第10話 いけずを知る者
内務大臣としての浜口は、この日も多忙な一日を過ごしていた。
“省庁の中の省庁”として巨大な権力と縄張りを有し、これを効率的に運用する優秀な官僚団を擁する内務省は政治的、思想的な色合いが濃く、技術専門職的な気風を持つ他省庁とは一線を画していた。
古くは山県閥の基盤となり、近くは平沼騏一郎に近い国粋主義的思想を持つ“新官僚”達の温床となるなど、常にこの国の政局を左右する影の存在として世間に見えざる牙を砥ぎ続けているのだ。
そんな内務省にとって、リベラルな思想を持つ浜口という新大臣は実に扱い辛い存在だった。
無論、前任者・加藤高明によって抜擢を受け、民政党に対し好意的な内務官僚もいるにはいたが、全般的に見れば少数派であったし、国民の思想信条を監視し、教え導く事を職務の一環と信ずるこの巨大省庁の官僚達にしてみれば、浜口の吠える自由主義思想は、共産主義より幾らか“マシ”なだけの怠惰な危険思想の様に見えてしまう事もあったようだ。
「こちらの名簿に記載してある者達が、私共の内部調査によって判明した人物達です」
湯浅倉平内務次官、川崎卓吉警保局長、丸山鶴吉警視総監の所謂“内務省三役”が差し出した名簿を浜口は無言で受け取り、目を通す。
そこには内務省を中心に各省庁を事実上、動かしている局長級、課長級などの中堅・高級官僚数十名の氏名が記されており、世間では彼ら気鋭の官僚集団を『新官僚』と称し、既存の官僚とは一線を画す存在と認識していた。
内務省の後藤文夫拓殖局長官、松本学土木局長、吉田茂東京市助役、唐沢俊樹千葉県副知事、外務省の廣田弘毅欧州局長、安井英二外務事務官、岡部長景亜細亜局二課長、大蔵省の河田烈主計局長、石渡荘太郎酒税課長、賀屋興宣税務課長、農林省の石黒忠篤農務局長、小平権一農政課長……いずれも、浜口とて一度は名を聞いた事のある“超”の付くエリート達だ。
「この者達が先の総選挙において、田中陸相と手を組んだ平沼氏の意を汲んで動いた者達……というのだね?」
「はい、間違いありません」
調査を主導した川崎警保局長が身を乗り出し、大きく頷く。
政党政治の悪弊の一つとされる政権交代の度に行われる高級官僚の更迭・左遷・休職。
中でも、各県知事に任命される内務省官僚は栄枯盛衰が激しい。
地方警察権力を恣意的に動かせる知事職は、事と次第によっては選挙結果を左右しかねない存在として、政党からは重要視されると同時に危険視されており、政党にしてみれば、何とか自党に近い人物を地方知事に任命し、自党有利に選挙介入を行わせたい、というのが本音だった。
今、川崎らが提出したいくつかの省庁にまたがる官僚達の名簿、それは前回総選挙において“反”或いは“非”民政党的な態度を示した官僚達であり、旧・政友本党のシンパや、その背後にいた田中義一現・陸相と水面下、手を結んでいた平沼騏一郎に近い者、或いは民政党に対し、何かしらの含むところのある人物達であった。
「浜口君、僕としては官僚達の対し身分保障規定を設けない限り、彼らに中立を守らせる事は出来ないと思うよ。彼らとて人間だ。あっちの党の政権になれば、己の身が危ない。こっちの党ならば出世間違いなし、なんて事がある限り、右顧左眄するのは仕方が無いよ。それを許す政党の方が悪いのだ。君だって元は大蔵官僚だ、分るだろう?」
浜口の長年の友人であり、政治ブレーンでもある貴族院議員・伊沢多喜男が浜口に対し、官僚達への処分を思いとどまる様に忠告する。
伊沢は内務省出身の政治家であり、同じく内務省上りの江木翼や床次竹次郎同様、退官後も依然として古巣の省に対し、隠然たる勢力を持っている。
この度、貴族院における民政党系勢力構築の功を浜口に認められ、台湾総督に親補されており、この日は、その新任地・台湾へ旅立つにあたって挨拶に訪れていたのだった。
丁度、その面談の最中に湯浅以下内務省三役が「火急の案件につき……」とばかりに横から割り込む様にして浜口への面談を求めて現れたものであり、所詮は“私用”に過ぎない伊沢らと、内務省職員の正規の“職務”、浜口にとってどちらを優先すべきものであるかは自明の理であり、伊沢らとの面談中にも関わらず、内務省三役を執務室に通したのだった。
野党・憲政会時代に総裁・加藤以下の面々が選挙の度に感じた口惜しい思い……。
それを浜口は忘れていない。
与党・政友会の影響下に置かれた当時の内務省は、各都道府県知事に親・政友会系内務官僚を配し、まさしく絶大な権力、影響力をもって選挙介入を行い、地方における政友会絶対優勢な地盤を構築する事に大きく寄与した。
これに対し憲政会が都市部で勢力を伸張させたのは、有権者の絶対数が多いが故に、内務省経由の選挙干渉が地方ほどには功を奏さなかった故でもある。
政党による内務省支配は政権与党として絶対的に必要な事柄……無念の臍を噛み続けた当時の悔しさを思えば、浜口がその思いに憑かれていた、としてもやむを得ない事であっただろう。
「伊沢君の言いたい事は分るけど……あ、いや……」
そこまで浜口は口にし、ある事に気が付き、急速に言葉を濁す。
伊沢と共に新任地への旅立ちにあたり、挨拶に訪れたもう一人の人物が目の前にいる事を思い出したのだ。
浜口は、慎重に言葉を選び、己の欲深さを相手に気取られぬ様に欲望とは正反対な事を口にする。
「湯浅次官、今は連立政権だ。この名簿の中には民政党寄りでは無かったとしても、自由党寄りの考えを持つ人間もいるだろう? 彼らを処分すれば、政権内に入らぬ亀裂を生じる事になる。そうでしょう、犬養総裁?」
「ふん。別に官僚に怨みを買ったところで、今更、夜道が暗くなる訳じゃあるまいよ」
伊沢同様、朝鮮総督に親補された犬養毅に向け浜口が問い掛けると、犬養はソファに座ったまま、面倒臭げに返す。
その声音には、毒もあり、棘もある。
そこには如何にも「何で、俺が浜口のところに挨拶に行かなきゃならんのだ?」という強い不平を滲ませている様だった。
民政党副総裁・浜口雄幸、そして自由党総裁・犬養毅。
世評が面白おかしく書き立てる記事によれば、この両者、今や政界きっての『犬猿の仲』とまことしやかに噂されている。
そしてこの度の犬養の異例ともいえる朝鮮総督親補の陰に浜口の強い意志が存在した事を嗅ぎつけた自称・政界通達は、浜口のこの動きに対し、実に簡単明瞭なる理由を持って、その辺の事情をそれぞれの論壇において説明していた。
それ即ち「厄介者払い―――」
連立与党の一方の雄・自由党を率いる身でありながら、秋の国会冒頭から舌鋒鋭く政府の政策を生ぬるいと断じ、その無策をなじり続けた犬養と、これに対して、閣僚席に座る浜口が幾度となく激昂して反駁する姿が新聞紙面を賑わせている昨今……。
連立とはいえ、与党総裁の立場でありながら野党党首時代そのままの様な犬養の自由奔放な態度には少なからず、限度を超えたものがあり、その政府批判に対して閣僚の一員として反論の先陣を切る浜口やそのシンパの者でなくても、国会内における犬養の不遜で頑迷な態度に対しては反感を抱いている者も実は多い。
もっとも世評では
「さすがは狂犬、川面にうつる自分の姿にさえ吠えかかるわ」
などと囃したてる者も多く、やんやの喝さいを浴びてはいるのだが……。
とにもかくにも、犬養毅は間もなく第四代朝鮮総督として同地に赴任する。
そしてそれは「いっぺん、頭を冷やして来い」という浜口の怒りに満ちた恣意的な人事の結果だ、と世間ではみられていたのだった。
湯浅以下、内務省三役の勧めに従い、『反・民政党』と旗幟を鮮明にした官僚グループを更迭したい気持ちをグッと堪えた浜口は、盟友・伊沢の方を向くとごく自然な感じで語りかける。
「伊沢君、僕は別に彼らを処分する気は無いよ」
「あぁ、それが良いよ。君ならそれが出来る」
小さく頷きながら答える伊沢、彼は別段、彼ら反・民政党系官僚グループを庇いだてしている訳ではない。
ただ単に議会政治の悪弊の一つともなっている人事権の濫用、それによる報復の連鎖を断ち切ろう、と考えているだけだ。
しかし、この言葉に驚いたのは、机の前で直立不動の姿勢を示している湯浅と川崎、丸山の三者だった。
彼らは、その言葉に愕然とし、口々に浜口に対し翻意を促す。
「処分をしなかったからと言って、民政党に恩義を感じ、支持に回る連中ではありませんが……」
「処分を行わなければ、民政党支持に力を尽くした者達から不信を買うかと……」
浜口は彼らそれぞれの主張を聞きながら、眼鏡を外し、深い縦皺のよった眉間を指先で揉みほぐす
「湯浅次官、川崎局長。僕は怨みを買ったり、恩を売ったりしてまで官僚達の支持を得ようとは思っていないんだ。伊沢君が言った通り、官僚は中立であればいい。それ以上は望んでいない」
改めて眼鏡をかけ直すと、浜口は目顔で三者に対し「すまない」と言いつつ、更に言葉を続けようとする。
「大臣閣下、しかし……」
顔面を蒼白にさせた川崎が浜口の言葉を遮る。
当の浜口は連立与党に気を遣っての処分保留、たまたま同席していた伊沢が処分見送りを主張し、犬養は自由党に近いと見られる官僚達の処遇を弁護するどころか、好きに処分すればいい……といった態度。
予てより『官僚の身分保証制度導入』を主張している伊沢の態度は理解できたし、憲政会以上に苦渋を呑んできた生粋の野党出身者であり、他党、自党シンパに関係なく官僚という存在全てを嫌っている事で知られる犬養が、過去の姿勢、行状にこだわっての処分実施に興味を持っていない事も分る。
しかし、それでは困る。
民政党を支持した湯浅以下、内務省三役としては、ここは何としてでも民政党に処分に応じてもらわなくては困るのだ。
応じてもらわなくては、彼ら民政党シンパは省内の実権を握れない。
このまま旧・政友本党シンパが各省内に居座り続ければ、折角、民政党を支持した彼らの立場は相対的に弱まり、いまだ去就を決めていない中堅・若手の官僚達から思わぬ軽侮を買う事にすらなりかねない。
「民政党を支持しても論功行賞がないのでは、今後、支持する気にはなれない」
「なんだ、民政党は政友本党シンパに手が出せないのか。随分と意気地が無いな」
などと噂が立てば、民政党シンパの頂点に立つ三役、最早、省内を統制する事など不可能になる。
川崎は尚も執拗に処分を求め、反論する。
政治家には政治家の流儀があるように、官僚にも官僚の処世術があり、好むと好まざるを得ず、高級官僚ともなれば何れかの政治勢力と結びつくのは当たり前。
勝ち馬を見極め切れなかった無為無能な者達には、相応の報いがあってしかるべきではないか……。
「じゃあ、聞くがね……山本さん、床次さん辺りが、もし内務大臣の職についていれば、今、ここに君達はいただろうか?」
浜口は諭す様に語りかける。
「そうはなるまい? 今頃、民政党の支持者として休職を命ぜられるか、地方へ飛ばされているか……僕が、ここに座っているのは大臣の椅子を巡る政党同士の駆け引きの結果によるものに過ぎない」
自分達が選挙に勝たせてやった……そう信じていた川崎達の表情が、浜口の発した言葉によって凍りつく。
「官僚の身分保障規定、これに関しては僕の代で決着をつける。官僚の皆が先々、選挙や政変の度に己の身の振り方で悩む事が無いようにしたい。幸い次の総選挙まで時間はあるからね。それまでには官僚が政治的に中立の立場を貫けるようにしておきたいと思う。それでいいね? 伊沢君、犬養総裁」
「そうしたまえ、大臣。不肖伊沢、何なりと協力させて頂こう」
「選挙まで時間があるかどうかは分らねえが、大臣はあんただ。好きにやりなさるがいい」
「ありがとう、御両所」
今や貴族院の実力者である伊沢多喜男と、連立与党総裁・犬養毅の快諾を得た浜口は、内務省三役に対し、反・民政党官僚グループに対する処分保留の決定を告げる。
しかし、湯浅らは引き下がらず、ならばこれならどうだ、とばかりに喰い下がる。
「身分保障規定の一件につきましては、私共と致しましても閣下の御見識に賛意、そして謝意を表します。しかし、残念ながら先程、名を上げました者達……彼らが単純に政友本党を贔屓した者達であれば何の問題もありません。閣下の計らいに感謝こそせぬでしょうが、官僚として襟を正す筈です。しかしながら、彼らは政党政治、即ち議会政治そのものに対する深い疑念を持ち、少なからず伊国流の全体主義的な手法に期待を抱いている者達です。このまま放置すれば、必ずや議会政治にあだなす将来の禍根となりましょう」
「彼らが官僚主導を目指す第二の山県閥になると……?」
執拗に処分を求めた湯浅次官の重大な示唆に、浜口は露骨に不快な表情を浮かべ問い返す。
「はい、その可能性は十分にあります。彼らはいずれも帝大出の俊才秀才揃い。能力も高いですが、誇りはそれ以上に高く、権力への欲求も強い者達です。閣下が人事を恣意するのは嫌だと言われるのであれば『左遷せよ』とは申しませんが、世間の荒波に揉まれる経験をさせるのが、彼らにとって良い薬になるのではないかと考えます」
「荒波……ねえ」
『第二の山県閥誕生』という自らが発した言葉は、浜口の心底を相当に揺り動かしたようだ。
明治期から大正期にかけて、どれだけ多くの議会政治家が山県有朋の前に無念の涙を飲み、悔しさに拳を打ち振るったか、それを知る浜口だ。
かつて議会政治家にとって恐怖の対象であった山県閥、即ち陸軍、枢密院、貴族院にまたがる大連合の、その力の根源が優秀な官僚団にあった事は今更、言うまでもない。
「このまま彼らを中央に残せば、自らの身分を不可侵なりと増長し、夜郎自大となるだけの事。如何でしょう? ここは一度、彼らを外地に出しては……?」
「……外地、か」
湯浅、川崎の言葉にしばし考え込んだ浜口の横から伊沢が口を挟む。
「浜口君、僕は基本的には反対だよ。しかし、民政党勝利に尽力してくれた湯浅君や川崎君の言わんとする事、立場も分らん訳ではない。だがね……何と言っても優秀な彼らをそのまま外地に出したならば、これを左遷と思い、怨みを抱いて腐りかねない。だから、もし、出すならば昇進させた上で出すようにした方がいいと思う。昇進した上で短年期の外地勤務という事ならば、送り出された彼らとて文句はあるまい? いいかい、これは、長年争ってきた官僚と政治家の言わば“手打ちの儀式”だ。後は君の力で、身分保障規定さえ明文化してしまえば、悪しき輪廻は絶たれる。いい機会じゃないか」
「伊沢君が、そう言うなら……分ったよ、彼らにはしばらく外地に出てもらいましょう。連中が腹の底で議会政治に対し、含むところがあるとは言え、有能である事に間違いはないのだからね……。伊沢君、君の赴任する台湾総督府の方で然るべき役職を用意してくれるかね?」
浜口の出した結論に、伊沢は頷き、何らかの形で省内から反・民政党グループを駆逐するという目的を達した湯浅、川口、丸山は不満を残しつつも深々と一礼し、この決定を是として受け入れる意を表した。
「あ、いや……連中は一人残らず、うちで引き取る。文句は言わせねえ」
横から突然、口を挟んできたのは、犬養だった。
羽織の袂から煙管を取り出し、いよいよ、この場に長居することを決めたらしく、ゆっくりと先に刻み煙草を詰め始める。
「うちって……自由党で? それとも朝鮮総督府で?」
「総督府の方だよ……何しろ、俺は現地の事は右も左も分らねえ。下岡君がいつまでもいてくれる訳でもないだろうしな」
犬養が口にした下岡君とは、下岡忠治の事であり、朝鮮総督府の副総督ともいうべき政務総監の地位にある人物の事だ。
この下岡忠治、中学時代(第三高等中学)の同級生に浜口雄幸、幣原喜重郎、伊沢多喜男の三者がおり、その影響からか法制局官僚から憲政会代議士に転じ、現在は民政党代議士でもある。
学業成績は、その優秀ぶりで知られた『三中四人組』の中でもずば抜けた存在であったが、閨閥の関係から山県閥に属していた事があり、それが原因で憲政会時代においては加藤高明から睨まれて頭角を現す事が出来ず、政界においては同級生三人に対し大きく遅れをとっていた。
その重石と言うべき加藤高明亡き今、ようやくにして政界で実力を示す機会に恵まれたと言える下岡は、外地勤務から政界中央への一日も早い返り咲きを願っているに違いない。
「そこで、こいつら優秀だって評判の連中が欲しい訳だよ。どんな優れた政策を政治家が考えたって、それを実際に動かすのは官僚だからな」
「……そうですか」
浜口は、喉元まで
(木堂さん、あんた、今度は何を思い付いたんだい?)
と出かかったが、口をついて出て来たのは、当り障りのない間抜けとも言える一言だった。
「議会政治を嫌っているとか、全体主義を目指すとか、国粋主義者だとか……まぁ問題はあるだろうが、それだけ骨のある連中だって事だろう。そいつら、俺が貰っても構わねえよな?」
「好きにしたらいい。彼らの所轄大臣には話を通しておこう」
浜口は目で犬養に
(後で訳を話せよ……)
と伝え、会談の終了を合図した。
内務省三役が辞去し、夕刻には台湾へと旅立つ伊沢も去った。
内務省大臣室には、犬猿の仲と噂される二人が残され、大振りなソファに身を持たせかけたまま、互いに互いの顔を見て苦笑しあう。
「ふぅ……なんとも喧嘩腰ってのは、疲れるな」
紫煙を大きく吐き出し、至福の一服を楽しむ犬養のぼやきに、やかんに作られた麦茶を寿司屋の湯呑み二つに注ぎながら浜口が声無く笑う。
湯呑みの一つを犬養の前に差し出し、浜口は自らもぬるい麦茶を飲む。
「伊沢君に黙っているのは気が引けるな。何と言っても彼とは四〇年来の友人だからね」
「俺だって尾崎に言えねえ時は辛いよ……だが、もう少しの辛抱だ」
この国に政党政治を根付かせる為に、対立関係を演出し合っている二人、感ずる苦労は一緒なのだろう。
「で、新官僚の連中つれて、木堂さんは何をやろうとしているんだい、朝鮮で……」
「別に連中がいてもいなくても関係はねえがよ……いたらいたで便利だってだけさ。それに威張り腐った頭のいい連中を顎で使うってのは気分がいい」
犬養はカラカラと陽気な笑い声を上げる。
「そうじゃねえよ、木堂さん。あんたは、朝鮮で何をやろうとしているんだ、って聞いているんだよ」
犬養から「朝鮮総督に推薦してくれ」と親補の斡旋を頼まれた時、浜口はその希望に不信を抱きながらも協力し、各方面に話を通し、この官僚経験のない根っからの政党人の為に道を切り開いた。
だが、理由は知らない。
幾度となく浜口は問い質してみたものの、犬養は
「タネを知っている手品を見たって、つまらねえじゃねえか」
などと戯れては、はぐらかし続けてきたが、いよいよ明日には朝鮮へと向かい旅立つ以上、その真意だけは聞いておきたい。
「しょうがねえなぁ……」
そう犬養は面倒臭げに呟くと、面前で詰め寄る浜口に対し、辰巳芸者が心底、惚れこんだと言われる自慢の玉声を披露した。
「嫌なお人の親切よりも、好いたお人のいけずが良い」
それは古くから伝わる都々逸の一節であり、花柳界に身を沈めた女性の微細な心根を唄ったものだった。
「今の朝鮮は、正にこの歌の通りだろ?」
犬養は麦茶で喉を湿らせると再び煙管を咥え、語り始めた。
明治四三年(1910年)八月の韓国併合より14年。
まがりなりにも、当初激しかった独立運動も三・一運動以降、現総督・斎藤実海軍大将が推し進める文治主義的な統治政策により、徐々にではあるが表面上は下火になりつつある。
だが、下火になっただけで消えてはいない。
「そりゃあ、当たり前だろう? 浜口君」
どんなに予算を投下し、教育を施し、治安を向上させ、鉄道を敷き、治水灌漑を行って食糧の増産に寄与しようと、他民族が他民族を支配している以上、不平不満が消え去る訳がない。
どれほど日本人が美辞麗句を並べ立てて、同化政策など行ったところで朝鮮民族が日本に感謝などする訳がないし、感謝を期待したところで、それこそ彼らからしてみたら「嫌なお人の親切」に過ぎないのだ。
被支配民に限らず、人間という生き物が待望するのは「好いたお人のいけず」の方だ。
「だったら何かね? どんなに親切にしたところで感謝されないなら、今から欧米流の植民地支配にでも切り替える、というのかね? それとも、彼の地の近代化を中途で放りだして李王家復権を認め、独立させろ、と?」
浜口は怪訝な声音で問い質す。
前者に関して言えば、植民地解放を信条とする犬養毅ともあろう男が、まさかその様な事を言い出すのか? と思ったし、後者に関して言えば、日本の韓国支配を「同君連合」と理解し、国際法上、承認・支持を行った世界各国の笑い物になってしまうのは間違いない。
「違うよ、違う。俺は朝鮮の民に、紛い物じゃねえ本物の『好いたお人』を教えてやりに行くんだ」
「好いたお人……? おい、木堂さん、あんた、まさか!?」
犬養の狙いを察知した浜口は、呻く様に喉の奥から驚愕の悲鳴を絞り出す。
「そうよ……その、まさかよ」
答える犬養の脳裏には、名も知らぬ、顔も分からぬ少年の朧な姿が濃い霧の向こうに一瞬、浮かび上がり、そして瞬く間に消え去っていく。
それは二月事件のおり、己の身を盾として凶弾から犬養を護ってくれた、あの少年の姿だった。
犬養毅、齢六九歳、アジア主義者。
後に『東洋のヒトラー』と呼ばれた不世出の扇動政治家。
その老いて落ち窪んだ双眸には狂気にも似た熱情が宿りつつあった。