第6話 桂太郎の遺産
各種数値等につきましては、極力、二つ以上の資料にて確認できたものを採用しておりますが、物語の進行上、当然ながら脚色は行っております。あくまでもフィクションの一部とご理解頂き、ご容赦くださいます様、お願い申しあげます。
ふと、西園寺が思い出した様に、後藤新平に向かい、
「後藤はん、そう言えば、帝都の復興はどないなりそうです?」
突然、声を掛けられた後藤は、ずり下がった丸眼鏡の縁越しに、独特の上目使いで話し出す。
「どうなりそうもなにも、こちらが二五億円の予算が必要だ、って言っているのに、政友会が認めてくれたのは四億八千万ですからね。スズメの涙とは、この事でしょうに。それにまぁ、私はもう直ぐ内務大臣じゃありませんから、心配しても仕方ありません」
あくまでも快活に後藤が応ずる。
「国家予算が十五億足らずなんだ。二五億なんて金、無理に決まっているだろう」
山本が「又、その話か……」と言いたげに後藤の言を受けるが、後藤はまったく意に返さず「ふふん」と鼻を鳴らす。
「だから、前から言っているでしょう。金なら、ある所にはあるん……」
「おい、やめておけ、その話は。壁に耳ありだ。もし、迂闊な連中に聞かれたら、君の命はないぞ」
後藤の言葉を最後まで聞かず、山本が声を荒げる。
「いいか、これは君の為に言っているんだ」
「僕は、元々、医者ですからね。自分の命がどれ位かは分かるつもりですよ」
「ほっ、ほっ、何やら面白そうなお話ですな。麿にも聞かせておくれやす」
西園寺が京にいたのは三歳までである。本来ならば京弁など、全くでる筈もないのだが、この人物の癖らしく、ここぞと言う時には、京弁で話し出す。
「私は席を外しましょうか?」
元老、首相、逓信相、内相と現職の閣僚が居並ぶ中で、尾崎のみは一介の代議士。『格』などというものを気にする様な人物ではないが、政治には政治の流儀がある事も知っている。
「必要ありません」
後藤はニッと尾崎に微笑む。
人懐っこい、実にいい笑顔だ。陰では人が思いつきもしないような大構想をぶち上げる事から「大風呂敷」と罵倒される事も多い後藤新平は、安政四年(一八五七年)生まれ。この時、六七歳。医師免許を持つ異色の政治家であり、若い頃には、旧主家・相馬家の相続問題に巻き込まれ入獄した経験さえある。官僚、政治家としての彼は内務省の衛生畑を歩んだ後、台湾総督民政局長として赴任した際には、数々の殖産興業策を実行し、台湾経営を確立した立役者だ。体制側に身を置き、体制と衝突する、官僚にあるまじき異彩異色の人物である。まぁ、一種の自由人と言っても良いだろう。
(全く、どうしようもない奴だ)
とばかりに山本は咳払いし、京風に薄味で煮付けられた蕪と鴨肉を頬張る。
「売ってしまいます」
「……はぁ?」
犬養が間抜けな声を出す。その声音が面白かったのか西園寺が口元を扇子で隠す。
「何を、です?」
「他言無用に願いますかな。外に漏れると山本閣下が仰せの如く、僕の御尊命に危機が到来致しますので」
わざとおどけた口調で後藤が交ぜっ返す。
「まぁ、聞いてからだな。約束は出来ないよ」
犬養は箸を置き、脇の床几を手前に持ってきて、その上に両肘を預けると顎鬚をしごく。
「それじゃ、困るんですよ。木堂さん」
犬養を雅号で呼びながら、その実
「大して困りはしない……」
と目で言いつつ後藤は続ける。
「満州鉄道、をです」
「……!?」
声に成らない声、驚きと言うよりも、飽きれて声も出ない、正にそんな空気が座を支配する。
「……あれ? 聞こえませんでしたか? 満州鉄道を売ってしまうんですよ」
後藤はさも「どうだ、驚いたでしょう」と得意満面な笑顔で皆を見回す。一人、山本だけが苦虫を噛み潰したような表情で下を向く。右手に持つ箸が膳の上を行儀悪く泳ぎ続けており、その内、諦めたかのように箸置きの上にコトリッとその身を横たえた。
「誰が購てくれますの? あないなもの」
「アメリカさんですよ。勿論」
「面白いなぁ、後藤さんは。実に面白い。それで、仮にですが、全く仮にですが、アメリカが満州鉄道を購入してくれるとしてですよ、一体、幾らで買うと思います?」
尾崎が心底、愉快そうに後藤に尋ねる。
「尾崎さん、僕はね、初代の満鉄総裁ですよ。ロシアがあれを作るのに幾らかけたか、我が国がロシアからあれを奪うのに幾らかかったか、そして今まで我が国があれに幾ら投資したか。みんな知っています。
歴代の満鉄総裁の中で、ロシア語の書類に目を通し、判を押したのは僕だけしょう」
「それにですね、今のアメリカは金が余っている。これは高橋(是清)さんや、井上(準之助)、それに経済ってやつをちょいとかじった人間なら皆、知っている事ですけどね。アメリカさんは、金を投資する先がもうなくなって、欧州大戦の敵国・独逸にまで投資しようとしているじゃありませんか」
事実、である。
米国は欧州大戦(第一次世界大戦)における、唯一の勝利者と言ってもいい。彼の国は大戦中、英仏の経済を支える為に両国の戦時国債を大量に購入し、多額の借款に応じた。それが、大戦終結後の今となって毎年、莫大な金額となって償還され、米国の富を産んでいるのだ。英仏両国は、戦勝国でありながら、米国に対する借款の返済で四苦八苦しており、両国はその恨みを独逸に対する戦時賠償金の苛烈な取立てで晴らしている。例えば、昨年一月十一日、戦時賠償金支払遅延を理由に仏国はベルギーを誘い、独逸産業の中心地・ルール工業地帯を占領し、国際的な批判を浴びたのだが、その傲岸不遜な態度もその表れの一つだって言ってよい。国際的な批判を浴びようとも、当事者たる独逸自身が何も反論できないのを知っての行動である。
しかし、この仏・ベルギー両国の行動は米国財界に新たな投資先を気付かせるのに十分だった。世界がこれ以上、大きくならない様に、投資先にも限りはある。米国財界は、昨年、遂に独逸の産業復興やインフラ整備にまで投資を行うべく政治工作を開始した。独逸は米国が投資した金で産業を再建し、それで上げた利潤を英仏に賠償金として支払い、英仏はその賠償金で米国に対する借金を返す。
これは正しく投資した金が数倍になって米国に戻ってくる絶妙な仕組みだった。どれだけ物を作り、売っても、手元には金が残らない独逸と、どんなに厳しく取立てを行っても右から左に金が動いてしまう英仏両国。独逸が、その天文学的数値とも言われている戦時賠償金を支払い終えるまで、或いは英仏が国債と借款を償還し終えるまで、英仏独の頭の上を金は「鼠の羽根車」の様に回り続ける。
誰もが考えそうで、その実、誰も実行はしなかった錬金術。
――――余談だが、欧州大戦後の今日、世界総生産の実に五割を米国が占めている。これに対して大日本帝国は列強の一角に数えられながらも、米国の1/50に過ぎない。
そして、ここで暴論を一つ。
仮に現代の日本の国力を、当時の米国と同等と仮定してみると…現代日本の地方予算、特別会計まで含めた予算総額をおよそ200兆円として、その1/50となると4兆円。国家予算が4兆円程度の国のひとつがアラブ首長国連邦。例えば、このアラブ首長国連邦が
「将来有望で、確実に莫大な利潤が上がる油田があり、しかもその近接地には、これまた将来、確実に発展するであろう大市場が立地している一帯の利権」
を、まるでバブル期の様に金余り状態の日本に買わないか? と打診してきたとしたら、果たして日本はいくらの買値をつけるか?
おそらくは――――
後藤は言う。
「アメリカさんは、恐らく途方もない金額を打診してきますよ。こちらから売る意志さえ示せばね。例えばですよ、この間、アメリカさんが支那援助の為にポンと中華民国政府に渡した金、いくらだか知っていますか?」
稀にみる政党政治家である犬養、尾崎だが、経済通とは言えない。山本は知っている様だが、後藤の得意げな弁を腹立たしげに聞き流し、沈黙を守っている。後藤は一同を見回し、返事がない事を良い事に、より一層、しゃべり続ける。
「六億二千五百万ドルですよ。六億二千五百万ドル。日本円にしてざっと十二億五千万円。しかもそれだけの金を動かすのに、クーリッジ大統領も、議会も二つ返事だ」
「後藤さん、そいつは本当かい? それじゃ、ほとんど帝国の国家予算と同額じゃないか……。何とも、驚いたな」
「ふん。捕らぬ狸の皮算用、鬼に笑われぬうちにやめておけ、後藤君」
山本がすっかり冷めた燗酒を手酌であおりながら呟く。
「知っとりますえ。その話し」
西園寺が、実に優雅な口調で話し始める。
しかし知っているのは、米国の支那支援の話でも、後藤の満鉄売却案でもないと言う。
「あれは、確か日露が終わったばかりの頃どすからもう二〇年になりますかな。桂はんが総理やった時や。アメリカの鉄道王ハリマンはんと、桂はんが密約を結びましてね。満鉄の株の半分をハリマンはんに売るという話しやった。確か、その時の売値が……」
「一億円であります。西園寺閣下」
先ほどまでおどけていた後藤が、正座をすると居ずまいを正して西園寺に向き直る。
「御存知の様に日露戦争では、おおよそ十八億円の戦費が入用でした。しかるにその内、七億円は国債で、八億円は米国や英国が引き受けてくれた外債、借款などにて賄われました。満鉄株の売却益一億円を元金の返済に充当すれば、利息の払いも少なくなる。即ち、戦争で疲弊しきっていたこの国の経済の立て直しが、数年早まる……と桂閣下は考えられたのです」
「そりゃあ、まぁ、とんでもない高利で借りましたからなぁ……。二〇年経った今でも確か3億近く残っているでしょう? 元金が一億、減ればだいぶ楽になったでしょうな」
と、尾崎。
煙草盆の縁にカツンと煙管をあて、火口を落とした犬養が紫煙と共に毒を吐きだす
「なにしろ先の欧州大戦で我が国が得た漁夫の利……失礼、こいつは、ちと表現が悪いかな? ともかく、その儲けた金に匹敵する様な金額ですからな……。しかし、何ですな、人間、儲け過ぎると碌な事を考えませんがな」
と、そこで言葉を切り、軽く上目使いで後藤を睨みつける。
「まぁまぁ、シベリアの事はここでは置いといて下さいよ、木堂さん」
扇子の柄で頭をかきながら後藤が応じた。
――――というのは、ロシア革命後の混乱期、共産革命の飛び火を恐れた英国は列強各国にシベリアへの共同出兵、すなわち内政干渉を行うように要請を行った。その際、日本政府内ではこの英国の要求に対する是非に関して論争が起きた事がある。
その時、政府内において積極出兵論の急先鋒だったのが後藤なのだ。ちなみにその時、消極論を展開したのが元老・山県有朋であった。権力欲の権化の如く言われ、他閥の者からは毛嫌いされた山県ではあったが先見の明、という点ではやはり一日の長があったのであろう。
蛇足ではあるが、後の政府内における日ソ国交回復交渉の促進派、その中心にいたのも後藤新平である。この辺が「変節漢」と揶揄される所以であろう。
九億円と言う巨費を投じ、四千名を超える死傷者をだしながらも、何も得る事はなかった日本は、列強各国が早々に撤兵したにも関わらず、実に未練がましく最後の最後まで出兵を継続していた結果、世界中から不興と不審を買うハメになってしまったのである。
しかしながら、帝政ロシアが流刑に処し、革命による混乱状態の中で飢餓状態に陥っていた数多くの政治犯、運動家、そしてその家族達、およそ一千余名、所謂『ポーランド孤児』の救出に尽力したのが、日本だけであった、という事実については、もう少し称賛されてもよいであろう。
「反対されたのは、ポーツマスの小村外相でしたな」
西園寺の言葉に、後藤が居住まいを正す。
「西園寺閣下の御慧眼、恐れ入ります。正しくその通りであります。あの時は、桂閣下とハリマン氏の間で契約準備書への署名まで終わっておりましたのに……全く、小村閣下の横槍がなければ、と今でも残念に思っております」
「何故、小村閣下は反対されたのです?」
犬養が、楽屋話に興じるように後藤に尋ねる。
「国が割れると……。ロシア相手に死に物狂いで戦い、やっとの思いで得た勝利の代償が不毛の樺太半分と満鉄、旅順・大連の租借権、それに朝鮮における占有権……。奉天まで占領しながら、ここまで譲歩しなければポーツマスの和約は成らなかったのは皆さん、ご存知でしょう。しかも一円の賠償金も取れない事に怒り狂った民衆が何をしたかも」
「確かに。あの時の日比谷焼き打ちは凄かったよ。小川(平吉)や、小泉(又次郎)が煽り立てたとは言え、荒ぶる民衆の怒り、その凄まじさを痛感しましたよ」
「……なるほど、な。そこへ持ってきて『満鉄の株の半分をアメリカに売る』となれば、陸軍も、海軍も、何より血を流した国民が黙ってはいないだろう、という事か」
おそらく、その契約が成っていたあかつきには
「黙っていない側」
の一人であっただろう山本が、
「小村さんは正解だよ。後藤君」
痩せた鶴を思わせる体躯を後藤に向け、山本は続ける。
「今、この歳になって、二〇年経って聞かされても、剛腹が立つわ。そんなものが締結された事が露見したら、この山本、恐らく……」
「桂を斬った、と」
後藤が、そして尾崎が異口同音に山本の言葉を受ける。その時、犬養がさり気なく、実にさり気なく、爆弾を投じる。
「もし、満鉄を売るのが桂太郎でなく、東郷平八郎だったら、どうなりますかね?」
平成21年11月19日 誤字訂正