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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
76/111

第21話 渤海炎上 (7)

1925年3月14日 23時

山海関 沖合


 連邦が民国に叩きつけた最後通牒の刻限を1時間後に控え、前線に緊張が漲りはじめた頃、山海関の沖合に『煉獄エレバス』は静かに姿を現した。

単艦、ゆるりと進み出たその存在に気が付いた連邦軍、即ち奉天軍はいない。

この『煉獄』、そして『恐怖』の両艦が夕刻の時点において威海衛と山海関の中間海域を遊弋しているとの情報を奉天側は得ており、遠浅で岩礁の多い渤海湾において座礁する危険を冒してまで巨艦が暗夜にうろつくことなどあり得ない……と慢心していたせいもある。

両艦が東洋の基準において巨艦である事は疑い様も無い事実だ。

しかし、もう少し奉天側に海軍に関する知識があったならば、或いは、両艦に対する航空攻撃を企図し、主導する合衆国陸軍に艦艇そのものに関する情報が提供されていたのならば、その予測は少しばかり違っていたかもしれない。

『煉獄』は艦隊決戦用の兵器ではなく、あくまでも対地砲撃を行うべく建造された艦艇。

陸上戦闘に対する直協兵器という顔を持つ以上、遠浅海域への侵入も当然ながら想定されており、その吃水は同一排水量クラスの艦艇に比べ著しく浅い。

満載時でさえ僅か3.5メートル、それは空荷の貨物船よりも浅い。

両艦に観戦武官という名目で乗り組み、実質的に中国人将兵を指揮している英国人海軍士官達にしてみれば、座礁の危険を考慮する必要など最初からまるでなかったのだ。


 山海関の南に布陣する民国軍の陣営には、いくつもの松明が燃え盛り、その灯りはくべられた硝石により緑色に染まっている。

「ここより南は味方也」

緑色の炎はまるでそう主張しているようであり、事実、その目的をもって色づけされていた。

目標は緑炎の北側一帯。

山海関の北は間もなく紅の劫火と共に葬り去られるだろう。

「時間です」

夜光塗料の塗られた時計の秒針を見つめていた民国海軍兵の言葉に英国人士官は小さく頷き、中国人艦長に目線を送る。

その目線を受けた艦長は自信に満ち溢れた目で頷きを返すと、伝声管を介して砲術長に射撃開始を命じる。

先の欧州大戦、ゼーブルージュ港への砲撃以来7年半もの間、沈黙を守り続けていた38.1センチ連装砲が、この夜、再び咆哮し、その自慢の巨弾を吐き出す。


 モニター艦の艦橋は低い。

これとは逆に射程の延伸を狙い、延長されたバーベット上の連装砲塔は奇妙な程、高い位置にある。

その為、艦橋で指揮を執る者達にしてみれば、本当に目の前で大爆発が起こっている様にも見えた事だろう。

近距離故に弱装薬で砲撃したにもかかわらず、その砲口が放った炎の大輪は、それをうっかり見てしまった粗忽者の目を容赦なく焼き、一瞬ではあるが視力を奪い去る。

間断なき砲撃を企図したモニター艦は硝薬の香りを思う存分、辺りに撒き散らしながら、1門ずつ、交互に持続射撃を行う。

凡そ1分おきに着弾する殺意の鉄塊が大地を赤く染め、地表を抉り始めた。



 砲撃が始まった時、中華連邦軍第四軍司令として前線部隊を預かる楊宇霆は1時間後に始まる大攻勢に備え、参謀たちと共に指揮所に詰めていた。

つい先頃まで、奉天軍閥の参謀総長として張作霖の補佐役を務めていた知恵者だけに、頭上から聞えて来る物体の落下音を耳にした時点で何が起きたのか、状況を正確に理解した。

「各師団に現地点の死守を命令ずる」

あくまでも冷静を装い、命令を下す楊宇霆は巨弾の飛び交った日露戦争直後の日本陸軍士官学校に留学し、砲兵科を専攻した故に根本的に火力重視の戦術思考を持っている。

それだけに民国海軍の放つ38.1センチ砲弾の破壊的な威力については事前に十分な知識を有してはいたものの、

「まさか、これほどの物とは……」

と内心、唖然とせざるを得ない。

半地下式の指揮所の周囲は暴風が荒れ狂い、切り裂かれた鉄片が供与されたTT型フォードトラックを瞬時に鉄屑へと変えていく。

数トンはある榴弾砲の砲身がへし折られ、吹き飛ばされたレールが宙を舞い、地面に突き刺さる。

大地に深々と侵入した後に発動される遅延信管は直径十数メートルの巨大な墓穴を掘り、弾着地点近くにいた不幸な兵士達は身を隠す塹壕に何ら意味のない事に気が付く事も無く死んでいく。

予備知識十分な自分自身でさえ、恐怖を面に出さないだけでもやっとのことである以上、知識が欠落した兵士達が覚える恐怖は尋常ではない筈であり、もし、砲撃を避ける為に一時後退を命じれば、それは一時では終わらず、全面的な後退、即ち潰走へと直結するのは分り切った事だ。

砲撃が続く間、山海関の向こう側で身を潜ませる民国軍の攻撃は無い。

その事を繰り返し各部隊に伝達し

「物陰に隠れてやり過ごせ。威力はあったとしても所詮は二門に過ぎぬ。滅多な事で当るものではない」

と怯える兵士達を鼓舞し、勇気づける。

一門当りの携行弾数はせいぜい百数十発程度の筈、朝まで砲撃が続く訳ではない。

「今は弾切れまで待つしかない」

爆風によって吹き飛ばされ、まるでサイコロの様に目の前を横転していくトラックを見つめながら、楊宇霆は反撃の機会を窺い続けた。



「前進微速」

「左砲戦。副砲用意」

「回転制定。舵、砲撃備えよ」

英国人士官の進言に従い、『煉獄』は沖合からゆっくりと距離を詰め始める。

楊宇霆が予測した通り、38.1センチ砲弾の積載量は限られており、奉天軍を徹底して破砕するには少々、弾量が足りないのは事実だったが、それ以上に継続的な砲撃によって砲身が著しく過熱しており、このままでは不測の事故が起きかねない。

ここは、どうしても砲身が冷却するのを一旦、待つ他は無い。

幸い『煉獄』には対駆逐艦用の自衛用火器として45口径10.2センチ単装速射砲8門を装備している。

その内、片舷に指向できるのは半数の四門だけだったが、それでも陸軍の基準から言えばその投射弾量は重砲1個中隊に相当する火力だ。

「砲撃開始」

舷側に突き出された砲口から発射炎が連続的に煌めく。

それまでの巨大な火球に比べれば数段、見劣りするものの、それは単に視覚的な問題に過ぎない。

生身の人間にしてみれば、どちらも同様に死をもたらすもので、それに違いがある訳ではないのだから。



 前線を預かる楊宇霆からの急報に接した錦州では予て用意の作戦を実行に移すべく、翌未明には行動を開始した。

錦州郊外に急造された燕平飛行場の滑走路脇には中国人搭乗員達が整列しており、その横では合衆国から供与されたダグラスDTが830キロ魚雷を腹に抱え誘導路を進む。

明朝の出撃を想定され、十分に整備された新鋭機の群れには、機付き整備員が乗り込み、最終チェックに余念がない。

 澄んだ大気を貫き、地表に達する僅かな月明りは大地を覆う白い雪に反射し、灰色にぼやけた世界を構築する。

早春三月中旬、太陽は午前6時を回らねば顔を出さない。

錦州に集う者達にとって、民国海軍による深夜の先制攻撃は全くの予想外な事態ではあったが、想定外という程ではない。

既に延々と伸びる滑走路の両側には誘導灯代りのドラム缶が並べられ、満たされた灯油が赤々とした炎を吐き出し、周囲を照らし始めている。

「頭、中!」

号令一下、整列していた中国人搭乗員は前方中央の演壇上に視線を送る。

その顔はいずれも緊張を隠せずにいたが、これから始まる一大壮挙への興奮に頬を赤くしている。

「民国海軍砲艦が昨夜二三〇〇時に山海関に展開中の我が第四軍に対し砲撃を開始した」

指揮官は既に皆が聞き知っている状況を、改めて事細かに説明し始める。

「本日の日の出は〇六〇八時。当隊は〇四〇〇時より出撃を開始、黎明を期して目標に対し低空よりの雷撃を慣行する。諸君は、飛行場上空にて各中隊単位にて編隊を形成、一旦、海上に進出し、海岸線に沿って山海関方面に進出してもらいたい。目標は盛大に炎を撒き散らしている筈、見誤る心配は無い」

薄闇の中の離陸、進撃となるが、それ自体に問題は無い。

合衆国陸軍航空隊から派遣された戦歴豊富な教官達によって、この三カ月、みっちり仕込まれた彼らだったし、元は地測航法に長けた偵察機乗りだった者が大半を占めるからだ。

戦場到着は恐らく5時30分前後、日の出には早いが高緯度地方だけに薄明時間帯が長い。

吊光弾を用いなくても目標を視認出来るだろうし、視認出来れば攻撃は可能だ。

「少々、予想外の展開だが……」

中国人指揮官にかわり、演壇上に立ち、訓示を述べ始めたのは彼ら搭乗員を訓練したミッチェル大佐だ。

「自信を持って臨みたまえ。最新鋭の機体に最優秀な搭乗員、諸君らの技量は既に東洋世界において傑出し、冠絶したものとなっている」

「死人が出る程の猛訓練」という表現があるが、ミッチェル大佐が奉天軍航空隊に強いた訓練はそれ以上だった。

「死人が出る事を前提とした猛訓練」ともいうべき種類のものであり、また、そうでなくては、この日、この戦いに間に合わなかった。

「君らが放つ魚雷が敵艦を貫く姿をこの目で見られないのは実に残念だ。胸が裂けんばかりに残念だ」

下唇を噛みしめ、本当に口惜しそうな表情を浮かべるミッチェル大佐の姿に搭乗員達は少しだけ顔を綻ばせる。

まるで赤鬼の様に厳格なアメリカ人だが、それだけ真摯に彼らに勝利を与えようとしていた事を、空の男達は理解している。

「さあ、行きたまえ。行って、沈めて、朝飯までには帰ってきたまえ。神の御加護を!」

「おう!」

革製の飛行服を纏った男達は大地を蹴り、愛機へと駆ける。

一機、また一機と複葉攻撃機は滑走路を疾走し、空へと舞い上がる。

史上初の壮挙をやり遂げる機会を与えられた彼らの士気は高く、誰一人とて、その勝利を疑う者はいない。



「5時方向、味方艦です。距離八千」

艦橋上から見張り員が伝声管を介して情報を送ってくる。

「後詰めの『恐怖テラー』が到着した模様です」

艦橋に詰める中国人士官の一人が英国人士官に伝える。

「艦長、主砲弾は間もなく撃ち尽くす頃でしょう? そろそろ威海衛に引き上げたら如何ですか。あとは予定通り『恐怖』が引き継いでくれます」

どんなに練度の高い海軍であっても、洋上で主砲弾の積み替えは出来ない。

既に6時間もの間、砲身を休めながら持続射撃を行った『煉獄』の主砲弾薬庫も副砲弾薬庫も、ほぼ空の状態に近い。

中国人艦長は進言に頷きを返しつつ戦闘経験豊かな英国人士官に問う。

「武官殿、我々は賊軍の出鼻を挫く事に成功した……と思われますか?」

「ええ……十分に」

微笑みを浮かべながら答える英国人士官の自信に満ち溢れた言葉に艦長は満足し、矢継ぎ早に命令を下す。

「針路90度、速力そのまま」

「針路90度、面舵八点」

「面舵八点」

体内に満載していた殺意の鉄塊をきれいさっぱり吐き出し、身軽になった『煉獄』は吃水を上げながら艦首を右に振る。

「御見事な初陣でした。上々です」

「いやいや、貴国海軍の協力のお陰です」

世辞を述べる英国人、礼を述べる中国人。

二人は実のところ分っている。

艦に乗り込んだ英国人は彼一人ではない。

総勢数十名にものぼる英国海軍の士官、下士官達が艦内の要所要所において不馴れな中国人乗組員に対し「助言」しており、彼らの存在なくして、この砲撃は成功しなかった事を。



『煉獄』が右に大きく舵をとり、威海衛へ補給の為、帰港しようとした時、丁度、北北東の空より、渡り鳥の群れの様に隊伍を組む者達が静かに現れた。

『恐怖』が前進し、山海関北側の奉天軍陣地に砲撃を開始する。

「接敵した」

奉天軍航空隊の先頭を切る先任の第一中隊長機が前方下方で炸裂する砲炎を確認し、小さくバンクさせると後続機に知らせる。

すかさず後続の第二中隊長機が前進し、手信号で打ち合わせを行う。

夜明け前、視界は酷く悪いが、それでも薄闇の中、神経を張り詰めてずっと操縦してきただけに目が慣れている。

「第二中隊は砲撃中の艦に攻撃せよ。第一中隊は転舵中の艦に攻撃を行う」

「了解」

続けて第一中隊長は後席の偵察員に向かい命ずる。

「信号弾、青、赤、緑」

「復唱。信号弾、青、赤、緑。撃ちます」

偵察員は足元の木箱から命じられた信号弾を取り出すと続け様に空へ向けて、それを撃ちあげる。

「中隊、我に続け」

「突撃隊形、つくれ」

「降下開始」

信号弾の色彩が意味する命令を受領した隷下編隊は散開し、第一中隊は『煉獄』へ、第二中隊は『恐怖』へと向かうべく、戦場の空をゆっくりと旋回しながら、降下を開始する。


「いい気になるなよ、ノロマめ!」

第二中隊長は味方陣地に砲撃を続ける『恐怖』を観察し、吐き捨てる様に呟く。

後続する第二中隊所属機は14機、ここまで来る間に発動機不調で3機が引き返している。

旋回を繰り返して高度を10メートルほどにまで落とした中隊各機は『恐怖』の側面に進出、中隊長機を先頭とした雁行隊形を維持したまま微速航行中の『恐怖』の前方に機首を向ける。

微速航行中の『恐怖』の速力は船首波から計算して7ノットほど、これに対し米軍から供与された魚雷の雷速は30ノット……。

中隊長は相対距離から素早く計算し、機首をやや右に振り、目標艦の艦首から艦全長一つ分程前の海域を指向する様に列機を誘導する。

機体の進行方向が一定したタイミングを見計らい、後席の偵察員が相対距離を読み上げる。

「6000フィート……5500……5000……」

『恐怖』の舷側からようやく数丁の機関銃が唸りをあげはじめ、曵光弾が尾を引きながら海面上を走り行く。

最高時速163キロメートルに過ぎないダグラスTDだが、目標が備えている対空装備が貧弱な上に数も少ない為、恐怖は覚えない。

「距離1500でやる。信号弾、黄用意」

「距離1500、黄色弾、用意します」

薄明の海面上、いつ波間に激突するかもしれないという恐怖を抑えこみ、中隊長はそう決断する。


(少し遠いかもしれない……)


決断を口にした後、中隊長はそう少しだけ後悔するが、部下に迷いを見せれば恐怖を抱かせてしまう。

もはや命令は覆せない。

「3500……3000……」

低空を飛翔する彼を波間に引きずり込もうかとするように、白く砕けた波が飛沫となって宙に舞う。

「用意」

「2000……1800……1500!」

「投下!」

「投下確認。信号弾、撃ちます」

中隊長機から放たれた合図の黄色い信号弾を目にした中隊各機も次々と投下を開始する。

貧弱な対空火器に助けられ、戦場に到着した中隊は一機も欠けることなく、投下に成功していく。

雷速30ノットで放たれた魚雷は毎秒50フィート前進する。

距離1500フィート、直撃まで30秒。

速力7ノットで進む『恐怖』がその間に進む距離は凡そ100メートル、つまりは艦全長一つ分先だ。

敵艦がこのままの速力で進めば雁行の先頭に立つ中隊長機から左翼側に10メートル程の間隔を開けて展開する列機の放った魚雷が右舷側を襲い、増速すれば右翼側列機の魚雷が襲う。

この距離まで近づけば転舵による回避は不可能、減速しても左翼側の魚雷が水線下を喰い破る。

「全機、このまま離脱せよ」

中隊長は操縦席から左腕を突き出し、高々と掲げると勝利を確信し、敵艦の鼻先を掠める様に左舷側へと抜けていく。



 奉天軍航空隊が艦上空をゆっくり旋回しながら高度を落とし始めた時、英国人士官は敵機の目的を悟った。

「武官殿……!」

中国人艦長がやや調子はずれな声をあげ、助言を求める。

「舵、このまま。速力は上げて下さい。対空射撃用意、各個に迎撃を開始して下さい」

よどみなく英国人士官は応ずる。

自信に満ちたその口調に少しばかり安心した艦長は言われた通りの命令を下す。

難しい命令を出したところで、この艦の乗組員の練度では何をやっても無駄であったし、何より速力の遅い『恐怖テラー』は舵の効きが悪く、緩慢にしか動けない。

その上、対空射撃訓練が不十分な乗組員に撃墜を期待する事も出来ない。

英国人士官は伝声管へと歩みよると、機関室にて中国人機関長を補佐する英国人士官を呼び出す。

「速力を上げた事で敵機は我が艦の鼻先に集まる筈。必要ないと思うが念の為、回避行動をとる。こちらの合図に合わせて機関反転させてくれ。タイミングは俺が執る。艦長は無視しろ」

「アイ・サー」

機関室の英国人士官は伝声管越しにどこかほっとした口調で返答する。

艦上の様子を窺い知ることが出来ない以上、不馴れな中国人艦長の指揮よりも英国人同士の方が安心していられる……そんな感じだ。

(複数の魚雷が当れば艦は沈むだろう……例えこいつが戦艦であってもな)

低空から近付いてくる敵機の動きから目を離さず、英国人士官は伝声管に口を近づけたままの姿勢でタイミングを見計らう。

(だが、当るか? 当てられるのか?)

英国人士官は頬にうっすらと笑いを浮かべる。

(当りはせんよ、奉天の諸君)

「敵機、2000ヤード……1800……1600……1400……」

距離を読み上げる見張り員の叫び声が「1000」を数えた時、英国人士官は反応する。

「全速後進、急げ!」

数秒の間をおいて艦底部より機関を反転させる異音が響き、その音と共にゆっくりと前進していた『恐怖』の後部波が白く泡立ち、ゆるやかに速度を落とす。

放たれた15本の魚雷の内、これで半分以上は無力化出来る。

何より、奉天軍が雷撃機を攻撃に用いたと知った瞬間、英国人士官の心中には絶対の自信が芽生えていた。

その理由は、この艦が対陸上戦闘に特化したモニター艦であること。

それが全てだ。


 急速に制動をかけた艦体は全身を震わせながら慣性の法則に抗うが、それでも直ぐには前進を止めない。

艦がようやく停止したのは魚雷の航跡が目前に迫った時だった。

「右舷直近、間もなく魚雷が!」

「総員、衝撃に備えよ!」

見張り員の叫び声に合わせ、命令を発した艦長は椅子にしがみつく。

これに対し、英国人士官はゆったりとした仕草で己の椅子に座ると、長い脚を組み、両手を肘かけに預け、両手の指先を顎の下で合わせる。

「着雷まで3……2……1……」

責務を果たし、最後まで見逃すまい……そんな強い意志を秘めた右舷見張り員の目測を読み上げる声に心からの拍手を送りながら英国人士官は微笑む。

「0……!?」

艦底から横に飛び出す様に張り出したバルジの下に雷跡が消える瞬間、勇敢な見張り員は瞼を固く閉じ、歯を食いしばる。

だが、何も起こらない。

恐る恐る瞼を開け、慌てて着雷したはずの右舷側を見るがそこには先程までと何ら変わりない光景が広がる。

「左舷側に雷跡を確認! 魚雷は艦底部を抜けた模様」

艦底からまるで自艦が発射したかのように左舷側から離れていく雷跡を目で追いながら、左舷側見張り員が嬌声をあげ、その嬌声に応えるかの様に艦橋内も一気に喧騒に包まれた。

「どういう事ですか? 武官殿」

自分の命令が無視されたことなどすっかり忘れ、艦長は英国人士官に教えを乞うた。

奉天軍の航空隊が放った魚雷の調定深度は6メートル以上、恐らくは9メートル。

投下後、一旦、沈み込み、それから浮き上がる航空魚雷の場合、調定深度は浅くとれない。下手に浅く調定すれば、浮かび上がる勢いを減殺できないまま海面から鼻先を飛び出させてしまうからであり、一度でも水面上に顔を出してしまえば魚雷は予測不能な方向に迷走を開始してしまう。

これに対し『恐怖』の吃水はたったの3.5メートル。

当る道理は最初からないのだ。


(奉天の鴉ども、何度でも来るがいい。相手になってやる)


英国人士官はあくまでも平静を装い、艦長の質問に応えた。

「艦長。そんな事より、砲撃の再開をお命じ下さい。敵には砲弾を、そして私には……」

彼は何事も無かったかのように呟く。

「紅茶を」



「……攻撃に失敗した模様。繰り返す、貴隊による攻撃は失敗した模様。敵砲撃は止まず」

前線に展開する楊宇霆の指揮所からの絶叫にも似た報告は、ミッチェル大佐を激怒させていた。

もともと気性の荒い大佐である。

その口からは彼の理論を証明できなかった中国人パイロット達への呪詛が漏れ、聞く者の心を不快の海に凍らせた。

呪いの言葉を刻みながら有線電話を手に取ったミッチェルは、迷わず第二次攻撃隊の出撃を命じる。

「中国人達は失敗した。少佐、私はこれ以上の失敗を望まない。至急、第二次攻撃隊を……但し、もう、彼らにばかり任せてはいられない」

電話口の向こう側から相手の息を飲む様子が伺える。

少佐と呼ばれた電話口の相手は

「何故、失敗を?」

と聞きたかったが、怒り狂う大佐に聞ける雰囲気ではなかった。

いずれ第一次攻撃隊が帰還すれば仔細は検証され、判明するだろう。

大佐以下、合衆国陸軍航空隊も、奉天軍もこの攻撃の失敗は、訓練を指導した合衆国陸軍航空隊教官達の海上艦艇への無知がもたらした結果であり、操縦者の技量の問題でない事に、この時点では気付いていない。

誰が操縦していようと、魚雷は艦底部をすり抜け、遠浅の砂州に突き刺さって自爆していた筈なのだ。

「了解しました。彼らを訓練したのは我々です。弟子の失態は師の不明であります。我々が行き、必ずや成功させます」

第二次攻撃隊の指揮官となる事を承諾したアイラ・エーカー合衆国陸軍少佐は険しい表情で頷く。

ミッチェル大佐に心酔し、その腹心である事を自負しているエーカー少佐には、自分の踏ん張り一つで合衆国陸軍航空隊の未来が掛かっているかのように今、思えていた。

無論、合衆国民である彼の出撃は許された事ではない。

もし、万が一、撃墜され虜囚となったとしたら、彼は自身の身分を「雇われ外国人」或いは「義勇兵」で押し通すつもりであったし、少佐より出撃命令を受け、自らの飛行服から部隊章をむしり取った列機を駆る米国人パイロット達もそのつもりであった。

容易ならざる決意を秘め、爆装を施されたダグラスDTが、白々と明け始めた朝の訪れとともに次々と大地を蹴り始めた。


 彼らが急遽、乗り込んだDTが雷装ではなく、爆装していたのは理由があった。

第一に、魚雷という精密機器が合衆国をしてさえ、たじろがせるのに十分な程、恐ろしく高価な品であるという事。

第二に、山海関方面での陸戦支援の為だった。

故に彼らの装備する500ポンド爆弾は着発信管を装備した陸用爆弾だった。

大型艦を陸用爆弾で沈められるのか? と問われれば、どんなに強気なミッチェル大佐であっても「無理だ」と答えざるを得ない。

だが、無力化は可能な筈だ。

僅かな浸水で構わない。

例え1度でも水平が狂えば、その砲撃精度は致命的に狂う。

広範囲に弾片を撒き散らす陸用爆弾であれば、その危害半径は広範囲に渡る。

その飛び交う破片の一つが、艦上の重要部分に何かしらの損傷を与え、それが理由となって砲撃を中止するかもしれない。

淡い期待を胸に彼らは雪に白く覆われた海岸線を眼下に捉え、一路、南下した。


 エーカー少佐以下18機のダグラスDTが戦場に到着したのは既に午前8時を回っていた頃だった。

まるで時報の様な正確さで砲撃を繰り返す巨艦を眼下に捉えた時、エーカー少佐はめまいを催しそうになる。

「攻撃が失敗した」

とは出撃前に聞いていたが、まさか全くの無傷であるとは夢にも思わなかったのだ。

「何たること! ただの一発も当てられなかったのか……」

憮然とした表情で弟子の不甲斐なさを一通り、罵倒し終えた彼は、全機に水平爆撃による攻撃を命じる。

移動目標であるモニター艦相手に1個中隊程度で水平爆撃を仕掛けても命中率はしれている。

本来であれば緩降下爆撃を狙うべきだが、厄介な事に彼らが搭載しているのは触発信管の陸用爆弾だ。

一列になって突っ込んでいけばそれなりに命中率を確保できるだろうが、艦上から噴き上がる爆風に後続機が巻き込まれる可能性が高い。

 高度を三千に取った少佐は列機が雁行隊形から菱形隊形に移行する時間を稼ぎながら戦場上空を旋回しつつ、高度を安定させる。

敵モニター艦の動きは実に緩慢であり、上空に飛来した奉天軍航空隊の存在など無視したかのように相変わらず砲撃を繰り返している。

「敵艦の後方より接敵、首尾線上で艦首に抜ける。信号弾、黄用意」

「黄色信号弾、準備よし」

エーカー少佐の命令に後席偵察員が応え、伝声管越しにカチャカチャと信号弾を装填する音が聞こえる。

高角砲を装備していないらしい敵艦からの対空射撃はない。

この高度では機銃弾も届かない筈だ。

「今度は貴様らの番だ。一方的にやられる気分ってやつを味わってもらおうじゃないか」

隊形を整え終えたエーカー少佐は機体を首尾線に向けると、そう呟いた。


 全ての爆弾を投下し終え、帰路につくエーカー少佐は操縦席から身を乗り出すようにして先程まで眼下に捉えていた敵艦の様子を見、喉の奥から呻く様な声をこぼす。

「だ、だめか……」

18本の水柱が林立する中、その中を悠然と直進し、依然として砲撃を繰り返す敵艦。

投下した18発の500ポンド爆弾は全て至近弾で終わったようだ。

上空から見たところ、一筋の黒煙さえ艦上からは上がっておらず、破片による危害も効果は薄かったようだ。

拳で操縦席内の壁を叩きながら、顔面を朱に染め、エーカー少佐は己の不甲斐なさを呪う言葉を吐き続ける。

「少佐殿、あれを……2時方向!」

何かを発見したらしい偵察員の声が伝声管越しに耳に入ってくる。

失意のエーカー少佐は、その声の指し示す方角を見る。

「……ふっ、さすがは大佐殿だな。我らの失敗も計算の内とは……」

自嘲的に呟いた彼が目にしたのは、東北の空から近付いてくる30機以上の複葉機の群れ。

第三次攻撃隊が戦場へと到着したのだ。



「なんという馬鹿げた攻撃だ。やつらは間違っている!」

既に時刻は夕刻へと迫りつつある頃、『恐怖』の艦橋上で、英国人士官は誰ともなしに罵声を吐きだす。

この時点で、黎明の第一次攻撃から数えて既に7回もの航空攻撃を受けている。

実に呆れるほどの爆弾の浪費であり、そしてその浪費を可能たらしめている奉天軍の圧倒的な物量には心底、背筋が凍る。

 第三次攻撃隊の水平爆撃により推進軸に歪みを生じたのが不運の始まりだった。

続く、第四次攻撃隊には艦首上甲板に大穴をあけられ、火災が発生した。

第五次攻撃隊は凌ぎ切ったものの、多数の至近弾によって艦内各所から浸水が始まり、第六次攻撃隊に艦尾をもぎ取られ、そしてたった今、帰途へと付いた第七次攻撃隊によって主砲塔の天蓋が割られた。

既に弾薬庫は空であり、誘爆の心配は無かったが、より深刻だったのはその破片交じりの爆風が直近の艦橋内を吹き荒れた事だ。

艦長は既にあの世へと召され、勇敢だった見張り員も過去形でしか表現できない。

上半身がきれいさっぱり無くなった操舵手に代わり、舵を握る羽目になった英国人士官は、ボロ雑巾のようになった軍服を纏ったまま、たった今、戦場に到着した第八次攻撃隊を睨みつける。

今や艦橋内で立っている者は僅かであり、無傷な者は皆無だ。

既に延べ二〇〇機以上の敵機に爆撃を繰り返され、浸水によって艦全体を大きく沈下させられた『恐怖』に威海衛まで辿りつける道理はない。

舵機こそ効くが、右舷側の推進軸は停止し、当て舵をしても真っすぐ進ませる事さえ困難な状況だ。

出し得る速力は僅か三ノット、これでは静止目標も同然であり、回数をこなすごとに精度を上げつつある奉天軍航空隊の爆撃から今度こそ逃れる術はない。

「敵攻撃終了後……総員、退艦せよ」

英国人士官は諦念と最後の命令を下した。



「何とも航空攻撃とは効率の悪い代物だな」

戦場から少し離れた海上でほぼ停止状態のまま遊弋している『五十鈴』の艦上において、副長・下村正助中佐は呟く。

邦人避難援護の命を受け、天津・仁川間を昨年末から何度も往復していた『五十鈴』だが、その任務もほぼ終えた今は渤海湾を航行する日本船籍の船に対する保護を目的として、至近海域に展開していたのだ。

昨夜未明の砲撃開始の報を聞き、戦場視察の命を受けた『五十鈴』は、この日の戦闘推移を最も間近で見ていた『部外者』だ。

「効率が悪かろうが、あの砲艦が間もなく沈むのは確かだ。それに……」

傍らで双眼鏡を手にそう呟いたのは『五十鈴』艦長の松山茂中佐だ。

『艦長』と『副長』が同じ中佐の階級を有している事例は珍しいが、下村が成り立ての中佐であるのに対し、松山は間もなく大佐になる中佐であり、海軍士官としてのキャリアには相応の開きがある。

「奉天軍は一機も落とされていない……でありますか?」

松山の言葉を下村が引き継ぐ。

「その通り。一人の戦死者も出さずに、あれほどの大型艦を沈める事が出来るとはな。いずれにしろ、歴史に残る快挙を奉天軍はやり遂げた、という訳だ」

「艦長なら、どうしましたか?」

水雷戦の専門家である松山に砲術畑出身の下村は問い掛ける。

「手元に一個駆逐隊あれば造作も無いだろう。あんな砲艦、肉薄してボカンさ」

松山は片頬に不敵な笑みを浮かべ、握った拳を上に向けて指を素早く広げて見せ、爆沈させることを表現する。

「被害無しで?」

松山の言葉に下村は問う。

「いや、どうかな? 主砲は恐れないが、あの速射の効く副砲は二、三発、或いはそれ以上、喰らうだろうな。沈まないまでも被害は出るさ」

「そうなると、航空機で攻撃するよりも、駆逐艦で攻撃する方が効率は悪い、という事になりますか」

「……ああ、人命という点で言えばな。だが、あれだけの数の航空機を揃えるのは容易な事ではないよ、機材調達資金の面でも、訓練の面でも、それに使用した爆弾の数でも。逆説的に言えば、人命以外の点では航空攻撃はかなり効率が悪いな……。まぁ、俺は一介の艦長に過ぎぬ。今は詳報を書くだけさ。我が帝国海軍に限らず各国海軍がこの戦訓をどう生かすか? そこまでは責任、持てんな」

そこまで松山が言った時、見張り員の声が聞こえてくる。

「民国海軍砲艦、退艦を始めた模様です」

「終わったか……副長、では行こうか。準備を宜しく頼む」

「はい」

それまで艦橋内で並んで立っていた下村副長は松山艦長に敬礼すると、持ち場へと戻っていく。

沈みゆく艦から早春の北の海に身を投じる乗組員たちを、海の男として見て見ぬふりをする訳にはいかない。

下村副長は手空きの乗組員に命じ、カッターの準備を始める。

「両舷前進強速。本艦はこれより溺者救助に向かう。機関室、湯を沸かしておいてくれ。さあ、勇敢なる彼らを讃え、熱い味噌汁と燗酒でもてなしてやろう」

松山の命令に呼応し『五十鈴』は機関を始動させると、乗組員たちを救助する為、足早に『恐怖』が姿を消しつつある海域へと向かっていった。


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