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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
60/111

第5話 焦土への道 (5)

大正十三年九月二日

(1924年9月2日)

東京・千代田区

内務省 大臣公室


 前日の閣議、席上、高橋の発言によって思わぬ方向に話が進んでしまったのは、浜口にしてみれば大きな誤算ではあったが、元来、思い切りの良い性分のこの男にしてみれば、


(悪くない……)


と考えない訳でも無かった。しかしながら、大蔵官僚出身で自他ともに認める経済通の浜口が推測するに、高橋の言う程、明るい未来が開けているとは思えない。


(「手が痒い」と言って泣く子の頬を張り飛ばして黙らせる様なやり方だ)


それだけに解禁直後、市場は大混乱に陥るだろう。事前に国民に周知徹底し、心の準備をさせてからならまだしも、投機筋による円買いドル売りの動きが怖く、解禁するなら抜き打ち的な電光石火の早業でやるしかない。


(いくら内需に振り向けるとはいえ……繊維紡績業は軒並み壊滅するだろう。生糸頼みのこの国の経済、下手をすれば二分の一、いや、三分の一程度まで収縮するのではないか……?)


一時的な株価大暴落はやむを得まい。

要は、その中から、何社が再起できるかに掛かっている。


(こうなるとアメリカさんの申し出はありがたかったな……)


浜口の脳裏に『棉麦借款』という言葉が浮かぶ。

その条項には「米国産農産物の購入代金として供する限り、債務返済は不要」とある。

列強が列強に用立てたとは思えぬ屈辱的な紐付き借款。しかも、豊作続きで農産物価格の大暴落に悩む米国南部諸州の救済が目的であり、決して日本の身を案じての借款供与では無い。


(ならば、彼らの望み通り、綿花を買ってやろう。三億ドル全てを使って、な)


 先程まで憂いを帯びていた浜口の双眸が妖しく光る。三億ドル分の綿花と言えば、それだけで向こう二年間の全輸入量に匹敵する。1ドル1円での解禁となれば“強い円”の力によって、三分の一近い値段で手に入る事になる米国産綿花。

 それを更に“ただ”で手に入れる。

その綿花を円高による輸出不振に苦闘する繊維・紡績業に供給してやれば、各社とも大分、収支が楽になる筈だ。高橋の言う通り、絹織物に課せられた高税率の奢侈税、これを撤廃すれば、確かに内需への転換は可能かもしれない。

 誰だって値段が同じなら、綿より絹の方がいいに決まっている。

必然的に先々、綿織物は国内市場において絹織物によって駆逐されていくだろう。国内需要が期待できない以上、安く輸入した綿花を加工し、安く綿織物を輸出する事によって競争力を維持していくしかない。各社ともに利幅は大きく縮小するだろうが、“ただ同然”に手に入る三億ドル分の綿花があれば、当分の間、原料供給に関しては心配無い。その間に、合理化を進め、生産性を向上させれば、綿糸系企業の生き残りも不可能ではない筈……。

 そこまで手厚く保護されても倒産する様な自堕落な企業ならば、最早、同情の余地も、生き残らせる価値も無い。

繊維・紡績関連産業は言うまでもなく日本最大の産業、末端まで含めれば従事している労働者の数は優に三百万人を超える。罪無き彼らを路頭に迷わす訳にはいかない。

絶対に……。



 扉を叩く音に、突如、浜口の思考が中断する。

「大臣閣下、加藤海相閣下が御面談にお見えです」

大臣官房に属する職員の言葉に、浜口はハッとする。

「あぁ、御通ししてくれ」

間を置かず、如何にも潮に焼かれた海の男が、浜口の目の前に姿を現す。

「御呼びたてして申し訳ない、加藤さん」

浜口は執務席から立ち上がると出入り口付近まで出迎え、軍帽を小脇に直立する加藤を招き入れる。

「浜口大臣閣下、内密の要件とは何でございましょう?」

部屋の扉も締めぬまま、廊下まで響き渡る様な大声で尋ねてくる加藤の邪気のない姿に浜口は心中、苦笑する。


(内密の要件だと言っておるのに、この人は、全く……)


「実は、御相談がありましてな……」

込み上げてくる可笑しさを堪えながら、浜口は加藤に着座を勧め、場違いな場所に緊張の色を隠しきれない実直その物の様な軍人をしばし、眺める。“東郷の近衛兵”海軍省を預かるこの男、どう見ても政治的な小細工が出来そうな人物では無い。


(どうにもこうにも、俺に似ている……)


浜口は直感的に、そう感じた。




同日夜

東京・麻布

元田肇邸


 現内閣において農林大臣を務める元田肇は、よく言えば『積極財政論者』、悪く言えば『バラマキ型政治家』の典型とされる。

もっとも、元田に限った事では無い。

本来の原敬に象徴される政友会本流は、この利権分配型政治によって着実に勢力を増してきたのであり、そういう時代の、そういう政治家である元田の素行を批判するのは筋違いもいいところだ。

 元田はこの時、庭を見渡す縁側に一人、座り、団扇を片手に残暑を凌ぎつつ、沈思していた。

「果たして……」

知らず知らずのうちにポツリとこぼれ出る言葉、それは昨日の閣議以来、農林大臣・元田の心を捉えて離さぬ、この国の先行きへの不安だ。

この国最高の財政技術家と言って良い高橋の言いたい事、言い分は分る。確かに生糸産業の国内向け転換は、乱高下を繰り返す生糸相場に安定をもたらすだろう。

 しかし、養蚕農家は190万戸に達するのだ。

一時的には潤うかもしれないが、内地・外地合わせて、たかだか8300万人の帝国臣民では、その継続的な需要要求に対し応えられる訳が無い。どう考えても、養蚕農家が「多過ぎる……」のだ。

いずれは過剰生産に陥り、遠からず、国内取引相場は下落しはじめる。そうなったら、再び、養蚕農家は相場に振り舞わされる生活に逆戻りだ。

「生産を抑えるしかないだろうな……」

高橋の言う通り「余った分だけを輸出すれば相場は高騰する」だろう。相場が高騰すれば、国内消費分を輸出に回そうという動きが出て、結果、相場は再び下落する。それでは、今までと何も変らず、むしろ円高によって実入りは減り、悲惨さだけが増す事になる。この悪循環を断ち切るには、総生産量を管制するしかない。

「農家に転作を促す……か」

これも容易ではない。

農家にとって養蚕は貴重な現金収入をもたらす、ほとんど唯一の手段であり、養蚕から他作物への転作を命じても、そう簡単に従う筈は無い。その農家に転作を決断させるには、魅力的な別の換金作物を宛がう他は無い。

日本国内の桑畑面積は53万ヘクタール。これは、ほぼ国内の裸麦耕地面積に匹敵する。

主として米飯に混ぜて食する裸麦の収穫量は現在、凡そ110万トン。

桑畑全てを転作させる事は出来ないだろうが、仮に半分を転作させれば55万トンの収穫増となり、慢性的な食糧問題の解決にも資するものとなる。

「三土大臣と掛け合ってみるか……」

高橋蔵相の腹心、三土忠造無任所大臣は食糧専売制問題を担当している。元田は、その三土に掛け合って、麦類の政府買い入れ価格を底上げさせる事によって養蚕に代わる換金作物として麦類を農家に提供する方法を思い付いたのだ。

「いや、ダメだ。それだけでは、手塩に掛けた桑畑を焼き払う気にはならんだろうな……」

もっと根源的な部分で、何か手を打たないと農家は転作に応じないだろう。


何故、農家は換金作物を作りたいのか?

何故、農家が現金収入を欲するのか?

それほど、深く思い悩む事は無い。四分半という高税率な地租を納める為には、金にならない作物など、作っている場合ではないからだ。


「収入が減る御百姓衆を守るには……ここは、高橋さんに頭を下げる他は無いな」

元田が導き出した結論は「転作に応じた農家の地租を免税にする」というものだった。下手をすれば収穫物の四分の一近くを納税しなくてはならない様な現在の税制、納税額が減れば、多少、収入が減る分は棒引きになる筈……。

高橋の首相在任当時、その内閣を閣内不一致により潰した経歴を持つ元田にとって、今更、頭を下げるなどというのは腹立たしい事、この上ない。しかし、税制を握る大蔵省を支配しているのは高橋であり、蔵相の承諾と協力なしに地租改正など推進出来る筈もない。


(我が党の地盤を守る為だ。俺が頭一つ下げて済む話なら、額がすり減るまで土下座しても、次の選挙でお釣りは来るか)


支持者に対し徹頭徹尾、利権をばら撒く事によって所属する政党を常に肥大化させてきた剛腕政治家・元田の腹は決まった。




同日夜

東京・千代田区

逓信省 大臣公室


 逓信大臣・小泉又次郎は、この日、夕刻となっても書類の山と格闘中だった。

通信、郵便、保険、航空、造船、電気、海運、陸運、交通……逓信省の所掌する業務は幅広く、職員の数は陸軍省、内務省に次いで多い。そのただでさえ多い業務、前任者の犬養が長期療養していたせいもあって、大臣決済待ちの書類は机の中から湧き出す泉の様に次から次へと現れた。いずれも、官僚達がそつなくまとめ上げた書類、大臣である小泉が目を通さず、盲判を押しても問題になる様な事は無いのだが、豪放な割には几帳面な性格のこの男、一枚一枚の書類を読み、赤鉛筆で但し書きやら、訂正やらを書き込み、その上で署名し、判を押し続けている。

 しかし残念ながら、下部部署から上がってくる書類の量は、この男の処理能力を超えており、遠からず歴代大臣がそうした様に小泉も盲判を押す様になるのは目に見えている。

専門用語と意味不明な美辞麗句を並べたてた文書の量で、付け焼刃程度の知識しかない政治家を圧倒する中央官僚の常套手段、今回も彼らの作戦勝ちとなるだろう。


 小泉はふと手を止め、疲れた目を両の手で揉みほぐす。

疲れがたまったこんな時、頭に浮かぶのは、ワシントン海軍軍縮条約以降、火の消えた様に寂しい街となった故郷・横須賀の街並みだった。

 ほんの数年前まで、港には内航船、外航船が常に出入りし、三交代勤務の官民造船所から夜通し、聞こえてくるリベット打ちの音で「眠れない街」だった横須賀も、今ではすっかり、なりを潜めてしまった。埠頭には係留されたままの貨客船や貨物船が増え始め、造船所に新造の動きは無く、たまに入る仕事と言えば、古船の整備や修理のみ……。

最盛期10万人を数えた造船職工の数も今では6万4千人にまで減少、残った職工達も度重なる賃金カットによって、財布の紐は固くなるばかりだ。当然、彼らの落とす金によって潤っていた横須賀の繁華街も、今ではすっかり静かなものだ。

 

 横須賀を選挙地盤とし、港湾労働者の顔役を務め、貿易関係に携わる者達とも縁の深い小泉にしてみれば、昨日の閣議における円高政策、そう簡単に賛成しても良いものか躊躇いはある。

しかし、少なくとも今のままで良い、とは思えない。

炎天下、今日この瞬間も巷では日雇いの職を求めて長蛇の列に並ばざるを得ない腕利きの職工達の憤懣や慟哭を思えば、激情家の小泉、自然と目頭が熱くなる。

「船さえ……船さえ造れば、彼らを救えるのに」

小泉は熱にうなされた様に一人、呟く。既に海軍省は自前の工廠で出来る様な簡単な修理や整備、雑役船などの小型船舶の発注を民間造船所に委託し、その救済を行おうと動いている。ただでさえ海軍予算は削減され続けているのだ。限られた予算で出来るのは、それが限界だろう。

政府機関で他に船舶に関与しうるのは、小泉の逓信省、それに床次の鉄道省。

前者は郵便行政を司っており、内航船や定期郵便船の発注を行う事もある。

後者は鉄道運行を円滑に行う為に鉄道連絡船を管轄している。

「三省揃って御用船を発注すれば良い、という簡単な話ではないからな」

三省の予算、合わせても四億と少し。その全てを船舶発注に供するのならともかく、そんな事が出来る訳もない。

「金さえあればなぁ……」

ため息交じりに吐き出した呟きは、この国の政治家が過去も、そして未来においても呪文の如く唱え続けた言葉だ。

「満鉄売却した金の10分の1、いや100分の1でもいいから、こっちに回してもらえたら、随分と造船業界も賑わうんだが……」

ポケットから紙巻き煙草を取り出した小泉は、それを咥えると、マッチの火を灯す。銘柄は“バット”、職人や労働者が愛用する安い煙草だ。

「金か……そう言えば、アメリカさんが買ってくれたおかげで満鉄の株価は大分、値を戻したと聞いたが、俺も買っとけば良かったなぁ。馬鹿に付ける薬は無い、とは言うが、せめて貧乏に付ける薬ぐらいあってもいいじゃないか。いつまで経っても貧乏人ってのも、やりきれん話だ」

 この夏、英国が威海衛・烟台間鉄道敷設を公表した事により、一時的に満鉄株はひどく落ち込んだが、満州進出を決めた米国人投資家達によって買い支えられ、今では1年前の2円75銭よりも高い3円50銭近い値をつけているという。

 昨今、日本政府が満鉄の所有株式を手放した事が引き金となって日本人資本家達も“勢力圏としての満州”の先行きに不安を感じ、満鉄株に限らず満州関連銘柄の株式や不動産の売却を一斉に開始している。

 要は日本人による満州からの「資金引き上げ」が発生しているのだ。

民間投資家達が所有していた満鉄株は額面にして2億1千万円、時価換算ならば7億3千5百円になり、暴落時に慌てて手離した者がいるとはいえ、少なくとも6億円以上の金が米国人投資家から日本人資本家の手に渡っている。それに加えて、各地の炭鉱やホテル、ビルなどの権利や不動産の売却益なども含めれば、莫大な金額が民間では動いている筈だ。

「その金、どこに流れてくのかな?」

小泉はポツリ、と呟く。逓信大臣への就任に伴う宮中参内に際して、着用する大礼服さえ都合出来ず、他の政治家から古着を借りて出席したほど、個人としては金と無縁な男だ。

民間に流れ出した途方もない“余剰金”の動きなど、想像の埒外な事であっただろう。


 小泉は、根元まで吸い終えたバットを揉み消すと再び、書類の山に視線を向ける。知らず知らずのうちに溜め息がこぼれ、書類に記載された文字や数字、表などを見ると自然と気持ちが萎え、思考が迷走をはじめる。逓信省の管轄範囲は広範囲にわたるが、横須賀出身の彼はどうしても思考の中心が造船に偏ってしまいがちだった。

「円高か……大戦中の様に貨物船の輸出が期待できる訳ではないし、鋼材原料が安く手に入るのだから、安く造れる筈なんだがなぁ」


「船が港で遊んでいる時代に、船を作れと言っても、誰も造らないだろうな……いっそ、邪魔な古船、沈めて防波堤にでもしちまえば、財布の紐が固い船主達も否応なく、造るだろうに……」


 小泉の頭に、瞬間、何かが閃く。

慌てて先程、目を通した書類の山をひっくり返し始める。目的の書類は、間をおかず見つかった。小泉が一枚一枚、書類を吟味していたからこそであり、もし盲判を押していたら、単なる調査報告書類の一枚として日の目を見る事はなかっただろう。

 調査報告書の題名は『本邦船舶統計』

そこには全国の船会社が所有する民間船、その建造時期と経過年数、トン数などが網羅されている。

「造船所の仕事は、船を造るだけじゃない、解体も重要な仕事だった」

世界第三位の商船団を誇る日本であったが、その内訳の多くは明治中期から後期にかけて建造された船齢二〇年以上の石炭船。報告書によれば、その数は200隻を超え、総トン数は80万トンに近い。船齢二〇年程度では、それほど古い船とは言い難いが、問題は機関を動かすのに石炭を用いている事にあった。石炭のカロリーは石油の半分、即ち、単純に考えれば同量の石炭と石油では、石油を燃料とする機関を有する船の方が航続力は倍になる。同じ目的地を往復する船同士で比較すれば、石油船は石炭船の半分の燃料で目的地と往復でき、燃料搭載量が減れば、その分、自然とより多くの貨物が積めるようになり、輸送効率は向上する。

「石炭船から石油船へ切り替え……これは使えるな」

僅かな数の新造船を単に造るだけでは、巨大化した日本の造船業界を支えるだけの仕事を与える事は出来ない。だが、同時に、古い船の解体工事を並行して行わせれば、1隻の解体と1隻の新造により、造船所に供給される仕事は倍になる。

「解体と新造、これを一組みとして助成金を出せば、単に新造船に助成金を出すよりも造船所の稼働率が上がるよな……」


 この後、船舶更新と造船業救済を目的として、

「同等排水量の古船を廃船とし、5000トン・15ノット以上の優秀船舶を新造した場合、1トンあたり50円の助成金を交付する」

を骨子とした『船質改善助成施設法』が、年間予算1000万円(年間20万トン相当)、継続5カ年事業として施行された。

 初期においては予想以上に燃料経費が嵩み、技術的な課題や、故障も多く苦労の連続だったが、船舶用大型ディーゼル機関を標準装備した日本の商船団は質の面において飛躍的に強化される事となり、事実上、太平洋における海運事業を制覇する原動力となった。




 浜口の内務省、元田の農林省、小泉の逓信省だけではない。既に床次の鉄道省も、石橋の商工省も密かに動き出している。明治から積み上げてきた、この国の産業構造全てを破壊し、焦土とすべく、1ドル・1円での解禁に向け、水面下、それぞれが暗闘を開始していた。

それぞれの未来を信じて……。


『1ドル・1円』

この、言わば等価の貨幣を共有する事となった日米両国が、後に『ドル・円ブロック経済圏』を結成する次第となるのは、この時代に確定した運命だったのだ。




同日夜

東京・深川

犬養毅 別宅


 革新倶楽部と政友本党の合同によって結党された自由党は言うまでもなく二大派閥に分かれる。

即ち、旧革新倶楽部系と旧政友本党系だ。

更に旧革新倶楽部系は、犬養を頭領と仰ぐ右派と尾崎を中心とした左派に色分けでき、旧政友本党系は床次派、山本派、元田派、中橋派、中立派の五派に分かれる事から、都合七派に分かれている。

そんな寄せ集めの政党であるからして、一人の人間が強力なリーダーシップを執る事など、はなから不可能な話であった。

民政党が加藤、横田亡き後、若槻・浜口の両者を中心に力を結集しつつある、この時期にあっても自由党は『集団指導体制』という美名を冠した勢力争いの真っただ中にいた。

党内最大勢力を率いるのは『憲政の神様』と呼ばれる犬養毅率いる犬養派。

この犬養派に松岡駒吉、片山哲といった社会民主主義者を持ち前の懐の深さから預かる事となった尾崎率いる左派が共同歩調をとっているので、事実上、旧革新倶楽部系は一枚岩だ。


 『総務会』と呼ばれる組織が、自由党における最高意志決定機関とされている。

総務会を構成する七名の総務には、犬養毅、尾崎行雄、床次竹二郎、山本達雄、元田肇、中橋徳五郎の各派領袖六名と、中立派を代表して長岡外史が就任しており、この内、犬養と長岡を除いた五名が第二次東郷内閣に入閣していた。

総務七名中、旧革新倶楽部系は犬養と尾崎、それに中立派の長岡を加えても三名なのに対し、旧政友本党系は四名。一見すると“党は旧政友本党系が支配している”と見えなくもないが実際には違う。

官僚出身の床次、日銀出身の山本、弁護士出身の元田、財界出身の中橋は、その出自がバラバラなだけあって、背景となる支持層も、政治信条も、秘めたる政策もバラバラであり、政策単位で合従連衡を繰り返して、何とか党内主導権を確保しようと画策してはいるのだが、とにもかくにも、彼ら一人一人が率いるのは二〇名から三〇名程度の小人数。

犬養と尾崎が手を結んでいる限り、旧革新倶楽部系で七〇名の代議士が揃う。

誰が誰の手の平で踊っているか? それは自明の理だった。


「1ドル1円って……無茶苦茶言いやがるな」

床几を抱える様に肘を預けた犬養が、面前に居並ぶ石橋、松岡、片山、植原、中野ら若手を相手に大袈裟に叫ぶ。

「シーッ! 声がでかいよ、木堂さん」

その横で、羽織の袂に手を差し入れ、両手を組んだ姿勢の尾崎が、素っ頓狂な大声を上げた犬養を叱りつける。

「この一件に関しちゃあ、緘口令が敷かれているんだ。あんたに告げた事を浜口君に知られたら、俺が噛みつかれちまうだろうが」

尾崎は、わざと辺りを見回す様な素振りで、おどけて見せる。

「それに、まだ本決まりって訳じゃない。一応、結論は先送りしたからな」

「東郷さんが『やれ』って言って、高橋さんが『出来る』って言っちまったんだろう? 神様二人相手に誰が反対するんだよ? 馬鹿馬鹿しい……にしても、どう思う、お前さん達」

犬養は、居並ぶ若手議員達に尋ねる。

「僕は面白いと思いました」

「あっしは良く分りませんや、どうなるんでしょうねえ?」

「失業者が増えなければいいですが……高橋大臣の言った様に内需だけで賄えるものかどうか……」

「まぁ、翁が言われる通り、無茶苦茶でしょうなぁ。だが、面白いですよ。その場にいたら、僕も石橋君と同じ態度をとったでしょう」

「もう少し、安全な方策もあるとは思いますが……しかしまぁ、上手くやれば、この国の底が上がるのは間違いないでしょう。賭けてみる価値があるんじゃないでしょうか?」

五人は五人なりに、この暴挙の如き金融政策に対し、意見を述べる。

恐らく、党内全ての人間、いや、日本国民全てがこの政策を突きつけられた時に示す反応と大差はないだろう。

「この国に今、必要なのは“売る”ことじゃなくて“買う”事だ、ってのは分るがよ……」

犬養は町内の若い者に小言を言う老人の様な口調でぼやく。

「博打を打つにも程ってものがあるだろう」


「そりゃあそうと、松岡君、片山君」

かしこまって正座する筋肉の塊と色白小太り男に向かい、犬養は指示を出す。

「自由党の名前を使っていいし、金が必要なら用立てる。経営者がグダグダ抜かしやがったら、木堂が庭先で演説会を始めるぞ、と脅かしてもいい。とにかく早いうちに労働者を組織して、確固たる組合組織を作り上げろ。特に繊維と鉄鋼、造船。この辺りの産業にしっかりと労働組合の根を張り巡らせるんだ」

「はい」

「理由は分っているな?」

「いずれも円高が直撃する産業。不況が長引けば労働者の首切りが始まる……と」

丸眼鏡の奥、切れ長の細い目を更に細め片山が答える。

「その通り。苦境に立たされた職工達、下手をすればアカく染まる。その前にこっち側に引き込んで起きたい」

「アカとは……共産主義者に、って事ですかい? それとも、血で染まると?」

共産主義を憎悪する松岡が眦を吊り上げて確認する。

「お前さん方二人が手をこまねいていれば、そのどっちもあり得るだろうよ。せいぜい、頑張んな」

「へい、承知しました」

「ご期待に添える様、微力を尽くします」


「それから……」

犬養は、行儀よく正座する石橋に煙管の雁首を向けると思いだしたように言い出す。

「石橋君、君は明日から病気だ」

「はっ?」

思わず丸眼鏡がずり下がった石橋が、ポカンとした顔で間の抜けた返事をする。

「は? じゃねえよ。君は重病だ。明日、辞表を出したまえ」

「重病? 辞表? 一体、何の話です?」

犬養は「しょうがない奴だなあ」といった風に苦笑いすると、尾崎の方を見やる。

尾崎は犬養の言いたい事が分ったらしく、頷くと石橋を諭す。

「石橋君、君はうちの党の宝だ。君ほど市井に通じた財政通なんて、そうざらにいるものじゃない。今、東郷さんの内閣に入閣させたままにしておくと、この政策が失敗した場合、商工大臣である君は、世間から矢面に立つ羽目になって、取り返しのつかない事になる。うちの党としちゃあ、将来の為に石橋湛山という男に瑕をつける訳にはいかんのだよ」

「まぁ、そう言う事だ。分ったら明日、辞表を出して来い。代わりは……床次のとこの榊原、若手なら鳩山あたりでいいか?」

「まぁ、その辺りが順当だろうな。それに民政党にも、そそっかしい奴は幾らでも居るから成り手に困る様な事はないだろう」


「嫌です」

石橋の返答も聞かず、後任人選を始めた犬養と尾崎に対し、真っ向から否定する。

「何?」

「何だと?」

“憲政の神様”と呼ばれる両者は、正しく目を剥いた。

「嫌だ、と言っているんです」

ダダをこねる様な石橋の物言いに顔面を朱に染めて、今にも雷を落としそうな犬養を抑える為に尾崎が慌てて、とりなす。

「おいおい、石橋君、ちゃんと俺の話を聞いていたのかね?」

「お聞きしました。先生方のお気遣いには感謝しますが、僕は高橋大臣、井上総裁と一致結束して、事にあたるつもりです。帝国一世一代の大博打、成功すれば経済学が塗り替わる様な一大壮挙です。こんな面白い仕事、他の誰にも譲りたくはありませんから」

「…………ありません、て」

「石橋、てめえ……」

疵痕も生々しい犬養のコメカミに血管が浮き出た瞬間、手にした煙管が煙草盆の縁に叩きつけられる。

凄まじい音を立てて、かつて松岡と片山の命を救った、その鉛入りの雁首が見事にひしゃげて明後日の方向に飛んでいき、煙草盆は灰を巻き上げ、ひっくり返る。

「つけあがるなっ! 小僧!」



「旦那様、ハマダ様とおっしゃる方からお電話が入っております」

激昂した犬養が、石橋の喉笛に噛みつかんばかりの剣幕で怒声を張り上げようとした、その時、犬養家に仕える女中が障子越しに声を掛ける。

「ハマダ……?」

女中のその言葉に、犬養は怪訝な声を漏らす。

「ハマダ……ハマダ……ねえ」

身を強張らせて見上げる石橋を睨みつけながら立ち上がった犬養は、そこで電話口の相手の素性を思い出したのか、突然、相好を崩す。

「あぁ……オユキさんか」

「オユキさんって、なんだよ、これかよ」

尾崎が鼻から息を吹き出しながら、己の小指を立てて犬養をからかう。

「いつまで経っても治らねえなあ。早く行って来い、この色惚けジジィめ」

「惚れた腫れたは、幾つになっても止めちゃあならねえよ、若い衆」

先程までの怒りはどこへやら、すっかり上機嫌となり、鼻唄交じりの犬養が部屋を後にし、その背を見送った石橋がフーッと息を大きく吐き出し、しきりと汗を拭く。

「危ない、危ない……危うく殺されるかと思いましたよ」

「すげえ迫力だなあ。やはり、神様の二つ名は伊達じゃないな」

「ほれ、見てみろよ、煙管の先がくの字になっているぜ」

口々に呟く新人政治家達に、犬養の旗本を自認する植原が平然とやり返す。

「あのね、こんなことぐらいで肝を冷やしていたら、この先、木堂先生について行けないよ、君達。先生からしてみたら、君達や僕なんて、書生に毛が生えた鼻垂れ小僧に過ぎないんだからね」



 尾崎達の屯する客間から遠く離れた犬養別宅の母屋、その居間においてある受話器を取り上げた犬養は、電話口の相手に向かい、名乗る。

「犬養だ」

『あぁ、浜口だ。本宅に電話したら、こっちじゃないか? って言われたものでね。お邪魔じゃなかったかね?』

「いいって事よ。それにしてもハマダって……もう少し、マシな偽名は思い付かないのかい? 芸の無い男だな」

『どうでもいいだろ、別に』

「良くはねえよ、あんたと俺がつるんでいるのは、世間様には内密にしておきたいんでね」

『ふん、どうにも面倒臭いな。どうして木堂さんは、そう物事をややこしくしたがるのかね? ……まぁ、そんな事はどうでもいい。例の一件だが、加藤海相と話をしたよ』

「おお、それで? 海軍は納得したかい?」

『ああ、奴さん、最初は斎藤大将が更迭されるのか? って、少しばかり膨れっ面しやがったが、東郷さんも承認済みだって話したら、借りてきた猫みたいに大人しく同意したよ。素直ないい男だ。内務省は俺が抑えるし、これで海軍の同意も取り付けた。陸軍の方は、木堂さん、あんたの方が仕切り易いだろう』

「ありがてぇ、ありがてぇ。陸軍の方は俺から田中陸相に釘を刺しておこう。まぁ、四の五の抜かしやがったら、横領の一件を匂わせれば大人しくするだろう」

『そうかい。残るは貴族院と枢密院だが、どちらも正面きって今の連立与党に文句を言ってくる事はあるまい。……にしても、いい時期に留守にしやがるな。内地はこれから戦争が始まるってのによ』

「…………そうかい?」

『今更、とぼけるなよ、話は聞いているんだろう? どうせ、お前さんの腰巾着共が御注進に来ている頃だと思ったんだ。全く、緘口令も糞もねえよな』

「へへ、これもまぁ、人徳って奴かな」

『目、開けたまま寝惚けるなよ、ジジイ。それじゃあな』

“ハマダオユキ”こと浜口雄幸との会話を終え、受話器をそっと置いた犬養は誰もいない居間で一人、悪魔的な微笑みを浮かべ、面前の姿見に写る己の姿に向かい、呟く。


「第四代朝鮮総督・犬養毅か……悪くねえ響きだ」


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