第15話 渤海炎上 (1)
この年春に発売されたキリスト教牧師・小谷部全一郎氏の著作『成吉思汗ハ源義経也』は爆発的な売れ行きを記録し、文字通り、大正期を通じて随一の大ベストセラーとなった。
震災により強かに打ち据えられたこの国の民にとって、七百年も昔に日本を敗残者として追われた一人の青年が大陸に渡り、たった一代で世界史上最大の大帝国を築き上げた……という歴史イフは、老いたる者達の心を揺さぶり、壮年期の者の心でさえ少年時代に逆行させ、思わず信じたくなってしまう様な冒険譚として愛されたのだろう。
そんな源義経が築き上げたとされる無敵の大帝国が故郷・日本に挑んだ二度の侵攻を退ける原動力となった自然の猛威“神風”
その言葉は、いつしか日本人の心に根差し、この国の守護神として認識されるようになっていったようだった。
剽悍なモンゴル騎兵を率いて文明世界を席巻したジンギスカンの優れた将帥ぶりを受け継ぐ騎兵の神が現代にいる。
神の名は秋山好古元帥陸軍大将。
大日本帝国の参謀総長を務めるその男は今、日中国境の町、つまりは朝満国境にある“新義州”という町を訪れていた。
面前に流れる鴨緑江を渡り、千山山脈の支脈を越えれば、そこは遥かなる満州の大平原。
かつて男が戦場とし、剽悍無比なるコサック騎兵千個中隊を戦場の塵芥と化した記念すべき地だ。
その傍らでは、男が荒ぶれていた時代に敵として剣を交えた過去を持つカール・グスタフ・マンチンハイム芬国陸軍元帥が姿勢の良い長身で吹きすさぶ寒風を受けながら、実に心地良さ気に、その視線を川の向こうに送っている。
今、鴨緑江の向こう側では風が吹こうとしている。
戦風という名の暴風が……。
この年の夏、北京政府の命を受けた孫伝芳が直隷軍閥の主力を率いて上海を中心とした浙江地方に迫った時、中国国内のパワーバランスが音を立てて崩れ始めた。
大英帝国という強大な後ろ盾を得、国内ナショナリズムの高まりを無視してまでも軍事的にも経済的にその大帝国に依存し始めた北京政府。
本来であれば、一地方政権に過ぎない勢力でありながら、指導者・孫文の名声もあって北京政府に対抗する勢力と目される国民党・広州政府。
両者の闘争劇は、仏国の黙認と協力の下、英国が大陸南部の反・国民党勢力に対し積極的に軍事援助を行い、その北上を阻止しようとした事から、ここに広州政府の命脈は尽きたものと誰しもが考えたものだったが、国内における静かな政変劇によって権力基盤を強固なものにした“革命輸出論者”レフ・トロツキーの登場によって状況は一変する。
国民党・広州政府の採択した容共路線につけ込んだソ連とその傀儡・共産主義インターナショナルは莫大な軍事援助と引き換えに軍事顧問団と称する多数の政治将校を広州政府に送り込みはじめたのだ。
ソ連国内の小さな権力闘争の結果が、各国の思惑と予想を根底から覆してしまい、かつて、合衆国政府の実力者である共和党・ロッジ議員が評した
「一国社会主義論者のスターリンであれば庭先で一人遊びに夢中になるだけ……」
という願いにも似た予測は実現せず、現実にはトロツキー、ルイコフ、スターリンによる三頭政治というソ連国内の政治的不安定の継続を引き換えとして、世界は革命に対する恐怖の日々を送る羽目に陥ってしまった。
英国払い下げの兵器を手にした陳炯民、陸栄廷ら広州政府に怨みを持つ軍閥と、ソ連払い下げの兵器を用いる広州政府軍の同族相撃つ陰惨なる戦いの日々……。
軍事顧問の肩書を持つ筋金入りの共産主義者に次第に組織を浸食され始めた国民党は、党の完全なる赤化という危険を日に日に増しながらも、目前の危機を克服する為、蒋介石、汪兆銘ら右派の造反という可能性から目を背けてでも勝利を手に入れなくてはならなかった。
混戦模様を見せ始めた、そんな広東、広西地方における激しい戦いを他所に、安徽派追討を命じられ南下、上海や南京を中心とした浙江省、安徽省、江蘇省の三省を大軍の威を用いて、ほとんど無血で掌中に収めた孫伝芳は豊かな同地方の富を背景に急速に自立の気配を見せ始める。
もし、孫が北京から率いてきた大軍を用いて安徽派を徹底的に粉砕していればそうはならなかっただろうが、安徽派は衆寡敵せずと見ると根拠地・安徽省、浙江省をあっさりと放棄、旧来よりの日本政府との太いパイプに期待し、日本領・台湾の対岸に位置する福建省へと南下、その勢力を温存せしめる事に成功する。
安徽派の敵前逃亡とも言える南下策により、戦わずして長江下流域の沃土を手にした孫は、前記三省に加え福建、江西両省をも己の勢力圏に組みこもうと考え、自らを『五省聯軍総司令』と称して、ここに至り完全に自立。密かに昨日の敵である安徽派に対して、その軍事力と経済力を背景に恫喝交渉を開始、己が幕下へ組み込むべく画策を開始する。この孫の自主自立路線への急速な傾斜は、袁世凱の死後、中国国内に蔓延していた
『聯省自治論(各省政府に強大な自治権限を与えるという中国国内の連邦化構想)』
に対する思想的傾倒が原因とも言われているが、より本質的な事を言えば、孫伝芳という人物の器が所詮は軍閥型の思考を脱し得ない程度であったからだろう。
無論、表向きは『聯省自治論』を支持するという大義名分を奉じて……。
北京政府陸軍参謀総長・呉佩孚が、配下である孫伝芳という若き将軍の器を見誤ったのは確かだった。だが、大総統・曹昆でさえ傀儡としてしまう希代の政略家・呉佩孚という男はその程度で動揺する様な軽い男ではない。
「孫伝芳に叛意有り」
と早期に看破した彼は、電光石火、自らの本拠地である直隷省や勢力圏とする河南省、湖北省、山東省で募兵するのと並行して、山西軍閥の総帥・閻錫山と相互不可侵の盟約を契り、同時に陝西軍閥の総帥・馮玉祥を北京政府に取り込む事に成功する。
“札付きの悪漢”と後世、評される事になる馮玉祥を自らが務める参謀総長と同格の重職・陸軍検閲使に任ずるという破格の待遇で自陣営に招く事で、西方の守りを固めた呉は英国からの潤沢な軍事援助(英国から見れば、欧州大戦終結後に山積みになった中古兵器の即売会に過ぎないが)を背景に裏切り者・孫伝芳への報復の策を練り始める。
経済の要衝・上海を制したとは言え、列強の後ろ盾を持たない孫伝芳など鎧袖一触、長江名物・上海蟹の餌にするのにさして苦労は無い。
呉佩孚の小さな誤算により、直隷軍主力という精鋭を手に入れた孫伝芳が北京のコントロールを脱しつつある頃、かつての安直戦争に際して安徽派打倒を掲げて直隷派と共闘した奉天派が静かに動き始める。
出師の表向きの理由は、孫によって本拠地・安徽省を追われた安徽派の救援要請に応じて、共闘して南北から北京政府を挟撃するというものであったが、その真の狙いが北京政府を牛耳る曹昆、呉佩孚らを追い、己自身が中華民国大総統の座を手に入れる為のものである事は誰の目にも明らかだった。
北京政府内部の権力闘争『奉直戦争』に敗れて満州の地に雌伏する事、三年余り。
大日本帝国の満鉄売却により、両者の間に微妙な間隙ができ、戦略的に大きく後退したと思われていた“満州王”張作霖は、密かに動員を下令。今、再び北京に対し挑戦状を叩きつけようとしていた。
秋山はでっぷりとした体躯に禿げあがった頭、その身体と不釣り合いな印象を受ける細長い手足、そして愛嬌のある大きな目鼻立ちで、どことなく愛らしさがある。
その大きく、丸い目をキョロキョロさせながら、邪気のない快活な大声で傍らに立つマンチンハイムに尋ねる。
「マンチンハイム閣下。閣下ならば、この地をどの様に守りますか?」
二人は今、新編・朝鮮軍の検閲を兼ねながら朝満国境線の視察旅行の最中であり、取り分け、この日、訪れた新義州は満州鉄道と朝鮮鉄道の結節点として一朝、事あれば戦場となる可能性が最も高い場所だと予測されている。
夕日に水面を煌めかせる鴨緑江は川幅こそ5百メートルに満たなかったが、水深は数百トンクラスの船舶が往来に困る事が無い程に深く、その流れは早い。
この新義州の丁度、対岸にあたる中国の安東市との間には朝鮮鉄道の建設した巨大な可動鉄橋『鴨緑江橋梁』が架けられており、今回の満州鉄道売却に際しても、この橋は売却の対象外とされていた。また、企業単位で言えば、両鉄道の接続駅として共同管理されている安東駅より満州側の線路及び線路敷きが満州鉄道の、朝鮮側は朝鮮鉄道の固定資産となっている。
建設当初、東亜随一と呼ばれた巨大橋梁によって結ばれた双子の都市である新義州、安東両市は鴨緑江水運の最下流に位置しており、ただ単に国境交易によって栄える街というだけでなく、商業港としても相当な規模を擁している。人口は新義州が30万人、安東に至っては100万人を軽く超えており、人馬や車両の通行が可能な橋梁の建設以降、両市間の往来も盛んだ。
秋山の質問に対し、マンチンハイムはつまらない謎解きの様に答える。
「防衛戦に終始する、というのであれば第一に橋梁の破壊。第二に堤防を主抵抗線とした水際防御の徹底。第三に後方要地に機動性に富んだ予備戦力を確保……とまぁ、教本通りのそんなところでしょうか。貴国と中国との国境線は長いが、現実問題としてこの鴨緑江橋梁を敵に利用されない限り、敵軍は補給線を維持できませんからね。船舶による補給も考えられない訳ではありませんが、世界第三位の貴国海軍がそれを易々と許す筈は無い、と考えます」
「閣下の策は正しい。だが、少し想定に誤りがあるようです」
秋山は、視線を前にむけたままマンチンハイムの解答に疑問を呈する。
いつのまにか、彼はウィスキーフラスコを手にしており、それを一口、あおるとマンチンハイムにグイッと差し出す。
マンチンハイムもまた、何の遠慮も無く、フラスコを受け取ると喉の奥で音をたてながら立て続けに二口、三口と飲む。
喉を伝うアルコールの熱さに、吹きすさぶ寒風は最高の肴となって、その美味さを引き出す。
「想定に誤り……ほぉ、是非、御伺いしたいものです、秋山閣下」
マンチンハイムは右手の甲で唇を拭いながら、フラスコを秋山に返し、微笑む。
「閣下の策を採用したとしても、我が軍は国土を守れないでしょう……というより、この地は我が国の領土となって日が浅い。国境の内側に敵を引き込んで戦う事は出来ません。そんな真似をしたら朝鮮の民衆は喜んで我が軍の行動を阻害し、国境を越えてくる者に協力を惜しまないと思われるからです」
「民衆が敵に寝返ると?」
「寝返る……どうでしょうか? むしろ寝返りだ、などと言ったら彼らは大いに不本意でありましょうな。特に閣下の様な方を前にして……」
秋山は視線を前方に向けたまま、冷徹な軍事専門家であると同時に、激烈な民族主義者である友人を気遣い、その言葉にマンチンハイムは微かに眉をひそませる。
大国ロシアがフィンランドを軛の下においたのと同様、大国日本は朝鮮を軛の下においている。
その現実が苦い。
秋山の事が好きであったし、講義を熱心に聞き入ってくれる陸大の生徒たちの事も愛している。
そして何より、反ロシア、半ソ連の観点から故郷・フィンランドの盟邦になりえる国家と信じてこの国に滞在し、少なからず母国の為にも、そして日本の人材育成の面でも貢献していると自負しているマンチンハイムは、この国もまた帝国主義世界の優秀な少数派の一員である事を改めて感じ、嘆息せざるを得ない。
「ならば、この地を守るには打って出るしかありません」
政治的な話題から遠ざかる様に、純粋に軍事的な観点からマンチンハイムは新たな策を提示すると、秋山は小さく頷く。
「残念ながらその通りです。我が国が朝鮮を最前線とする限り、我が国はその庭先である満州の野を決戦場とするしかありません。或いは……」
秋山は口ごもり、明らかに躊躇っている。
自らの思考に、自らが驚き、戸惑っている様な感じだ。
「或いは……?」
竹を割った様な、開けっ広げな性格である秋山らしからぬ躊躇いに興をそそられたマンチンハイムはそっと答えを促す。
秋山は次の視察地に向かうべく土手上から身を翻し、堤防下の道路で待つ自動車に向かいながら呟く。
「朝鮮人自身が、故郷を守ろうとするのであれば別ですが……」
民族主義者カール・グスタフ・エミール・マンネルハイムにとって、その秋山の言葉はあまりに荒唐無稽な考えの様に感じられた。
1924年11月(大正13年11月)
合衆国租借地 金州半島 旅順
関東州民政長官 公邸
クーリッジ政権のナンバー2として、共和党未来の大統領候補として、その名望を謳われるハーバード“タフガイ”フーヴァーが、合衆国関東州民政長官兼南満州鉄道株式会社総裁として赴任して既に3か月が過ぎようとしている。
フーヴァーは世にあまた存在する『初代』の例に漏れず、かなり多忙な日々を過ごしていた。
日本政府からの行政引き継ぎ作業だけでも相当に忍耐を強いられる作業であるのに、恐ろしく几帳面な日本人たちは完璧な縦割り行政のシステムを構築し、しかもそれぞれの部署において何事も書類に記録しておく事を好んでいたらしく、それはそれは膨大な量の書類に目を通さなくては租借地の全体像が浮かび上がってこないのが実情だ。
合理主義者のフーヴァーにしてみれば、何とも無駄の多い組織であり、煩雑な手続きの数々ではあったが、それだけに日本の行政システムには抑止力が効いており、容易に個人の暴走を許したりする様な事はないと思われた。
もっとも組織ぐるみで暴走し始めたら、誰にも止められないだろうが……。
フーヴァー長官は、この日も日がな一日、書類に目を通し、幾度となく署名し、決済を行っていた。
クーリッジ共和党政権は、日本政府から譲り受けた99年間の租借という権利を最大限に生かし、関東州をパナマ同様に半永久的な根拠地、支配地とする事を企図しており、初代長官に与えられた役目は、その為の完璧な地ならしだ。
幸いにも“最後のフロンティア”と合衆国内で喧伝される関東州とその後背地・満州を目指し、一旗揚げようと考えて渡航してくる合衆国国民は後を絶たない。
そしてその多くが、国内における経済的最弱者、つまり貧困層だった。
未曽有の繁栄の時代を享受していると言われる合衆国ではあったが、その実、国民の六割は貧困層にあり、国内には四百万家族・千六百万人にも上る移動農民が存在している。移動農民とは、綿花や柑橘類、穀物類の繁忙期に合わせて大陸の南北を移動しながら、日雇いとして大農場の手伝いをし、僅かばかりの賃金を稼ぐ非定住者の事だ。
無論、家屋敷も無く、生涯、落ち着く先も無い。
彼らの子供たちは、彼らの両親がそうであるように、小学校に通う事すらなく、巡回教戒師が詠唱する聖書の内容のみを真実として育つ。必然的に生み出されるのは、極度に保守的で信仰心に篤く勤勉だが、自らの名前すら書けぬ粗野な者達。アルファベットを覚えるよりも早く鋤鍬の使い方を覚えた彼らは、野にうち捨てられた古い自動車や農機具から部品を取り外して新たな農機具、生活用具を作り上げ、その過程で自然と機械いじりを学び、親しむ様になる。文字通り、無学な彼らではあったが、その手先の器用さにおいては都市部インテリ層などでは足元にも及ばぬ技術を習得しているのも事実だった。
日本政府との間に締結された棉麦借款協定により“赤い首”と呼ばれる南部農民達が一息、つけたとはいえ、彼ら移動農民は、更にその下をいく貧しき者たちだ。
関東州の半永久的な支配を目指す合衆国政府にとって、彼らの様な純朴で、教条主義的で、無学で、勤勉な者達ほど利用しやすい者達はいない。同時に、彼ら移動農民を植民者とする事は治安を乱す恐れのある貧困層を少なからず合衆国国内から取り除く事であり、それは国内の政治的安定を強化するのと全く同意語だった。合衆国政府が仕立てる大小さまざまな無賃客船に、僅かばかりの身の周り品をズタ袋に突っ込んだだけの移動農民一家が幻想を抱きながら満州に押し寄せてくるのにそう時間はかからなかった。
「暗い街だ」
民政長官のオフィスから夕闇の迫りつつある旅順の街並みを見つめながらフーヴァーはとっておきのバーボンを片手に呟く。
旅順の電力事情は悪い。
日本人から譲り受けたインフラ設備の中に幾つかの火力発電所もあるにはあったが、この山がちな半島の先端部という特有な地形の為、発電に必要な大量の真水が不足しており、フル稼働という訳にはいかない。後背の山々には小規模ながら何か所ものダムが建設され、貯水されてはいるが、その水の大部分は飲料水として費やされ、とてもではないが発電用にまではまわってこないのだ。
有力な石炭積み出し港として火力発電の燃料に困る事のない旅順ではあったが、この地の慢性的な水不足、電力不足には先々も悩まされる事になりそうだ。
「遼東半島の先、この金州半島に引き籠っている限り……はな」
フーヴァーのこぼした独り言は、この地の置かれた状況を的確に表現している。同時にそれは三カ月前までこの地を支配していた日本人たちも考えた事だろう。
「旅順も、大連も、確かに良港ではあるが……」
バーボンを口に含み、彼はその先の言葉をともに呑み込む。何故、日本人がこの地だけで満足できず、虎視眈々と満州の地への進出を狙い続けていたのか? その理由が、今、彼にはようやく分ったのだ。租借した金州は狭い。あまりに狭い。
(金州を生かすには遼東が必要。遼東を守るには満州が必要……か)
疲れ切った身体に、ぬるいバーボンが染み込んでいき、体内の奥で怪しく灯りをともす。
数日前、彼の元に一通の電信が届いていた。
差出人は大日本帝国の朝鮮総督、ツヨシ・イヌカイなる人物。
そのイヌカイがどんな人物であるか、フーバーは全く知らない。
行政書類の翻訳作業に従事している日本人スタッフに聞いた話では「憲政の神様」などと呼ばれて国民的な人気の高い政治家だという。
その見知らぬ日本人政治家が送りつけてきた電文にはこう書かれていた。
「奉天に動きあり。注意されたし」
たったそれだけであり、何の説明も無ければ、フーヴァーに対する挨拶一つすら書かれていない。
しかしながら、この公式とも非公式ともとれぬこの電文を直感的に怪しんだフーヴァーは、すぐさま調査を開始し、その結果がこの日、報告書にまとめられ彼のもとに届けられたのだ。
遼寧省政府から南満州鉄道に対し要望された大量の列車増発。
旅順・大連の市場から忽然と姿を消した大量の穀物や燃料、そして生活必需品の類。
日本人たちが港湾に整備した倉庫群では遼寧省政府が買い入れたと目される大量の木箱が積み重なっており、それは次々と満州深部へと向け、列車にのせられ、運び去られていく。その木箱の差し出し人の多くは日本企業だったが、少なからず米国や欧州の企業名も散見され、そのどれもが軍需企業として名の通った存在だ。
木箱の中身、その想像はつく。
そしてその中身が想像できれば、これから起きる事も想像できる。
フーヴァーは、ため息交じりにイヌカイという見知らぬ日本の政治家に対しグラスを掲げ、謝意を表す。
「張作霖め、米国の許しも得ずに動くとは……な」
多忙な自分に対し、更に面倒を持ちこんだ満州の王に対し、自然と悪態の言葉が出る。
同時に朝鮮のイヌカイに対し、大きな借りを作った事も己の肝に銘じる。幼い頃から身寄りが少なく、その極貧時代を他者の好意によって救われ、今日の自分がある事を痛切に感じているフーバーは日本風に言うならば「義理人情に厚い」タイプの人間だ。
片や総督、片や民政長官という肩書ながらも、職務内容は同じく植民地の行政責任者という国籍の違う同輩に対し、少なからずシンパシーを感じつつ……。
フーヴァーは空になったグラスを執務机におくと、秘書が控える隣室に向け、声を掛ける。
「少将を呼び出してくれ。可及的速やかにオフィスに来るように、とな」
合衆国関東軍司令長官ダグラス・マッカーサー陸軍少将は自他共に認める陸軍有数の日本通、アジア通であると思われていた。
何故ならば、彼の父アーサー・シニアは合衆国の植民地フィリピンの初代総督を務めた人物であったし、日露戦争真っただ中の時代にそのアーサー・シニアが東京駐箚大使館附き武官であった関係からマッカーサー自身、青年期を東京で過ごしているからだった。しかし、彼はこの東洋の国家と民族から謙虚さも奥ゆかしさも学ぶことはなかったらしく、優秀な人物にありがちな事ではあったが、尊大であり、傲慢であり、同時に自らの力を信じるあまり好戦的だった。その他者から見れば過剰な程の自信家ぶりは、彼と接する多くの者を少なからず鼻白ませる。
父の副官であった彼は、中立国の観戦武官として日露戦争後期の主要な会戦に臨んだ経験を持っており、当時の各国観戦武官の多くがそうであったように、日本の敗北を確信していた。“ゴイシン”と呼ばれる革命と内戦によって刀剣を捨ててから、僅か三十数年の日本人に巨大なロシアを倒せる可能性など皆無だと思っていた。
だが、日本は勝った。
常人離れした精神力と、信じられない程のタフネスさを各国武官に見せつけるかの様に日本の将兵は粘り強く戦い続け、遂には我慢勝ちをおさめたと言って良い辛勝ではあったが、ロシア軍にもう少し戦意があり、もう一押しする気があれば、この勝敗、実のところ、ひっくり返っていたかもしれないと考えないでも無い。
しかし、その日本の常識外の継戦能力を経済的に支えたのが、莫大な借款に応じた米国経済界である事もマッカーサーは知っている。
知っているからこそ、戦後処理を巡って合衆国政府の要求する分け前の分配に応じなかった日本人の驕慢さが許せないとも感じていた。
日本人は学ぶべきだった。
一人で勝ったわけではない事を。
中国に長い滞在経験を有していた事から政界屈指のアジア通と目されているフーヴァーの待つオフィスに招かれ、状況の説明を受けると冷静に純軍事的に分析を披露する。
「大規模な内戦になるでしょうな……我が国にとって、どの様な効果をもたらすかは分りませんが」
奉天軍閥が華北・北京政府に挑戦するとなれば、その進撃路は二つ。
渤海湾の海外線に沿って、錦州から山海関を抜けて唐山鎮を経由し、東から北京に迫る沿海ルートと、奉天から北西に針路をとり、阜新から赤峰、承徳を抜けて北から北京に迫る内陸ルートだ。
鉄道路はどちらも敷かれており、補給上の問題に関しては大差無いが、厄介なのは馮玉祥が北京側についている事だ。
陝西軍閥の主・馮玉祥の勢力圏は人口こそ希薄だが内蒙古を含んでいる。内陸ルートを辿れば、承徳を抜かねばならず、その承徳は馮玉祥の勢力圏下にある。
当然、両者は承徳・赤峰間の原野において激突する可能性が高く、仮に奉天側が勝利したとしても、そのまま北京を北から圧するだけの力を残せるかは不明だ。
もう一方の沿海ルートを辿った場合、山が海岸線まで迫る山海関の要害ぶりもそうだが、何より、延々と海岸線を行軍する危険だ。
「小官が呉佩孚ならば……」
そう前置きするとマッカーサーは己の考えた作戦を披露する。
内陸ルートから迫る奉天軍は陝西軍に任せ、主力を北京東方の唐山鎮周辺に集結させる。
山海関は敢えて、守らない。
関を越えて侵攻してきた奉天軍を唐山鎮で抑え込み、徹底した防御線により奉天軍を消耗させた上、山海関東方に小部隊を上陸させ、その補給を断つ。
「威海衛に入港した二隻の英国砲艦、エレバスとテラー。その二隻を山海関の海上に浮かべておくだけで沿海ルートを使った鉄道補給は難しいものとなるでしょう」
パイプに火をつけながら、上目づかいにフーヴァーを見つめながらマッカーサーはさも「どうだ」といった顔をする。
「陸路の補給線切断を海上から行うというのか……補給を断った上で唐山鎮まで進んできた奉天軍を殲滅する、という訳だね? 何故、要害の地である山海関で守らないのだろう?」
軍事の素人であるフーヴァーの当然すぎる質問に、腕組みをした手に愛用のパイプを握りながらマッカーサーは答える。
「北京政府が奉天軍閥の撃退を狙うだけなら、それでもいいでしょうが、奉天を本気で殲滅するのであれば、今、小官が申し上げた戦略をとるべきでしょう。ただ単に撃退しただけでは、奉天はこれから先、何度でも再起し、何度でも挑戦してくる。北京側に満州を圧するだけの力が無い以上、奉天がわざわざ出向いてくれる、この機会を逃すべきではありません」
「罠にかける、と?」
「ええ。それに必要とあれば呉佩孚は北京を放棄し、本拠地に籠る事も可能です。補給が続かないならば、奉天軍は進めば進む程、疲弊していく訳ですから」
「中国の広さが攻める側の最大の敵となる、という事か。攻める側の弾薬の欠乏したところを一気に……。英国は二隻の砲艦を貸与するだろうか?」
フーヴァーはマッカーサーの作戦案を肯定しつつ、疑問を口にする。
「貸与するでしょうね」
当たり前だろう? という様にマッカーサーは首を少しだけ傾け、肩をすくめる。
「いや、正確には貸すのではなく、売るのではないでしょうか? 戦艦などと違い砲艦は確か、軍縮条約の制限外艦艇でしょう? 必要ならば自国分は代替艦を造ればすむ話ですから」
「売る、かね?」
驚きを禁じ得ない表情でフーバーは問い返すが、マッカーサーの言葉の正しさを認めずにはいられない。
英国は北京政府から二隻の売却を打診されれば、喜んでサインするだろう。無論、引き換えに英国は新たな租借地や租界を得る事になり、その結果、彼らはより中国への影響力を高める事になる。
これ以上、英国が中国へ干渉する事は米国として望ましくない。
それを傍観したのでは、米国は何の為に日本から関東州と満州鉄道を買ったのか分らなくなる。
フーヴァー自身は伝統的なモンロー主義者ではあったが、今、その主義を掲げても喜ぶのはライバルである英国だけだ。
呉佩孚と英国が蜜月な関係を築き上げて行くのと同様、米国もしかるべき中国国内の権力者と関係を築くべきだろうか?
反・北京政府ならば広州政府、奉天軍閥、上海軍閥(孫伝芳)、福建軍閥(段祺瑞)
非・北京政府ならば山西軍閥、雲南軍閥
親・北京政府ならば陝西軍閥、広東軍閥(陳炯明)、広西軍閥(李栄廷)
広州はソ連の影響が強まりつつあり、奉天と福建は伝統的に日本と結びついている。
その奉天、福建の両者と連携し、北京政府に反旗を翻した上海も日本寄りと見るべき。
基本的に中立な姿勢を示す山西だが、総帥・閻錫山の留学先だった日本との交友・人脈が強いし、混乱の続く雲南は隣接する英印との関係から総じて英国寄りの姿勢を示している。
北京政府に参画した陝西は言わずもがな。
英国に支えられて、ようやく広州政府に抗している広東、広西は数年前ならいざ知らず、今はもう実力が伴っていない。
対して米国は北京政府を唯一無二の中国大陸の代表者として承認し、交流を続けた原理主義的な考え方と、不干渉主義のツケがわまって、どの政治勢力とも関係が希薄だった。
(もう少し、時間があれば……)
そう思わずにはいられない。
この地に赴任して僅か三カ月、日本政府の好意と口利きで奉天軍閥の面々と懇談し、それなりに会話を交わしはしたものの、信頼関係を築くまでには至っていない。この短期間ではそれが出来る事の精一杯だった。
結局、張作霖は合衆国とフーヴァーに重きを置かず、事前の相談どころか、一切の通告すら行わないまま、北京へと兵を進めようとしている。
(舐められたものだ)
腹の奥底でその言葉が自然と湧き出し、繰り返される。
彼は若い頃、天津租界で義和団に包囲された経験を持つ。若く美しい妻と、生まれたばかりの息子を抱え、脱出できる可能性は皆無な状況、正しく絶体絶命の危機に陥ったあの時の恐怖はいまだに忘れられない。
フーヴァーは決して人種差別主義者などでは無かったが、あの日以来、中国人に対してほんの微かにではあったが負の感情を抱いている。それは、本人でさえ気が付かぬ程に、ささやかで潜在的なものではあったが……。
しばしの沈黙の後、確認するかのようにマッカーサーに対し尋ねる。
「では、奉天が勝利する可能性はない、と将軍は考えるのだね?」
その質問が、関東州民政長官として重要な政治決定を行う為のものである事をマッカーサーは瞬時に察知し、即答する。
「あり得ません。但し、軍事的に限定されたお話です。政治的な状況が変われば、予測は不可能であり、それは小官如き一介の軍人が容喙すべき事柄ではありません」
政治的感覚に優れた少将は、巧みに言質を取られる事を避けながら、力強く頷く。自信過剰が鼻につく面前の人物の、その小人物じみた姑息な政治手法を腹の底で笑い飛ばしながら、決断を下す。
「……よかろう。我らが大統領に許可を頂こう」
秋山とマンチンハイムは寄り添うようにして土手を歩む。
どちらが先を歩くでも無く、どちらが後ろを歩む訳でも無い。
それは二人の対等な関係を示す象徴的な光景だった。
「奉天軍閥が動くそうです」
「ええ……」
秋山の言葉にマンチンハイムは小さく頷く。
査察を名目に二人がこの日、この朝満国境に姿を現したのは朝鮮総督府から知らされた、その知らせに呼応したものだ。
「ようやく落ち着いた余生を過ごせると思いましたが……忙しくなるかもしれません」
右手に広がる鴨緑江の向こう岸を見つめながら、渤海湾へと沈む太陽の最後の光芒を浴びて秋山は微かに嘆息する。
「そうでしょうか?」
マンチンハイムは小首を傾げ、秋山に言葉を促す。
「奉天が勝てるのであれば問題はありません。戦場は山海関あたりになるでしょうから、この地からは遥かに遠く、影響は無いでしょう。しかし……」
「奉天は負ける、と閣下は見られているのですね?」
決して中国情勢に明るいとは言えないマンチンハイムは素直に質問し、それに秋山は微かに頷く。
「ええ、このままでは……」
「このまま? では、日本政府は介入するつもりなのですか? ……あ、いや、これは答えられない質問でしたな、お忘れ下さい」
マンチンハイムは部外者である自らの不躾な質問を詫びつつ、興味深く、心の中で状況を反芻する。
「構いません。先の安直戦争以来、安徽派を支持した我が国と現・北京政府は互いに距離を置いています。ですから、我が国にとって奉天が勝利する方が好都合なのは確かですから、そう思われるのも無理は無い……。しかし、仮に奉天が大敗を喫したとしても、東郷総理も、そして我が陸軍も、介入を実行する様な気は毛頭、ありません。今はその時ではありませんし、問題は勝敗ではなく、各国の出方の方です」
「……」
秋山のため息交じりの言葉にマンチンハイムは沈黙を持って応える。
「我が国が介入するのであれば、如何様にもこの秋山が動きましょう。だが、介入するのは我が国ではないでしょうから……」
渤海湾に完全に沈んだ太陽を名残惜しげに見やりながら二人は、来るべき動乱に備えなければならない事を確信していた。