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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
62/111

第7話 フライコール アプヴェーア

ポーランド共和国・南東部

ガリツィア地方 中心都市リヴィウ


 茫漠たる黄金の穂、地平の果てまで続く豊かな大地。世界屈指の穀倉地帯の西端に位置し、穀物移出の集積地点として繁栄する古都リヴィウ。出荷を待つ小麦を呑みこんだ穀物倉庫の群れが整然と立ち並ぶ中央駅の正面改札を抜ける異形の集団がいた。この集団を目にした道往くポーランド人達は、一様に怯えた様な表情と、嫌悪感に満ちた眼差しを一瞬だけ向けた後、無言で道を空け、その集団との関わり合いを避ける様に目を逸らし、その場を足早に後にする。揃いの着古した軍服を身に纏った、その集団は、ポーランド陸軍から派遣された将校の案内に従い、駅前の広場を抜け、石畳の道を整然とした見事な四列縦隊にて行進していく。

次々と中央駅に到着する汽車から降り立つ軍人達、彼らは、今は亡きドイツ帝国に、かつて忠誠を誓っていた者達だ。この日、リヴィウ中央駅に降り立った第一陣の兵士、その数4000名。一糸乱れず、軍靴の音も高らかに行進する縦隊の全長は1キロに達したという。

彼らの目的地は郊外に用意された宿営地。

そこには、彼らと共に故郷を奪還すべく、東の空を睨み続けるウクライナの戦士達が待ち受けている筈だった。



 ヴェルサイユ条約により、その兵力数上限を10万人にまで制限されたドイツ陸軍。

欧州大戦の最激戦期には300万人以上が動員されたこの国では、終戦による動員解除と経済政策の失敗が重なり、巷には豊富な従軍経験を有する失業者が石ころの如く溢れる事となる。軍に残る事を許されず、地元に帰っても厄介者としてしか見られない失業者達は、己の境遇を儚み、いつしかドイツ義勇軍フライコールと呼ばれる極右組織を次々と立ち上げていった。不平と不満を糧として生きる彼らが、自分達に「不可解な敗戦」をもたらした共産主義者への制裁活動に身を投じるのに、さほど、時間はかからなかった。著名な革命活動家を凶弾の下に葬り去り、スパルタクス団を殲滅し、バイエルン革命を実力によって阻止した功により、社会から一定の評価が得られたと考えた彼らの中の急進派、ヘルマン・エアハルト大尉に率いられた『エアハルト海兵旅団』は、自分達の更なる復権を求め、ウオルフガング・カップの指導下、1920年3月にはクーデターを決行するに至っている。

このクーデターという事態に対し、政府より鎮圧命令を下された軍が、その命令に服従しない態度を示した事により、結果として一時的にエアハルト海兵旅団はベルリンの占拠に成功、彼らの復権は成功するかに見えたのだが、最終的には首謀者カップの亡命という形で、その野望は潰えた。




 今日のドイツにとって最大の誤算、それは、この年8月、戦争賠償金の支払い緩和とセットで行われる筈だった米国からの8億マルク(約1億9千万ドル)に及ぶ借款供与による経済復興計画、所謂『ドーズ・プラン』が無期延期されてしまった事だ。その8億マルクさえあれば、それが引き金となって余剰資金を抱える米国資本家達が続々とドイツ国内の産業復興に資本投下を行う事は明らかであり、その想定投資額は30億ドル(126億マルク)とまで試算されていたのだ。

しかし、このドイツへ貸すはずだった8億マルクを、米国政府は日本に対する棉麦借款3億ドルの一部に充当する事をあっさりと決定。結果、ドイツ国内の復興事業計画は、最短でも次年度まで遅延する事が確実となってしまった。

当てにしていない8億マルクと、当てにしていた8億マルクの差は、実質以上に大きい。古今未曾有のハイパーインフレを詐欺まがいのレンテンマルクによって奇跡的に乗り切ったドイツだったが、目の前から忽然と消え失せた8億マルクへの失望、これは最早、絶望と言うに等しい。

そしてドイツ政府が絶望した以上に国民の絶望は深く、政府の予算投下や公共投資、海外からの資本流入を期待していた産業界は氷点下にまで冷え込み、人々の心は折れ、失業者は減らず、治安は日々、悪化していった。


 そんな時、隣国ポーランドにおいて事件は起きた。

『救国の英雄』ヨゼフ・ピウスツキ国家元帥に率いられた軍の一部が決起。

腐敗した政党政治と不慣れな民主主義に不満を抱く軍の大部分が瞬く間にこれに合流、英仏資本に支配される経済構造と、それらと結託し、自浄作用を失った現政権に失望していた民衆もこの動きを歓迎した結果、「政界浄化」を掲げたこのクーデターは完璧なる成功を収める。

 そして、このクーデター勃発後、権益失陥を怖れた英仏両国が新政権に権益保全を求めて態度を硬化させる動きを見せたのに対し、何故か遥か東方に位置する無関係の列強・日本が仲介役を買ってでる、という予想外の事態に進展する。

あり得ない事だが、日本政府は「まるでそれが起こるのを知っていたか」のように、クーデター翌日には、英仏両国を始め、イタリア、オーストリア、チェコスロバキア、ルーマニア、リトアニア、そしてドイツなどの周辺諸国駐箚大使館を介して新政権の承認を強く求めた。その素早い動きには反復常なき外交を得意とする、さすがの欧州諸国も機先を制せられた格好となり、数日のうちには内政不干渉を合言葉として渋々ながらも、この新政権を承認するに至った。


 しかし……。


 ただでさえ、軍事的にも経済的にも弱体化した今のドイツにとって、陸軍兵力60万を呼号し、独立以降、急激な経済発展を遂げているポーランドは、驚異の対象ではなく、恐怖の対象ですらある。

その仮想敵国・ポーランドに軍事政権が誕生したのだ。

しかも、その指導者は御世辞にも温厚篤実な人物などではなく、ポーランド・リトアニアの復興を夢見る様な、危険極まりない領土拡張主義者にして陸戦の名将……。

表面的には新政権を承認したドイツ政府ではあったが、万が一の事を考え水面下、動員準備を開始し、国境地帯には張り詰めた緊張感が漂い始めたのは言うまでもない。


「その存在だけで私を苛立たせる」と公言し、ポーランドを嫌悪したドイツ共和国統帥部長官ハンス・フォン・ゼークトではあったが、同時に国内に蔓延する『エアハルト海兵旅団』の様なフライコールの流れを汲む極右組織への対応にも日々、苦慮していた。

彼らの主張が不可解かつ不合理なものであれば、断固とした態度を取る事に躊躇いは無いが、不幸な事にゼークトには理解できてしまったのだ。

 仇敵・ソ連との『ラパッロ条約』締結の陰に暗躍し、赤軍の素人軍人達に教育を施す代替えとして兵器実験場の提供を受けるなど、一軍人にしては“やり過ぎ”“出来過ぎ”の人物であるゼークトの元に使者が訪れたのは、クーデター決行後、そう間を置かない日の事だった。

使者の名はヨゼフ・ベック。

ベルリン駐箚ポーランド大使館附武官として赴任してきた一介の中佐であり、同名のヨゼフ・ピウスツキ国家元帥の副官を長らく務めあげた、その懐刀である、という事実を知らなければ何の変哲もない挨拶程度の会談として終わる筈だった。

ベックは別段、『密使』という訳ではない。

つい半年ほど前までフランス駐箚ポーランド大使館附武官だった、この無表情な痩せ男は所謂、正式な軍事外交ルートを介してゼークトに面談を求めて来たのだ。

「ドイツ復活の為ならば、悪魔とだって手を結ぶ」がモットーのゼークトは、この薄気味の悪い新任武官を見た瞬間、躊躇いもなく嫌悪感を抱いたが、その切り出された要件は十分に魅力的なものだった。


「失業中の旧ドイツ帝国軍人を軍事顧問として招聘したい。その代わり、ポーランド軍は対独国境沿いに展開する16個師団を後方に下げる」


冷徹な合理主義者にして深遠なる知恵者の如き風貌から『スフィンクス』の異名を持つゼークトはベックの申し出に内心、驚いたが、表面上は全く興味なさげに頬杖をつく。


 ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国に分割、支配されていたポーランド。独立回復後、瞬く間に強大な軍事力を有する様にはなっていたが、その根幹を為しているのは独立復帰以前に各帝国において専門的軍事教育を受けたシュラフタ階級(貴族階級。しかし、文武分離が進んでいた西欧の騎士階級や貴族階級とは根本的に違い、“剣も取れば筆も取る”という点において日本の武士階級が最も近い)出身者達だ。だが、彼らは三帝国において、それぞれ別々に軍事教育を受けてきた上に亡命ポーランド人(主としてフランスのサンシール士官学校において教育を受けた)が建国後、大挙して帰国し、軍に身を投じて来た。結果としてそれぞれの出身教育母体ごとの軍事思想的な差異が激しく、それが今日、軍内において派閥を形成しはじめている要因ともなっている。例えばピウスツキ自身はロシアに学んだが、そのピウスツキと並び称される英雄ヴワディスワフ・シコルスキはオーストリア=ハンガリーに学んでおり、ポーランド最強部隊・歩兵第二師団を率いるミハウ・ロラ・ジェミルスキはオーストリアに学んだ後、フランスへ……。

この様に、様々な主義・思想の分岐は一般社会ならば歓迎されるべきところだが、意志の統一を重んずる軍隊という組織においては忌避される行為であり、戦略・戦術面の基本合意の出来ていない軍隊など、単なる民兵の寄せ集めに過ぎない。

ベックの申し出を聞いた時、ゼークトは考えた。


(ポーランド軍は今後、プロイセン軍学を範とするという事か……?)


 実質的な仮想敵国同士である両国の間において、軍事交流が盛んになるのは、現状、劣勢にあるドイツにとって願ってもない機会だ。人材交流や合同演習を行えば、それだけ相手の情報を得られ、それはお互いにとって潜在的な抑止力にもつながる。『ヴェルサイユの軛』に虐げられたドイツが永遠に周辺諸国からの侵略に怯え続けなければならない、という救われない未来図から抜けだす一つの手段として、東方国境の安定化は実に魅力的だ。

 だが、ドイツとポーランドの間には、それぞれの国土内に居住する互いの民族への差別問題も存在するし、特に三度に渡って蜂起が繰り返されたシュレージェンにおいてはドイツ人とポーランド人の間には深い敵愾心が存在している。それに最大の難問はドイツ本国と東プロイセンを結ぶ、所謂「ポーランド回廊」の存在であり、それ抜きにして両国が互いに協力し合う事など不可能だ。


(例え、ポーランド全軍が国境地帯から離れたとしても……東プロイセンとの連絡路を確保しない限り、両国はいずれ干戈を交える事になる)


「我々としては、ポーランド回廊の貴国民に対する全面開放、自由往来を約束するつもりです。同時に然るべき手続きを踏んだ場合において、貴国民が我が国内に土地を保有する事を許可する用意があります」

今まさに、ゼークトが回廊問題を口にしようとした瞬間、ベックの発した言葉が遮る様に室内に鳴り響く。

唖然とするゼークトに対し、更に畳みかける様に言葉は続けられる。


「新たなるポーランド、その指導部は『ヤギェウォ朝』時代を理想の国家と考えております。近々、国内における全ての民族、全ての文化に平等の権利を保障する事を世界に向け、宣誓するでしょう」


 元来のポーランドはポラン人を中心とはするものの、基本的には多民族国家であり、伝統的に多文化多民族主義の理念を持ち、教条的な民族主義に対しては激しい嫌悪感を有している。近くでいえばロシアにおける革命に際して、民族主義を全面否定する共産主義に共感した多くのポーランド人が「反・民族主義」の立場から、その運動に身を投じたのは記憶に新しい。その代表格が内務人民委員部付属国家政治局長官として反動弾圧に辣腕を振るうフェリックス・エドムンドビッチ・ジェルジンスキーであり、その指揮するチェーカーの構成員は、伝統的な民族主義「汎スラブ主義」を奉ずるロシア人ではなく、「反・民族主義、多文化多民族主義」を奉ずるポーランド人が中心となって構成されている。

 ポーランド人がこの「反・民族主義、多文化多民族主義」をその信条とする理由、それは中世時代にまで遡る。ロシア帝国、ハプスブルク家と東欧の覇権を競い合った『ポーランド・リトアニア貴族共和国』というシュラタフによる合議制国家「ヤギェウォ朝」を建国した彼らは、その広大な版図、いずれの地の出身であるかに拘らず、ポーランド出身者にも、リトアニア出身者にも、ウクライナ出身者にも関係なく、その理念に賛同し、戦士シュラフタとしての義務を怠らなければ等しく権利を保障する、という権利重視の方針を貫いた。何しろ当時のシュラフタは

『正当な理由があれば国家に対し反乱を起こしても、罰されない権利』

ですら有していたというのだから、その権利の徹底ぶりが窺い知れる。

 ポーランドが最も広大で、最も強旺だった時代、そこには民族主義の欠片さえ存在しない。あるのはただ一つ、戦士としての義務、そして権利。ヨゼフ・ピウスツキが率いる新たなるポーランドは、その理念を継承する国家となろうとしている、のだという。



「貴国と我が国の国境から兵が遠ざけられるとして……その兵力はどこに向かうのでしょう?」

ゼークトの質問にベックは答えない。

その顔には(言わずともお分りでしょう?)と見事なまでに答えが太字で書いてある。質問したゼークトにも答えは分っている。ポーランドの南に懸案事項はなく、西から兵を引き離せば向かうのはただ一つ、東だ。


(第二次ポーランド・ソビエト戦争が始まるのか?)


 己の推測に戦慄し、瞬間、頬が微かに粟立つのを感じたゼークトは、すっかり冷めたドイツ特産のフルーツティーを口に運びながら、今、自分が重大な決断を迫られている事に改めて気が付く。

『ラパッロ条約』の秘密条項に従い、赤軍兵士の教育を行っているドイツ軍を率いるゼークトである。赤軍の実力が未だ満足がいくものでは無い事は十分に分っている。


(ポーランドは、ソ連軍が強化される前に開戦する、というつもりか……)


 だが、おかしい。

この目の前の痩せ男の申し出は「ドイツ退役軍人を顧問として招聘したい」だ。今からポーランド軍の再教育を一から始めるようでは、間に合う筈もない。ドイツ軍の教育を受けるという面において、一歩先んじているソ連軍の方が常にリードを保つ筈であり、いくらポーランドが『ラパッロ条約』における秘密条項の存在を知らないと言っても、あまりに迂遠過ぎる……。


「中佐、一つ、お聞きしたい。貴国が招聘を望む軍事顧問ですが……いったい、どの程度の規模をお望みなのです?」

「多ければ多いほど」


ゼークトの問いにベックは即答する。その問いを待ちかねていたかのように。


「それは、つまり……顧問の役目が、教育だとは限らない、そういう事でしょうか?」


ようやく辿り着いたゼークトの結論にベックは満足気に頷く。

ポーランドは巷に溢れる歴戦のドイツ退役軍人、彼らを大量に雇い入れる気なのだ。

名目上は軍事顧問として、実質上は傭兵として……。


「失礼ながら、巷に溢れる退役軍人達、彼らの多くが貴国を“仇敵”の一つだと考えている事をお忘れではありませんか?」


 ゼークトは慎重に、ポーランド側の申し出に反論する。

ポーランド独立に際して、その国境線が確定した時、国境線のポーランド側に住んでいた多くのドイツ人が土地も家も奪われ、新たなドイツ領内に着の身着のまま、何の保証もなく放逐されており、数十万のポーランド出身ドイツ人が、今日も日々の糧を求めて彷徨い歩いているのだ。何かと言えば暴れまわる失業者達が雇用され、その上、外貨を稼いでくるのであれば、ドイツ政府にとっては願ったりかなったりだろうが、それ以前の問題としてドイツ人の多くがポーランドを毛嫌いしているのも事実なのだ。


「我々は軍事顧問の雇用に加え、銃器20万丁と、その弾薬4000万発、更に将兵の被覆一式等所要の軍需物資一切の発注を貴国に対し行う用意があります」

ベックは、ゼークトの問い掛けを無視し、言葉を続ける。その声音はベック自身の感情を押し潰し、抑制したものであり、彼自身もドイツ人と手を組む事に対して、内面では葛藤している事が窺い知れる。

「あくまでもこれは当座の話ですが……勿論、状況によっては他の軍需物資を追加発注するつもりです」

ベックはあくまでも淡々と無表情に、冷え切ったドイツ産業界に光明をもたらす巨額取引を持ちかける。

「ハッキリ申し上げましょう、閣下。貴国がポーランドを嫌うのは正当な理由があっての事。しかし、長年に渡って貴国に独立を踏み躙られてきた我々もまた、貴方達を嫌っているのも事実。貴国がソ連と結んで我が国を牽制するならば、我が国はフランスと組んで貴国の側背を狙う様になる。お互い隣り合っていながら大国の間に挟まれたばかりに、外縁国に利用されるなどというのは、実に馬鹿らしい話ではありませんか? それに……」


もっともな正論を吐くベックが、続けて言い放った言葉に、ゼークトは正しく絶句した。


「ウクライナを独立させる、だと? 一体全体、何の為に……?」

「我がポーランドの名誉の為……では、御納得頂けませんか?」

ベックは立ち上がると、部屋の壁に広げられた欧州全土の地図の前に立つ。

「我々ポーランドは、かつてウクライナの民と共に肩を並べ、独立を勝ち取りました。しかし、結果として残念ながら、我々の独立と引き換えにウクライナの民は依然としてボリシェビキに支配されたままです。友人達を独立に導く日まで、ポーランドの真の独立は達せられない―――そう、我々の新たなる指導部は考えています」

「つまり、派遣される軍事顧問達はポーランド人とだけでなく、ウクライナ人とも、共に戦う事になる、と言う訳か」

空になったティーカップ、その底を見つめながらゼークトは呟く。

強大なポーランド軍を国境線から遠ざける事ができ、解散命令に従わないエアハルト海兵旅団を始めとした厄介な極右組織、彼らを国外に放逐し、尚且つ、経済復興の起爆剤となる巨額の軍事需要の創出……ベックの申し出は、米国からの借款が先送りされた今のドイツにとっては魅力的な事ばかりだ。しかも、これから始まる「ウクライナ独立戦争」の帰趨がどうなろうと、直接的にはドイツが被害をこうむる可能性は皆無だ。

ヴェルサイユ体制によって強いられた世界的孤立の中から脱却する為に結んだ『ラパッロ条約』だったが、締結した当時と違い、今や、共産主義者と結んだこの条約の存在自体がドイツの西欧回帰の障害となっているのも事実……。


(いずれにしても来年にはラパッロ条約の有効期限は切れる。切れた後、我が国がどう動くか……選択肢の数は多いほど良い)


 これまで『ラパッロ条約』が終了した後のドイツの外交戦略は、ソ連との協調体制維持か、或いは英仏の不信感の目に晒されながらの西欧への復帰、この二者択一だと考えられていた。だが、ここで仇敵たるポーランド側と協調体制を構築できれば、往年の友好国オーストリアを加えての『中欧同盟』再結成が視野に見えてくる。更にその延長線上にウクライナ独立の可能性があるとすれば……。

ゼークトはベックの背を見つめながら静かに微笑む。

今はともかく、ドイツ本来の力、取り分け工業生産能力の高さはポーランドやウクライナなどの農業国とは比較にならない。独立心旺盛な彼らを政治的に支配するのは難しくとも経済的に支配する事は容易だろう。

しかし……。


「勝算はあるのかね? 失礼ながらポーランド一国とウクライナの民兵の取り合わせ、仮に我が精鋭をお貸しするとしても……下手をすれば、貴国にとって最悪の事態を招きかねないと思うのだが」


 当代随一と言ってもよい戦略手腕を持つゼークトは『ヴィスワ河の奇跡』が単なるラッキーパンチに過ぎない事を知っている。ドイツの基準からすれば、まだまだ青二才のレベルではあったが今の赤軍は、あの頃の赤軍とは桁違いに訓練されているのだ。果たして、ポーランド兵とどちらが上か……。


「ご心配なく。既に手は打ってあります」

ようやく地図から目を離し、ゼークトの方を向き直ったベックは陰気な笑いを浮かべる。ゾッとするほど酷薄で、怖気を振るうほどに粘質な禍々しき笑い。

「近々、面白い出来事が起きますよ。閣下とドイツがどちらの側に立つか……それを見てから決めても遅くはありますまい」


(この中佐風情がっ!)


ベックの丁重だが、どこか思わせぶりな態度を目にし、謹厳をもってなるゼークトは自身がからかわれている様に感じ、言葉にならない程の腹立たしさを感じた。

一言、言ってやらねば、気が済まぬ。


「御待ちなさい、中佐。その様な重大機密を、易々と我らに漏らすとは、いささか軽率が過ぎるのではないだろうか? その様な安易な心構えで行う杜撰な計画、恐らく、既にソ連にも筒抜けに……」

「筒抜けになってもらわなければ、困るのですよ、閣下」

「……!?」


椅子を元の位置に戻し、退室の用意を整えながらベックは、片眼鏡越しに睨みつけてくるゼークトの瞳を正面から見据える。陰と陽の視線が一瞬、絡まり合い、互いに相手を試すかのように剣を交わす。


(……何を企む、東方の民よ。だが、賭けてもいい。今、この時がドイツ復興の好機だ)


 ゼークトの心は既に決まっている。

とりあえず、フライコール最凶のテロリスト集団『エアハルト海兵旅団』を送り込んで、様子を伺うとしよう。捨てても惜しくない14000名もの無頼の叛逆者ども、どの道、国内のどこにも彼らの居場所は無い。



エアハルト海兵旅団。

それは、後に自らを『執政官コンスル』と称した、ナチス最大の敵。

闇の王が野に放たれた瞬間だった。


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