を始める。
演壇上で空虚な演説の終末を模索しながら、アイザックス大使は心中、考え込む。
日本の主張は正論中の正論。
一分の隙もない。
だが、そこには何か裏がある筈だ。
戦争だと断定し、民国との商取引を全面的に否定し、兵器を供給する英米両国を中立国義務違反だと批難する。
それのどこに日本の国益があるのだろうか?
イタリアが吹聴して歩いている様な戦争終結後の自国経済躍進を狙っての事か?
そんな未確定の未来の為に日本は英米両国と対立するのか?
相手の目的が分らぬ時、人は言い知れぬ不安を覚える。
集中力を失ったアイザックス大使の心中を象徴するかのように意気高らかに始まった演説は、結局、何がいいたいのか分らない与太話へと成り下がっていった。
安達大使は、アイザックス大使の様子が急変したのを感じた瞬間、大使の内面で何が起きたのか、正確に理解した。
(金子外相の援護射撃か……いいタイミングだな)
救助した英国人士官達の公表を控え、連盟総会開催まで通告の時期を先延ばししたのは恐らく、金子外相の采配だろう。
安達は、笑いだしたいのを堪え、わざと難しい顔を作ると、机上の書類を無意味に揃えてみたり、筆記具を並べ替えたりして、間を保つ。
巡洋艦『五十鈴』が英国海軍軍人を保護したのは偶然の産物に過ぎない。
民国海軍が海上砲撃を企図していた事は、その砲艦購入の経緯からして事前に察知していた。
その上で至近海域を航行中だった『五十鈴』に撮影が命ぜられたのであって、満足な海軍力のない奉天軍に巡洋艦並みの大型艦を撃沈することが可能などとは海軍側ですら予見していなかったようだ。
無論、安達は金子の援護射撃がなくともアイザックス大使を論破する自信はあった。
しかし、運が転がり込んできた以上、それを最大限に利用するべきだろう。
(確かに天佑は我にある。だが、思いあがってはいかんな。偶然を当てにして組みたてたら、せっかくの絵図が台無しになる)
勝手に自滅していく英国大使の様子を気の毒に思いつつも、安達は、そう自分自身を戒めると、小声で随員の一人にジュネーヴ市内の高級ホテル、そのスウィートルームの予約状況を逐次、調査確認する様に指示を出す。
英国はこれ以上、連盟議場での論争を望まないはず。
舞台を密室へと移そうとするだろう。
「せっかくの晴れ舞台。もう少し、主人公を演じられたらいかがです?」
安達は小さく咳ばらいをすると、こみ上げる笑いを堪える。
大英帝国・ロンドン
ダウニング街10番地 首相官邸
氷の貴公子然としたスタンリー・ボールドウィン首相の心中は、今、灼熱の溶鉱炉の様に煮えたぎっていた。
ぶつけようもない怒りを抑える為、彼は努力の大半を割かねばならない様子であり、その事を知るが故に面前に立つジョセフ・オースチン・チェンバレン外相はより一層、冷静でいられた。
「戦争だと認めた……!? 認めたのか?」
「はい」
「馬鹿な事を! あの自由党の小心者の役立たずめ! すぐにアイザックス大使を更迭するんだ! 代わりは……君だ、君が行きたまえ! 今、直ぐにだ」
「出来ません」
「何故だ?」
「私は明日の午後、おばあちゃんの家で紅茶を愉しむ予定ですので」
「……!?」
積極果敢さが持ち味の首相は、老練な外相の人を喰った様な言葉に、一瞬、ポカンとするが、お陰で持ち前の冷静さを取り戻す。
「すまない。少々、熱くなり過ぎたようだ。それにしても貴殿の祖母殿が御存命とは……随分と長寿であられるな」
「ええ。生きていれば間もなく百歳を超えるでしょう」
「……」
内心、この人にはかなわないな……と、苦笑しながら首相は政界の先輩であり、かつての政敵でもあった外相の冷静さに感嘆する。
「あまり大きな声では言えないが……今のところ、我々の読みは尽く外れている」
執務席に深く座り直しながら、平常心を取り戻した首相は声をひそめる。
「そうですね。奉天の背後に米国がいるとは、読み違えでした」
表面に出た事実を結果論から見れば、彼らの導き出した答えは正しい。
しかし、真実は逆だ。
奉天が動き、慌てて米国がバックアップにまわった……が真実であり、米国が背後についたから奉天が動いた訳ではなく、問題が起きた時点において英国の読みは、ほぼ完璧に当っていたのだ。
だが、今となってはどちらでも良い事だ。
「日本とイタリアが国際法を盾に騒ぎ出した。イタリアはどうやら日本のサポートに徹している様だが……正直、これも想定外だ」
「そうですね。日本にこういう動き方が出来るとは……過去の前例からして全く予想しておりませんでした。我々は彼の国を軽視し過ぎていたかもしれません。これに関しては、責めは我が外務省が負うべきでしょうな」
「別に貴殿を責めている訳ではない。ただ、少しばかり面倒な話になったというだけだ。さて……米国と日本、今後は、この両国が組んでいると想定して動くべきだろうか?」
「……どうでしょう? 現段階では日本の目的が全く分りませんので、何とも言えませんが可能性は高いと見るべきではないでしょうか?」
民国が連盟総会において正式に交戦国認定されれば、戦時国際法が適応される。
それはイタリアが指摘している通り、最大の投資国・英国にとってかなりの痛手となりうる。
戦争が短期間で終われば良いが、長期化すれば、これまでの莫大な投資がかえって仇となってしまい、ひどい泥沼に引きずり込まれるかもしれない。
英国としては、譲歩に譲歩を重ねたとして戦時国際法の適応までならまだしも、戦争の長期化だけは避けたい。
日本政府の目的が分らない以上、今は連盟においては受動的な立場をとらざるを得ないのが実情、ならば連盟の外で動くしかない。
「例の件だが……呉将軍は納得しただろうか?」
ボールドウィン首相はチェンバレン外相に確認する。
それは、英国が追い込まれた場合に備え、用意しておいた起死回生の秘策。
ここまで二度まで読み違えをした英国政府である。
三度目の失策は許されない。
「呉将軍よりは『全てを英国に任せる』との言質を得ております。問題は時期ですが……準備が整うまで少々、時間稼ぎをしなくてはなりません」
「宜しい。では……」
ボールドウィン首相が言いかけた時、けたたましく執務机の上のブザーがなり、入室の許可を求める声がインターホン越しに聞えて来る。
『外務省より外務大臣閣下宛て、緊急の要件です』
インターホンから聞えて来る声は聞き覚えのある声だ。
外務省の高級事務官の一人であり、その声音から慌てた様子が伺える。
「只今、首相と面談中である。後にできぬか」
『恐らくは御面談の内容にも関係した件かと……』
相手の只ならぬ様子にチェンバレン外相は視線をボールドウィン首相と合わせると、言外に許可を求める。
「外相、構わぬ。君、入室したまえ」
木製の大扉を蹴破りかねない勢いで入室してきたのは、ボールドウィン首相も見知った顔であり、古くから外務省に勤務する高官だった。
「たった今、北京駐箚公使館より緊急電が入りました」
彼は入室するなり、碌な挨拶もせずいきなり要件を切り出す。
「また、民国か……今度は何をしでかしたのかね?」
ため息を言葉に絡めながらチェンバレン外相は失態続きの民国政府を嘆く。
「いえ、日本です。日本が……」
さては彼の国がまた何か言い出したのか? 不機嫌一歩手前の声音でチェンバレン外相は問う。
「日本が何だというのだね?」
「本日、日本政府より民国政府に対し
『北京駐箚公使の大使昇格につき、曹昆大総統閣下の合意を求める』
との申し出があったそうです」
北京に駐在する諸外国の外交使節団。
現状、その全てが『特命全権公使』だ。
『特命全権公使』は駐在国の外務大臣に派遣されるもので、相手国(接受国)の合意を必要とせず、『特命全権大使』は相手国の元首に対し派遣されるもので、これは相手国の合意が必要とされる。
公使と大使、当然ながら元首に派遣される大使の方が格上であり、この時代、各国は自国にとって重要な相手国、つまりは同格以上と認める国に対してのみしか大使を派遣しておらず、それ以外の国家に対しては、相手が「大使を派遣してくるなら、こちらも派遣してもいいですよ」という、ある意味、傲慢な態度をとっており、通常は公使を交換するのが慣例となっている。
そして中華民国には、前述したように世界いずれの国からも『特命全権大使』の派遣を受けていない。
反対に民国政府が外交関係のあるほとんどすべての国に対し『特命全権大使』を派遣しているにも拘わらず、だ。
つまり、端的に言ってしまえば「中華民国は格下」が各国の共通認識なのだ。
そして日本政府からの『大使昇格』の突然の申し出。
この時期、情勢下において、それは日本政府が「中国を代表する国家元首として民国政府を認めます」と言っているのに等しい。
それは即ち「中華連邦の否認」でもある。
「……」
「……」
外務省事務官が退室した後、しばらくの間、首相執務室は沈黙のままであった。
「……これをどう読むかね? 外相」
問われたチェンバレン外相も答えあぐねる。
「少なくとも……日本が米国と組んでいるという前提は成り立たない事になりますな」
「民国厚遇は連邦否認の裏返し。確かに外相の言うとおりだろう。しかし、彼の国は何を企んでいるのだ? この時期に」
(それが分れば苦労はしませんが)
チェンバレン外相は無表情のまま、沈黙し、ようやくにして一つの仮定を導き出す。
「日本政府が『例の一件』に気が付いている……その可能性はありませんか?」
「なに?」
「連盟提訴により日本が得た最大のもの……それは」
「国際的な名望、だろう。戦争当事国全てを批難し、等しく法の下の正義を訴えたのだからな……。今や彼の国は理想主義者どもの偶像国家だ」
「名声の次に人が望むものは、なんでしょうか?」
チェンバレン外相の問いにボールドウィン首相は、少しだけ間をあける。
「富か……」
「はい。恐らく、日本は英国側に立つという事を大使昇格という手段によって、実に彼等らしく控えめにアピールしているのです。そして当然の権利として」
「分け前を要求している、という訳か。つまり、彼らがこの期に及んでそうするという事は……」
「我らの勝ちを確信している、という事でしょう。そして勝ちを確信した理由が『例の一件』に気が付いたからだとすれば……」
二人は顔を見合わせると、苦笑し、嘆息する。
「つじつまは合う……か」
夕刻となり、ボールドウィンとチェンバレンは暖炉の前へ移動する。
三月のロンドンはまだ寒い。
日照時間は短く、日が陰った後には急激に気温が下がる。
くべられた大量の薪、燃え盛る炎に手をかざす二人は談笑し、素焼きのビールジョッキを傾けては、皿に山と盛られた酢漬けのキャベツを指先で摘まみ、口に放り込む。
時間を稼ぐ為に、もうしばらくの間、日本にいい格好をさせておかなくてはならないのが少々、癪に障るが、仕方ないと諦めもつく。
メインディッシュを食べる前には、前菜や食前酒で腹の調子を整えなくてはならない。
今は、まだ前菜。
苦味と酸味、少々、刺激が強く味付けに難はあるが、我慢できない訳ではないし、かえって食欲をそそられる。
大英帝国を担う二人は、そう感じていた。