表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
71/111

第16話 渤海炎上 (2)

中華民国・北京

文津街 大総統府


 孫伝芳の造反によって北京政府が失ったものは大きい。

その中でも最たるものは上海や南京といった長江下流域の主要都市における支配権などではなく、呉佩孚が陸軍参謀総長として金を惜しまず、手塩にかけて鍛え上げた20万の精兵だった。

 元々、現北京政権を構成する直隷軍閥は親英派の洛陽軍閥と、親米派の保定軍閥の連立軍閥であり、決して一枚岩という訳ではない。

今回、孫伝芳が自立に際して掌握し、己が戦力としたものはこの内、曹昆直系の保定軍閥の大半と、洛陽軍閥内の孫支持グループであり、その合計は直隷軍閥全体の過半を超える。

これでは、呉と北京政府は歴戦の精鋭部隊を根こそぎ奪われたも同然だった。

孫離反後、呉は急遽、その本拠地において募兵、呉自身の名望も手伝って数的には十分な兵が揃い、装備兵器類も英国の協力によって順調に整ったものの、新兵が大半を占めるだけに士気や練度、経験という点では大いに疑問が残る。

 それに対して、蜜月関係にあった日本陸軍の全面協力を得て、三年に渡って練兵に専念し続けていた奉天軍15万の実戦力は、見かけの数字では計りきれない。


「仮に正面からぶつかり合えば、恐らくは北京側に勝ち目はないだろう」


それが現地の見解だった。

これは一個人の意見などではなく、北京や天津に駐箚する各国武官共通の認識であり、何より当事者たる呉自身が一番、その現実を理解しているだろう。

だからこそ、呉は陸戦に全てを賭け、雌雄を決しよう、などという気はサラサラない。

マッカーサーが看破したが如く、より安易に、より簡単に勝利を得る方法があるからだ。


 ――――3年前。

第一次奉直戦争の時期に遡る。

北京内部の政変により故地・満州へと敗走する張作霖・奉天軍の長蛇の列を山海関の沖合から、それこそ滅多打ちにし、四分五裂の壊滅状態に追い込んだ杜錫珪率いる中華民国海軍第二艦隊。

この功績により、杜錫珪は席次では上位に位置する第一艦隊司令・林建章を抑えて北京政府に属する中華民国海軍総長の地位に抜擢されている。

海軍総長と言えば、格で言えば陸軍参謀総長である呉佩孚と全くの同格であり、指揮下には第一、第二の二個艦隊の他に威海衛、上海などに小規模ながら分艦隊を有している。

但し、伝統的陸軍国だけに所属艦艇は清末民初の頃に購入した旧式艦や、独・墺からの鹵獲艦、賠償艦が中心であり、その数自体も微々たるものだ。

しかし、それでも河川用砲艦程度しか保有しておらず、まともな海軍戦力と呼べるものを持たない奉天派にとっては大きな脅威となる事は確実だったし、何より、沖合からつるべ打ちに撃ち込まれる巨弾に対して、奉天軍陸兵の持つ重砲程度では対抗できない筈だ。

険しい燕山山脈がいきなり海に落ち込むという山海関の特殊な地形を味方とした、かつての前例を勝利への最短シナリオと考えた呉佩孚の構想自体に無理はない。

そして実際に海軍を指揮する事になる杜錫珪も呉の作戦構想に賛成はしているものの、手持ちの戦力は旧式艦ばかりで稼働率も酷い状況であり、奉天の大軍を阻止するには少々、心許無いと考えている。

だからこそ、英国に対して艦艇譲渡を要望する事には大賛成だった。

 無論、彼らが欲したのは威海衛に英国が配備する僅か7200トンの艦体に四二口径38.1センチ連装砲を装備した異形の怪物『エレバス』と『テラー』だった。




大英帝国・ロンドン

ダウニング街10番地 首相官邸


「疑心、暗鬼を生ず」

北京に駐箚する英国公使館からの第一報を受けて以来、仏教用語に由来する、この言葉の虜囚に英国は陥っていた。

「奉天の背後に日米いずれか、或いは、両国がいるのではないか?」

そう疑うべき理由はたっぷりとある。

中国大陸への経済支配を日に日に強めている英国に対する不平不満を一挙に解消すべく、奉天派を支援し、政権転覆を画策する米国。

事の発端となった上海派の自立路線への傾斜、そして本拠地を追われ、追い詰められた安徽派の要請に応じた形をとる奉天派の動き。

そして、そのいずれの軍閥との深い関係から、背後から影響力を行使していそうな日本。


 ……だが、同時に疑問も残る。


 中国と対峙する時、日米英ではその姿勢に大きな違いが存在するからだ。

日本は自国よりも脆弱な工業力しか持たない中国市場を自国製消費財の市場として捉えていた。

米国は、有り余る工業生産力を有するが故に、主として耐久消費財や生産財の市場として中国を見ていた。

これに対し英国は、金融投資市場と考えており、銀荘を中心とした民族資本との提携を積極的に推進し、保険を含めた金融商品を販売し、国家規模、省単位のインフラ整備に対しては借款供与をもって応えていこうとしていた。

つまり、日本の商売相手は中国の一般大衆であり、米国のそれは企業や富裕層、そして英国は金融機関や公的機関が対象となる。

三国が消費財、生産財、金融と住み分けができている以上、いずれか一カ国が過剰な独占欲に駆られない限り、三者が致命的な対立に陥る可能性は少ない筈だ。

このある意味、抑止力の効いた状況全てを破壊しかねない内戦勃発、政権転覆を日米両国が狙うだろうか?

ましてや英国に対し、多額の戦時国債を保有している米国が、借金を踏み倒す口実を与えかねない、その様な決定的な対立を招く行動を起こすだろうか?

関東州と満鉄の売却によって、明らかに内向きのベクトルに移行した日本が今更、中国情勢に積極的に関与しようとするだろうか?

両国とも自国製品を安定的に供給できる市場を欲しているのは確かだが、その欲求の度合いが果たして戦争を覚悟する程のものかどうか……?

日米両国がどんなに頑丈な棍棒を隠し持っていようとも、中長期的に見れば、まずあり得ない。

英国政府は、そう結論づけた。


 では、短期的に単に内戦に乗じて軍閥に兵器類を売り捌き、利を得ようとしているのではないか? とも考えた。

しかし、この発想も馬鹿げている。

たかが兵器を売って得られる利潤など微々たるものだったし、米国も、日本も、その様な前時代的で近視眼的な国家ではない筈だ。


「米国フォードの年間売上高が日本の国家予算とほぼ同額」という時代……。


アジア唯一の列強と誇らしげに主張する日本でさえその程度の経済力であり、この一例だけで欧米・アジア間を隔てる絶望的な経済格差が見えてくる。

大企業が軒を連ねる欧米の基準から考えれば、中規模企業並の資金力しか持たない軍閥ウォーロードからの兵器受注額などタカが知れている。

それぐらいなら数百万、数千万の中国民衆が例え1円でも、1ドルでもいいから自国製品を購入してくれた方が、相対的にも、長期的にも、遥かに利を生みだす筈なのだ。

そして内戦は、庶民の購買欲を刺激しない。

ある意味、戦乱に慣れきっている中国人は古代より戦乱が近付くと、家財道具一式を売り払って金製品を購入し、常に身につけ、戦災に備える習慣を持つ。

結果、貴金属相場は値上がりするだろうが、全体的な景気は冷え込むだろう。

ユダヤ人やロマ人が迫害に備えて不動産に何ら価値を見出さず、宝飾品や美術品に資産を投じるのと全く同じ理屈だ。


長期的にも、短期的にも、日米両国は中国情勢の不安定化は望んでいない。

その認識に間違いは無い筈だ。



「……であれば、張作霖は単独で動いた、という事になる」

ボールドウィン首相は、左手で飲みかけのティーカップを弄びながら、冷たい視線で往年の政敵・チェンバレン外相を眺めやる。

対するチェンバレンは、かつて自分が座っていた総理の椅子に対する羨望を禁じ得ぬまま、自らをその座から追い落としたボールドウィンに対して指示を乞う。

無論、腹案はあるが、この微妙な舵取りの責任を負う気は毛頭無いので、臍の奥にしまったままにしておいた方が利口だ。

そんな沈黙するチェンバレンの打算に腹の底で言い知れぬ苛立ちを覚えつつ、表面的にはあくまでも優雅さを失う事無く、ボールドウィンは言葉を続ける。

「我々の選択肢の一つは、内政不干渉を唱え、完全なる傍観者として事態の推移を見守ること。もう一つは、一歩踏み出して北京政府を支援し、彼らが張作霖を徹底的に叩きのめすことに協力するという選択肢」

英国流のマナーに従えば、一度、ティーカップを手にしたら中身の紅茶を飲み終える迄、絶対に手を放す事は許されない。

通常、カップは左手で持ち、その他の卓上における所作や動作、つまり煙草を吸うのも、皿のスコーンを手にするのも、卓上の砂糖を手にとるのも全て右手一本で行わなくてはならない。

「北京政府を見捨て、張作霖と結ぶ……という選択肢はありませんか?」

チェンバレンは片頬にうっすらと微笑みを浮かべながら、英国にとって最も有り得ない選択肢を披露する。

「ふっ……北京が政権を維持できるよう、親愛なるラムゼイはありとあらゆる工作を行ってくれたのだ。私は、その労力を無駄にする気はない。それに……だ」

盟友の品のある微笑につられたかの様にボールドウィンも片頬に微笑みを浮かべ、答える。

「英国は、英国の庇護を求める同盟者を決して裏切らないし、見放さない。これが我々の信義であり、我々の拠って立つところだよ。それを知るからこそ同盟者は安心して我々に協力を惜しまず、我々の身代わりとなって同胞の血でその手を汚してくれるのだ。それこそが、この小さなブリテン島から世界を支配できた理由だと私は考えている」

「御賢察、恐れ入ります」

年少の首相の満点回答に対し、年長のチェンバレンは満足気に微笑みを返し、うやうやしく一礼すると問い掛ける。

「では?」

「呉佩孚将軍の望む物、全てを与えよう。但し、代金の回収は忘れないように。対価を払えぬ者に信義を守る必要はなく、最高の庇護も与える必要はない。それから……」

そこまで話すとティーカップの底に残った最後の一口を飲み干し、ボールドウィンはあくまでも優雅にソーサーにそれを戻す。

「水面下、張作霖側と接触してくれたまえ。今直ちに北京を見捨てる気はないが、可能性は確保しておきたい」

そう語るボールドウィンの姿は、まるで仕留めた獲物の血、最後の一滴までも吸い尽くすまでは他者に分け前を与える気のない醜悪で老獪な猛獣の如くチェンバレンの目には映っていた。




アメリカ合衆国・ワシントンDC

ペンシルバニア通り1600番地 ホワイトハウス


 信頼する“タフガイ”フーヴァーからの報告を受けた合衆国大統領“サイレント”クーリッジは不機嫌そうに送られてきた報告書を執務机の上に投げ出す。

この年の大統領選において国民の圧倒的支持を得、歴史的な大勝利を収めた彼であったが、時流に乗った幸運なる人物というだけであって、本質的に権謀術数に長けた生粋の政治家というタイプではない。

その上、

「何故、この時期、張作霖が動き出したのか?」

ではなく

「そもそも張作霖とは誰だ?」

という認識程度しかもっていない彼だ。

現地のフーヴァーから「閣下、ご決断を!」などと迫られたところで、何が何だか正直、分らないというのが本心であり、文字通り、頭を抱えたい気分だ。

「ヒューズ国務長官を呼んでくれたまえ……それとデンビ海軍長官を」

クーリッジは秘書にそう言うのがやっとであった。


 フーバー報告書に目を通し終えたヒューズ国務長官は、隣に控える政権の道化師・デンビ海軍長官にその報告書を渡す。

老眼鏡を外し、それを胸ポケットに丁寧に仕舞い込んだヒューズは、小さく溜め息をつくと、同僚が報告書を読み終えるのを待つふりをしながら、具申すべき意見を心の奥でまとめ始める。

 実のところ、ヒューズ自身は気軽な立場にあった。

彼は明年早々にスタートするクーリッジの第二期政権には閣僚として参加しないからだ。

弁護士上りの彼は、本年いっぱいで国務長官の職を辞し、全米弁護士協会の会長職に収まる事が内定している。

全米弁護士協会会長と云えば、その次職は間違いなく連邦最高裁判事であり、法曹界出身者にとっての最終目標、三権の一つの頂点に就任する事が約束されているのだ。

だからこそ、ヒューズは今、殊更、冒険する必要を認めなかった。

自分自身に対しても、米国自身に対しても。

 一方、既に政権になくてはならない“顔役”と化したデンビ海軍長官は報告書を読み終えると、その肥満体を揺らしながら書類を執務机に戻す。


 現地からの情報と予測によれば、正面決戦ならば奉天側有利だが、北京側はその動きに乗らず、海上からの補給線切断によって奉天軍自滅のシナリオを描いているのではないか? というものだった。

沿海、内陸二つの進撃路が存在するとしても、防御に徹するだけならば練度で劣る北京側にも勝機は十分にある。

北京側の作戦計画がマッカーサーの予測したものである場合、補給線を断たれた奉天側の作戦は失敗、良くても名誉ある撤退、悪ければ三年の時を経て再建された奉天軍は再び壊滅する可能性が高い、と記されている。

しかし、その予測が成立する為には北京政府の現有海軍力では完全とは言えず、より確実を期すのであれば英国からしかるべき艦艇を譲渡する事が条件となるだろう、とも記されている。


 決して陸戦に明るくないデンビでも、その報告書の中身が真実を物語っている事は理解できる。

奉天派と北京政府の勢力境界線である山海関は、英国艦隊が駐留する威海衛の目と鼻の先。

同時にそれは合衆国アジア艦隊分遣隊が駐留する旅順からも指呼の距離にある事を意味しており、米国として「知らぬ、存ぜぬ」が通用する距離ではない。

今更、英国に媚びて北京政府に助力する事など考えられない以上、現在、米国の取り得る選択肢は二つ。


第一に、渤海湾に展開するであろう中国艦隊を排除し、張作霖の勝利に貢献するか、

第二に、全てを傍観者として過ごし、勝利の後、北京政府がより一層、親英路線に傾斜していく姿を、指を咥えて眺め続けるか……。


 ヒューズ国務長官は躊躇わず、第二の選択肢を推奨し「米国が他国の戦乱に介入する事は許されない」という共和党伝統の党是、孤立主義を説く。

デンビも内心ではその考えに賛成だった。

恐らくはクーリッジ大統領自身もそう考えているだろう。

反対に現地のフーヴァーは暗に第一の選択肢を考えているらしく、それだけ中国大陸における英国の影響力拡大に危機感を抱いている、という事だろう。

 中国情勢への対応を思案しつつ、同時にデンビは政権内における己の役割を考える。

限られた二つの選択肢、そのどちらかに賛成する役割を期待されているとは到底、思えない。

そんな役割であれば常識人として知られるウィークスや、党重鎮のロッジ老人の方が遥かに適している。

あくまでも自分に期待されているのは、真っ当な政治家が考えない様な奇抜な提案であり、それだけが自分の存在価値なのだ。

提案が採用されるかどうかは関係ない。

そのアイデアの奇抜さでクーリッジの目を引き、驚かせ、喜ばす事ができればそれで良い。

「宜しいでしょうか、大統領閣下……」

悠然を装いつつ発言を求めた“ジョーカー”デンビの心に去来するのは、国王に仕える道化師の姿だった。




 時間との勝負だった。

英国の全面的な支援を受ける北京政府の軍勢は、一日、日を費やす度に強化されていく。

毎日の様に租借地・威海衛に陸揚げされる大量の火器弾薬は、直隷派、そしてその直隷派と結んだ陝西派の兵に支給され、満足に代金を支払えない北京政府は租界や租借地周辺の土地を切り売りする事によって急場を凌ぎ、土地の権利書は次々と英国政府名義に書き換えられていく。


 一方、マッカーサーに「勝算無し」と酷評された奉天派にとっても、時間は貴重だった。

総帥・張作霖は後見人たる日本を既にあてにしていなかったし、合衆国という新参者に対しても、なんら遠慮も気兼ねもしていなかった。

何故なら、彼には日米両国の助力など無くとも十分な勝算があったからだ。

マッカーサーが予測した通り、彼は軍を二分する方針を立てており、阜新から赤峰、承徳へと抜ける内陸ルートを行く第二軍の指揮は後継者・張学良に任せ、自身は第一軍を直率して錦州から山海関、唐山鎮へと進軍するつもりだ。

但し、その作戦に、海上からの山海関制圧という危険要素は含まれていない。

前回の奉直戦争に敗れ、敗走する途中、山海関沖合に展開した北京政府側の砲艦によって強かに打ち据えられた……という過去は彼の血にも肉にもなっていなかったようだ。

だが、彼はこの時点で誰も予想していない先々の展開を、完全に読み切っていたのだった。


 呉佩孚が陝西を取り込んでその戦力を補完したのと同様、張作霖は上海に割拠する孫伝芳を戦力化していると目されていた。

「張作霖は孫伝芳の北上に期待している」

兵学に明るい者は、張作霖の立てた戦略をそう予測した。

「日本軍が全面的に介入するのではないか」

張と日本の関係を知る者は、怯えた様な表情を浮かべながら、この先の展開をそう予測した。

「適当に戦ったところで英米両国が仲介に入って手打ち。然るべき地位を得れば、張作霖は満足し、兵を退くだろう」

国際情勢に通じた者は、したり顔でそう予測した。

しかし、そのどれもが全知全能の予言者・張作霖から見れば的外れだった。


 張作霖の役目は、北京政府軍二〇万を戦場に引き摺り出す事だ。

彼の役目はそれで終わり、彼の目的はそれで達成される。

彼は彼が終生のライバルと目する呉佩孚と戦場で雌雄を決するつもりなど、まるでない。

呉佩孚が戦場に出れば、北京は空になる。

大総統・曹昆は采配全てを呉佩孚に任せ、自らは北京に残るだろうが、曹昆は権力ではなく、権威に酔った過去の遺物にも等しい人物だ。

北洋軍閥屈指の猛将、とその豪勇を謳われ、張作霖と共闘して安徽派を打倒し、追放した頃の覇気は最早、無い。

そんな主不在の留守宅同然となった北京という巨大な贄が目の前にありながら、これを坐視するという千載一遇の好機を見逃す事の出来ない人物がいる事を、張作霖は知っている。

 

 甘粛省から陝西省、内蒙古を経て河西省に至るという、とんでもなく東西に長い勢力圏を持つ馮玉祥が本拠地とするのは、その支配域の東端に近い張家口だった。

南北交通の要衝である張家口は、彼の支配する地域の中で最大の都市であり、何より、北京の北西僅か150キロという地の利が魅力だ。

「馮玉祥は裏切る」

北洋軍閥の先輩後輩という関係にある弟分・馮玉祥を、馮玉祥以上に知ると自負する張作霖は既にそう確信していたが、馮自身はこの時点で、その様な考えは毛頭、ない。

全身全霊、北京政府の為に勇戦力闘するつもりでいる。

しかし、その過去を見れば、既に答えは出ている。

安徽派の一員として段祺瑞に目を掛けられながら利に釣られて直隷派に寝返り、孫文の広州政府が人気を博したと知れば広州政府に色目をつかい、欧米ウケが良いと聞けばクリスチャンに改宗し、資金が欲しければ日本陸軍に接近し、武器が欲しくなればソ連・共産主義を賛美する。

馮玉祥とは、つまりそういう男だ。


「ここで裏切らないようであれば、あれは最早、馮ではない。ただのノロマだ」


張作霖は「不確定な事だけが確定している」馮玉祥という人物の行動を己の戦略に組み込み、側近に対し、そうつまらなげに語っていた、と言われている。



1924年11月5日。

霜の絨毯が大地を白く覆ったその日の朝、“天下第一の関”山海関において奉軍先遣隊と隷軍守備隊が遂に激突、遼寧の野は赤く染まろうとしていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ