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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
64/111

第9話 革命の使徒

本話は時系列が進んだり、戻ったりしながら、進んでいきます。

少し読みづらいと思いますが、読まれる際には、場面ごとの時刻に注意して頂けると幸いに存じます。

1924年9月20日 午後2時

ソビエト連邦 モスクワ

クレムリン宮殿内 全連邦中央執行委員会館


 灰色と黄色の奇妙に相性の良いコントラストに塗り分けられた全連邦中央執行委員会館ビルの最上階からは、宮殿の赤い外壁越しに『赤の広場』を見渡す事が出来る。

その『赤の広場』では、来る11月7日に行われる革命記念日恒例の軍事パレードに向け、モスクワ周辺に駐屯する赤軍の中でも精鋭とされる師団が行進の練習を絶え間なく行い、そのキビキビとした規則正しい軍靴の音は、それを聞く者全ての気分をそこはかとなく高揚させてくれる。


 まるで寝癖の様な髪型のレフ・トロツキー政治局員が午後2時きっかりに党政治局定例会議の行われる全連邦中央執行委員会の一室に顔を出した時、既に室内には他の局員達が顔を揃えていた。

「2時からだと聞いていたが……聞き違えてしまったかな? お待たせした様で申し訳ない」

左脇に本日の議題となる案件をまとめた書類の束を抱えたトロツキーは、足早に室内へと歩を進め、自らの指定席であるヨシフ・スターリン共産党書記長の左横に向かおうとして、少なからず驚いた表情を見せる。

 軍事人民委員部(国防省)、外交人民委員部(外務省)の両委員会を委員長として束ねる彼が座るべき席には、何故か軍事委員会副委員長として赤軍第三位の指揮権を持つクリメント・ヴォロシーロフ政治局員候補が誇らしげに座り、その横では赤軍第二位の指揮権者・参謀総長ミハイル・フルンゼ政治局員が対照的に露骨な困惑の表情を浮かべながら、赤軍第一位の指揮権者トロツキーに対し、目線を合わせるのを意識的に避け、机上の何でもない一点を注視したまま、微動だにしない。

 政治局員であるフルンゼが出席しているのは当然であるが、ヴォロシーロフは格下の政治局員候補に過ぎない。

逆U字型に並べられた簡素でありながら巨大な会議机の議長席で、薄ら笑いを浮かべた顔をしながら座っている実力者、スターリン書記長の腹心とは言え、本日は共産党政治局員のみが出席を許された局員会議であり、この栄誉ある席に彼が椅子を連ねて良い筈もない。

実際、国家元首とされる全連邦中央執行委員議長ミハイル・カリーニンでさえ党内序列でいえば一介の政治局員候補に過ぎず、この場に出席を許されていないのだ。

「……おやおや」

自らの席を部下に占有された怒りを抑えこんだトロツキー、彼が呻くように発した言葉は、その場にそぐわないほど間抜けなものだった。

 獲物に会議の開始時間を、わざと遅い時間で通知し、遅れて登場した獲物が己の席が無い事に気が付いた瞬間より、ソビエト共産党政治局の失脚劇は幕を開け、自己批判により幕を閉じる。

その嚆矢となった会議が、この日の政治局員会議だった。





午前11時

クレムリン宮殿内 最高国民経済評議会長室


 “チェーカーの父”フェリックス・ジェルジンスキーは政治局員であると同時に秘密警察『内務人民委員部(内務省)附属・国家政治局』の長官であり、また、最高国民経済評議会の二代目議長としてソ連の経済政策を所掌している。

他国でいうところの『大蔵大臣』である彼は、当然ながらクレムリン内に一室を与えられており、そこでウクライナ産のイチジクジャムがたっぷりと入ったロシアン・ティーを楽しんでいた。

いや……正確には、楽しんではいなかっただろう。

この日、彼がスターリンから依頼された役目の重さを思うと、気分は少なからず沈む。

数日前、口髭だけが立派な小男はジェルジンスキーに対し、事もあろうに

「次回政治局定例会議の席上においてトロツキーに対する批判の先陣を切れ」

と要請してきたのだ。


 レーニンの死後、党を握るスターリンと、赤軍を握るトロツキー、この両者の関係は悪化の一途を辿っていた。

 権力に執着することにおいて、他者の追随を許さないスターリンは、故レーニンの盟友である政治局員グレゴリー・ジノヴィエフ及び、スターリンを書記長の座に据えた恩人の古参ボリシェビキ、レフ・カーメネフらと結びトロツキーに対抗する勢力を現在、築きあげつつある。

 対するトロツキーは干渉戦争の英雄として名高い、天性の名将ミハイル・フルンゼを政治局に招き入れ、これと対抗していた。

 本来であれば、他国でいうところの内閣総理大臣にあたる人民委員会議議長アレクセイ・ルイコフが両者の仲裁役と成り、指導力を発揮すべきところなのだが、拮抗した両者の権力、勢力を読みかねたのか、ルイコフは陰湿な権力闘争に目を背け、己の役目である行政府の長として以上には動かず、そのルイコフに近い政治局員ニコライ・ブハーリン、ミハイル・トムスキーも今はただ、傍観者としての立場を守っている……というのが、現在のソビエト首脳部の状況だった。

 

「今のソビエトにとってトロツキーは危険人物だ」

繰り返し、そうジェルジンスキーの耳元に悪臭のする吐息と共に語り続けるスターリンの言葉、それに関して言えば、彼は「全くの同感」だった。

『終わりなき革命』を持論とし、『永久革命論』を唱え、世界各国への革命の輸出を推し進めるトロツキーの発想自体は刮目に値する。

しかし、いまだ革命に伴う内戦、それに続く干渉戦争に疲弊したこの国に他国の革命を支援する実力を未だ有してはいない。

無論、理論的な指導、組織化や宣伝のノウハウ伝授という程度の事ならば出来るが、資本主義社会を擁護する各国政府は、いずれも共産主義に対する重大な懸念と不安を抱いており、国内の左翼勢力が合法的に活動しようにも、何かと理由を付けて介入し、弾圧を繰り返し、その様な行為をおめおめと許す筈もないのが現実だ。

選択肢として残るのは、非合法な武力革命という道であり、その道を行くには何よりソ連本体が列強の干渉に対抗し得るだけの盤石な体制を持たなくてはならず、それが整った上で資金提供や武器援助の実行となる訳だが、世界に冠たる金持ち国家・米国とは国交回復交渉すら行えず、干渉戦争時、白軍最大の後援者だった仇敵・英国にまで借款を申し込まざるを得ない様な現状では、それも実に先の長い話だ。

ソ連国内の経済は今、はっきりと混迷している。

その事を誰よりも知っているのは、最高国民経済評議会長である彼自身だった。


「トロツキーの理論も、その実力も認める。しかし、今はその時ではない」


 「初めに革命ありき―――」

トロツキーの思想を一言で評すれば、この言葉に表されるかもしれない。

それは、世界中の国という国で革命を起こし、全ての国家が共産体制となった後、経済の事など考えれば良い……という革命至上主義だ。

 これに対し『一国社会主義』を主張し、対外的には融和政策を推し進め、国内的には強力な中央集権体制を整備し終えた後、国外における革命支援に乗り出そう……と考えるスターリンの主張の方が今のジェルジンスキーには、より現実的な選択だ、と思える。

今日、スターリンの要請に従い、トロツキー批判の口火を自分が切り、彼を失脚に追い込めば、この国は危険な対外干渉に身を挺す事も、その成果に気を揉む事もなく、当面の間、自国経済の再建とプロレタリア独裁体制への移行に専念出来る……。

カップの底に微かに残ったイチジクジャムを指先ですくい取り、それをしゃぶりながら、ジェルジンスキーは己が何をすべきか、深く沈思する。




午後2時10分

クレムリン宮殿内 全連邦中央執行委員会館


 議場に姿を現して10分余りの時間、ただ一つの席も己に空いていない事を確認したトロツキーは、ややヒステリックな口調で、不遜にも自分の席に居座るクリメント・ヴォロシーロフを批判し、同時に、同盟者であるミハイル・フルンゼ政治局員に対し、この不届き者を即座に排除せよ、と命ずる。

しかし、フルンゼは相変わらず困った様な表情を浮かべたまま、微動だにしない。

トロツキーの存在など、まるで気が付いていないかの様に。

党指導部きっての弁舌の名手と評判のトロツキーではあったが、その評価に相応しくないほど、聞くに堪えない様な下卑た言葉を矢継ぎ早に吐き出し続け、強気な口調ではあったが、その精神は明らかに狼狽しきっており、その醜態ぶりには、中立的な姿勢を取り続けているルイコフ、ブハーリン、トムスキーの三者でさえ苦々しげに眉をしかめている。

 「頃合いや良し」と見たジェルジンスキーは、やおら席から立ち上がると、痩せこけた長身をゆっくりとトロツキーに向ける。

“革命の剣”と畏怖されるこの男、決して弁の立つ方ではないが、一度、やると決めれば生まれ持った本来の攻撃的な性格そのままに徹底している。

トロツキーの唱える『永久革命論』を批判し、彼の過去の行状を批判し、レーニン晩年における対立行為を批判し、果ては女好きで知られる彼の放蕩な私生活にまで、その批判の網は伸び続ける。

逆U字型のテーブルの中央部に丁度、歩を進めていたトロツキーは三方向から政治局員達に見つめられる形勢となっており、室内において、ただ一人、立たされている現状は、それだけで精神的な拷問に値する。

その上、これまで党内権力闘争からは無縁の存在と誰からも認められ、他の政治局員からも党員全てからも、厳正で、公正な、その性格に尊敬を集めるジェルジンスキーの唇から放たれる母なるロシアの雪嵐の様に冷たく、無情な批判の数々……。

これが、もし、他の政治局員からの生半可な批判であれば、故レーニンから“最高の人民扇動家”と激賞されたトロツキーの弁舌によって、難なく反撃され、遅いロシアの雪解けが如く、消滅していただろう。

だが、相手が悪い。

悪過ぎる。

その点において、スターリンの人選は完璧であり、最高の効果をもたらした。

削いだような蒼白い頬と額に、微かに汗を浮かべたジェルジンスキーによる情け容赦ない批判は2時間に及び、頬を震わせたトロツキーは俯き続け、頬を歪めてスターリンは微笑み続けた。




午前11時30分

クレムリン宮殿内 最高国民経済評議会長室


「嵐に備えよ……と言っていたな」

この年の二月、白ロシア首都ミンスク中央第一駅に停車した客車の中で密会した旧友ヨゼフ・ピウスツキの言ったその言葉が、ジェルジンスキーの心を捉えて離さない。

 あの日から日を置かずして、ジェルジンスキーはピウスツキの身辺に多数の密偵を送り込んだ。

ジェルジンスキーとてポーランド人、しかも彼の配下のGPU職員の大半は旧ロシア帝国秘密警察の出身か、ジェルジンスキーによってスカウトされたポーランド人によって占められている。

こと、ポーランドに潜伏する密偵の人選に関して、GPUが困る事は無い。

ジェルジンスキーは20名ものポーランド人密偵をピウスツキの周囲に送り込み、その過半は瞬時に正体が露見し、逮捕されたか、射殺される、という結果になってはいるが、そんな事は最初から織り込み済みだ。

大事なのは19人が死んでも、1人が入り込めればいいのであって、効率など考えていては秘密警察の職務など真っ当出来る筈もない。

そして、幸いにもピウスツキ私邸の料理人として紛れこんだ一人の密偵によって必要な情報は逐次、ジェルジンスキーの元に報告されていた。

『五月革命』と呼ばれるクーデターを子飼いの軍将校たちと画策している事は、それが起こる二カ月も前には掴んでいたし、彼が多くのウクライナ人独立運動家と親交を結び、ことシモン・ペトリューラとは『師弟関係』にも似た関係を築いている事も知っている。

それに加え、最近ではロシア大公ニコライ・ニコラエヴィッチやロシア帝国陸軍中将ピュートル・ヴラーンゲリ男爵らに率いられた白軍組織『ロシア全軍同盟』と積極的に親交を結んでいる事も掴んでいる。

「紅茶を淹れ直して参りましょうか?」

ジェルジンスキーは突然、秘書に話し掛けられ、少しばかり驚く。

どうやら思考の迷宮にはまり込み、秘書が入室してきた事にすら気が付かなかったらしい。

オデッサ出身のユダヤ人だというこの中年秘書は、先頃、その堪能な語学能力を買い、通訳として雇い入れたものだ。

実際、ロシアから足を踏み出した事のないジェルジンスキーは、母国語であるポーランド語、そして無論、ロシア語に関しては不自由なく話せたが、国際語であるフランス語、英語は共に不得手であり、彼の様な多国語を操れる人間は重宝だった。

「あぁ、頼む」

冷徹な性格で世間に畏怖されるジェルジンスキーではあったが、こと、身内であるGPU職員に対しては公正な上司以上の存在では無い。

退室する秘書の背を見送りながら、再び、その思考は旧友ピウスツキの元へと馳せる。

「己が為すべき事を為せ……か」

それは、旧友が去り際にジェルジンスキーに残した言葉だった。

「己……鉄拳ヨゼフは、私がまだポーランド人だと思っているのだな……」

片方の唇の端を吊り上げ、不気味な笑顔を表皮から滲みださせるジェルジンスキー自身の定義にしたがえば、自分は最早、ポーランド人ではなく、だからと言って帰化ロシア人な訳でもない。それら卑小な民族主義を超越した存在『ボリシェビキ』としてのジェルジンスキーが存在するのみだ。

「帝国の敗残者と手を結び、ウクライナの反動勢力を背後から操り、自らはポーランド騎兵十万を率いて再び、ソビエトに挑戦してくるつもりなのか?」


「その時、私にポーランド人として行動せよ……だと? 小さい。実に小さい男だ、貴方は……」


(長年に渡って虐げられてきたプロレタリア達、彼らの怒りの咆哮、それが貴方ほどの男の耳に届かないのだろうか?)


「ヴィスワ河の奇跡。あの時、スターリンがしでかした様なヘマを今の赤軍がするとでも思っているのか、貴方は……?」


秘書の淹れ直してくれた、熱いロシアン・ティーを口に運びながら、彼は退室していこうとする秘書を呼びとめ、しばらくの間、誰にも入室を許可しない旨を伝える。

寒い北国故に、人々はひたすら高カロリーを求め、その茶は異様なほどに甘い。

舌にべっとりと残る、くどいぐらいの甘さを堪能しながら、ジェルジンスキーは傍らの電話機に手を伸ばすと、交換手を呼び出した。




午後5時30分

クレムリン宮殿内 全連邦中央執行委員会館


 ジェルジンスキーによる二時間にも渡るトロツキー批判が終了した時、室内は異様な嗜虐の興奮に包まれていた。

統計データと表を用いた様な緻密なジェルジンスキーの弁舌は一分の隙すらなく、寸刻みに、そして秒単位でトロツキーの精神を苛み続け、平素、やたらと先輩風を吹かせたがるトロツキーを鼻もちならない奴……と思っていた一同の溜飲を下げ、日頃の鬱積した不満をぶつける好機だと考えた。

グレゴリー・ジノヴィエフが立ち上がり、次いでレフ・カーメネフも断罪の弁を放つ。

更にこの日、トロツキーと入れ替わる様に政治局員に昇格する予定となっているらしいクリメント・ヴォロシーロフまでもが、品性を疑いたくなるような下品な言葉による攻撃を放ち、その悦びに満ちた嗜虐の瘴気は、ルイコフ以下、中立派の精神まで侵し始めた。

会議室内に半ば監禁同然で、相手が無抵抗な事を良い事に、次々と罵声を浴びせる。

そこには、一億を超える民を指導する理想に燃えた誇り高き者の影すらなく、存在するのは、醜く、卑しく、浅はかな小人たちの合唱隊。

その指揮者であるスターリンは得意気にコンタクトを振りながら、ただ、ひたすら、ライバルの失脚に歓喜し、遠からず訪れるであろう自分自身の時代に向けて、讃美歌の作曲に余念が無い。


 突然、それまで悪童の集団に小突きまわされていた不幸な少年の様に、ただただ、立ち竦んでいたトロツキーが、歩き出す。

その予想だにしない動きに丁度、トロツキーへの批判の言葉を吐き出していたミハイル・トムスキーは弾ける様に後ずさり、声を上ずらせる。

しかし、トロツキーはそんな小心者トムスキーの方を一顧だにせず、そして、この失脚劇を仕込んだ仇敵スターリンに対してすら目を向けず、ゆっくりと、窓辺へと向かう。

6階建ての全連邦中央執行委員会館ビル、その最上階の会議室。

ボリシェビキ指導者としての未来を永劫に奪われた希代の野心家は、ゆっくりと、その腰高の窓を開け放ち、外界の澄んだ空気を淀んだ室内へと流し込む。


(……投身自殺!?)


その場にいた政治局員全ての心にその言葉が生み出され、その不吉な言葉は一部の者達の心中に歓喜の雄叫びを上げさせる。


(この場で自らの手で死んでくれれば、後々、煩わされる事は無い……)


モスクワの整然とした街並みを静かに眺めるトロツキーの後ろから、優しく、そっと押してやりたい衝動に駆られた何人かが、心ならずも腰を浮かしかける。



「レーフ! レーフ! レーフ!」

“ライオン”を意味する言葉を連呼する地鳴りの様な低音の声。

その地鳴りは、1秒ごとに拡大し、瞬く間に全連邦中央執行委員会館ビルの分厚い窓ガラスをピリピリと震わせる。

レフ・トロツキーは、窓辺から少しだけ身を乗り出すと、彼の名を呪文の如く唱える猛者達に対し、右手を高々と掲げる。

「レーフ! レーフ! 我らの指導者!」

「レーフ! レーフ! 我らの父!」

赤の広場で『赤軍の父』トロツキーに対し、拳を振り上げて歓呼の声を上げているのは革命記念日の式典練習に訪れていたモスクワ周辺に駐屯する複数の師団に属する将兵だった。

軽やかに右手を掲げ、彼らの歓呼に応えるトロツキーの姿を見た将兵は一層、興奮し、モスクワ郊外はおろかソビエト全土にまで届け、とばかりに歓声をあげる。

そして、その熱狂する将兵の最前列に一列となって並ぶ数十名の赤軍高級将校達、更にその列から一歩、前に踏み出した位置で一際、見事な敬礼でトロツキーの“査閲”に応えるのは赤軍参謀第一次長ミハイル・トゥハチェフスキー。

赤軍制服組を束ねる彼が、革命記念軍事パレードの行進練習に参加する筈はない。

この時、この場所に彼が存在している理由、それはただ一つ。

“赤いナポレオン”と、その配下の将校達の忠誠心がいったい誰に向いているのか? それを明らかにするためだった。


 開け放たれた窓から、奔流の如く流れ込んでくる熱狂的な歓声。

トロツキーの愛称を連呼する、その声を耳にした瞬間、スターリンは己の企てが失敗に帰した事を悟った。

「もし、このままトロツキーの弾劾を続け、その失脚を実現させ様としたならば……」

小心なスターリンにとって、答えは明らかだ。

トロツキーへの忠誠を無言のうちに表明した制服組高級将校達に率いられた興奮状態の数個師団数万の将兵、今、窓辺に立つトロツキーが一言「スターリンを殺せ!」と命じたならば、果たして彼らは躊躇うだろうか?

あり得ない。

躊躇う事など、断じてあり得ない。

将兵は隣家の生け垣を跨ぐよりも容易くクレムリンの赤い外壁を乗り越え、全連邦中央執行委員会館ビルの玄関を破壊し、その階段を駆け上がり、この政治局会議室に雪崩れ込んでくる。

結果、失脚よりもおぞましい結末を迎える事になるのは、他ならぬスターリン自身だ。

赤軍将兵の圧倒的、且つ狂熱的な歓声を背に受け、トロツキーはゆっくりと窓側に向けていた体躯を室内側へと向け直す。

その視線が、驚愕と恐怖に歪んだ表情を浮かべはじめた一同の顔をゆっくりと舐めまわし、最後の最後に宿敵スターリンの元へと辿りつく。

新たなる勝者は、その褐色の瞳で新たなる敗者の濃藍な瞳を覗きこむと、小さく咳払いし、ゆっくりと一語、一語、明確な発音で尋ねる。


「……それで?」


 スターリンはこの瞬間、自らが罠を仕掛けたつもりで、逆に罠を仕掛けられていた事を悟った。

どこからか、或いは誰からかは分からぬが、本日の目論見全てがトロツキー陣営に筒抜けであった事を悟った。

悟ると同時に、口中は異常な渇きを訴え出し、膝から先の筋力全てがごっそりと抜け落ちていくのを体感する。

今、スターリンに出来るのはトロツキー批判を行っている最中であったルイコフ派の一員、ミハイル・トムスキーを激しく面罵し、場違いな場所に居座る局員候補ヴォロシーロフを問答無用に叱りつけ、偉大なる勝者・トロツキーを擁護する為の論陣を張る事だけであった。




午前11時50分

クレムリン宮殿内 軍事委員会委員長室


 トロツキーがその電話を受けたのは、午後2時からの会議に備えて、キビと牛乳のカーシャにオクローシカ(細切り野菜と肉入りのスープ)で、少しばかり早い昼食を終えた時だった。

電話口の相手であるジェルジンスキーから告げられた内容に、トロツキーは内心、かなり動揺したものだったが、口調はあくまでも平然を装い、己が大人物であると見せかける。

だが、そんなトロツキーの努力など、“革命の剣”ジェルジンスキーという男の前では全く無意味な行い以外の何ものでもない。


「勘違いしないでもらおうか」


ジェルジンスキーの口調は、聞く者に一切、とりつく島を与えない。


「私は貴方の理論に共鳴した訳ではないし、貴方の勢力に与した訳でも無い。無論、貴方が軍指揮官として有能であると認めた訳でもない。ただ、ポーランド情勢が非常に敏感なものになる可能性が高いこの時期に、革命を守護すべき赤軍の指揮官が大幅に交替するという事態を未然に防ぎたいだけなのだ」


 国防大臣であるトロツキーが失脚すれば、予てよりその地位を狙っているカーメネフが後任に就任するのは間違いないし、同時にそれは赤軍参謀総長ミハイル・フルンゼ、参謀第一次長ミハイル・トハチェフスキー以下のトロツキーに近いと目される人物、或いは非スターリン派として知られる高級指揮官達は軒並み、更迭されるだろう。

結果、赤軍中枢は致命的な混乱状態に陥り、その隙をヨゼフ・ピウスツキ程の男が見逃す筈もない。

 率直すぎるジェルジンスキーの物言いに、トロツキーは思わず鼻白む。

トロツキーはジェルジンスキーという人物を終生、好きになれなかったが、それはジェルジンスキーにとっても同様だった。

自分自身の失脚計画を事前に通報してくれた“剣”に対し、感謝の言葉を贈っても意味が無い事をトロツキーは知っていたし、“剣”は剣で、そんな言葉を貰っても、一杯の火酒ほどの謝意も感じなかっただろう。

徹頭徹尾、公正である事を己に課した“剣”は、親スターリンでも無く、反トロツキーでも無い。

科学的な純水よりも遥かに純粋で混ざり物の無い心を持って、ただ、革命を守りたいだけなのだ。

トロツキーはそれを知るが故に、誰よりもジェルジンスキーを信頼できる人物と感じているし、その点において、恐らくは猜疑心の塊の様なスターリンでさえも同感だっただろう。

“剣”の唯一無二な存在意義はそこにあるのだ。

ジェルジンスキーとの会話を終えたトロツキーは、受話器を置かず、一分一秒を惜しむかの様に交換手に対し、赤軍参謀本部第一次長室へ電話を繋ぐように命じた。




午後12時

クレムリン宮殿内 最高国民経済評議会長室


 トロツキーへの密告は、スターリンへの裏切りだった。

だが、今、スターリンに同調することは、革命への裏切りとなる。

どちらを裏切るべきか、ジェルジンスキーにとって、その答えを迷う理由はない。

もし、ポーランド情勢に注目していなければ、彼はスターリンとトロツキーを天秤にかけ、どちらがプロレタリア革命にとって意味ある人物であるかを量り、危険人物よりも小心者の方に与していただろう。


「“鉄拳”ヨゼフ。今回ばかりは、貴方に感謝しますよ……」


 厨房から届けられたばかりの熱いカブとキャベツのシチー(スープ)に堅焼きのライ麦パンを浸して、柔らかくしてから口に運ぶ。

カブの辛味と、キャベツの甘味をたっぷりと吸いこんだライ麦パンが口中で崩壊し、なんとも言えない旨さを舌先に感じる。

 ジェルジンスキーとて、スターリンの粘着質な性格は知っている。トロツキーに密告した一件を根に持たれたら、先々の仕事がやり辛い。

その為には、自分自身が密告者だと露見してはならないし、それを露見させない為には、依頼された通りに徹底した弾劾をトロツキーに浴びせるつもりだった。

何の打ち合わせも行ってはいないが、その事はトロツキーにも分るはず……。


 もし、ポーランド軍や反動勢力に危険な兆候がある事を察知していなければ……とんでもない事態が起こっていたかもしれない。

その事を考えると、ジェルジンスキーは背筋に何とも言いようのない悪寒が走る。


―――― レーニンの死より8カ月。 

後継者争いに決着がつく筈だった今日の政治局員会議であったが、スターリンの根回しは不発に終わり、トロツキーは失脚せず、ルイコフは沈黙を守り続ける。

共産党、赤軍、行政府のパワーバランスは均衡を続け、今後も三者は主導権を掌握すべく更なる暗闘を続ける事になるだろう。

 しかし、ポーランド軍と白軍、ウクライナ独立軍による侵攻計画を前にして、その三者の対立など何の意味がある?

祖国防衛の為、必ずや三者は一致協力し、団結し、立ち向かってくれる筈だ、と信じたい。


「己の為すべき事を為せ」


(これこそが“剣”の為すべき事だ)


祖国を捨ててまで、赤い革命に忠誠を誓った一人のポーランド人は、そう思い、願った。




ポーランド・ワルシャワ

共和国首相兼国防相 

ヨゼフ・ピウスツキ国家元帥 私邸


 ジェルジンスキーの身辺を監視する役目を帯び、秘書として送り込まれたユダヤ系英国人諜報員シドニー・ライリーから送られた報告書に目を通しながら、“鉄拳ヨゼフ”は、遠くモスクワにいる“物知りフェリックス”の行動に対し、満足気に頷き、その報告書を参謀本部諜報局から来たフェリックス・ブレキスウインスキー陸軍少佐に対して返すと、処分を命じた。


「ソビエト国内の権力闘争は長引きそうです……お陰で貴重な時間を稼ぐ事が出来ました」


 処分するのを惜しむかの様に報告書をチラッと見たブレキスウインスキー少佐は、主の策略に敬意の念を新たにしつつ、それを暖炉に投げ込む。

「我々の準備が整うまで……せいぜい、彼らには頑張って貰わなくてはな……」

「はい。しかし、“かの”ジェルジンスキーをペテンにかけるとは、閣下の御慧眼、恐れ入ります」

「なに、別にたいしたことは無い。“物知りフェリックス”は子供の頃から、ひと一倍用心深く、疑り深い男だった。人を信じる前に疑う様なロクでも無い小僧が、そのまま成長すれば、どんな男になっているか……想像するのは難しくない。意味あり気な謎かけをすれば、後は勝手に踊る」


『嵐が来る』

『為すべき事を為せ』


 旧約聖書にでも出てきそうな、どうとでも受け止められる言葉を与えれば、猜疑心の強い人間は勝手に相手の裏を読み、満足する。

後は、逐一、情報を小出しに漏らしてやれば、存在しないパズルのピースを求めて、相手は納得できる答えが出るまで彷徨い続ける。

重要なのは、相手の“知りたい情報”ではなく“信じたい情報”を漏らす事だ。

それでこそ、相手はよく踊る。


 ピウスツキの言葉に一礼し、敬意を表したブレキスウインスキー少佐は一旦、部屋を辞去するが、数分を経ずして直ぐに戻ってくる。

今度は、一人では無く、警備の兵に囲まれた男を伴っている。

ピウスツキは男の名を知らない。

知る必要もない。

男は、チェーカーがピウスツキの私邸に料理人として送り込んだ密偵だ。

長期にわたる拷問の結果だろうか、鎖に繋がれた男の顔は変形と変色を繰り返し、片眼は白く濁り、黒目が消失している。

警備兵に膝の後ろを蹴られた男は、その場に崩れる様に前のめりに倒れ、一房しか残っていない髪の毛を荒々しく掴まれ、無理やり上半身のみ反らされる。

少佐は、男の前に膝をつくと、いつもの様にジェルジンスキーへの定時連絡を命じ、抵抗する気力一切を失った男は、本数の足りなくなった指先で無線電信機に暗号を打ち込む。


「ピウスツキはソビエト指導部の固い結束に怖れ慄いている、とでも入れておけ」


 暗号解析能力に関してならば当代随一と言って良い能力を持つポーランド軍参謀本部諜報局は、既にほぼ完璧な形でソビエトの外交暗号も軍事暗号も解読している。

もし、男が命令に反した通信を送ろうとすれば、諜報の専門家である少佐には直ぐに分るのだ。

無論、少佐自身が代わりに通信を行う事も可能だったが、この場合、男を生かしておく為に微かな希望を与え続ける事に意味があるのだ。

男は常に監視の兵や少佐の目を盗んで、主であるジェルジンスキーに真実を送ろうと企み続けており、それが今、男に死を躊躇わせているたった一つの理由だった。

殺すのは簡単だったが、もし、殺してしまってから、モスクワより何らかの問い合わせがあった場合に応えられなければ、男のふりをしているのがバレてしまうかも知れず、結果、それは全ての漏らした情報が操作だと知られてしまう可能性がある。

隣国の危険な国家指導者であるヨゼフ・ピウスツキ、その身辺に密偵を送り込んでいる、という無上の安心感をジェルジンスキーから奪ってはならないのだ。


「スターリンだろうが、トロツキーだろうが、ルイコフだろうが、今はまだ強力な権力者などに出現されて貰っては都合が悪い。頭が多ければ多いほど、足の引っ張り合いに、さぞかし熱中してくれる事だろう」


 政府は軍に予算を回さず、軍は党に忠誠を誓わず、党は政府の政策や人事に横車を押す。

いまだ戦争準備が出来ていないポーランド以下ウクライナ独立派、ロシア全軍同盟としては、一日でも長く、ソビエトの権力構造が複雑なままで存在し、軍・党・政府の三者が互いに牽制し、掣肘し合っている方が望ましい。


「火種は燻ぶり続けてこそ価値がある。一度、燃え上ってしまえば、消されるだけなのだからな……」


不幸な囚われの密偵を醒めた目で観察しつつ、心に一欠けらの憐憫の情さえ浮べず、ピウスツキは熱いピュトヌイを喉に流し込む。

来るべき『その日』が来るまで。




 トロツキー失脚せず。

世界に革命を輸出する事を己の使命だと信ずる“革命の使徒”レフ・トロツキー、彼はこの日、単に失脚を免れただけでは終わらなかった。

赤軍制服組が旗幟を鮮明にした結果、彼の権力基盤は著しく強化される事となったのだ。

 自分の砂場で、人民の生命を弄ぶ事を権力だと思い込んでいる様な男と、輸出品目録の一番上に『革命』と記入する様な男、そのどちらがより危険で、より脅威か。

後に資本主義世界は身を持って知る事となる。


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