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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第二部
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第4話 焦土への道 (4)

「僕は賛成です」

重い空気を打ち破る様に、そう発言したのは最年少閣僚・石橋湛山商工相だった。

石橋は、先程まで新平価での解禁を主張していた筈であり、その素早い変節ぶりには民政党系の閣僚だけでなく、所属する自由党の閣僚までもが驚きの声を上げる。

「資源を有しない我が国が生き残るには、加工貿易で食っていくしかない……それが僕の持論です。加工貿易で国を成り立たせる為には、如何に海外から資源を安く輸入するかに掛かっています。強い円を武器とすれば、それが可能となり、より安く輸入できます。安い資源が手に入るのであれば、加工品も安く輸出できます。結果として、価格競争力もそれなりに維持できる、と考えます」

石橋はここで一旦、言葉を切り、唖然とする同輩を見まわしてから、更に続ける。

一般的に『円高は輸出には不利だが、輸入には有利』、反対に『円安は輸出には有利だが、輸入には不利』とされるが、日本の場合、必ずしもそうとも言い切れない。

国内に豊富な資源を有する資源輸出国なら話は別であるが、輸出に耐えられる様な原料・資源を“幸いにも”有していないので、資源を安く輸入できる円高は、それなりに有利に働く。

円高になれば輸出産業が不利な立場となるのは確かに間違いないが、競争力というものは企業努力によっていくらでも改善できる余地があるのに対し、円安によって輸入資源が高騰してしまうのは世界市場が相手の話であるから、一企業が如何様に努力しても、これはもうどうにもならない。輸入資源以下の金額で加工製品を輸出する事は不可能だからだ。

「国際鉱物市場において相場変動は付き物。その相場の動きに対し、弱い平価では常に振りまわされますが、強い平価を擁していれば、その貨幣の持つ強さによって変動をより柔軟に吸収出来る筈です」

かねてより『加工貿易立国論』を唱える石橋湛山は、あっさりと高橋是清の『1ドル1円論』に鞍替えした。


 石橋の発言に力を得たのか、高橋側近中の側近と呼ばれ、主要穀物専売制担当無任所大臣 として内閣に列する三土忠造が立ち上がり、高橋の解禁論に対し、盛んに賛意を示す。

「内需拡大の後、外需獲得。これこそ国家として至極真っ当な方法ではないか」

もともと遅れて産業革命を迎えた日本の産業では、一世紀も半世紀も前に産業革命を経験した欧州各国と互角に勝負する事は不可能。

だからこそ、明治期日本は国際的に手薄だった製糸産業に国力を集中させ、繊維工業を中心に国力を増強してきたが、同時に他産業への国力注入は後回しにされ、他に見るべき産業と言えば造船業ぐらいなもの、他は極めて未発達。

「ここは多少の苦難困難には腹を括って立ち向かい、荒行に耐える修行僧が如き心境をもって、悟りへの道を進むべし」


「大規模な国債発行というのは承服しかねるが……」

高橋と“犬猿の仲”と見られる山本達雄司法大臣が、暑苦しい視線を周囲に放ちながら言葉を継ぐ。

「内需の拡大を根本において経済発展を狙う、という基本方針には同意する。確かに明治以来、我が国は外需優先でここまで来たが、内地のみならず台湾、朝鮮、樺太と国土も倍増しておる。ここは一旦、例え、立ち止まる事となろうとも国家経済を底上げする好機であると考える。但し、1ドル1円解禁に関しては賛成、反対いずれも今の時点では出来かねる。少し考える時間を頂きたい」


 軽輩の石橋、高橋に近い三土の両名はまだしも、頑迷な山本までもが意外な発言……。

更には積極財政論者として鳴らす元田肇農林大臣あたりも、仕切りに頷いて理解を示していた様子であり、事の次第、成り行きを面白がっているとしか思えない後藤新平帝都復興問題担当大臣と金子堅太郎外務大臣の両者も、高橋に同調しかねない勢い……。

この流れに内心、驚きを覚えた浜口は、このまま高橋が主張する理想論に各大臣が良く考えもせずに雪崩を打つ事に危惧し

「高橋蔵相の言われた1ドル1円での解禁、確かに国家革新、驚天動地の施策と思う。だが、我々が驚きを禁じ得ぬ以上に、国民も驚かざるを得まい。その結果が如何様なものになるか……今、この場で是か非かの答えを出す事を私は出来ない。御同輩諸君も、そうではないだろうか?」

と、閣議を一旦、止めるべく発言し、この言葉に救われた様に数名の閣僚が少なからずホッとした表情を浮かべ、頷く。

「そうだな……各自、一度、己が担当する省庁に戻り、問題点や課題を洗い出し、対応策を練ってからでも遅くはないだろう」


(ここは拙速より、巧遅で行った方が良い)


と、考えた尾崎が浜口に助け船を出し、結論を先延ばしする。


「だが、その前に」

椅子から立ち上がった尾崎はコの字型に並べられた閣僚席の中央に進み出ると、

「本日の議題については、この場限りとし、厳重に緘口令を布く事を提案したい。無論、各省庁の官僚達に対しては、あくまでもあらゆる可能性の一つとして検討させる、という表向きで……」

と念を押す様に見回すと、浜口、床次らも

「うむ。尾崎さん、それが良かろう」

と、同調する。

尾崎、そして浜口らの発言が意味するのは、ここにいる閣僚や、それを漏れ聞いた官僚達が「1ドル1円」解禁論を、資産家や企業、投機筋などに漏らす事だ。

 ――――例えば現時点で、100ドルを持っている人間がドルを売り、円を買えば260円を手にする。

その260円を、「1ドル1円」で解禁した時に、円を売ってドルを買い戻せば260ドルを手にする事となり、何の労力も必要とせず、160ドルという金を儲ける事になる。

これが100ドル程度であれば、何の事は無いが、欧米の金融投機筋にでも嗅ぎつけられたならば、彼らは億単位で『円買いドル売り』を行って巨万の富を手に入れ、代わりに日本の保有する正貨準備高は、たちまち底をついてしまう。

 尾崎は、閣僚一同をゆっくりと睨みつける様に見回すと、冷やかに言い放つ。

「1ドル1円にて解禁すると決定した訳ではないが……もし万が一、投機筋に少しでも円買いドル売りの動きが見られたら……そこにいかなる利点、国益を見出せようとも、この話は全て無かったこと、御破算としたい。禿鷹どもに美味い肉を喰わせる為に、我らは父祖兄弟の血が染み込んだ満鉄を売った訳ではないからな」

浜口も、尾崎の言葉に呼応し、今にも唸り声を上げんばかりに獅子吼する。

「もし、その様な了見違いの売国奴がこの中におるようであれば……この浜口が相手になってやる。生涯、政界はおろかこの国において、寸土たりとも安穏とできる場所を与えるつもりはない故、御一同、肝に命じられよ」




「宜しいかな?」

高橋の隣に座っていた金子堅太郎外務大臣が、軽く手を上げ、発言を求める。

その立ち上がろうとする動きは、高齢故に実に緩慢だ。

「細かい経済の事、予は専門外故、詳しくは分らぬ。分らぬが、一言、申し上げたい」

一同の注視を集める中、一つ咳払いをした金子は、

「今日、苦しくとも、明日に楽があれば、人は頑張れる、これはなるほど道理であると感じ入りました。しかし、古人曰く『人はパンのみに生きるにあらず』とも言いまする。ここに並んでおられる、お若い皆さんはご存じないかも知れないが……」

そこまで言うと、ゆっくり、周囲を見回す。

「明治四〇年の貴族院議会において、予が提出した議案について、覚えている方はおられるだろうか?」

ようやく重苦しい閣議から解放される、とホッとしていた閣僚一同は、長老政治家が突然、言い出した言葉の真意を測りかね、手近にいる者と互いに顔を見合う。

誰もが内心、


(そんな昔話を今更、持ち出されても、一々、覚えている訳がないではないか……)


といった感じだっただろう。


「おぉ、覚えているとも……それは金子さん、いい考えだ。僕は賛成するよ」

「そうだ! 今度こそやろうじゃないか、金子さん。国民に夢を見せてあげよう」


その時、突然、膝を打って賛意を示したのは当時、貴族院議員だった高橋是清、そして後藤新平。

金子を含めた内閣の年長三人組が、突然、張り切り出したのに対し、狐につままれた様な顔をするしかない若手閣僚達……。


 17年前 ―――― 明治四〇年(1907年)、貴族院第二三通常国会。

この時、貴族院の生みの親とも呼ばれる金子堅太郎は、日本における『万国博覧会』の招致開催を呼び掛ける議案提出を行っていた。

日露戦争終結後の間もない混乱期であった事に加え、何ら急ぐような議案でも無かった事から、審議未了でうやむやにされてしまったが、何事にも冷静な金子が、熱を帯びた様な口調で演説したことから一部の貴族院議員の間では語り草ともなっており、本人は後に日本博覧会という民間組織を立ち上げ、今現在に至るまで会長として招致運動を継続している。


「当時の試算では想定来場者数は2500万人、投資額に対し凡そ6倍の経済効果が上がると想定されておりました。如何かな? あれから20年近い年月が経ちました。今ならば恐らく3000万人は固いだろう。折角の震災復興事業、この国が如何に生まれ変わったか、世界に向けてお披露目しようじゃないか」


 年長三人組が盛んに頷き合い、口々に賛意を示し合う姿を、彼らから見たら「若い」閣僚達は、やや白けた眼差しに戸惑いを込めて見守る。


「次回は来年のパリでしたな! その次となると……」

「四年おきですので、五年後の大正十八年になります。ちょうど、うまい具合に震災復興事業が終わる年まわりですよ」

「今現在、スペインのバルセロナと、アメリカのシカゴに招致の動きがあるようです。しかしながらバルセロナは既に一度、開催済みですから、余程の事が無い限り、可能性は低い。問題はシカゴですが……なぁに、予自ら渡米し、彼の国の政財界に膝詰め談判し、必ずや招致を成功させてみせましょうぞ」

「万国博覧会は最新技術の見本市という側面もありますからね。世界に向けて、新しい日本の技術を見せつけ、商品を売り込むにも絶好の機会となりましょう」

「それだけじゃないだろう。海外からの旅行者を考えれば、外貨獲得も狙える」

「3万人……いや、これから先、旅順大連に大勢の米国人が移住してくる様になると考えると……5万、いやいや10万人も夢じゃないな。連中に酒でも飲ませて、たっぷり散財させてやろうじゃないか」

「10万人が500ドルずつ使えば、5000万ドルの外貨か……悪くない稼ぎになりますな、これは」

「アメリカ人は賭け事が好きだって言うからな、賭場を立てて、ケツの毛までむしり取ってやればいい。鴨葱だよ、鴨葱!」

「おいおい、いくらなんでも、それはマズいだろう?」


 どういう訳か、いつの間にか小泉、石橋まで、その輪に加わり、妙な盛り上がりを見せ始めていたが、謹厳な浜口は大きく咳払いを一つすると、

「まぁ……特に反対する理由はありませんので、御同輩諸君に異論が無ければ、その一件は金子外相にお任せしたいと思います。対抗馬がいる以上、実際に招致が可能かどうか、それを見極めてからでもいいでしょう」

と、長時間に渡る閣議の終結を宣言した。



 金子が提唱した『万博開催招致』は、高橋の暴論によって沈んでいた一同の気持ちを少なからず明るいモノへと変化させていた。

誰もが内心、


(我々でさえ、気持ちが軽くなるのだから、国民が知ったら……)


と、考え、次回の閣議において、もし招致の一件が話題にのぼったならば、賛成しよう、と考えるに至っていた。

親しい者同士、肩を並べつつ、三々五々、退室していく閣僚の面々……。

彼らの顔は、明日の苦しみよりも明後日への希望に満ち、少しだけ晴れやかだった。



 灯りの消された閣議室に残る二つの陰。

それは、高橋、そして東郷の両者だった。

「…………上手く行かないかも知れません」

薄暗い闇の中、高橋の言葉が小さく響く。

隣席に座る東郷は、その言葉が耳に入らなかったかのように、何の反応も示さない。

高橋の姿、言葉は、まるで神に告解する懺悔者の様であり、重々しい心労に支配されていた。

「いや……上手く行く筈など、ありません」

呻く様に高橋は告解を続ける。

「臣民を等しく危機に陥れる様な政策、これは最早、民を治める者に許される所業ではありません。しかし、先延ばしすれば、より悲惨なる苦難がこの国に降り掛かるかもしれません。自分としては、どうしても自分の代にて、決着をつけて置きたく、申し上げました。閣下にはご迷惑をお掛け致しますが、御赦し頂ければ……」

そこまで一気に懺悔した高橋は、最後に

「この白髪首一つ、断頭台に差し出すつもりで事に臨む覚悟にございます」

と静かに告解を結んだ。


「国民を塗炭の苦しみに追い込んでおきながら、その首一つで、罪が赦されるとは……いささか傲慢が過ぎましょう」

東郷は、肘掛けにのせた高橋の手に上から自らの手をのせ、力を込める。

柔らかく、ふくよかな高橋の手に、固くひび割れ、角質化した東郷の指先が喰い込む。

「民には……」

東郷は、高橋に顔を近付け、その大きな双眸で高橋の眼を覗き込むと、空いた片手を手刀の形にして自らの首筋をトントンと叩く。

「白髪首二つで勘弁してもらいましょうか」


闇に包まれた閣議室。

腹の底から沸き起る笑い声が廊下に漏れだした。




大正十三年十二月二四日

欧米金融筋がクリスマス休暇に入ると同時に、東郷内閣、臨時国会を召集。

同日、新平価解禁問題を政府に一任する法案を賛成多数により可決。


大正十三年十二月二六日

日本政府、新平価を「1円=金2匁(1.5g=1ドル)」とする事を発表。


大正十四年一月一日

日本、金為替本位制へ復帰。


大正十四年一月四日

東京株式取引所 大発会。

繊維業、紡績業を中心とした輸出関連株、五割を超える大暴落。

取引中止に追い込まれる。



「繁栄と狂騒の二〇年代」を謳歌する米国を機関車とし、世界的な好景気へと各国が突き進む中、日本はただ一人、その列車を降りたのだった。


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