第17話 渤海炎上 (3)
一般的に『内乱』と『内戦』に区別は無い。
せいぜい、規模の大きさによって使い分けられる程度で、慣習的にも法的にも厳密な差異がある訳ではない。
しかし、『内乱』と『騒乱』では、はっきりとした区別がある。
『内乱』は国家統治機構、つまり政府への反乱(革命)であり、その統治システムの破壊を目的とするが、『騒乱』はそれを目的としない。
張作霖・奉天軍閥の決起は、自身が統治機構の支配者になることを目的とするという政権への叛逆であって、政府への叛逆では無い以上、厳密には『騒乱』だ。
張作霖は中華民国の大総統になることを望んでいるだけで、自身が新たな国家・政府を建設する事も、創造する事も望んではいない。
あくまでも、目的は権力の奪取であり、清帝国の継承国家である中華民国の破壊を目的としている訳ではないのだ。
打倒すべきは北京政府を牛耳る呉佩孚・直隷軍閥。
反対に、呉佩孚・直隷軍閥側の視点から事態を見る。
当然、軍閥主宰者同士の権力闘争という一つの見方が出来るが、この見解、実は張作霖側の認識と全く同じものであり、同時に間違った認識だ。
何故なら、各国は北京政府を「中華民国を代表する唯一の政権である」と認識し、承認しているからだ。
一つの国に、同格の二つの政府が存在する事はあり得ない。
よって当事者達にしてみれば、正々堂々、軍閥同士の正面きっての闘争劇なのだが、他者から見れば、片や「政府」、片や「叛逆者」として見る他は無い。
実にややこしい事だし、言葉遊びの範疇に過ぎない事かも知れないが、とかく形式とはそういうものだから、これは仕方のない事だ。
ここで問題なのは、諸外国がこの騒動を、単なる権力争奪戦(騒乱)と見るか、革命(内乱)と見るか……だ。
張作霖自身は、政府形態は変えぬまま、己が権力を奪取する為の叛逆であったが、これは国際的な認識に立てば、正統政府に対する明確な「犯罪行為」であり、そしてその犯罪を支援する行為は言い訳のしようも無い程に重大な内政干渉として国際法上、忌避されて然るべき行いとされる。
例えるならば、日本政府に不満を持つ台湾又は朝鮮の総督府が決起し、政権交代を求めるのと同じ事だ。
日本政府の立場として、決起した総督府側と交渉したり、説得したりするだろうか?
そんな事は断じて無い。
一切の交渉も、一切の妥協も無く、法の名の下、犯罪者として総督府関係者を逮捕、処断するだろうし、警察の手に余るとなれば軍を派遣する事も厭わないだろう。
ましてや、諸外国が反乱を起こした総督府側を支援したとあれば、その支援国家を不倶戴天の敵と認識し、国交を断絶し、必要とあれば銃を手にする事に何を躊躇うだろう。
だが、これが独立を求めた戦い、とか、大日本帝国の存在その物を否定し、その統治システムを斃す為に決起した……となると、少しばかり話しが違う。
総督府側は、国際的に日本政府と同等の存在である、と認識する国家も出てくるだろうし、日本の領域内において一定の実効支配地域を保有する日本政府とは別個の政府、つまりは革命政府とか臨時政府といった類の存在として承認する国家も出てくるだろう。
無論、この扱いの差異は当事者の主義主張、認識の問題ではなく、関係各国の思惑の問題だろうが……。
故に、奉直戦争に対する各国の認識は揺れた。
今、北京政府が諸外国に中国を代表する正統政府として扱われているのは、単に諸外国に都合がいいからだ。
反対に、
「北洋政府(北京政府)が諸外国と結んだ条約は一切認めない」
というナショナリスト受けの良い、頑迷な立場をとる広州政府が諸外国から「革命政府」と認識されつつも、広範な支持と国際的承認を得られないのは、その容共的な姿勢だけが問題視されている訳ではなく、その国家継承者としての意識・見識、俗な言い方をすれば権力を握り、振るう者としての覚悟の問題にあるのだ。
幕末に結ばれた不平等条約を
「それは江戸幕府が結んだ事だから与り知らぬ」
などと突っぱねる事無く、数十年という月日を掛けてでも外交努力によって改正した明治・大正の日本政府の様な態度、或いは「吐いた唾は飲めない」的な国家・民族としての意地が広州政府にあれば、国際社会における立場も、もう少し違っていた事だろう。
公的には『東北三省保安総司令』という中華民国に属する軍事官僚の一人に過ぎない張作霖。
彼に期待し、彼を支援すべく地下深く蠢動しはじめた者達にとって必要なのは、彼の見識でも、実力でも無い。
この戦いが、政権奪取(騒乱)ではなく、中央政府を斃す為の戦い(革命)だという、形式だった。
1924年11月15日(大正13年11月15日)
英国租借地 山東半島 威海衛
ポート・エドワード港内
山海関における直隷軍と奉天軍の最初の衝突から既に10日が過ぎようとしている。
衝突は急激には拡大せず、守る直隷軍主力は北京・天津周辺に集結したまま前進を急がず、攻める奉天軍も同様にゆったりと構え、その主力は依然として奉天周辺に留まっている。
「隷軍に山海関を超える度胸はない」
と張作霖は読んでいた故の余裕だったし、
「山海関ある限り、奉軍、関内に入ること、あたわず」
と、呉佩孚は自信に満ちていた。
要害の地によって分かたれた両者、片や相手のソフトウェアを見切り、片や己のハードウェアを信仰していたようだ。
自軍における新兵の比重が高い事を知る呉佩孚は、自軍の全てに自信を保つ事が出来ない。
自然と信頼がおけるのは将兵ではなく、むしろ山海関の方だ。
もし、呉に自信があれば、その用兵はマッカーサーが予測した通り、奉軍を誘い込み、最狭部で後背を遮断するという殲滅戦を企図しただろうが、あいにく、練度も士気も見劣りする自軍を率いて唐山鎮東方にて敵を支えきる確信が持てない。
おまけに指揮下にある部隊中、最精鋭と目される『辺防軍』三個師団は、日本政府の資金援助で編成され、日本陸軍から招聘した軍事顧問団が錬成した部隊。
現状、日本政府が無為に時を過ごしているとは言え、その影響力、人脈を考えれば全幅の信頼を寄せるのは、あまりにも危険過ぎる……。
ついつい弱気になりがちな呉が主導する北京政府の基本方針は、奉天軍が攻め疲れを起こし、自ら退却するのを待つ事であり、東北三省へ兵馬を進め、将来の禍根を断つ事ではない。
実に中途半端な戦略だが、少なくとも己自身の実力をよく知っている堅実な戦略だとも言える。
敵の攻め疲れを促進し、決定的にするのが、海上からの砲撃による補給路切断であり、今、英国から譲渡されようとする二隻の砲艦『煉獄』と『恐怖』だ。
両艦の譲渡式はロジャー・キース提督と杜錫珪提督の形式的な調印と儀礼的な握手により終了し、明日からは英国海軍士官の指導により、奉軍の大攻勢が始まるその日まで慣熟訓練が行われる。
新兵器を貸与されたからと言って直ちに戦線に投入出来る訳ではない。
山海関の沖合にその威容を見せつけるだけで、その巨砲の砲口に紅蓮の炎を宿すだけで、地の果てまで届く砲音を轟かせるだけで、奉軍の野望を打ち砕く事が可能だと考えてはいたが、それでも張り子の虎と見くびられない程度に訓練は必要だった。
幸い、冬が来る。
寒暖計を振り切る様な北支の厳しい冬は、兵を動かすにはあまりにも過酷だ。
本格的な両軍の激突は当面、起きず、その間、素人同然の北京政府軍は訓練を施され、装備を支給され、戦力化されていく。
一日一日と時が経る毎、呉佩孚は勝利へと近付く筈だった。
1924年11月15日
(大正十三年十一月十五日)
東京・千代田区
首相官邸 閣議室
この日、外務大臣・金子堅太郎は威海衛において英国から北京政府に対し、艦艇が譲渡されたとの報に接し、対策を協議する為に招集された緊急閣議に出席すべく首相官邸へ向かった。
定刻迄に参集したのは、この日、在京していた東郷首相以下、浜口内相、高橋蔵相、田中陸相、加藤海相、それに金子の6名。
他の閣僚たちの多くは水面下、進められている金解禁に備えて地方や企業視察などで出払ってしまっており、この事態の急変に対応しきれなかったのだ。
それにしても、譲渡式が行われるまで、英国の意図に全く気が付かなかった……というのは少々、迂闊が過ぎたようで、自然と、その批判の声は当該部局である外務省を率いる金子自身に向けられたが、英国政府内部でも厳重な緘口令が布かれていた様子であり、この日の早朝、慌てふためいて事情説明に外務省を訪れた東京駐箚英国大使チャールズ・エリオット伯ですら、怒気を発し、難詰する金子に対し、しどろもどろな説明を繰り返すばかり、というのが現状だった。
この月の五日に本格的に前哨戦が開始された奉直戦争に対し、日本政府は早い時期から不介入の方針を決めている。
当初は、田中陸相が奉天軍閥に対する積極的な支援を主張し、北京政府に反故にされた借款の償還問題への遺恨から高橋蔵相までもが婉曲な表現ながら、政府として奉天軍閥支持を内外に打ち出すべき……と田中陸相を支持する動きを見せた。
しかしながら、田中も高橋も、あくまで軍事援助を行うという主張であり、派兵を伴う軍事介入までは考えていない。
もっとも、その軍事援助にしても、援助物資を奉天軍に引き渡す為には満州鉄道を利用せざるを得なく、日本がどれだけそれを要求し、奉天派が望んだとしても管理者である米国が自らの頭越えに行われる援助に対し、首を縦に振る事はないだろう、とも想像された。
「ほら見ろ、満鉄を売るからこういう事になる!」
……とまでは田中は言わなかったが、現実問題として、日本の管理下であれば、こういうジレンマに陥る事はなかった筈だ。
田中、高橋らの意見を聞き終えた東郷は所信表明演説の折りに語った己のドクトリンに従い、静かにこう諭した。
「奉天派を援助し、北京政府を倒したとしても、奉天派はそれを徳とし、恩義を感じる事はないだろう。どちらが勝とうが全てが終わった後、英米が座を改めて援助の話を始めれば、彼らは日本から受けた少しばかりの軍事援助の事など、きれいさっぱり忘れて、英米になびくのが当然ではないか。現実に我が国に、英米以上の援助を行う余裕などないし、援助する金もない。結局、我が国がどれだけ彼の国の情勢に介入しようとも、最終的に英米が我が国以上に援助を行う限り、彼の国の政権を誰が握ろうと、我らの目論見通りに動く事はあり得ない。相手が意のままに動かないのであれば、知らぬふりをするのが利口というもの」
東郷にこう言われては、渋々ではあったが田中も、高橋も、承伏せざるを得ない。
東郷内閣の成立以来、日本政府は対支不干渉を旨とし、中華民国の関税自主権回復の為の協議を開始するなど、融和政策をとっていた。
だが、この政策、必ずしも成功したとは言えない。
問題になったのは、満州鉄道および金州租借権を日本政府が売却し、大金を手に入れ、その資金を元手に大規模な国内インフラ開発を開始した事だ。
無論、売却に際しては北京政府の応諾も受けていたが、ナショナリズムに覚醒し始めたばかりの学生を中心とした一部の民衆は、日本風に言えば「他人の褌で相撲をとる」隣国の行為を痛烈に非難し、一部の都市では不買運動さえ行われた。
もっとも、砂糖や水産加工物などの食品類や衣料品、雑貨や日用品など、既に日本が輸出する軽工業産品は一般大衆の日常生活に欠かせないものとなっており、運動は今一つ、盛り上がりに欠けたまま、いつの間にか収束し、両国間において深刻な懸案事項となるまでには至らなかった。
しかし、この動きは日本政府関係者に重大な疑念を生みつける。
「結局、何をしても根本的な部分で中国人は、日本人を受け入れないのではないか?」
というものだ。
生憎、日本人は西洋人ほどには、面の皮が厚くは出来ていない。
帝国主義の代表格の様に思われ、その露骨な干渉政策から常に批判と、不買運動の対象となっている英国人であれば、鼻先で笑う様な出来事かもしれないが、生憎、「これはこれ、それはそれ」と切り離した思考をする程、日本の政治家は世慣れてはいないのだ。
結局のところ、不干渉政策という美名の下、日本政府は傍観者として事態の推移を見守る事を選択した。
しかしながら、内乱は日本の目と鼻の先で行われようとしている。
東洋唯一の列強、東亜の憲兵と目され、連盟常任理事国でもある日本が、隣国の内乱に際し、何ら手を打たず、傍観している……とあっては、諸外国に軽侮されかねない。
良きにつけ、悪しきにつけ、北東アジアという限定された地域においてならば、日本の存在感は英米仏蘭などの植民地宗主国に比して圧倒的だからだ。
金子はそう自らの危惧を述べ、何らかの政府方針を打ち出す様に求めたが、東郷はこれに対し、当面の策として、もっとも効果的な外交方針を提示し、海千山千の外交官である事を自負している金子を唸らす事に成功している。
東郷の示した外交術、それは沈黙。
「我が国は中国情勢に関し、重大な関心を有している」
或いは
「懸念している」
「○○を希望する」
などと声明は出しながら、軍事的にも、政治的にも、何ら無策であれば、それは『傍観』であるが、この時、日本政府は
「華北にて大規模な内乱が起きつつある。当該地域に居住する在留邦人は早急に帰国するか、租界内に避難し、所在を各地の領事館に申告する様に」
という自国民向けの極めて内向きな声明を淡々と発表し、避難民収容の為、巡洋艦『五十鈴』以下、逓信省所有の鉄道連絡船数隻を天津外港に派遣しただけで、その後、一切の沈黙を守り続ける。
同時に日本政府は天津に租界を有しながら、軍事的な拠点を持たないばかりに自国民の避難計画に不安を覚えていたベルギー、イタリア両国や、かつて租界を有していた経緯から多数の自国民が天津に居住しているオーストリア、ドイツ、スペインなどの幾つかの政府に対し、万が一の場合は居留民の避難に協力する旨を申し出て、頭を痛めていた関係各国の中国担当者を驚喜させている。
「東洋の憲兵」と呼ばれる国家がした事はそれだけだった。
最も関与してしかるべきであり、地政学的にそれを行う実力を保持する国家が示した、このあまりにもそっけない態度。
「奉軍決起の背後に日本政府の暗躍はない」
と断定し、北京政府支援を掲げて、その動きを加速させた英国政府部内にですら返って不安感を呼び起こし、その真意を探るべく日本政府に対し公式、非公式に接触を試みるという結果を招く事になる。
1924年11月15日(大正13年11月15日)
合衆国租借地 金州半島 旅順
関東州民政長官 公邸
叛逆者への安易な加担は、国際的な信用問題に繋がる。
合衆国はつい30年程前にそれを経験し、学んでいる。
当時、ハワイ王国と呼ばれた地において、反乱を起こした白人系地主達の求めに応じ、艦隊を派遣、その傀儡白人政権の後ろ盾となり、自国の保護領化を推し進めようとした時、合衆国政府は国際的にひどい赤っ恥をかかされた過去を持っているのだ。
当時、武力蜂起によって国王以下の王国政府首脳を軟禁状態においていた白人政権だったが、ホノルルに寄港した日本海軍の『浪速』艦長・東郷平八郎が、その白人政権を完全に無視して軟禁状態にある国王以下の王国政府首脳に対し、表敬という名目の下、面会を求めたのだ。
実効支配し、自分たちこそ新政府と息巻いている白人地主達の面目は、当然ながら丸潰れであり、その後押しをしている合衆国にしても、東洋の一小国の一軍人に、華麗に無視されてしまったのだ。
おまけにその一年後、政権樹立一周年を祝う式典に招かれ、再びホノルルを訪れた『浪速』は、国際慣習に従い21発の礼砲を求められながら、遂にただの一発も撃つ事は無く、その東郷の行動を見た英仏蘭西葡以下の各国艦艇も右に倣えとばかりに新政府を無視した結果、折角の記念式典にも拘わらず、合衆国の派遣した艦艇以外に礼砲を放つ艦がいないという前代未聞の珍事に発展する。
その様子は、まるで合衆国とその手先の小賢しさを嘲るかの様であり、当事者たる白人政権も、その後見人たる合衆国も、世界中の耳目が集まる中、東郷個人の意地の前に完膚なきまで叩きのめされ、大いに国際的な評価を失墜させられたものだった。
……そんな稚拙な外交的な大失態を犯した過去を持つ合衆国政府としては、今回の中国情勢への関与は慎重にならざるを得ない。
下手をすれば、第二のホノルル事件へと繋がる。
何しろ、当時、ものの見事に合衆国をコケにして世界の喝采を浴びたアドミラル・トーゴーが近隣の大国を率いて、凛と佇んでいるのだ。
迂闊な真似をすれば、今度はどんなしっぺ返しを喰らうか、分ったものではない。
『フーヴァー報告書』によって中国情勢への介入を示唆されたホワイトハウスの住人達の決定は単純明快だった。
ワシントンから送られてきた訓電には
「中華民国政府への不干渉を基本方針とする」
と記されており、それがホワイトハウスの意志、そして合衆国の基本方針となった。
当然ながら、出先機関に過ぎない関東州民政局もその決定に従わなければならない。
だが、同時にこうも記されていた。
「中国大陸情勢に対しては、機会均等の精神に従い、いかなる列国の干渉もこれを許さず、排除する」
フーヴァーは苦笑する他はなかった。
中華民国政府と中国大陸を別個の物の如く扱った、この様な奇矯なアイデアを思い付く人間はワシントンには一人しかいない。
その人物がまたしても手品を披露し、そして今回、鳩の役目を負わされるのは、どうやら自分らしい。
手品のネタが書かれた訓電をクリップに留め、それを押しやる様にして執務机の反対側に座るマッカーサー少将の面前に滑らせる。
「どういう事でしょうか?」
少壮の陸軍将官は訓電を手にしたまま、太い眉根を寄せて、やや困惑した表情を浮かべるとフーヴァーに解説を求める。
自尊心が身の丈より1インチほど高い軍人が意図せず浮かべた、らしからぬ率直な表情に微笑ましいものを感じつつ、植民地経営の責任者は両腕を組み、解説を始める。
「少将は張作霖が敗北すると予測したし、私の報告書にもその旨を記載しておいた」
「ええ……その通りです。ですが、その予測は英国が介入した場合、つまり洋上から奉軍を叩く戦力を供与した場合にのみ有効だとも申し上げました。英国が不介入であれば、新兵ばかりで見掛け倒しの北京政府軍に対し、練度十分の精兵を擁する奉軍には十分、勝ち目があります。しかし本日、実際に英国は……」
「そこだよ、そこ……」
フーヴァーは身を乗り出し、肘を机に預けると相好を崩し、言葉を続ける。
「見ての通り、英国は北京の求める物を売り渡し、情勢へ関与する気、満々だ。彼らは我が国も、日本も、関与していないと踏んで強気に出ている。誰が北京政府の庇護者であるか? それを列国にはっきりと認識させる好機ととらえている筈だよ」
マッカーサーは、相手の政治家らしい婉曲な言い回しに、困惑の表情を更に深め、沈黙する。
心の奥ではイライラを募らせているのだろうが、気位の高さが相手に必要以上の質問をする事を躊躇わせているようだ。
豪奢な刺繍が施された長官椅子から立ち上がったフーヴァーは、赤々と石炭の燃える鉄ストーブにゆっくり近付き、手をかざす。
11月半ばだというのに、この地は暖房が無くては過ごせない程、冷気に満ち、黄濁した海上を渡る海風は衣服の合わせを貫き、身を刻む。
かざした掌を握ったり、開いたりして血行が良くなるまで待つかの様に、長い沈黙の後、マッカーサー少将の質問に応える。
「残念ながら、我々は現・北京政府への相対的な影響力を失いつつある……今更な話だが、これが現実だ。そして、合衆国は満州人の作った大豆を運ぶ為に10億ドルもの金を日本に支払った訳ではない」
「……」
マッカーサーは長い脚を組み直し、沈黙を守る。
「しかしながら、この満州の地に希望を見出して渡航してくる合衆国人民に、我々は何らかの答えを与えなければならない。無論、本国の選挙民に対しても……」
「その答えが、これという訳ですか?」
ワシントンから送られてきた訓電、その2枚目の、とある1か所を指さしながら、マッカーサーは尋ねる。
その表情は困惑を深めており、その命令を不本意なものと考えているのは明らかだった。
「その通り。我々は内政への干渉は行わない。但し、これが内政問題であれば……の話だがね」
英国政府が読んだ通り、奉直戦争の長期化は米国に何ら益をもたらさない。
だが、その読みは、少しだけ米国という存在を甘く見ていた節があったようだ。
短期で終結した方が遥かに安定的な輸出需要が見込まれ、その方が米国経済界にとって益はある、という見通しは確かに正しい。
だが、それ以上に北京政府の勝利、しかも英国による支援付きの勝利という結末は大金を払ってまでこの地に進出してきた米国・クーリッジ政権にとって想像する限り、最悪の結末なのだ。
英国にリードを許したまま、この中国市場を賞品としたレースを終える時、米国は永遠に英国の後塵を拝す事になる。
政権担当者、政権与党として、それだけは許されない。
何故なら、賞品の分け前が少ないのは、断じて合衆国政府の不手際などではなく、分配者が不公平な上に、レースのルールが悪いからだ。
不公平な分配者は交替させられてしかるべきだし、ルールは今や英国に代わって世界をリードしている合衆国が作るべきなのだ。
その場にいる全員が、そしてワシントンもそう考えており、爪の先ほども疑ってはいない。
「……私はこれから奉天に飛ぶ。列車の手配を頼む」
フーヴァーの言葉に、その場の空気が心なしかざわめく。
「諸君、張氏のケツを蹴り上げてくれようぞ」
手品師の鳩は力強く、そう宣言した。
合衆国政府というべきか、エドウィン・デンビというべきか、大いに迷うところだが、その目的とするところは明らかだった。
今、行われようとしている権力闘争という図式のままでは、張作霖の行為は単なる「騒乱」であり、国際的には「政府(=官憲)」に対する一介の叛逆者、犯罪者のリーダー以上とは認められない。
どんな詭弁を用いようと、国際社会は犯罪者を支援する事を是としないだろう。
もし、そんな真似をしたらクーリッジ政権は国際社会において永久に信用を失ってしまう。
だからクーリッジ政権は、本来、国内問題であるこの「騒乱」をグレードアップして「内乱」にする必要があった。
そして、その形式をとる為に必要な行為はただ一つ、張作霖氏に正式にある宣言をしてもらう事だ。
所謂、宣戦布告。
国際社会に対するこの宣言こそが、単なる叛逆行為の看板を国際法上「官憲」対「犯罪者」から、「政府」対「政府」に塗り替えるのに必要な儀式なのだ。
この宣言により、否が応でも張作霖は清帝国の継承国家・中華民国の権力者を目指すのではなく、中華民国とは別の、新たなる国家の創造を指向せざるを得なくなる。
中華民国の内戦に介入する為、合衆国は中華民国を滅ぼす事に決したのだ。
「リーヒ大佐……」
突然、フーヴァーはマッカーサーの背後に立つ黒色の軍装を纏った海軍軍人に声をかける。
「は、はい」
唐突に自身の名を呼ばれ、やや慌てた様子を見せたウィリアム・リーヒ大佐は旅順・大連を管区として新設された第51海軍区の司令官であり、関東州に駐留する海軍部隊を統べる責任者だ。
その指揮下にあるのは旧式な駆逐艦と雑役船が少しばかり。
平時ならばそこそこの戦力だが、戦時であれば戦力と呼べる代物ではない。
「君の部隊で、例の英国艦艇に対抗可能かね?」
「不可能であります、長官閣下」
リーヒは一瞬も躊躇わず、言葉を何ら飾る事無く率直に否定する。
鈍足とは言え、強力な防御力を有する15インチ砲搭載艦と、旧式駆逐艦。
彼我の戦力差は絶望的と言ってよい。
如何なる方法を用いようと、神のなせる技でも用いない限り、彼の管区戦隊でエレバスとテラーに対抗するのは不可能だ。
「では、フィリピンのアジア艦隊ならば?」
「アジア艦隊の『アーカンソー』と『ワイオミング』ならば、いずれか1隻いるだけでノロマな砲艦など一捻りに出来るでしょう」
リーヒは口をヘの字に歪め、やや肩をすくめながら分析してみせると同時にフーヴァーに対し質問する。
「閣下は、まさかアジア艦隊を呼び寄せるおつもりなのですか?」
合衆国が戦艦を含む本格的な艦隊をこの地に送り込んだ場合、その結果が招きかねない米英間の極度の緊張状態に少なからずリーヒは戦慄する。
「戦艦まで戦場にもってきたら、それこそ戦争だよ、大佐。心配しなくてもよい、ワシントンは英国と直接、戦争するつもりなどないよ……もちろん、私もね」
「……?」
「要は例の二隻の砲艦を無力化できれば、いいのだろう? 少将の分析によれば、それで奉天が勝利すると……政治的な形式は私が整えよう。だから、君たちには奉天が勝てる算段をしてもらいたい」
フーヴァーとリーヒの会話を、訓電を読みなおしながら聞いていたマッカーサーは、ようやく得心した様に頷く。
「なるほど、そういう事ですか……」
マッカーサーの言葉にフーヴァーはようやく振り返り、微笑む。
「そういうことだよ。だが、我々が直接、手を出す訳にはいかない。合衆国と英国は友好国なのだからね」
「難問ですね。奉天軍は海上戦力を保持していませんし、所定海域に機雷を敷設して撃沈を狙おうにも渤海湾は民間船の往来が活発でありますから」
リーヒは苦々しげに呟く。
アジア艦隊も呼べず、機雷も使えず、自分の指揮下には満足な戦力はない
いったい、どうやって英国が送り出す新鋭砲艦を沈めれば良いのだろう……?
「参謀長……」
執務机に訓電をもどすとマッカーサーは特に振り向く事もなく、右手を肘から曲げて中指と人差し指を立てると背後に立つ陸軍軍人に声を掛ける。
「はっ」
唐突に声を掛けられた関東軍参謀長ウィリアム・ミッチェル大佐は、踵を鳴らし、応える。
「君の理論が正しい事を証明してみせたまえ。但し、君のボーイズは使えないぞ。奉天軍も僅かだが航空隊を保有している。彼らを使うように」
「はっ、喜んで」
左脇に抱えていた軍帽を頭にかぶると、嬉々とした表情を見せながらミッチェル大佐は己の言葉、一語一語に必要以上に力を込める。
「史上初めて、戦闘行動中の大型艦艇を航空攻撃のみで撃沈した海戦、という栄誉を中国人にくれてやるのは本意ではありませんが……必ずやご期待に添ってみせましょう」