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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
75/111

第20話 渤海炎上 (6)

 皇室財産をまんまとせしめ、わが世の春とばかりに凱歌を上げる東郷一味は、官邸内の職員食堂『さくら』において、麦飯のカレーライスに桜島大根の千枚漬、温泉卵、豆腐の味噌汁というささやかな夕食を共にしていた。

極端な円高政策による市場の混乱と国民の不満を良くも悪くも“人望”によって抑えつけている彼ら明治の巨人たちの次なる興味は、大日本帝国という国家の国際的地位についてだった。

「万博マニア」である金子の提案によって、震災復興が成ったあかつきに万国博覧会を招致するという案件については、その豊かな人脈によって着実に招致実現へ向けて前進していたが、彼らが真に求める国際的地位はその様な一過性の物ではない。

有色人種唯一の国際連盟常任理事国という極めて特異な立場にありながらも、それを国際外交の場において生かし切れていない現状への不満、突き詰めるところ、欧州中心主義への不満。

例えば、国際連盟、国際労働機関、万国郵便連合、国際電気通信連合……。

数ある国際機関の本部組織はいずれも欧州に拠点が置かれ、しかも、そのほぼ全てがジュネーブとベルン、そしてパリに集中している。

東郷とその一味が構想するのは万博招致に成功した後、その施設を活かす為に「何か一つでも良いから」国際機関の本部組織を招致し、日本の存在感を継続的に内外に示す事であり、同時にアジアが既に辺境ではない事を世界に示す行為でもある。

 加えて言うならば、国際的な地位向上や国威発揚の問題だけではなく、何と言っても国際機関の招致は招致都市に巨額の利を生む。

数十カ国が加盟する様な組織の本部が東京に置かれれば、多くの職員が東京に住む事となり、各国の送り込む代表部に属する外交官も居住し、注目度の高い組織であれば各国の報道機関が競って支局を開設する事にもなるからだ。

同行する家族や使用人まで含めれば数千人規模の外国人が継続的に居住する事になり、平均から見ればかなりの高給取りの部類に入るであろう彼らが東京に落とす金は重要な外貨収入となり、定期的に開かれる総会の時期ともなれば東京中のホテルが満室となり、客船の定期航路は貧しい移民ではなく上客達によって潤うだろう。

 また、長期に渡って日本に居住する者の中には日本や日本人に対し、親しみを覚える者もいるだろうし、将来的には彼ら『知日派』を育成する事にも繋がっていくかもしれない。

たった一つの国際機関で良い。

それで世界の日本を、そしてアジアを見る目は変るはずなのだ。


「既成の国際機関となると……正直、招致は難しいでしょうな。各都市とも旨味を知るだけに……」

カレースプーンを手にした金子が言う。

「パリ旧市街の国際労働機関本部は大分、手狭だと聞いたぞ? どうにかならんか?」

海軍出身者らしくスマートな振る舞いながらも大口でカレーを頬張りながら山本が問い返す。

「いやあ、確かにあの大所帯は魅力ですが、労働機関はやめておきましょう。何しろ上級職員はともかく中級以下の職員の中にはアカに共鳴する者も多いと聞きますし……外交特権を武器に何らかの工作でもされたら面倒なことになります」

そう応じる金子に向かい、温泉卵をカレーの上にのせてかき混ぜる事にご執心だった高橋が言う。

「パリならば、今年の四月にパリ大学の構内で何やら新しい国際組織が発足するとか聞いたが……」

「ああ、世界アマチュア……何だったかな? とにかくあれは国際組織という程の代物ではありませんよ。確か国際電気通信連合の下部組織だった筈ですし、しかも民間の組織。我々の目的とするところとは大いに異なります」

肩をすくめながら金子は興味なさげに答える。

「なんだ、そうなのか……まぁ、こう言っては何だが、最初に招致するには手頃じゃないか?」

「招致実績を積むという意味では、少なからず意義はあるのではないか? どうだろう?」

落胆交じりながらも前向きな高橋の言葉に、山本も賛意を示す。

「お二方がそうおっしゃるのならば在仏大使館に少し調べさせましょう。瓢箪から駒という場合もありますしね」

「そうしてくれ……本当はご本尊の国際電気通信連合ならば大歓迎なのだけどねえ」

山本の深い嘆息に金子も高橋も苦笑を返す。

 

 満州鉄道買い取り以降、合衆国は東アジアへの進出を加速させ、イギリスはフランスと組んで中国大陸への経済支配を日に日に強めている。

これに対し、それまで他者から一目も二目もおかれる「鉄火場に滅法強いガキ大将」の様な存在から、少しばかり勉強は出来るかもしれないが全く目立たない存在へと変化を遂げつつある日本。

自ら望んだ事とは言え、日清、日露の鉄火場をくぐり抜けた総身が肝の様な老人達にしてみれば現在の日本は少々、物足りない存在の様に感じられていたようだった。


 歓談の中、その報は届いた。

「奉軍主力、山海関東方に布陣した模様」

中国革命の父として尊敬を集め続けた巨人・孫中山が逝去したこの哀しむべき日、遂に満州王の精兵が要衝に到着したのだ。

二個軍・八個師団が一斉に錦州を発し、西南へと進軍を開始のは十日程前の事であり、彼らは渤海湾に沿った狭い平野部を貫く一本道を徒歩、騎乗、トラック、鉄道とあらゆる移動手段を用いて進んだ。

要衝・山海関までの距離は凡そ120キロ。

「所詮は軍閥、烏合の衆に過ぎない」

などという偏見が、偏見に過ぎない事を思い知らせるかのように、整然と長い隊列を組みながらの行軍。

決起より三カ月余り。

今や、全ての段取りを整え終えた張作霖に死角はない。


「奉軍、発す」

十日前、その報に接した北京政府軍はかねてよりの作戦計画に従い、こちらも粛々と邀撃の準備を進めていた。

極北航路探検に身を投じ、遂には全滅の憂き目にあった英国人探検家フランクリンの乗船『エレバス』『テラー』と同じ不吉な名を持つ二隻の砲艦は、民国海軍将兵によって操られ、威海衛の静かな港内を滑り出す様に出港、目的地である山海関の沖合に布陣を終えていた。

仰角をかけられた二門の巨砲は、如何にも猛々しく、そして禍々しい。

山海関に殺到する北の大軍を、一方的に叩きのめすという役割を与えられた切り札たる異形の怪物は巨弾を体内に秘めつつ、沖合を遊弋する。

38.1センチ砲二門。

両艦は東洋国家に限定して言うならば日本海軍の保有する『長門』『陸奥』に次ぐ巨砲を装備する大型艦であり、呉佩孚以下北京政府の面々には山海関を守る仁王像の様に、さぞかし頼もしく見えている事だろう。


「いよいよ始まりますか……」

手にしたスプーンを置くと、ナプキンで口元を拭い、諦念とした様子で金子が呟く。

「租界の警備は整っておるし、在留邦人の避難もほぼ済んでいるのだろう? ならば勝手にやらせておけば良い。本邦には関係のない事だ」

わざとらしく素っ気ない態度を示す山本の口調にも、どこか諦めの雰囲気が混じっている。

親日派だった浙江軍閥の段祺瑞が直隷・奉天連合によって北京を追われた時点で日本の対支政策は事実上、詰んでしまった……それが山本の持論。

段祺瑞失脚後、慌てて奉天と関係を密にして巻き返しをはかったものの、所詮、悪あがきに過ぎなかった。

事実、張作霖は日本に何の断りも無く剣を抜いたではないか……。

「当たり前でしょう。日本に代わってアメリカさんという後ろ盾を得ましたからね。今更、我ら貧乏人に何の用があるというのです?」

高橋は味の悪い麦飯をごまかす為か、二個、三個と温泉卵を追加しながら山本以上に素っ気なく断じる。

「そんな事より問題なのは、この戦いが長引く事です。先の閣議に際して田中陸相は泰平組合を介して旧式兵器の売却をしたらどうか? と言っていましたが……。とにかく長引いて我が国に良い事など一つもありません。山海関を挟んで欧州大戦の様な長期の塹壕戦ともなれば、誠に厄介です。このまま対支貿易が冷え込み続けると関西の財界が血相を変え始めますからね」

麦飯特有の青臭さにようやくカレーの香辛料と温泉卵が打ち勝ったらしく、大食漢の高橋はそれを口に運びながら経済担当者としての懸念材料を指摘する。

「困った事にどうやら英国は本腰を入れて北京を支援するつもりの様ですな。英国と中国、往年の日英同盟の様な契りが彼の国同士で交わされるとなると……吾輩はそちらの方が厄介な事になる様な気がしております」

カレーを下げさせた金子は給仕の淹れてくれた日本茶を手に呟く。

「中国が英国の庇護の下、独り立ちできるのなら、それはそれで良いではないか。中国が富めば、我が国の品物をより買ってくれるようになる、悪い話ではない」

高橋はそう言うが、それを横で聞いていた山本は首を横に振る。

英国人は法を重んじる。中国人は友誼を重んじる。法より友情を重んじるのは個人としては美徳だが、国家としては致命的だろう。そんな二つの国がいつまでも仲良く手を繋いでいられるとは思えない。

「徳で治める、といえば随分と聞こえは良いが、要は法より上に人がいる、という事だ。国際社会では通用せぬよ」

山本の言葉に、酢の効いた千枚漬を頬張りながら東郷は繰り返し小さく頷く。


 荒々しいノックの音と共に官邸書記官の若い官吏が食堂に飛び込んできたのは、老人達が食事を終え、それぞれの飲み物を手にくつろぎ始めた時だった。

室内に漂うカレーの芳しい香りに、少しだけ鼻をひくつかせた書記官は、大物揃いのメンバーの誰にこの一報を伝えれば良いのか、一瞬、迷った顔をする。

結局、彼は特定の人物にではなく、その場にいる一堂に対し、等しく報告する事を決めると手にした電報に目をやる。

電報は奉天にある日本領事館が発したもので、外務省を介してこの首相官邸に送られてきたものだ。

入り口ドアの前、読み上げはじめた書記官の声は緊張を帯びており、同時に何と表現して良いのか分らない、といった風な若干の戸惑いを含んでいた。

「本日夕刻、中華民国東北三省保安総司令……否、張作霖氏より、今上陛下に対し奉り以下の通告がなされました」


一つ、張作霖及び有志一同は、本日零時を持って中華民国国籍を離脱した。

一つ、張作霖及び有志一同は、ここに中華連邦の建国を宣言する。

一つ、有志一同よりなる中華連邦臨時代議院は満場一致にて、張作霖に対し臨時大総統への就任する事を要請し、張作霖はこの要請を応諾した。

一つ、張作霖臨時大総統は中華民国政府に対し速やかなる政府の解散を求めるべく三日間の猶予を与え、連邦初年3月15日午前零時までに回答を求める旨、通告した。

一つ、期限内に回答なき場合、及び連邦政府の申し出に対し受諾なき場合、期限以降に引き起こされる全ての事象行為の責任は民国政府に帰するものとここに宣する。

一つ、期限内に回答なき場合に備え、中華連邦はその利益保護国としての任をパナマ共和国政府に要請し、パナマ共和国政府はこれを応諾した。

一つ、中華連邦臨時大総統張作霖は大日本帝国皇帝陛下に対し奉り、中華連邦の国家承認及び外交関係の樹立を求めるものである。


「……以上であります」

大きく息を吐き出しながら、大任を終えた書記官は背広の袖にて額に噴きだした汗を拭う。

「……」

しばしの間、食堂内に沈黙が流れる。

「建国を宣言……? 建国といったのか? 独立ではなく?」

書記官から電報を受け取りながら、金子は老眼鏡を懐から取り出す。

「ふむ。確かに建国と書いてある……間違いない」

文面を確認し、金子は丸テーブルの横に座る東郷の前に電報を押しやりながら言葉を添える。

「どうやら張作霖の目的は民国の実権を掌握する事でも、満州にて自立することでもなさそうです、首相閣下」

中華民国の混乱期、中央政府の非力さを見てとったあちこちの軍閥が独立政府や自治政府を僭称して、勝手気ままに振る舞った事例には事欠かない。

あえて『建国』などという大仰な表現を用いた張作霖は、彼ら自称独立政府とは違うと言いたいのだろう。

東郷が文面を読み始めたのを確認した金子は、立ったまま茫然としている書記官に尋ねる。

「それで、この中華連邦とやら……一体、なんだね?」

「……ぞ、存じません」

質問に困惑した書記官は、やっとの思いでそう答えると、一人恐縮する。

その様子を見た東郷は、彼が電報以上の情報を得ていないことを確信し、全閣僚に緊急閣議を招集する旨を通知する様に命じる。

「さてさて……」

大きめの湯呑みを両手で持ち、事態の進展に呆れた様子を見せながら高橋はゆったり中身を啜り、テーブルの反対側に座る東郷の顔を盗み見る。

高橋の手にした湯呑みの中身は無論、茶ではなく熱い燗酒であり、賓客用に上等な酒が揃っている『さくら』は高橋にとって、それだけで金城湯池の如く思えるのだ。

鼻を突き刺す様な日本酒の芳醇な香りを愉しみながら、高橋はじっくりと東郷を観察する。

老眼鏡越しに電報を読む表情はやや困惑の色を帯びているが、決して動揺はしていない。

むしろ、微かに綻んだ口元から見るに、意外な展開に楽しんでいるのかも知れぬ。

「この通告文で分る事は……張作霖とその一派が何やら怪しげな企てに加担していること、それに……」

文面に目を落としたまま沈黙する東郷の傍らで金子の言葉を山本が引き継ぐ。

「その後ろに米国がいるということ、だな? パナマの名前が出てくるところからして」

「然り。現パナマ政府は米国に首根っこを押さえられていますからな、恐らく米国が要求したのでしょう。それにしても、米国自身が表立って利益保護国を務めないという事は彼ら自身でさえ勝算は五分と見ている、という事でしょうか」

「米国の狙いは新国家を建国させて、各国が民国と締結している諸条約を無効にする事だ。見え見えの一手だが、それだけに確実だ……。まったく、英国も英国だが、米国も米国だな。実に怪しからん」

山本の言葉は強く、そして非難めいているが、語気は荒くない。

彼もまた、極めて冷静に事態を受け止めていることが伺えた。

「これから先、どうなると予測されますか?」

掌中で湯呑みを弄びながら、のんびりとした口調で問い掛ける高橋に金子が答える。

「広州政府や軍閥、各地の実力者達の動向が分らない以上、今は何とも云えぬのでないか? 何より今頃、北京政府自身が誰よりも困惑しているだろう」

「あぁ、広州政府か……これを機に同じ民国政府同士として北京に合流する可能性は無いだろうか? いっそのこと我が国が仲立ちして北京と広州を一つにすれば……」

どうだろう? といった風に山本は東郷に顔を向ける。

「恩ば売る……おいはそげんなけしんぼはいっすかん」

同郷の山本に問われ、思わず顔を顰めながら鹿児島弁で答えた東郷だったが、生粋の江戸っ子である高橋や福岡生まれの金子には何を言っているのか分らず、二人は思わず顔を見合せる。

「……そんなこずるい真似をするのは気に入らぬ、と申しました」

二人の様子を見て、理解していない事を察した東郷は微笑すると改めてゆっくりと話した。

 

 ……閣僚が参集するまで数時間はかかるだろう。

それまでの間、老人達は湯呑みを手に、漬物を頬張り、味噌を舐めながら、いつもと変わらぬ調子で、一つの策を練り始めた。





1925年3月12日

遼寧省・錦州


 後戻りのできぬ建国宣言をした張作霖は錦州の市庁舎内に本営をおいていた。

前線を預かる楊宇霆からは、既に部隊の布陣が完了した旨の報告を受けている。

全部隊に行きわたる程ではないが、米国が大量に供与してくれたトラックのお陰で、彼の軍は飛躍的に機動力を増した。

米国人はいい。

トラックに限らず、あれが欲しいと云えば、直ぐに本国から取り寄せてくれるし、これが買いたいと云えば直ぐに小切手が届く。

いくつかの鉄道敷設権を与え、租界の拡大を承知し、鉱山の利権を与える事にさえ同意すれば、彼らはなんとも実に気前がよい。

 張作霖の建国宣言を世界各国がどう受け止めたか。

既に中南米の幾つかの国は外交関係の締結を希望する旨、打診してきている。

いずれも米国の影響力下にある国家だ。

「中華連邦」を認めた彼ら中南米諸国からの外交官たちを、張作霖は感謝の言葉と侮蔑の感情を持って丁重に応対している。

「ふん、米国の傀儡め」

俺は違う。断じて違うぞ……。

胸の内で、そう叫んでいる。

貴様らと同列に扱うな、と。


 中華連邦……。

この国号が表すとおり「聯省自治主義(連邦主義)」を国家形態の基本原則とする事を張作霖が決めたのには訳がある。

本来であれば、北の強兵を率いて中原に乱入、敵対勢力を一つ残らず、粉砕してやるつもりであったが、戦争の長期化を望まない米国が、あくまでも首を縦に振らなかったのだ。

「何としてでも、短期決戦にて雌雄を決せよ」

それがスポンサーである米国の要望であり、これを無視する事はさすがに憚れる。

 北京への裏切りから張作霖と提携せざるを得なくなった孫伝芳や、福建で再び勢力を伸ばし始めた段祺瑞、呉佩孚と友好関係にある閻錫山、更には英国系と見られる陳炯明や陸栄廷、西南三州で独自の動きを示す唐継尭、それに何より、張作霖の切り札・馮玉祥。

彼ら自己肥大化した群狼を新国家に靡かせるには、その自治権を保証してやるのが一番だ。

既得権益が保証されれば、共に挙兵することまでは望めなくとも、少なくとも北京に対し距離を置く筈……その答えが高度な自治権を有する省による連邦化構想であり、国家モデルとしては実質的に州連合体であるアメリカ合衆国を範とするつもりだ。

今は多少の我儘に目をつぶる羽目にはなってはいるが一旦、統一してしまえば彼ら地方軍閥など煮ようが焼こうが張作霖の胸一つで決まる。

 現状、中華連邦への参加を正式に意志表明しているのは、江蘇省、安徽省、浙江省を支配し、臨時副総統の肩書を進呈された孫伝芳、福建省から江西省に進出を開始した段祺瑞の両者のみだが、張作霖の地盤である東北三省を加えれば合計8省となり、更に水面下、参加を確約した馮玉祥の勢力圏4省を加えれば中国本土の過半の省を制する事になる。

最終的に北京を落とせば流れは確定するだろう。

「要は北京だ。北京さえこの手中に収めれば……」

張作霖はそう独語し、返ってくる筈もない北京政府からの返答を待ち続けていた。



 内務大臣・浜口雄幸が遅れて首相官邸に顔を出した時には、既に他の閣僚は参集していた。

「遅れて申し訳ない」

閣僚陣の中でも年少の部類に入る浜口だが、年長者を前にしてもその不遜な態度は変わらず、口調はぞんざいだ。

「事情説明は道すがら、受けて参りました。早速、閣議を始めたいと思います」

浜口はいつもの様に司会役を務めようと、閣僚一同に向き直る。

参集した閣僚一人一人の顔を見回しながら、ふと、気が付く。

幾人かの閣僚……正確に言えば内閣の重鎮である金子外相、高橋蔵相の両大臣が実に楽しげな表情を浮かべているのだ。

その浮かれた表情は、どこかこの謹厳な場に似つかわしくなく、これから何かとんでもないイタズラが始まるのを待ちきれない悪童の様な風さえある。


(おや? さては爺さん達、何かやる気だな……)


 浜口は張作霖からの電報を改めて読み上げながら、腹の底でそう苦笑する。

まさか、イタズラの首謀者が隣に座る東郷だったとは、これぽっちも気が付かなかったが……。


 閣僚たちの反応はまちまちだ。

「対支不干渉」の原則に従い、これまで通り、不介入方針を貫くべきだという意見。

先程、山本が言った様な「南北合作」工作を日本主導で進めるべきだという意見。

「中華連邦」を直ちに承認し、張作霖の覇権確立に協力しようという意見。

様々な意見が出たが、不思議と「北京政府を支援すべき」という意見は無い。

さすがに借款を踏み倒すは、不買運動は取り締まらないは、と何かと日本に対して毒のある態度を示す今の北京政府を快く思っている者はいない、という事だろう。

それでも閣僚たちの意見はなかなかまとまらない。

意見が対立しているから、というより「結局のところ、日本には関係ない」「日本は今、それどころじゃない」といった、どこか近隣の国家に対する無責任な雰囲気が閣議室の空気を支配しているのだ。


(ほぉ……こりゃ、この場に木堂の爺さんがいたら一喝しそうだなぁ)


気のない閣僚同士の議論を聞きながら、浜口は朝鮮において何故か人気を博しているらしい盟友・犬養に想いを馳せる。

「よろしいか?」

突然、東郷が浜口に声を掛ける。

自分の世界に少しだけ足を踏み込んでいた浜口は、現実に引き戻されると共に、珍しく東郷が発言を求めている事に驚く。

「どうぞ、御随意に」


(珍しいな、東郷総理が発言するなど……)


朴訥とした口調でゆっくり喋り始めた東郷の言葉に耳を傾ける。

そして浜口は、自分の顔から血の気が引き、次第に蒼褪めて行く事をこの時、実感した。


「中華民国と中華連邦、今や支那の大地は二分された。英国と米国に唆された両政府によってこれより先、彼の地は未曽有の戦乱へと突き進むことになるでしょう」

閣議の席上、滅多に発言した事のない東郷の言葉に閣僚達は自然と聞き入る。

「……しかるに、この電報、つまりは中華連邦からの通告を見るにつけ、おいはある事に気が付きもした」

東郷は、ゆっくりと閣僚一同を見回す。

「これは戦争です」

「……」

あまりに当たり前過ぎる発言に閣僚達は沈黙する。

その沈黙の意味するものは「閣下は何を今更、言っておられるのか?」という類のものだった。

キョトンとした顔をする閣僚達を無視し、東郷は更に言葉を続ける。

「これは正式な戦争です」

「……まぁ、形式的には連邦政府は民国政府に対し最後通牒を手交した、という事でしょうな」

浜口は、政治音痴の東郷が何かとんでもないボロを出すのではないかと心配になり、助け船のつもりで言葉を挟み、状況の整理と解説を試みようとする。

「こんな馬鹿げた事を大袈裟に宣言した目的は、言うまでも無く明らかですが……」

浜口の心配をよそに東郷は「邪魔をするな」とばかりに声を張り上げる。

「御一同、もう一度、言います。これは正式な手続きを踏んで始まった戦争である、と本邦は判断すべきなのです」

「……あっ!」

閣僚の幾人かがこの瞬間、声を上げる。

その声は悲鳴にも似たものであり、傍らで事の次第に気が付いていない同輩の耳元に東郷の言わんとしている事を囁く。

「かねてより英国は民国政府に対し、公然と兵器を供与しておる様子。同様に米国も連邦政府に対し、兵器を供給していると思われる」

東郷は言葉をここで切り、立ち上がると一歩前に進み出る。

「彼らが何を望んでいるかが問題ではない。彼らが何をしているかが問題でしょう」

閣僚一人一人と目を合わせながら、珍しく饒舌な東郷は皺の深い容貌に穏やかな笑みを浮かべる。

「支那人が支那人同士で支那の将来を賭けて戦争をするのであれば、おいは口は出さん、いや、出すべきではないと思うております。しかし、英米が戦争を画策したとなると……これは見過ごせぬ。見過ごす訳には参りません。おいはライミーとヤンキーに戦争ば教えてやらねばならんと思うております」

「戦争に相違なし。舐められたものよのぉ、同輩諸君」

東郷の言葉に呼応するかのように発言したのは高橋だ。

その顔はどう見ても、笑いを堪えている。

「自ら大砲を撃たなければ戦争ではない、などと言い逃れできるとでも思っておったとしたら……いやはや、浅慮の極み。慮外者に戦争を教えてやらねばなりますまい」

今度は金子が立ち上がり、拳を握りしめて如何にも決然とした言葉を発するが……やはり、目が笑っている。

「もはや、これは戦争だろう」

「戦争だ! 戦争だ!」

「戦争だ!」

「戦争!」

「戦争!」

漸く事情を呑み込んだ閣僚達は、場の空気に呑まれたのかやや興奮気味に叫び、拳を振り上げはじめる。

その様子を静かに見つめていた東郷が、その両腕を大きく広げる様に上げると、場が一瞬で静寂に包まれた。

「よろしい。ならば戦争だ」

神託は下った。



同日

イタリア王国・首都ローマ

キジ宮殿(首相官邸)


 イタリア王国首相兼外相ベニート・ムッソリーニ統領の執務室は驚く程、質素だ。

元々、個人的な金銭欲、物欲とは無縁な男であり、権力を奪取した後も汚職などの黒い噂は一度たりともたった事が無い。

その強引過ぎる政治手法や狂気じみた大衆扇動に関してならば、反対勢力から日常的に非難されてはいるが、少なくとも彼の清貧さに関してはイタリア国民万民が認めるところであったのだ。

 昨年秋、国王エマヌエーレ3世の要請を受けローマ市内に「ロシア全軍同盟」の総本部を設ける事を許諾して以来、欧州政界内部において彼の個人的な名望は日増しに高まっている。

曰く「反共の防波堤」「反共の闘士」「反共の守護者」……。

労働争議に悩まされ、革命の恐怖に怯える各国財界は、彼の実現した労使協調主義が労働問題の根本的解決策として非常に魅力的に思えたし、そのカリスマ性に富んだ伊達男ぶりにはイタリア国民以上に期待していたと言ってもよい。

 確かに英国の電撃的ソビエト承認により、一度は動揺し、これに追随してソビエトを“うっかり”承認してしまったムッソリーニ・イタリアだったが、国内にソビエト政権打倒を目指す反政府組織の本部を置く事を認めた事により、その後の対ソ外交関係は完全に冷え切っている。

しかしながら元々、両国間に大して貿易取引がある訳ではないので、関係が悪化したところで国家経済上の影響は皆無だったし、個人的には勤王家であると自負している以上、国王直々の要請に応じるのは当然だとも考えたのだ。

 むしろソ連との関係悪化よりも、ロシア全軍同盟の本部が置かれて以来、欧州各地に散っていた亡命ロシア貴族が大挙してこのイタリアの地に集結し、イタリア国内産業へ投資を開始した事の方が経済的なメリットは遥かに大きい。

亡命ロシア貴族側にしてみれば、持参した貴金属の切り売りで生活していても先は見えている以上、企業投資して少しでも資産を増やそうという単純かつ自然な腹積もりであったのだが、その効果は資本不足に喘いでいたイタリア産業界にとっては大きな光明となった。

同時に、ロシア資本の入ったイタリア国内企業に対し優先的に発注されるロシア全軍同盟からの膨大な量の軍需物資は、この国の産業界に今では無くてはならない慈雨の如く降り注いでいる。

日本以上の反動不況に責め苛まれていたこの国は今、着実に不況から脱しつつあった。


 イタリア人には珍しい金髪を短く切りそろえた大柄なイタリア外務省事務官アレクサンド・アンデルセンが持参した文書にドウーチェは目を通している。

文書の差出人は大日本帝国政府。

先の欧州大戦期に義勇兵として従軍し、顔面に縦に醜い傷跡の残る古参党員・アンデルセン事務官の視線を顔面に受けつつ、その文面に目を釘づけにされる。

「国際連盟臨時総会の招集に同意を求める」

という何と言う事は無い要件から読み進めていくうちにドウーチェは息を飲む。

日本政府の申し出は、あまりに唐突で、あまりに無謀なものだ。

「如何取り計らいましょうか?」

役目がら、先に文書を読んでいる事務官はこの申し出の突飛さを十分に理解しており、だからこそ敬慕してやまないドウーチェにこの申し出を受けてもらいたいと思っている。

「神にでもなったつもりなのかね? 日本人は……。連中はいったい何を考えているのかね……?」

読み終えたドウーチェは首を左右に振りながら、深く息を吐き出す。

「何と言う無謀、何と言う傲慢、何と言う愚劣……日本人がこうも愚かしい民族だったとは!」

その言葉に事務官は感情を込めない声音で問い返す。

「親愛なる統領閣下。小生はこの要請を受けるべきだと考えて……」

「無論、受けるさ! 受けるとも! これほどまでに愚かしくも気高い、向う見ずな申し出、我らが受けずに世界中の誰が……いったい、誰が受けるというのだね?」

内面から湧き起る興奮を抑えきれなくなったとみえ、ドウーチェは唄う様に叫ぶ。

「日本大使に即刻、返書を。『我が国は日本政府の申し出に全面的な賛意を表明し、本件議題の共同提案国に名を連ねる用意がある』とな」

立ち上がったドウーチェは執務机に両手をつき、身を乗り出す様にしながら高揚した精神を放出する。

「素晴らしい! 実に素晴らしいではないか。理想的な政治とはかくあるべきものだ。失敗しても失うものは何一つなく、成功してもしなくても聖なる御旗は我にあり、という訳だ、エイメン!」


 日本とイタリア。

連盟常任理事国二カ国の緊急要請に基づき開催された国際連盟臨時総会において両国が共同提出した

「英米両国に中立国義務違反の疑いあり」

という議題は、関係各国を大いに困惑させる事になる。

外交という名の一心不乱の大戦争ゲームが密室を舞台に幕を開けようとしていた。




まぁ、たまには(笑)


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