第7話 大命降下
大正十三年一月五日
(1924年1月5日)
皇居内東宮
この日、山本権兵衛は、五歳年上の朋友と久々の面談を行うべく、彼が余生を過ごす静かな職場を訪れた。
朋友の名を東郷平八郎という。
東郷平八郎。
弘化四年(1847年)生まれ。この時、七七歳。
東郷平八郎は、日露戦争終結後、連合艦隊司令長官を辞した大正三年以来、この皇居内において東宮御学問所総裁として皇太子、秩父宮、高松宮ら皇族の教育にあたっている。それは、『生涯現役』とされる元帥号を授与された者の割りには至って静かな、そして、至って不似合いな環境に身を置いている、と言わねばならないだろう。しかしながら、本人がその事に不平を漏らした事も、不満をつのらせた事もない。
『東宮御学問所総裁』といえば学識経験者にとってみれば最高の栄誉に等しい扱いだが『軍神』と呼ばれる人物に対して相応しい処遇であったかと問えば「到底、思えない」と応えざるを得ないだろう。実際、東郷がその場で出来る事といえば、週に一度か二度、皇太子達に戊辰戦争や日清、日露戦争の思い出話を御進講差し上げる事ぐらいであった。
しかし、この大して役に立つとも思えぬ昔話を、皇太子達は熱心に下問を交えながら聴いてくれた。それだけで、この老いた軍神には満足だった。
東郷を待つ間、宮中の瀟洒な内装を眺めながら、次第に山本は暗澹たる気持ちになっていた。
それは後悔であり、懺悔でもあった。
救国の英雄を、この不似合いな場所に押し込めたのは、山本自身であったし、周囲もそれに賛成した。しかし、軍神は軍神らしく、扱わなくてはならなかったのではなかろうか?
そして今から自分は、その軍神に対し、更に似つかわしくない場所に移ってくれ、と言いに来たのだ。
何故、東郷の説得を引き受けてしまったのだろう?
本来ならば、西園寺公が東郷を坐漁荘に呼べば済む話ではないか。それでこそ元老、その為の元老なのではないのか。だが、同時に自分自身でなくては駄目だ、という気持ちもある。東郷を説得できるのは自分だけだ、と確信にも似た気持ちがある。
ほどなく、面前に実にゆっくりとした足取りで軍神が現われた。二人は新年の挨拶を型通りにすませると、豪華な長椅子に身を沈ませ、繊細な彫金の施された卓を挟んで向かい合う。
東郷は大きな黒目を細めて、しきりとニコニコしている。元来、あまり感情の起伏を表に出す方ではないのだが、今日は久々に訪れた朋友との面談という事もあり、至極、機嫌がよかった。
「権兵衛さ、ごぶれさあもさげもした。お茶でよかか? 薩摩焼酎ばあいもす」
「さしかぶいやなぁ、仲五郎どん……いや、東郷閣下、どうぞ、お構いなく」
山本の他人行儀な口振りに、やや驚いた東郷であったが、逆に朋輩の訪問が私的な物ではない事を即座に理解した。
「いけんしたか?」
東郷は、身を沈めていた長椅子に浅く座り直すと山本の目を覗き込むように顔を前に突き出す。その大きな黒目を見返すと、山本は何故か幼き頃、近所の悪童にいじめられた帰り道、仲五郎に出会い、泣きじゃくる自分の面前でしゃがみこんで下から覗き込むようにして慰めてくれたあの日を思い出した。
(……あぁ、いつもそうだった。仲五郎どんは、いつも困っている自分をあの目で慰めてくれた)
「元帥閣下、本日はお願いがあって参上仕りました。実は、その……」
山本が言いあぐねると、東郷はすかさず答えた。
「よかとよ」
「いや、な、はぁ?」
「権兵衛さぁ、言う事じゃっど、なんでん聞きもうす」
山本は衝撃を覚えた。
思わず目頭と耳朶が熱くなるのを覚えた。
きっと今、自分は“小娘のように”顔を赤らめているに違いない、と思う。
それ程に東郷の自分に対する信頼が絶大なものとは、何故、今、この瞬間まで気が付かなかったのだろうか。東郷との七十年近い友諠の関係とは、当事者である自分自身が思ってもみぬほどに面前の老人の中では絶対的なものであったのだ。
山本は、膝から力が抜け、握り締めた拳が白手袋の中で震えるのを感じた。
思わず挫けそうになる心を奮い起こし、
「まぁ待って下さい。これはその様な個人的な問題ではありません。国家百年に関わる大事なのです」
と、何とか口にする。緊張故にか口中に異常な渇きをを覚えた山本は堪らず、卓の上の茶に手を伸ばし、それを一気に飲み干す。
舌が焼けるように熱い。
いっそ、この舌、焼けて燃え滓になってしまえ。
さすれば、仲五郎どんに……。
しかし、舌は非情にも焼けもせず、爛れもしなかった。山本は震える両手で空になった湯呑をひとしきり玩ぶと、意を決したようにそれを卓に戻す。
「元帥閣下。西園寺公が明日、閣下を次期首相に奏薦致します。つまり、恐れ多くも摂政宮殿下より、遅くとも明後日には大命が降下致しましょう」
そこまで、一息に言うと
「是非、お受け下さります様に、この子爵山本権兵衛、伏して閣下にお願いに参った次第であります」
腹の中から、一気に最後の一語まで搾り出す。
頭を下げるべきか、と半瞬、山本の中で迷いが起きる。しかし、目線は東郷の目線と真っ向から絡み合ったまま、離れそうもない。金縛りに合ったかのように、目線を外そうにも外せないのである。頬の筋肉が卑しく痙攣する。
「よか」
東郷の返答は、歴代憲政史上に残るほどに短く、適確であった。
「日露の時、おいば連合艦隊の司令長官に任じたのは山本閣下でごわす。そんで、今日、山本閣下はおいに首相ば引き受けよ、いうちょる。同じこんでごわすよ」
東郷は平然と応諾した。
「元帥海軍大将・東郷平八郎、謹んで大命降下に拝し、臣の全身全霊を持ってこれをお受けし、死しても国家の礎とならん」
平成21年12月19日 サブタイトルに話数を追加