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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
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第14話 予言者たち

 所謂、テニスの四大世界大会『ウィンブルドン』『全豪』『全仏』『全米』と比肩して劣らぬ国際的な大会である男子国別対抗戦『デビス・カップ』にその名を残すドワイト・デビスは学生時代、米国を代表するテニス選手として名を馳せた過去を持っていた。

大学卒業後、法律家として着実な実績を積み上げた彼は、後に故郷セントルイスで政治家に転身、今現在はクーリッジ政権下、共和党の超大物政治家であるジョン・ウィンゲイト・ウィークス陸軍長官の下で陸軍次官補を務めている。

欧州大戦従軍中における数々の英雄的行為に対する功績を讃えての人事であり、無論、それだけでなく有名スポーツ選手として大衆人気の高い彼を政権に取り込む意図が少なからずあっての事だ。

そのドワイト・デビス、今、学生時代より鍛え上げた頑健な体躯を打ち振るわせて、怒りに震えている。

彼の瘴気を発する程の怒りの原因、それは執務机の面前に長い脚を組んで昂然と胸を張る陸軍佐官の態度にあった。

佐官の名はウィリアム・ミッチェル陸軍大佐。

合衆国陸軍航空隊副司令官を務める切れ者だった。


 欧州大戦期、若干39歳にして連合国側航空機の統一運用を一任され欧州各地を転戦、地上における激しく陰惨な歩兵同士の激突とは異なり、騎士道精神あふれる華麗な航空戦を指揮、その卓越した戦略眼は各国将官より激賞され、数々の勲章を授与された経歴を持つミッチェル大佐は、正しく米国陸軍における航空戦研究の第一人者だ。

しかし、若くして名を成した人物にありがちな事だが、その態度も、性格も、職務上の上司であるデビスから見れば吐き気を催すほどに傲慢な事、この上ない。

このミッチェル大佐、常日頃より、陸海軍における将来的な航空機の重要性を訴え続けており、この主張は必然的に各兵科に対し予算上の配分を慣例に従って行おうとする陸軍省側の思惑と対立している。

 この当時の陸軍予算、少なくない割合で欧州大戦に従軍した兵士達への年金と遺族年金に回されている。

戦争により年金受給者が増えたのだから、その分、陸軍予算全体が増えてもよさそうなものだったが、実際にはそうはいかない。

ただでさえ減税による好景気を演出しているクーリッジ政権、戦争も、差し迫った危機も無い平和な時代に政府支出増に繋がる陸軍予算を易々と増額する筈もなく、年々、その執行予算は減少傾向にあると言って良い。

爆発的に割合を増した年金負担と、減額され続ける予算総額。

そんな苦しい陸軍省の台所事情などお構いなしに問題児ミッチェル大佐は航空隊の新設と開発予算投下を主張し、己の主張が容れられないのは他兵科との均衡に固執する省幹部が無能だからだと場をわきまえずに罵倒し続けている。

ミッチェル大佐を中心とした航空推進派と、これに対峙する保守派、両者の話し合いは公式、非公式に幾度となく行われたが、その主張は常に平行線を辿り続け、決して交わる事は無かった様だ。

この陸軍内部の小さくも致命的な問題に関する裁定をウィークス長官から一任されたデビス次官補、既に各兵科の領袖である制服組幹部との極秘会談により、先々の方針を決している。

端的に言ってしまえば、各兵科の代表者達は予算配分について前例を踏襲する事を望んでおり、その点に置いて無用の軋轢を好まない背広組トップ、デビス以下の陸軍省側も全くの同意見だった。

官僚組織として急激な変化は望ましくない。

先見の明に溢れた“航空戦の第一人者”ウィリアム・ミッチェル大佐はこうして葬られた。


「少し頭を冷やして来い」


とはデビス次官補は言わなかった。だが、頑迷にも己の思想だけを信じ、陸軍幹部との一切の妥協を拒否する大佐に全く同じ意味を持つ一枚の辞令を手渡した。

その辞令には陸軍航空隊副司令官という顕職にある大佐の新しい配属先、即ち左遷先が書かれている。

『合衆国陸軍 関東軍参謀長』

それが彼の新しい職名だった。



大正十三年(1924年) 秋

朝鮮・京畿道・京城府


 半島の地において犬養が怒りの咆哮を上げると時を同じくして、“巨頭”頭山満門下のアジア主義者達が満を持して続々と対馬海峡を押し渡る。

頭山の門下生の多くは職業的な政治活動家ではなく、何らかの本業を持った者達、つまり地方の中小企業経営者や商店主、富農層だ。

左団扇で生活できる程、裕福ではないが、だからと言って今日明日の飯の心配をしなくてはならないほど貧しくもない。

言わば小ブルジョワ的な層が中心であり、それだけに短期間に限られるのであれば政治活動に専念できる。

彼らは手弁当片手に朝鮮の地に降り立つと、数名単位に分かれ、半島各地、その隅々へと散っていった。

ある者はビラを配り、ある者は下手な朝鮮語で彼らの奉ずるアジア主義の大義を街頭で説く。

同時に農家出身者は救済作物の栽培方法を伝授し、商店主達は帳簿のつけ方を教授し、企業家達は地域産品の買い入れを約す。

己が主張を単に唱えるだけでは、貧しき者達は耳を傾けない。

日々の糧に困窮する者に、目に見える形で知識を与える事が出来る彼らだからこそ、受け入れられ、その主張は宗教にも似た狂信性を帯びて急速に伝播していく。

その昔、医療技術や薬草学を学んだイエズス会の宣教師が世界に散り、カソリックを辺境の隅々にまで布教していったのと同じ事が今、半島で起き様としているのだ。

渡航直後、朝鮮語での挨拶すらままならなかった門下生達が日常会話に困らぬほどに上達する頃、朝鮮各地には小さくはあったが、危険な芽が根を張り始めたのは言うまでも無い。


 犬養は動いた。

齢六八歳という高齢をものともせず、精力的に動き続けた。

京城府における勤労奉仕団結団式において、この地における確かな手応えを感じとった彼は、東に西に、北に南に、半島各地の結団式会場に現れては得意の弁舌を振るう。

欧米の植民地主義の非道を謗り、その覇道を罵る。

東アジア諸民族の連携、連帯を唱え、白人国家への天誅を訴える。

声を枯らして叫ぶ彼の悪口雑言、罵詈罵倒に興奮した民は、亜細亜同胞の為に悲憤慷慨し、亜細亜人民の悲運に涙する。

誰もが他人の悲運不幸には蜜の味を感じ、しばしの間、己自身の境遇を忘れる。

その感情に日本人も、朝鮮人も、台湾人も無い。

群集心理を巧みに操る犬養の弁舌は正に神技だ。

連帯を妨げる矮小な区別全てを呑み込み、卑小な差別感情を叩き潰し、ただただ亜細亜人による亜細亜の実現を訴え、人々に団結を促す。

個々の民族の伝統を擁護する正統な民族主義を清流とするならば、犬養の唱えるアジア主義は豪雨の後、全てを破壊し、押し流す濁流の様な思想だった。

そして、狂ったように全身を打ち振るわせながら叫ぶ犬養の濁流に呑み込まれていったのは、奉仕団に動員された貧しい朝鮮人だけではない。

半ば強制労働と言って良い土木作業に投ぜられる彼らの暴徒化を警戒し、動員されたはずの憲兵や警吏の面々、命令とは言え同胞である彼らを動員した総督府、道庁の下級官吏達、噂を聞きつけて会場に足を運んだ一般民衆、果てには、この恐るべき動員計画を策定した新官僚の面々までが犬養の絶叫に肝を鷲掴みにされ、膝を叩き、大地に拳を打ちつけ、天の下した不公平かつ不条理な裁定に唾を吐き始めた。

 半島経営を「植民地支配」ではなく「合邦」と宣した日本政府の主張を逆手にとった東アジアの歴史上、最も傑出した扇動政治家『神の舌』犬養毅はこの時、この世の詰まらぬもの全てを、超越していた。



 総督府内務局長・後藤文夫は荒くれ者集団“新官僚”の頭目的存在ではあったが本質的には生真面目な秀才肌の男だった。

こけた頬、整えられた口髭、几帳面という言葉を具現化した様な頭髪の分け目、そして何ものも見逃さない猛禽類の様な眼光……彼は四十歳にして、年齢に不相応な貫録を既に備えていた。

その後藤の面前で帝大以来の親友・河田烈財務局長が浅黒い顔を酒によって変色させながら、その場にいる一堂に熱く語る。


『俺は犬養木堂を見損なっていた。蝿の御機嫌を伺う様な糞以下の政党政治家にも一角の人物はいたようだ』


要約してしまえば、河田の主張はそんな感じだ。

酒好きの彼は酔いに身を任せ、心地良さ気に放言する。

そんな酩酊状態の河田に限った事ではない。石黒や吉田をはじめとした犬養総督府の幹部連の多くが既に犬養の術中に嵌り、その言動に一喜一憂している自分に気が付き始めている。

その気持ち、恋慕と言って良い。

つまりは、惚れてしまったのだ。

犬養に。


 後藤のそれはそれほど単純ではない。

確かに、かつて師と仰いだ平沼騏一郎の狷介孤高な風に比べ、犬養の一面明るく、一面頑なな主張、言動に心が惑わされ始めているのも感じている。

その昔、儒者の祖・孔子は「狂狷(狂ったように一途な頑固者)を愛した」というが、この儒教の地・朝鮮において現代に体現した犬養こそ、儒教に縛られ続けた朝鮮民衆の愛する『狂犬』ならぬ『狂狷』なのではないか。


(犬養総督は遠からず朝鮮を手に入れるだろう……その心を)


それは確信にも似た予言だった。

犬養の主張の凄まじいところは、犬養自身が民族主義者であるにも関わらず、民族による一切の区別差別を否定、超越し、民族や出自に捉われない平等な権利、そして義務の獲得にある。

支配民族である自分達の方が優れている……と、ただ確信するでもなく漠然と信じている者の多い内地で、その様な主張を行うのではなく、この鬱屈した朝鮮の地において、それを主張する意味。

犬養の主義主張の先にあるものがいったい何なのか?

今、後藤は純粋にそれが見たいと思いはじめていた。


「犬養木堂という人物を得た事こそ我らの僥倖……」

後藤は静かに盃を膳に置き、囁く様に宴席の同志達に語る。

すかさず宴席のあちらこちらで「然り」との声が上がり、その発言に賛意が示される。

「勤労奉仕団の一件、総督が苦い顔をした時には『所詮は群衆の顔色を窺うだけの政党政治家』と嘲笑したくなったものだが……かの御人は我らより一枚、上手だったな」

領袖の率直な反省の弁にもやはり賛意の声が上がり、後藤は言葉を切り、一座を静かに見回す。

「石黒君……予定よりも早いが、民衆の熱が冷めぬうちに例の条例、一気に進めてしまおう」

農務局長・石黒は後藤の言葉に驚いた顔をし、周囲の同輩を見回す。

「後藤君、しかし……」

「時期尚早なのは分っている。だが、大事なのは前例、それが官僚だろう? 目の前に格好のネタが転がっているのに、それを利用せぬ手はあるまい」

「だが、事は個人の財産に関わるからな……下手をすれば、俺たちは主義者の烙印を押されるぞ?」

「当初の予定通りに進めた方が良いのではないでしょうか? 何も急ぐ事はありますまい」

本来、豪放快活な性格である筈の河田が不安げに口を挟み、その意見に松木土木局長も賛意を示す。

「案ずるな。総督閣下のお陰で貧しき納税滞納者共は閣下の手駒と化した。この機を逃してはならん。何故、自分達が強制的に奉仕活動に従事させられているのか? 閣下の啓蒙により群衆は気付き始めている」

「確かに……」

一座の数人がその言葉に頷き、その頷きの連鎖が宴席全体へと広がると、後藤は狷介さを感じさせる微笑みを浮かべ、呟く。

「官憲と荒ぶる群衆が手を結べば……不可能な事など、何一つない。そうだろう?」




 深夜、犬養の住まう総督公邸を訪れた一つの影がある。

来訪者の姿を見ると無言で公邸内に招き入れた老管理人の手慣れた様子からして、この日、初めての訪問、という訳ではなさそうだ。

荘厳だが無機質な作りの居間に通された来訪者は、全く遠慮した様子も見せずに卓上に置かれた煙草盆から敷島を一本、抜き取ると口に咥え、尚、数本を手に取り、胸ポケットにしまい込むと主が現れるのを待つ。

 一方、老管理人より客人の来訪を告げられた犬養は、連日の演説疲れで重くなった足を居間にむける。

深夜、非常識な時間にも関わらず、その相好に怒りの色は無い。

むしろ、嬉々とした喜びの表情さえ伺える。

長い廊下を歩きながら乱れた衣服を整え、犬養は居間へと向かう。


 居間で対面した二人は手短に挨拶を交わす。

来訪者は儀礼的に深夜の訪問を詫び、犬養は儀礼的にその非礼を赦す。

「……奴ら、随分と閣下を見直したようです」

来訪者のその言葉に、犬養はさもつまらぬ話だ……と言いたげな表情を一瞬の間、みせるが口は閉ざす。

折角の追従に反応を示さない相手の様子に来訪者は、やや狼狽したのか、場を取り繕う様にその舌が次第に滑り出す。

「石黒君や吉田君、河田さんあたりは『さすがは木堂』などと誉めそやし、すっかり閣下に心服した様子を見せていますし、このまま行けば、頭の固い松木君や後藤さんあたりも遠からず閣下の掌中の玉となるのではないかと……」

「あぁ、そうかい」

返答はつれない。

犬養にしてみれば、そんな事は計算済みだった。

新官僚と呼ばれる民族主義者集団、元は国粋主義者・平沼騏一郎の門下だった者たちだ。

東郷政権発足以降、平沼以下枢密院の影響力低下を見てとり、

「もはや、頼みにならざるなり」

と決し、己達の腕試し、実績作りの為に朝鮮の地に舞い降り、利用しようとしている様な連中だ。

彼らが政党政治を衆愚政治と断じ、議会政治家を嫌悪しているのは知っている。

自らの総督就任と、彼らの総督府出向時期がたまたま、重なっただけで、犬養にしてみれば彼らが居ようと居まいと、己がこの地で成すべき事に変わりがある訳ではない。

ただ優秀だと評判な彼らをまとめて引き受ければ、何かと便利だろう、と考えただけの話だったし、彼らの様な小者連中すら手玉に取れぬようであっては、この朝鮮の地にアジア主義を根付かせ、その大本営、総本山と化す事など出来る筈もない。

『三寸の舌を以て百万の師より彊し』

と、讃えられたのは平原君幕下の“嚢中の錐”毛遂だったが、扇動政治家として絶頂期を迎えつつある今の犬養には正にその風格がある。

 相手の素っ気ない態度にますます、来訪者は鼻白むが犬養は全く、お構いなしだ。

「廣田君。そんな事はどうでもいい。それより……」

廣田君、と呼ばれた来訪者、廣田弘毅は本題に入るべく犬養の言葉を片手で制する。

表向きは外務省出身の高級官吏として新官僚団の有力者である彼、実は頭山門下のアジア主義者集団「玄洋社」の構成員でもある。

彼は新官僚の集団に身を置きながら、密かにその内部情報、その動きを逐一、犬養に報告する役目を頭山より命ぜられており、同時に外務省出身者として外渉通商局長の命を受け、犬養の外交ブレーンも務めている。

「全て閣下の思し召しの通りに……。外務省の知己同輩に話してみたところ、思いの外、簡単に在外公館内に総督府外渉通商局として一室を間借りする事が可能となりました」

「間借りか……まぁ、当面は仕方あるまい。予算が許すようになってから将来的に独立して館を構えれば良いか……」

先程より幾分、沈鬱な表情を浮かべた犬養の様子を見た廣田は、講道館で鍛え上げたその頑健な体躯を乗り出す。

「それが良いと思われます。今はまだ、良き芽、悪しき芽の選別もつきません。それまでは目立たぬ様にした方が宜しいかと……」

「ふむ。そうだな……」


 中国国内に限らず英印、仏印、蘭印、米比と、東アジアから東南アジアにかけての主要都市で日本政府の領事館が存在しない都市はない。

 先の欧州大戦、本国製品不在の時代に日本製品は一気に同地域に進出し、文字通り、席巻した。

だが、それに伴い、商慣習の違いや言葉の違い、書類手続き上のトラブルが続発し、この事態を憂慮した日本外務省と各国植民地当局間の話し合いにより、各地に出張駐在官事務所や領事館が設置される事となったのだ。

たった1名の日本人職員(実際には古くから現地に在住している商店主などの邦人を相談役として名目上、雇用しただけ)と数名の現地人スタッフで構成される様な小さな出張駐在官事務所や、外務省職員数名で構成され、貸しビルの一室を賃借しただけの様な小規模な領事館、そして天津、上海、奉天、香港、武漢、南京、シンガポール、カルカッタ、ボンベイ、サイゴン、バタヴィア等の基幹都市には列強首都に駐箚する大使館にも劣らない規模を誇る領事館がおかれていた。

これら各地に分散配置された領事館、駐在官事務所によって構成される緻密な外交情報・通信網は、商業通信の未発達な時代において、商売を成功させる上で重要な役割を担っていた。

 その情報・通信網である在外公館のネットワークに犬養率いる朝鮮総督府は寄生しようとしている。

表向きの理由は「朝鮮特産品の販路を確保する為、総督府外渉通商局が駐在員を派遣する」というものだった。

朝鮮経済の立て直しを至上命題とする総督府にとって、それは至極、真っ当な理由であり、廣田の古巣・外務省側でも何ら問題視するような何ものも存在しなかった。

問題はその駐在員の人選であった。




 明くる翌朝。

犬養の待つ総督官邸を訪れた人物がいる。

呼び出された人物の名は石光真臣陸軍大将。

朝鮮軍司令官の任にある陸軍きっての要人であり、同時に旧・上原閥の継承者にして現在の陸軍主流派・秋山閥の大番頭を務める人物だ。

如何にも秀才然とし、神経質そうな蒼白い細面に大振りの丸眼鏡を掛けたその容姿は、そのあだ名であるショウジョウバッタそのままだ。

そんなバッタ顔の石光大将であったが、今や彼は釜山の第十九師団、羅清の第二〇師団、そして旧関東軍から引き継いだ京城の第十八師団、それに各種独立部隊を指揮下に置き、建制上、単独の軍としては日本陸軍最大の独立部隊の指揮官であり、最高級の顕職に補されていると言って良い。

しかしながら同時に彼の率いる朝鮮軍は、威海衛に英軍、大連・旅順に米軍、天津に列強連合軍が駐屯するというパワーバランスが崩れた黄海周辺域に対峙している。

この言わば「最前線」と言って良い朝鮮に送り込まれた石光大将、実のところ、優秀な参謀、軍官僚ではあっても、決断力に富んだ性格の人物とは言えず、本質的に司令官職には不向きな性格であり、その慎重過ぎる気性が災いして赴任以来、胃が痛む日々でもあった。

それでも彼の卓越した事務処理能力があればこそ、白川大将から関東軍隷下の諸部隊を引き継いだ時も実にスムーズにこれを受け入れ、煩雑な業務にも関わらず一切の不備なく、部隊をまとめ上げている。

そんな極めつきに優秀な軍官僚である石光の本心を吐露してしまえば、一日も早く東京に戻って、秋山の側用人でも務めていた方が余程良い……だっただろう。


 この日、胃腸薬を手離せない石光大将は初老の男を一人、伴っている。

実のところ、この日の会談は表向き、総督と軍司令官として親交を深めるという名目であったが、石光とその連れを呼び出した犬養の目的は、相手の胃を更に痛めつける様な代物であった。

互いに初対面という訳ではなく、何度も会議の席上、顔を合わせている犬養・石光の両者は簡単に挨拶をすませる。

手短に儀礼的な会話を交わしながらも石光の双眸には不安の色合いが濃い。

彼は犬養たっての要望により、隣に座る男を伴ってきたのだが、何故、一民間人に過ぎないこの人物との面談を希望し、石光に同伴する様に半ば強要したのか、その真意をつかみ損ねていた。


 ……いや、この表現は正確ではない。


石光は犬養の意図を間違い様も無く正確に見抜いていた。

ただ、それを事実として認めたくなかっただけなのだ。


「はじめまして、石光さん……いや、大尉と御呼びすべきかな?」

皺の奥、妖しく光る双眸を細め、犬養は石光大将の伴った人物に向き直る。

「はぁ……閣下のお好きなように御呼び下さい」

石光大尉と呼ばれた初老の男の声音はか細く、弱弱しい。

その視線は先程より室内を泳ぎ続けており、全く落ち着きというものがなく、ゴマ塩の如く半白になった頭髪に時折、手をやり、伸び放題で寝癖のついた様な白髪を撫でている。

痩躯だが長身で、軍人らしく姿勢もよい石光大将とは対照的な小柄で小鼠の様に貧相な石光大尉。

この石光大尉、即ち石光真清は、大将である石光真臣の実兄にあたる人物だ。

大尉とは言っても予備役はおろか、後備役さえも終えた完全なる元・大尉であり、今は朝鮮人貧農の満州入植を支援する朝鮮農民協会の一職員に過ぎない。

まるで視線を合わせる事を怖れる様に、不安そうな表情で犬養を上目づかいでチラチラと見やる石光真清。

彼は、老齢によるものか、緊張によるものか、微かに震える手を伸ばし卓上の湯呑みを手に取ると貪る様にそれを飲み干す。

口端から一筋の柚子茶がこぼれ、薄汚れた鼠色のズボンに落ちると、小さな染みが広がる。

元軍人とは思えぬほどに無様な小人。

その全てが演技である事を犬養は知っている。



「長岡さんから話は聞いている」

犬養のその言葉が切っ掛けだった。

「長岡さん」とは勿論、自由党の代議士・長岡外史陸軍中将の事だろう。

石光真清にとって、郷愁を呼ぶその名を聞くだけで十分だった。


 陸士十一期を優秀な成績で卒業し、約束された将来をその手にしながらも、国家百年の為には情報こそが第一と信じた石光は、自ら陸軍を辞し、諜報の世界に身を落とす事を決した。

その後、石光は私費でロシアに渡航し、語学を学びながら極東におけるロシア軍の配備状況をつぶさに観察し、後には中国各地を放浪して一介の大陸浪人として日銭にも困る様な生活苦を周囲に見せながら、表向き軍とは無縁な生活を送り、密かに中国各地に特務機関を立ち上げて行く。

奉天、長春、錦州、天津、北京、ハバロフスク、ウラジオストック……。

彼が密かに作り上げた各地の諜報組織は商店や旅館、写真館などの体裁をとり、胡散臭げな大陸浪人や現地人の間諜、情報提供者が多数、出入りしても現地当局より怪しまれる事は少なく、その自然な佇まいに引き込まれ、本人すら気が付かない内に情報を漏洩している現地の有力者も多い。

 日露戦争中、欧州の大地から外交ルートを主体に諜報戦を指揮した明石元二郎陸軍大将の華々しい活動とは対照的に、石光真清の諜報活動は地味を通り越して、スポンサーである陸軍自身までもが、その存在を忘れてしまうほどに現地に根差したものだった。

それは無論、当時、既に陸軍高官であった明石と、陸軍を退役した一大尉の差によるものでもあったが、何より石光大尉の活動の主体が“組織作り”に有った事だ。

日露戦争直前から始まった彼の諜報活動では、結局のところ、日露戦争期間中に結果を出せる程には組織が成長していなかったが、当時、彼が客分として親しく交わった馬賊の頭目の中には、後に張作霖・奉天軍閥の幹部となっている者も多く、彼らを介して石光の下には奉天軍閥の幹部しか知り様も無い程の高度な情報が仔細に渡って報じられてくる。

しかし、今の石光にその情報を活かすだけの実力は無いし、その集められた情報を分析し、取捨選択し、利用する能力もない。

情報提供者が危険を冒して入手した重要情報がどんなに集められようとも、それが正しく扱われなければ、何の価値も無いのが諜報の世界だ。

華々しい正面決戦、短期決戦主義を標榜する陸軍にしてみれば、明石大将の謀略活動でさえ大金を投じた割には効果が疑わしいと考えていた程であり、結果として明石はその後、陸軍の傍流に追いやられてしまった様な諜報に関しては疎い時代だ。

明石以上に、目に見えた結果を出していない石光大尉への評価が上がる筈は無い。

 戦争終結後、諜報戦全般への予算配分を渋り出した陸軍の近視眼的な視野狭窄に石光は愛想を尽かし、一民間人として軍と決別する事になるが、中国語、ロシア語に堪能だった彼を陸軍は放っておかず、その後、何度か招集され、先のシベリア出兵に際してもシベリア潜入と、現地における特務機関設置を命ぜられている。

シベリア出兵期間中、長期に渡って現地に身を置いた彼は時には日露混成の義勇兵を率いて赤軍ゲリラと死闘を演じたり、はたまたシベリア各地に点在したロシア白軍との軍事提携の影にも暗躍したりはしているが、その功績が表立って評価された事は一度たりともない。


 そんな不遇の“組織作りの天才”石光真清元・陸軍大尉の存在を犬養に進言したのは、現・自由党中立派の領袖を務める代議士・長岡外史陸軍中将だった。

日露戦争当時、総長・山県有朋の下で参謀次長を務めていた長岡は、ありとあらゆる情報の集積地として存在し続け、情報戦全般の指揮を執った。

長岡自身に取り立てて優れた分析能力、解析能力があった訳ではないが、新しいものには何でも興味を示す、生まれながらの好奇心旺盛な性格と、参謀次長としてどんな手段を使ってでも日露戦争に勝利しなくてはならない重責を負っていたが故に、少なくとも情報という物に価値がある事を見出したのだ。

 その後、長州閥の一員として陸軍部内において順調に出世し続けた長岡だったが、長州閥内部の実権を不仲だった寺内正毅が掌握すると時を同じくして非寺内系であった彼は大正中期には予備役に退かざるを得なくなる。しかし、それまでの僅かな期間ではあったが、陸軍省の乏しい機密費予算を遣り繰りさせて石光の活動を支えたのが長岡だったのだ。

 犬養が朝鮮に旅立つ直前、相談を受けた長岡は一にも二にも無く石光を推薦した。孫文以下と親しく交わる犬養は帝国随一の中国通の政治家と目されており、一匹狼的な大陸浪人や革命活動家に対する影響力、発言力はそれなりに大きい。

そんな犬養であったが、これはあくまでも個人レベルの話であって、統制のとれた組織の話ではない。朝鮮に赴任した犬養が欲したもの、それはアジア全域をカバーする情報網の構築だった。


「金がかかりますよ……それも尋常じゃない金だ」

長岡の名を聞いた途端、ここに至る事情の全てを悟った石光大尉の手の震えは止まっている。

石光は煙草盆に手を伸ばし、敷島を一本、手に取ると昨夜、廣田がそうした様に数本を鷲掴みにして自らの胸ポケットにしまい込む。

「分っている。金はある」

「貧乏な総督府が?」

「兄上、失礼ですぞ」

閣下と呼ばれる人物に対する不遜な物言いに驚いた生真面目な弟・石光大将が慌てて、兄をたしなめ様とするが、犬養はそれを手で制し、その面相から表情をスッと消すと平板で感情のこもっていない口調で石光に語りかける。

「すまないが、石光大将……。ここから先は大尉と二人だけで話したい。君の為にも、ここは席を外して貰えないか?」

あまりに唐突な犬養の言葉に石光は我知らず反発し、反論しようとするが、同時に身に危険を感じる。

聞いてしまったら、巻き込まれる……。

そんなキナ臭く、とてつもなく危険な匂いだ。

枯れた草むらに火がついたままの煙草を投げ込んでしまった様な後悔。

煙草の行方は杳として知れず、枯れ草を掻き分けて探しているのを誰かに見られれば、石光自身が煙草を投げた本人だと知られてしまう。

運よく煙草が見つかれば良いが、もし見つからず、枯れ草が燃え上がってしまい、それがあらぬ惨事を招いたとしたら……。

ここは何も見なかった事にして立ち去るのが、わが身には一番……そう、小心なるが故に石光大将は決断し、無言で一礼すると部屋を後にした。


「京城に帝国大学が間もなく建てられる。その事は知っているね?」

犬養は真清のぞんざいな言葉遣いを気にする様子も見せず、相手の質問をはぐらかす。

「京城帝国大学、でしょう? 無論、存じております。明年には開校だとか……」

つい先刻までの憐れな石光老人は完全に姿を消し、犬養の面前に座るのは三〇年近い歳月を諜報専門家として過ごしてきた油断のならない人物が座っている。

『間違っても、この男に背を向けてはならん……』

そんなゾッとする様な凄味をその人物は発している。

「俺はその帝大の上を行く組織を作りたい」

「上を行く?」

真清は一瞬だけ怪訝な表情を浮かべる。

犬養の言葉が、自らの質問への解答なのか、そうでないのか、判断が付きかねているのだ。

「帝大は普通であれば文部省の所掌だが、この京城帝大は総督府の所掌下に置かれる予定だ。俺はこの京城帝大に日本人……つまり、朝鮮人や台湾人も含めてだが……だけではなく、英印、仏印、蘭印、それに中国やインド、つまるところアジアの全域から留学生を募るつもりだ。その留学生た……」

「そのガキどもの中から元気のいいのを見つくろって、工作員に仕立て上げる……って事ですか?」

犬養の言葉を皆まで聞かず、真清は苛立たしげに煙草を立て続けに吸いながら結論を急ぐ。

「ふーん。じゃあ、上を行くってのは、その帝大出身者達の中から優秀な奴を集めて……」

「まぁ、この朝鮮に留学してくるなんて連中は、それなりに良家のボンボン達だろうからな。そいつらを怪しまれずに繋ぎとめておくには卒業した後の肩書が必要だろう?」

「……研究員、ですかね?」

「ほぉ、察しがいいね。亜細亜経済研究所でも、京城地質研究所でも名称は何でもいい。とにかく京城帝大に留学してきた連中を中心に、朝鮮総督府の諮問機関として研究所を作る。その研究所が……」

真清は不敵な笑みを片頬に浮かべながら応じる。

「諜報機関の隠れ蓑……って訳ですか」

犬養の狙いを察知し、面白げに頷く。


「よし……今、この朝鮮には幸いにも例の満鉄、そこの調査部門に在籍していた者達が大勢、失業してブラブラしていますからね。取りあえずその連中を組織の中核に据えますよ。奴らの大半は脛に傷があって、どうせ内地には帰れやしない」

真清は意地悪げに薄く笑いを浮かべる。

超のつく一流企業だった満州鉄道の調査部門に勤務していた……と云えば、なるほど聞こえはいいが、実際には内地で民権運動や労働運動に手を染めて官憲から睨まれ、すっかり世間が狭くなってしまった事から内地を逃れてきた高学歴者や知識階級に属する活動家の魔窟の様な部署であり、他にも荒事を処理する専門家として雇われた軍人崩れ、大陸浪人上りの者も多い。

しかし、それだけに筋金入りの気骨を持った者や、腕っぷしに自信のある者が多数いたようだ。

「じゃあ、石光大尉。君が所長を引き受けてくれるんだね?」

犬養の確認に対し、大袈裟に哀しげな表情をして見せた真清は、首を左右にゆっくりと振りながら言葉を続ける。

「残念ながら俺みたいな士官学校を出ただけの無学な人間が所長になったら目立ちますから、それは無いですよ。まぁ、表向きはロシア語と中国語の講師って肩書でいいでしょう」

『表向き』という言葉が、実質的に所長を引き受ける事を意味するのだと気が付くのに犬養は半瞬だけ時間が必要だった。

「ありがとう。一切を任せよう……ところで、予算の件だが」

「心配いりません。予算が付くのはどうせ帝大や研究所が正式に出来てからになるのでしょう?」

「お見通しだな……すまんな、それまではゆっくりと骨を休めてくれたまえ」

さすがに貧乏所帯の総督府だけに、官房予算をどんなに切り詰めようと諜報組織の発足資金まではそうそう簡単には手が回らない。ある程度、まとまった額を計上するには、別名目にするにしても、どうしても正式な手続きを踏んで予算を執行させなくてはならないのだ。

犬養は、貧乏な己に対する照れもあったのか、やや申し訳なさげに頭を掻くと、率直に真清に頭を下げる。

「心配いらないと言ったでしょう? 自分の食い扶持ぐらいは稼ぎますよ……ところで閣下、個人的に三万円程、貸して貰えませんか?」

「三万……とは、随分な大金だな。俺も貧乏なんだが、まぁ、何とか工面しよう。で、その三万円で何をするんだね?」

「内緒って事にさせて貰えませんかね? 言えば、怒られそうだ」

「ふむ、別に構わんよ……石光大尉、君は私が何故、諜報機関を作ろうとしているか一切、聞いてこない。私も何も聞かないでおこう」

ようやく煙管を取り出した犬養はその先に煙草を詰めながら、満足気に呟く。

「閣下のやろうとしている事なんて、三つ子でも分りますよ」

ニヤリと笑いながら、真清はマッチに火を点し、それを差し出す。

その火を火口に移しながら、犬養は上目づかいで相手を見やる。

「そうかい?」

「そうですとも」

「そりゃ困ったな」

「困ったものです」

二人は目を合わせると大笑する。

そこには既に、阿吽の呼吸が出来上がっていた。


「宜しいですか、閣下。研究所の存在、どんなに隠匿しようとも、いずれ皆に気付かれます。だが、その時には手遅れ……その線で進めます。いいですね?」

「全て任せる、といった筈だよ」

犬養は、石光真清という人物をすっかり気に入っていた。

元来、親分肌な男であったし、毀誉褒貶相次ぐ彼の人生において、もっと胡散臭い人間は幾らでもいた。

清濁併せ飲んでこそ国士。

そんな発想をする犬養だけに長岡から石光の素性や、その前半生における並々ならぬ苦労話を聞かされた時点で、本人さえその気になったら全てを任せるつもりでいた。

「承知しました。ご期待に添うよう、努力します」

真清は口調を改め、頭を下げる。

相手が自分を信頼してくれている、認めてくれている、その事を直感的に感じ、内心、嬉しく思う。

母とも、父とも思っていた帝国陸軍の不見識さによって軽んじられた過去を払拭する為、犬養に自分を推薦してくれた長岡への恩義を返す為、己が身を投じた諜報戦の世界でもう一働きする時がやって来た事を真清は静かに感じとっていた。


「閣下……」

部屋を後にしようとしていた真清は何かを思い出したかのように振り返ると、立って見送ってくれている犬養に告白する。

「間もなく、奉天が動きます。ご注意を」

「奉天が……動く?」

「はい。始まりますよ、張作霖の復讐戦。第二次奉直戦争が……」

奉天軍閥内に草の根の如く密やかに張り巡らされた真清のネットワークが報じてきたこの重大情報を、犬養は日本政府関係者として最初に知る事になる。


平成22年11月1日 誤字修正

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