第22話 渤海炎上 (8)
大正十四年三月二〇日
(1925年3月20日)
東京・麻布青山
秋山は、この日の訪問先であるその男の邸宅につくやいなや、家人の案内も待たず、中庭に面した濡れ縁へと足を向ける。
勝手知ったる他人の家、途中、居間の茶箪笥から手頃な湯呑みを二つ失敬すると、そのまま濡れ縁の縁にどっかりと胡坐をかいて座りこむ。
湯呑みを二つ並べ、持参した一升瓶を傾け、湯呑みに銘酒『会津小吟』を満たすと、無言のまま、それを飲み干す。
飲み干せば注ぎ、また、飲み干す。
「湯島天神の梅はもう散っておったが……ここは、まだ咲いておるか」
中庭の隅、漆黒の樹皮を纏った白梅の香りは最高の肴であった。
僧侶の如く剃りあげられた頭部。
長く垂れた白眉の下の眼は糸の様に細められ、目の動きは伺えない。
純白の口髭と顎髭は胸にまで達し、半裸の上半身をそよぐ風と共に撫でる。
和服を腰袴に脱ぎ捨て、玉砂利の敷き詰められた庭の中央部で彫像のように動かぬ男が一人、秋山の視線の先にいる。
男は六十も半ばであるにも関わらず、露わとなった上半身は隆々たる筋肉の塊の如き態を成しており、その筋肉は無数の刀創、銃創、火傷の痕によって極彩色に彩られている。
鉄塊から荒々しく削り出された様なその男は、右手にした二尺三寸の抜き身を低く構え、右足を前に、左足を後ろに引く半身の構えのまま動かない。
邸宅の主たる男が秋山の来訪に気が付いていない筈は無い。
だが、男は動かない。
吹く風に一片の花びらが舞い落ちる。
突然、男の太刀が下から跳ね上がる。
太刀は虚空を斬り上げ、ふわりと花びらを捉える。
瞬間、秋山には、大上段から男を狙う様に振り下ろされた刀の軌道が見えた様な気がした。
舞い落ちる花びら以外、何ものも存在しない虚空で、男の太刀と虚像の刀が激突する。
刀を激しく弾き返した男は、目にもとまらぬ速さで太刀の峰を返すと、虚空を横に薙ぐ。
秋山の目には、そこに存在しない虚像の首がぐらりと地に落ちるのが確かに見えていた。
男は秋山が最初に見た位置から、大きく移動しているにも関わらず、足元に敷き詰められた玉砂利はカチリとも音を立てていない。
滑る様な足捌き、後手受け太刀の構えから繰り出される必死の斬撃。
大きな踏み込みと、先手必殺、一撃粉砕を特徴とする薩摩藩御留流『示現流』と対を成す動き。
前者を静とすれば、後者は動。
しかし、どちらも柔ではなく、あくまでも剛。
男は、会津藩御留流『池上派一刀流』伝承者。
名を予備役陸軍大将・柴五郎という。
「久しいな」
太刀を鞘に収めつつ、柴は秋山に話しかける。
「ああ」
湯呑みをあおり、秋山は応える。
「上原の葬儀以来か……早いものだ、もう一年になる」
「うむ」
柴と秋山、そして昨年、散った上原は陸軍士官学校の同期にあたる。
つまりは共に青年期を過ごし、競い合った仲だが、闘争心剥き出しで上昇志向が強かった上原に対し、秋山はあくまでも茫洋とした大人風、そして柴は物静かな知恵者の風がある。
「相も変わらず、見事な太刀捌きだ……一度、見たかったな。貴様と上原が剣を交えるところを……」
青年時代から衰えぬ柴の剣技に感嘆の声を上げながら、今は亡きもう一人の達人の存在に秋山は想いを馳せる。
「ふん。薩摩の下郎武士が如き、おれの敵ではない」
腰から垂らしていた和服に袖を通し、衣服を整えながら秋山に歩み寄った柴は湯呑みを受け取り、満たされた会津小吟を一口に飲み干す。
「今も……五七年前も……な」
悪態をつきながらも、剣友を想う柴の顔はどこか寂しげだった。
「して、用向きは何だ? 家なら貸さんぞ」
柴は秋山に用件を問う。
語学に才があり、英語も、仏語も、支那語にも堪能だった柴は若い頃より海外大使館附きの武官として家を開ける事が多く、また、任地には必ず家族を伴って行った為、彼の留守中、この広大な邸宅は秋山夫妻が借り受けて住まっていたのだ。
柴はその事を戯れに言っている。
「現役に復帰しろ」
秋山は事もなげに応える。
「ほぉ……この老いぼれに復帰せよと? してもよいが、理由を聞かせてもらおうか」
柴は、秋山の意外な申し出に素直に驚く。
「理由など知らん。俺はただの遣いだ」
柴の湯呑みと、自らの湯呑みに会津小吟を注ぎながら、秋山はぶっきらぼうに応える。
「面白い、実に面白い。現職の陸軍参謀総長、元帥・陸軍大将ともあろう貴様を遣いの小僧、丁稚扱いする人物となると……」
剃りあげた頭部を自らの手で撫でながら柴は愉快そうに笑う。
「その通りだ。東郷さんが貴様に頼みたい事があるそうだよ」
「よかろう。その頼み聞こうではないか。だが、おれは今年の六月には六五になる。現役にいられるのは三カ月足らずだが構わぬか?」
柴は秋山より一つ下の六四歳、陸軍大将の定年は六五歳。
彼はその事を言っている。
「心配いらん」
秋山は持参してきた紫の風呂敷をほどくと、中から長い木箱を取り出す。
桐材とおぼしきその箱の封を解き、中身を掴むとグイッと柴の面前に突き出す。
「元帥刀だ。受け取れ。……めでたいかどうかは分らぬ故、祝儀は出さんぞ」
「……元帥刀だと? 秋山、もしや貴様、おれを元帥にするというのか?」
日頃、冷静沈着な柴であったが、さすがに一瞬、眉を上げ、目を瞠る。
「俺がする訳ではない。動いたのは東郷さんだし、必要な書類を書いたのは田中陸相だ。礼なら彼らに言え」
「ありがたい……と畏れ入るべきか?」
「ありがたがるような代物ではないな。受け取れば一生涯、死ぬまで好きな事は出来ん。位人臣を極めるとは、そういうものだ」
柴は元帥刀を手に取ると、破顔する。
「身も蓋も無い事を言うな、秋山。夢が無くなるだろうが」
「だが事実だ。俺は田舎の松山に帰って、ゆっくり酒でも飲んで暮らすつもりでいたのに、生涯現役の身では死ぬまで東京を離れられん」
「現役でも飲んでいるではないか」
秋山の悪態に、柴は哄笑する。
「だが、しかし……東郷さんの命だけで、貴様が頷いたとは思えぬな」
玉砂利の上を風が吹き、庭に散り落ちていた梅の花がそれにつれて左右に動く。
「梅が散れば、桜が咲くだろう」
柴の問いに、梅を見つめたまま、秋山は呟く。
「……」
「梅は散らねばならぬ。そうせねば、桜は咲かぬ」
秋山は言葉を継ぎ、酒を注ぐ。
柴は、悟る。
「我ら、梅として散るか」
「ああ。佳き桜の為に……な。すまぬ、柴。苦労をかけそうだ」
濡れ縁に並ぶよう座った二人は、黙して語らず。
ただ、散りゆく梅を愛で、酒を飲む。
長い沈黙の後、柴は思い立ったかのように立ち上がると、手にしていた元帥刀の鯉口を切り、小さく気合を発すると刀を一気に鞘走らせる。
刃は剃刀の如く細く、峰は鉈の如く厚い。
「望みの拵えがあったら紙に書きとめておいてくれ、後で遣いを寄越す。元帥刀が整い次第、来月には宮中で正式に補職されるだろう」
秋山は本来の用事を思い出し、淡々と会津小吟を飲みながら、刀に見入ったまま動かなくなった柴に話しかける。
「秋山……これは孫六兼元を拵えたものではないのか?」
柴の問いに秋山は応える。
「よう分ったな、その通りだ。生前、上原の集めた刀の中では一番の値打ち物だぞ」
「そうか。やはり、上原の……」
「あぁ、形見だ。お前が持っていた方が、あいつも喜ぶだろう」
二人は戦友であり、当代屈指の刀剣収集家として知られた上原の頑固一徹な風貌を思い出し、しばし感慨にふける。
鼻孔を突く梅の香りが奇妙に切ない。
一升瓶を空にした秋山は「もう、用は終わった」とばかりに、濡れ縁から立ち上がる。
柴も見送ろうと立ち上がる。
その時、秋山はふと思い出したかの様に振り返ると、柴に告げた。
「漏れ聞いた話では……秩父宮親王殿下(大正天皇第二皇子)と松平勢津子様(幕末、京都守護職を務めた会津藩主・松平容保の孫)のご婚約が内定した様だ。……柴、めでたいの」
それだけ言うと秋山は振り返りもせず、来た時と変わらぬまま、ゆるりと柴邸を後にする。
皇室と旧主家筋の婚儀。
幕末を生き延びた漢達にとって、これ以上の名誉は無い。
同時に、会津武士の末裔である柴には特別な意味がある。
彼の脳裏には会津戦争の折り、城下で自刃して果てた母や幼い姉妹、兄嫁など一族の女性達の姿が次々と蘇り、更には半ば「会津はここで死ね」とばかりに配流の様に送り込まれた極寒の斗南の地において飢えと寒さに苦しんだ陰惨な少年時代の記憶が蘇る。
「死ねば薩摩に笑われる」
と心に決し、木の根を齧って飢えをしのいだ日々……。
柴は、その場で庭にがっくりと膝を落とすと、皺深き両手で顔面を覆い、誰憚ることも無く嗚咽を漏らした。
――――会津御赦免。
朝敵の裔として、言葉にできぬ侮蔑と差別を受け、過ごした五七年。
会津は遂に赦された。
大正十四年三月二四日
(1925年3月24日)
スイス連邦・ジュネーヴ
深淵を感じさせる蒼いレマン湖を取り囲む様に広がる国際都市ジュネーヴは緑豊かな景勝の地だ。
スイス第二の都市であり、フランスとの国境の街でもあるジュネーヴにも、ようやく遅い春が訪れようとしている。
山岳国と思われるこの国だが、この地の平均標高は日本でいえば長野市あたりと変わらない。
自然と気候も似かより、日中の寒暖の差は激しく、空気は乾いている。
そんな街の一角、レマン湖畔に国際連盟の本部は存在する。
国際連盟本部 総会議場。
そこは男達の戦場だった。
大日本帝国国際連盟代表部特命全権大使・安達峰一郎は連盟事務次長を務める新渡戸稲造と共に世界的に知られた日本の外交官であり、同時に国際法の権威としても知られる。
著名な法学者である安達ほど、この役目にうってつけだった者はいないだろう。
そして何より、この時代、この場所に、安達という人物を配していたことは、大日本帝国政府、否、東郷とその一味にとって何よりに僥倖であったと言える。
安達は、上司である外務大臣・金子堅太郎からこの命を受けた時、痩せた顔に微笑を浮かべ、ただ
「面白い」
とだけ呟いた。
安全な場所から、相手が突かれたら嫌な部分をしつこく突き続ける……。
それは性格が悪くなくとも十分、楽しめる役目だった。
安達は己の役目を完全に理解していた。
理路整然と切り込む、その舌鋒は日本刀よりも鋭利であり、獲物の肉を寸刻みに削ぎ落す。
彼は狙いを過たない。
百戦錬磨の外交技術を持つアングロ・サクソンを直接、追い詰め、批難する事はない。
狩られるべき獲物、まずは中華民国。
「だから何度も言うように、これは内戦などというものではなく、ましてや、一国が一国と争う様な戦争などではない」
中華民国国連代表部特命全権大使・楊師極はあくまでも、そう主張する。
楊大使の主張は当然だった。
正統なる政府を代表する者として、『中華連邦』なる国家の存在など認める事は出来ない。
無論、渦中の『中華連邦』はこの席に招かれてはいない。
その国家が、例え独立国家であろうが、犯罪者集団であろうが、連盟に加盟していない以上、出席する資格は無いからだ。
「あくまでも反政府暴動。これは少々、規模は大きいかもしれんが民衆暴動、騒擾の類に過ぎない」
楊大使は、自分が何故、この日本の外交官に問い詰められているのか理解できぬまま、ひたすら自国の主張を繰り返す。
中華民国政府は、この騒乱が戦争であると認定されている事を何よりも怖れている。
それは関係各国にしても同じだ。
中華民国と貿易関係のある国家全てが、大なり小なり戦争認定を怖れている、と言ってよい。
戦争認定されれば、交戦国である中華民国に外国船は入港する事を許されない。
もし、外国船舶が入港すれば日本政府が主張する通り『中立国義務違反』となるからだ。
無論、戦争認定されたからと言って国際貿易が禁止される訳ではない。
だが、貿易を継続する為には「中華民国船籍の船が相手国の港に赴き、貿易を行う」という形式が必要になる。
中華民国は輸出入量を賄えるだけの自国船舶を保有しておらず、交戦国認定されてしまえば、事実上、民国の輸出入は途絶する。
中国ポンドの導入と急激な広がりにより、昨今、沿岸部を中心に経済伸張を見せ始めていた民国経済にとって、輸出入量の激減は経済崩壊を意味し、ただでさえナショナリズムの勃興によって失いつつある国民の求心力を繋ぎとめる最後の蜘蛛の糸だった経済的安定は雲散霧消する。
それは民国政府にとって止めの一撃となるだろう。
書類らしきものが入った封筒が、日本全権の随員から各国に配られる。
各国代表は渡された封筒の封を切ると中身を見ると、一様に目を瞠り、ざわめく。
それは数葉の写真。
東京から海底電信網を使ったファクシミリで日本代表部に届けられた画像を、こちらで印刷したものだ。
望遠レンズで撮ったものらしく、しかも実用化間もないファクシミリで送られたものだけに画質はかなり荒い。
黒と白の陰影だけが奇妙に強く、目を凝らさなくては直ぐには何を撮影したものか分りづらい。
それは、洋上から盛大に砲炎を放つ大型艦の写真。
巡洋艦『五十鈴』から撮影されたものだ。
僅か数年前、悲惨な戦争を経験した各国代表には、その砲弾の落ちた先で何が起きているのか容易に想像が付く。
会議の空気が、この瞬間、一変した。
「ならば貴国は自国民に対し、海上から砲撃を浴びせ、虐殺した……と? それが正当な警察行為だと?」
安達は、有無を言わさぬ口調で問い詰める。
「我が国は、その様な乱暴狼藉を警察行為であるとは到底、認められぬ。犯罪者を縛につける努力を怠り、問答無用に殺傷するなど文明国として許される行いではない」
安達の発言に、イタリア代表部を率いる大使ジョルジョ・ダ・ガンビーノ侯爵が立ち上がって拍手をし、賛意を示すと、つられた様にいくつかの国々の代表が拍手する。
中国への投資額と言う一点において、英国は全体の四割近い数値を保持している。
そして英国と手を携える仏国の投資額は一割強、両国を合わせれば五割を超える。
これに対し、日本から満州鉄道を譲り受けた米国は一挙倍増して仏国を抜き去っており、反対に売り払った日本の比率は一気に下がり、今や五分に満たない。
これはイタリア、ベルギー、スペイン、オランダ、オーストリア、ドイツ、デンマークなど対支資本投下を行っている国家群とほぼ同水準。
水準が他国並みに下がった事によって、日本は完全に外交的フリーハンドを得ていた。
中華民国が交戦国認定され、貿易関係が途絶すれば経済界の一部から不満や反発は出るだろうが、英米仏に比べ相対的に傷は小さくて済む。
むしろ、戦争が終結し、貿易関係が再開された時、チャンスは巡ってくる。
民国経済の破たんと再構築は、守るべき先行投資国にとっては痛打となるが、攻めるべき後発国にとっては自国資本躍進の好機となりうる。
此度議案の共同提案国に名を連ねた「外交を毒薬の様に使いこなす」伝統を持つイタリアは、各国代表にそう耳打ちして、戦争認定に尻込みをする一部の国々を既に取り込んでいた。
正面玄関から血刀片手に切り込む日本と、勝手口から忍び込んでワインに自家秘伝の痺れ薬を溶かしこむイタリア。
両国は知ってか知らずか、互いに役割を分担しつつ、盛大に宴を始めていた。
楊大使は反論する。
「一部の軍関係者が反乱を起こしたに過ぎない。反乱軍を罰するに政府が力を用いるのは当然ではありませんか」
「つまり、内乱だと? これは軍による内乱だと言われるか?」
安達は巧みに相手の言葉尻を捕える。
国際慣習によれば、内乱もまた戦争の一種。
古くは米国の南北戦争にも戦時国際法は適用されている。
国際法学者である安達がその前例を知らぬ筈もなく、一気にたたみかける。
「既に我が国をはじめとした各国は『連邦』を称する輩より、民国に対し最後通牒を手交した旨の布告を受けている。更に貴国がこれを内乱であるといい、山海関では実際に戦闘が発生している。……確認します」
安達は言葉を切り、静かに、そして自白を強要する悪徳検事の様な口調で問いかける。
「これは戦争ですね?」
絶句する楊大使の座席の近くから発言を求める手が上がる。
議長より指名された、その人物が何者であるか知った時、安達は内心、ほくそ笑む。
「ようやく真打ちの登場という訳ですか」
ここが歌舞伎の舞台であれば大向こうから「英国屋!」などの声が掛かりそうな雰囲気を漂わせ、大英帝国代表が演壇へと歩を進める。
沈黙を守っていた大英帝国が、ようやく動き出したのだ。