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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
73/111

第18話 渤海炎上 (4)

 奉天の冬は乾いている。

太陽が照らすのは一日、僅か5時間程、風は身を切る程に冷たいが、雪はほとんど降らない。

そんな灰色めいた冬の奉天を訪れたフーヴァー一行が満面の愛想笑いを浮かべながら告げた合衆国の申し出を聞いた瞬間、張作霖は傍目にも分る程、露骨に嫌な顔をした。

ロシア人の汗と、日本人の血が滲んだ至宝を、あっさり金で手に入れた、この新たな隣人は傲慢にも、この張作霖に対し中華民国を滅ぼす役目を担えと頭ごなしに言っている。

アメリカ人の目論見は笑いだしたくなる程、露骨で強欲だ。

張作霖を顎で使って、北京政府が諸外国と結んだ諸条約や譲渡権益、それらをきれいさっぱり、反古にさせ、自分達は新たな後見人顔で居直ろうというのだ。

何という傲岸さだろう。

居直り強盗でさえ、もう少し遠慮というものを知っている。

もし張の手にノギスがあれば、フーヴァーの面の皮の厚さを本当に計ったかもしれない。

 

 そもそも、奉天が隣人たる合衆国に何の通告もせずに北京政府に対し、牙を剥きだしたのは勝算あっての事だ。

何も脊髄反射的に決起した訳でも無ければ、怒気に任せて拳を振り上げた訳でも無い。

計略の核となる馮玉祥とは、実際、既に水面下、接触を開始している。

現状、馮玉祥自身は、張作霖の申し出に対し、なかなか首を縦に振る事は無かったが、あの男の性格や育ちを考えれば、あと一押しするだけで、銃口の向きを変えるのは間違いない。

要は、自らを高く売りつけたいだけなのだ。

「馬鹿にしおって……」

馮玉祥の足元を見る様な態度は、紛れもなく腹立たしい。

だから、政権獲得を果たした後には利用価値のなくなる馮玉祥を排除するつもりでいた。

だが、それまでは丁重に扱わなければならない。

何と言っても、馮は張にとって紛れもなく鬼札なのだから。


 もう一押し。

今、張作霖には、その一押しに決め手が無かった。

当初、山海関を挟んで対峙すれば、北京という空き屋に勝手に火の手が上がると踏んでいた。

だが、フーヴァーが帯同してきた不遜が服を着て歩いている様な陸軍将官の説明を聞いているうちに、その読みが少々、甘かった事を知る。

 それにしても、驚嘆すべきは英国の態度だ。

彼らは本気で北京政府を守ろうとしている。

時に、この世で最も利己的で、この世で最も排他的な態度を示す島国を統べる漢達は、自身を頼る呉佩孚に対し、己の持てる力の限りを用いて庇護者としての立場を真っ当しようとしている。

その事実は、張作霖を少なからず戦慄させる。

それに引きかえ、アメリカ人とは何と礼儀を知らず、何と節度をわきまえぬ輩なのだろう。


「貴国の建議に同意しよう」

熟慮の末、張作霖は合衆国の提案を受け入れる。

応諾すれば、もはや、引き返す道は無くなる。

その事は分っている。

下手をすれば、南方で孤立無援の戦いを演ずる孫文・広州政府の立場に陥る。

世界中で、ただの一カ国も広州政府を承認している国は無い。

蜜月関係にあり、あらゆる援助を行い、士官学校の創設にも協力したソビエト政府ですら、公式には中華民国を代表する政府として認めているのは北京の方なのだ。

合衆国が後ろ盾……というよりも、手引きして……新国家を建設した時、果たして、自分は国際社会の承認を得られるのだろうか?

少なくとも、合衆国が承認すれば、同国の影響下にある南北アメリカ大陸諸国の幾つかはそれに追随してくれるだろう。

張作霖の言葉に「当然だ」と言わんばかりの表情でフーヴァーは頷き、張作霖に右手を差し出す。

「閣下のご決断に敬意を表し、私は合衆国を代表して新国家の創設を、心よりお祝い申し上げます」

その右手を握り返しながら、満州の王は問い掛ける。

「合衆国は、新たなる国家を直ちに承認して頂けるのでしょうな?」

聞くのもバカバカしい質問だが、張作霖は聞かずにはいられなかった。

「無論、それは、閣下次第です。合衆国は主権国家として、あらゆる可能性を留保しているものと考えます」

臆することなくフーヴァーは、あくまでもにこやかに応ずる。


(やはり、な)


「勝ったら認めてやる」

アメリカ人はそう言っている。同時に

「勝つ手伝いはしてやろう」

とも言っている。

他人を唆しておいて、この言い草。

アメリカ人とは、何と厚かましいのだろう。

だが、そのアメリカ人の助力なくして、今、奉天に勝利は無い。


(よい。いずれ、呑み込む。呑み込んでみせる)


数千年に及ぶ歴史。

数々の外敵に侵されながら、常に支配者を魅了し、同化し続けた中華の底力。


(見せてやろう。建国して、たかだか百余年、我らから見れば立つ事もままならぬ幼児の如き貴様ら米国の好きにはさせぬ)


張作霖はにこやかに頷き、記念撮影の準備を部下に命じる。


中華民国は清帝国の継承国家。

それは歴史的事実であり、国際的認知でもある。

広州政府は、あくまで中華民国政府の分派であり、北京政府の結んだ条約や、国内政策を違法であるとして承認していないが、やはり清帝国の継承国家である立場に変りはない。


(笑っていられるのも今のうちだ。せいぜい、悦にいるが良い。いずれ骨の髄まで喰らい尽くしてやろう。新たなる中華の血肉となるが良い)


内面の陰惨なる想いを悟られぬ様に、多少、ぎこちなさを感じる作り笑いを浮かべながら、レンズに視線を向けた張作霖は静かにそう決意し、ことの成り行きを愉しむ事とした。





 フーヴァーの奉天訪問に同行したマッカーサー少将は、ワイフへの適当な土産物を物色する為、奉天中央駅の周辺をぶらついていた。

駅周辺は附属地となっており、治安は郊外に比べ格段に良い。

もっとも、本来であれば、彼の指揮下にある陸軍将兵が治安維持の任務につくべきであるかもしれないが、満州鉄道側が本国からの移民者に職を与える為、警備員として大勢の合衆国市民を雇っていたこともあり、日本の四角四面で強圧的な統治時代に比べれば、やや胡散臭さが増した事は否めない。

 マッカーサーは従卒と通訳を従えながら目についた商店を覗いては、次の店へと歩む。

西洋様式の建物が居並ぶ駅周辺は、ともすればここが中国である事を忘れてしまう程に居心地がよく、そして何より、この街の白人の多さは圧巻だ。

昼間から酒を呑み、仲間同士、肩を組んで放談し、大声で喚く者。

職を求めている旨が書かれたプレートを首から下げて、角に立つ者。

籠いっぱいのパンを売り歩く者。

霜害によって皺の寄った野菜を積んだ荷車を牽く者。

合衆国から流れて来た者達に対しては、当面の生活費が民政局から支給されており、酒を呑んで騒いでいる者の大半は、彼らだろう。

立ち寄った一軒の立ち飲み屋のカウンターに肘を預け、ホットチョコレートを飲みながら、マッカーサーは街路を歩く彼らを眺めやる。

それにしても異様な程の白人の多さだ。


 この当時、満州に居住していたロシア人は凡そ30万人と言われている。

その内、10万人がハルピン市周辺に居を定め、ハルピン市内に『露人街』と呼ばれる自治区を形成している事はかつて述べた通りだ。

そしてロシア人は奉天にも多数、居る。

いや、むしろ合衆国が旅順大連に進出してきて以降、職を求め、彼らロシア人は南下を開始しており、ここ奉天においても10万人を超えるロシア人が何らかの恩恵を得ようと己の存在をアピールしている。

そもそも、30万人という総数、実はかなり怪しい。

時代はソビエト内戦からそう年月を経ていない。

この内戦期に国外脱出した白系ロシア人の総数は少なくとも200万人と見られており、主な移住先とその数はドイツに60万人、フランス、ポーランドに各40万人と言われている。

無論、満州にも主としてウラル以東に住む白系ロシア人が多数、雪崩れ込んできていた。

前述した30万人はあくまでも『満州域内に住居を定めた者』の数であって、移住の過程としてこの地に一時滞在している者は含まれていない。

帝政ロシア時代からこの地に居を定め、商売を興し、生活してきたロシア人達と違い、一部の富裕な亡命者を除けば家財道具一切、財産の全てを失い、命からがら身一つで逃れてきた者達。その数、優に20万を超える。

合計50万人以上、軽視出来る数ではない。


 マッカーサーは街行く彼らロシア人を眺めながら、慎重に観察する。

その歩き方、姿勢、立ち居振る舞い、そして眼差し……。

そのどれもが、合格点だ。

ロシア人達は希望を失っていない。

ボリシェビキに家族を殺され、財産を奪われ、国を追われながら、彼らは故郷に帰る日を、そして復讐を夢見ている。

「想像以上……これは思ったよりも掘り出し物になるかもしれん」

小さな構想を胸の内に秘めつつ、マッカーサーは満足気に小さく頷き、紛い物のチョコレートを喉の奥に流し込む。





「西洋覇道の鷹狗となるか、東洋王道の干城となるか」

そう日本人に未来を問いかける言葉を残して、孫文は日本を去った。

時に大正十三年十一月二八日。

頭山満の招聘に応じ、神戸での講演会、世に言う「大アジア主義演説会」を終えた後の事だった。


 数日後、孫文は朝鮮総督府・総督官邸に立ち寄った。

玄関先はおろか、門外まで進み出て迎え入れたのは、当然ながら館の主・犬養毅。

二人は親友であり、盟友であり、同志でもあった。

 孫文の病は重い。

傍目に見ても、その消耗し、土色を帯びた冴えの無い容色は「長旅の疲れ」だけで済ませられる類のものでない事は明らかだ。

異様にむくんだ頬、汗ばんだ額とは対照的に、冷たく、生きた人間の手とは思えぬほどに肉の落ちたその両手を押し頂く様に握り締めた時、犬養は胸の奥から何かがせり上がり、小さな双眸からは涙がこぼれ落ちそうになる。

「犬養大人……」

「中山……」

二人は、しばらく互いの目を見つめあったまま、動けない。

孫文もまた、今宵が敬愛してやまない親友との最期の宴になることをはっきりと感じていたようだった。


 孫文と犬養毅。

張作霖と田中義一。

この日中二組四人の男は、実に似通った存在だったと言えるかもしれない。

私的には、共に相手を義兄弟の様に恋慕しあう間柄であり、公的には蜜月の時代を終え、野を渡る国家という名の寒風が仲を裂き始めている。

そしてまた、孫文は張作霖を粗暴な軍閥と蔑み、張作霖は孫文を蒙昧な妄想家と毛嫌いする。

同じく、犬養は田中を身の程知らずにも政治を志した軍人と見なし、田中は犬養を衆愚政治の体現者として唾棄する。

それぞれの基盤において、実力も人望もある四者が手を取り合えば、全く違った未来が見えたかも知れぬのに、彼らは己の節を曲げる事が出来なかったばかりに、互いを憎しみ合う道を選んだ。

それはある意味、男らしい生き方だったかもしれないが……。


 宴は温かく、ゆったりとした空気の中、進んでいった。

主人の犬養と、客の孫文、そして孫文に会いたいと犬養に懇請し、相伴を許された廣田の三名。

既に少壮といって良い廣田の無邪気なはしゃぎぶりは、アジア主義の先達である両者の目から見れば、実に微笑ましく、頼もしくも見えたものだった。

 この夜、孫文はいつにもまして熱心に日本の中国革命への協力を求める。

「五族共和」の理念を語り、「三民主義」の理想を述べる、その熱意にいささかの衰えもなく、彼の身体を蝕む病でさえ、彼のその部分だけには手をつけかねているらしかった。

その主張は、以前と少しも変らず、哲学的で、思索的で、観念的だったが、爪の先ほども現実を見ていない。

犬養にはそれが悔しく、哀しい。

そんな孫文の選んだ唯一の現実路線が、よりにもよって日本が受け入れられる筈もないソ連との提携だったとは……。

帝国主義を嫌悪するあまりに、共産主義に靡こうとは……。

孫文・国民党が容共路線を打ち出した以上、例え犬養が首相であったとしても、大日本帝国の臣民として、それに迎合するのは憚れる。

仮に孫文が共産主義者であれば、諦めもついただろう。

しかし、孫文は違う。

西洋を憎み、東洋に失望したからこそ、なりふり構わず、相手構わず、コミュニストと手を結んだだけだ。

 犬養は己の力不足を嘆く。

今少し、自分に実力があれば……。

ほんの少し、自分に日本を左右できる勢力があれば……。

孫文に、この様な真似をさせずとも済んだであろうに。

だが、全てが手遅れだった。

孫文は間もなく死ぬ。


 無類の煙草好きの犬養が、ただの一回も煙管を咥えることなく会談を終えたのは親友の体調を慮ったからだろう。

この夜が今生最期となることは分っているのに、犬養は家路へとつく盟友に何一つ、約束してやることが出来ない。

余命数カ月に満たないであろう死出の旅路の始まりに嘘でも良いから、何か土産を持たせてやりたい……と心の底から願い、欲する。

だが、その思いが叶う事は無い。

今の犬養にその力は無く、大日本帝国という虚像に中華の運命を左右できる程の実力も無いのだ。


 孫文がその日の宿舎に向かう為、犬養の元を辞去したのは夜も更けての事だった。

ようやく愛用の喧嘩煙管に煙草を詰め、うまく、そしてそれ以上に辛い一服を吸いこむ。

「中山先生は、噂以上の人物でした」

「そうかい」

興奮気味に語る廣田に対し、やや意気消沈気味の犬養は火鉢に手をかざしたまま、面倒臭げに素っ気なく答える。

正直、疲れていた。

廣田の相手までする気にはなれない。

しかし、廣田はそんな犬養の心中など、まるで斟酌することも無く、己の心の赴くままに熱っぽく語り続ける。

その姿は、先程までこの部屋で熱弁を振るっていた孫文の姿に酷似しており、まるで何かが乗り移ったかのようだった。

「これから先、帝国はアジアの諸民族と提携し、解放者、東亜の盟主として西洋列強の無法と対峙していくべきです。それでこそ帝国は百年、千年と尊敬を得られましょう」

「……ほぉ、こいつは知らなかったな」

煙草盆の灰を火箸の先で弄びながら、犬養はさも感嘆した様に呟く。

もし、普段の犬養であれば、廣田の言葉じりを捕まえて噛みつく様な真似をする事はなかっただろう。

だが、狂犬はこの夜、あまりに疲れ、あまりに苛立っていた。

「何が、でありますか?」

怪訝な表情を浮かべながら、廣田は問い返す。

目線を煙草盆に落としたままの犬養だったが、その首や肩筋から、いつしか瘴気の様なものが立ち昇っている。

「廣田よ、お前さん、いつから中国人になった?」

「……は?」

「帝国を東亜の盟主にするって、お前さん、今、言っただろう」

「ええ、アジア解放の為に、その中心となり、指導手地位につくのが日本でしょう? その為の理想がアジア主義であ……」

立ち昇る瘴気は怒気へと見る見る変貌を遂げ始め、部屋の空気が乾き始める。

「おい、小僧。この俺に、この犬養木堂に向かってアジア主義を講釈しようってのかい?  そもそもてめぇは、いったいぜんたい、立雲から何を学んだんだ?」

隠しようもない苛立ちを語気に絡めた犬養の細く血管の浮き出た手の甲が白じみ、尋常でない握力で火箸を握り締めている事が伺える。

「いいかい、東亜の盟主、その考えこそが中華だろう。自分をアジアの中心に据えて、自分を一番、優れた存在だと考える、その思想こそが中華だ。お前が言っているのはアジア主義なんかじゃねえ、ただの中華主義、日本を中華主義の国にしようって考えだ」

犬養はそこまで一気に捲し立てると、最後に小さく呟く。

「日本は日本のままでいい」


「し、しかし、その為の下準備の為に、この朝鮮の地を……」

「おふざけになるなよ、廣田。てめえは俺や立雲の身代を継ごうって男だろう。その男がよりにもよって中華思想とアジア主義の区別もつかねえ節穴野郎だったとはな……俺の目も曇ったってものだ」

犬養の目線は相変わらず、下げたままだ。

煙草盆の灰、その一点から動かす事はない。

だからこそ、睨まれるよりも恐ろしく、凄まれるよりも怯まされ、廣田の肺腑を抉る。

蛇に睨まれた蛙、どころか、蛇に獲物としての価値すら認めてもらえない程、卑小な蛙。

それでも、廣田は抗弁しようとする。

その点、この男の肝の据わり方もまた、尋常ではない、という事だろう。

「中山先生も説かれた五族共和の精神にて、アジアの諸民族を導き、彼らを守る役目こそ、帝国の進むべき道である、と小生は考えております」

「ふん。そりゃまた、糞の役にも立たねえ屁みたいな考えだな……いいか、中山の言っていた五族共和なんてのは諸民族を子とし、漢族自らを親とするって考え方だ。何てったって、あそこは儒教のお国柄だからな、何でも物事を上下で見たがるし、子は親の為に身を奉げて孝行せよって教えだ。俺は、そんなんじゃねえ。諸民族とは五分と五分、どちらが親でもなく、どちらが子でもない。言ってみりゃあ、対等な兄弟分の交わりを持ちたいと思っている」

犬養の言葉に廣田は押し黙り、それを見てとった老いた論客は口調を和らげ、言葉を紡ぐ。

「明治の御維新まで、我ら日本人は千年以上も長きに渡って中華の優れた文化から学び続けた。だが、開国と共に激しく西洋文化と接し、それを学び、欲し、己のものとした。それはよ、それまで散々、世話になった中華の文化に背を向けた様なものだっただろうよ。そんな日本人の姿を中国人から見たら、とんだ恩知らず者の裏切りだったかもしれん。野蛮な倭人をいっぱしの文明人に仕立て上げたと自負していたのに、中華の文化よりも、西洋文化の方がより進んでいると弟子である日本人が考えたと知った時、中国人がどれだけ憤ったか、どれだけ屈辱と考えたのか……お前さんには、分るまい」

「先生は、中国人が日本を裏切り者と考えていると?」

「頭の中じゃあ、思っちゃいねえだろう。だが、腹の底では思っている筈だ。これから先、何かきっかけがありさえすれば、日本人が何か不始末を起こしたと見りゃあ、その度に中国人は躊躇わず日本を罵るだろう。弟子になったつもりも、裏切ったつもりもねえ日本人にしてみれば、面食らうだろうし、理屈に合わねえ話だろうがよ」

「何故、そこまで日本人を……」

「仕方ねえだろう。歴史を見てみろ。武力によって中国を征服した蛮族は両手の指に余るが、中華の文化と他所の文化を比較して、国を上げて中華に見切りをつけ、否定したのは日本人が最初だ。連中、未来永劫、許す筈があるまい」


 犬養の言葉は廣田を驚愕させ、消沈させるに十分だった。

孫文が、かつて犬養に贈った言葉「明治維新は中華革命の第一歩、中華革命は明治維新の第二歩」

その意味も解釈しようによれば、明治維新と中華革命を無理矢理に結び付ける事によって、日本人が僅か数十年で成し遂げた偉業を、中華文化の進化体系に組み込もうとしている、と見えなくもない。

孫文ほどの人物でさえ、そうなのか……?

「では、閣下はこれから先、どの様になさるが良いと?」

「分らねえ……分らねえよ。優しく接すれば際限なく傲慢になるし、強く出れば腹の底に怨みを抱え続ける。どうにも付き合いづらい隣人だ。昔、福沢翁が中国や朝鮮を『隣家の悪友だ』と切って捨てた時には腹が立ったものだったが……実際、その通りなのかもしれん」

「では、革命への支援は行わないと? 小生はてっきり、先生は広州政府に与するべきだとお考えなのだと思っていましたが……」

廣田は驚きの表情を浮かべながら、犬養という彼らの一派を率いる最高指導者の言葉を待つ。

「中山の寿命があと10年あれば、俺も迷わずそうしただろう。だがよ、こればっかりは無理な相談だ。ここは下手に巻き込まれるより、距離を置き、毅然とした態度を示し続ける他は無い。まぁ、そんな事は俺が考える事じゃなくて、東京の連中が考える事だがよ」



 苛立ち紛れに怒声を上げてしまった事に後ろめたさを感じつつ、部屋を後にする廣田の背中を見送ってから、犬養は再び煙管を咥える。


(早ぇ……あまりにも逝くのが早ぇえよ、中山)


 日本訪問と聞いた時には、体調が持ち直したかと喜んだものだったが、どうやらそれは間違いだったようだ。

今の孫文は、ただただ、革命への執念のみで生きている。

直隷派に奉天派が背くという千載一遇の機会にもかかわらず、広州に単独で中国全土を掌握する実力は無い。

それが故、最期の力を振り絞り、助力を求めて日本を訪問したのだろうが、ソ連と結んだ広州を支援するなど、無茶な相談もいいところだ。


 煙管の先から灰の上に落ちた火口を見つめる。

火口の赤い部分が次第に小さくなり、全てが灰へと帰っていく様子を見つめながら、狂犬は呻く様に泣いた。





 ホイットワース&カリフォルニア銀行は奉天市街の中心に位置している。

カリフォルニア州のゴールドラッシュ時代に金鉱掘りの山師を相手に財を成したこの銀行が、奉天に進出してきたのは一九世紀末まで遡る。

主として在住ユダヤ人を顧客とした、この老舗銀行を今、石光真清は訪れていた。

「これはこれは、キクチ様」

満面の笑みを浮かべた顔見知りの総支配人の出迎えを石光は鷹揚に受け流す。

キクチとは石光の偽名の一つであり、写真館や旅館の経営者という触れ込みで通っている。

「預けてある物を引き取りに来たのだが……問題はないかね?」

「はい。何も」

如何にも満州で財をなした日本人の金持ちらしく振る舞う石光の質問に、総支配人は自信たっぷりに頷くと、地下金庫へと案内する。

その背後には、筋肉の鎧を纏った数名の男達が窮屈そうに背広に身を包んで従う。

一目で、真っ当な仕事をしている男達で無い事が分るが、総支配人は気にもしない。

ここ奉天で、真っ当な職業に就いている男などを見る事の方が珍しいのだ。

 一行は地下金庫の一画に降り立つと、そこには薄汚れた木箱が山と積まれていた。

釘抜きを手にした男の一人が、その木箱の封を荒々しく破り、分厚い蓋をこじ開ける。

木箱の中には、小さな皮袋が無数に入っており、その一つを手に取った男は、総支配人と談笑を続ける石光に恭しく手渡す。

石光は皮袋の中をチラッと眺め、確認すると、自らの懐から財布を取り出し、総支配人に分厚い札束を渡す。

札束は邦貨にして3万円程はあるだろうか。

地下金庫の一部を貸し金庫代りに長い間、借りうけた謝礼だ。

予想外の大金に総支配人は大袈裟に感謝の意を表す。

勿論、帳簿上、銀行の収入となるのは、この3万円の十分の一ほどで、残りはこの総支配人の背広の内ポケットへと直行する。

口止め料。

石光も、総支配人も、互いに何も言わないが、相手の匂いで分りあえていた。


 銀行お雇いの中国人クーリー達が地下金庫から次々と木箱を運び出す。

その数22箱。

箱は小さいが、重さは尋常ではない。

力自慢のクーリーが背に負って、やっと運べるほどの重量だ。

石光の供をしてきた男達の監視の下、運び出された木箱は次々とトラックの荷台へと積まれていく。

厳重に封を施された箱の中身はルーブル金貨だった。

それは、かつてアムール州国立銀行に貿易決済金として預託されていたものであり、革命初期にハルピンに存在した白系自治政府に引き渡される筈のものだった。

当時、シベリア出兵中だった日本。

石光は、この出兵に際して予備役の身でありながら招集され、白系ロシア人との交渉窓口役を仰せつかっており、その移送の経緯やルートをつぶさに知る立場にあった。

 ――――馬橇に積まれ、コサック兵に護衛された金塊が、その行方を絶ったのはハバロフスクを出発した直後だったという。

馬賊に襲われた、赤軍の手に落ちた、帝国陸軍が強奪した、或いは吹雪に会って遭難したのだと噂され、日中露三国、官民問わず多くの捜索隊が組織されたが、その行方は杳として掴めなかった。

3000万ルーブル。邦貨にして凡そ3000万円。

とてつもない大金……。

その金が今、石光の手にある。

無論、彼の手は血に塗れている。


「さあて……」 

石光が紙巻きを咥えると、すかさず配下の男がマッチをする。

男達はいずれも元・満鉄の調査員達であり、石光が今や手足の如く使い、飼っている猛者どもだ。

「閣下に言ったら、怒られるかな」

石光は、犬養が皺だらけの顔を唖然とさせる姿を思い浮かべながら、紫煙を吐き出すと、喉の奥で小さく笑い声を立てた。


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