第3話 焦土への道 (3)
「だったら、1ドル1円にするのが良かろう」
激論の続く閣議のさなか、首相として無責任なほどに沈黙を守っていた東郷が突然、そう発言したのは、ちょうど石橋商工相の詰問に対し、浜口内相が強弁していた時だった。
石橋はこの時、
「平価切り上げが経済の成長に資するものならば、世界各国、皆が皆、切り上げを行うはず。それを行わないのは、平価が経済を動かすのではなく、経済が平価の価値を決めるからだ」
と問い質し、これに対して浜口が
「平価の切り上げを行えば、企業は必然的に競争力強化を余儀なくされ、結果として経済成長が促されるのは自明の理ではないか」
と、あくまでも自説に固執し反論していた折であり、それはまるで
「平価が先か、経済成長が先か」
という「卵と鶏」論争の様な不毛な争いとなりつつあった時だった。
突然、東郷が発した冗談に、一瞬、沈黙が流れる。
しかし、それはその奇天烈な内容に沈黙したと云うより、東郷が発言した事に驚いた故の沈黙だった。
程なくして高橋蔵相が、持ち前のカラカラと明るい笑い声を上げ
「それはいいですな。九九の出来ないアメリカ人との商売が楽になります」
と戯れで返し、これを切っ掛けとして殺伐としていた閣議の空気が一気に和む。
「1ドル1円ですか……確かに価格交渉の際に、ソロバンも使わずに済みますな。こりゃあいい」
「高嶺の花だったフォードの新車が、小遣いで買えますよ」
頭から湯気を出さんばかりに熱くなっていた江木・金本位制復帰問題担当大臣も、山本司法大臣も、頭から水を浴びせられたかの様に冷静さを取り戻し、お互いの顔を見合わせ、
(互いに少々、熱くなり過ぎていましたな……)
と苦笑しあう。
浜口、石橋の両者も、頬を赤らめて少々、恥いる様な顔をすると互いに視線を合わせ微かに目礼しあう。
閣僚全員が微笑みを浮かべ、冗談を言い合い、いささか行き過ぎた感のあった閣議を機転の効いた冗談一つで本筋に戻してくれた東郷の大人物ぶりに感服し、頭の一つも下げて詫びようか、と視線を移す。
そして次の瞬間、その場にいた全員が凍りついた。
東郷は、本気だったのだ。
「せがらしかっ! おはんら、勘違いしとう!」
(部下の平参謀どもに笑い者にされた……)
と感じた司令長官は、明らかに癇癪を起こしていた。
「婆さぁに化粧しても、婆さぁだ。若うはならんとに。何故、そいが分らん?」
「え? ……はぁ」
突然、怒鳴り声を上げた東郷の言わんとする事が分らず、一同は気の抜けた様な返事しか返せない。
「腰の曲がった年寄いに、ほんのこち必要なんは杖じゃなか。よか医者に診てもらう金でもなか」
「……?」
「…………??」
「……なるほど、年寄りに必要なのは孫の笑った顔だ、という訳ですな」
一同の沈黙を他所に、主要閣僚として首相の右隣りに座っていた高橋蔵相がそう呟くと、東郷は
「そん通いでごわす」
と満面の笑みを浮かべ、しきりと満足気に頷いた。
「ふむ。面白い……」
高橋は、そう呟くと豊かな顎髭をひとしきり右手でしごき、何やら沈思していたが、傍らの東郷に一礼すると、やおら立ち上がり、依然として呆けた顔をしている閣僚一同に対し、御神託を告げる神主が如く厳かに宣した。
「新平価は1ドル1円とする」
「高橋蔵相、な、何を!?」
突然の高橋の宣言は文字通り、新平価論者も旧平価論者も関係なく唖然とさせた。
「分らないかね? 御一同」
コの字型に並べられた椅子の中央にまで足を踏み出した高橋は、閣僚全員を見渡すと悠然と話し始めた。
「高く跳ぼうと思えば、まず、身を縮めなくてはならない。東郷閣下は、そう言われたのだ」
「言わんとする意味は分りますが、それが1ドル1円と、どういう関係が?」
困惑した表情を隠しきれず、浜口が自党の最高顧問に対して問い質す。
その質問は、その場にいた全員が同じ思いだっただろう。
「1ドル2円だ、1ドル2円60銭だ、などという論議、如何にも生半可。実に中途半端なものであった」
高橋は一旦、ここで言葉を切ると閣僚一人一人と視線を交わし、達観した表情で一同に告げる。
「我ら年寄りが成すべき事はただ一つ。明日のこの国を造る為、今日、この国を滅ぼさなくてはならんのだ」
一瞬の沈黙の後、爆発的な怒号によって閣議室が揺れる。
「馬鹿な!」
「何を……!?」
「蔵相、1ドル1円などで解禁したら、物価は三分の一に大暴落。輸出価格は急騰し、我が国の輸出産業は大資本も小資本も軒並み壊滅してしまいますぞ!」
堪らず、石橋が絶叫に近い声を上げると
「大臣、大臣、お気を確かに! その様な切り上げ、断じて、断じて不可能です。我が国の正貨は瞬く間に底をつきますぞ」
と、江木までもが声を震わせるが、当の高橋はあくまでも悠然と返す。
「そうはなるまい」
当時、日本の国民総生産は凡そ160億円。
不況の今現在、輸出金額は14億5千万円、輸入金額が20億5千万円。
輸出入合わせても35億円、国民総生産に対する比率は僅か2割に過ぎず、海外貿易に対する依存度の低さにおいて、日本は列強中でも最低の部類に属する。
単純に1ドル=1円で解禁したならば、輸出は5億6千万に、輸入は7億9千万に減少し、その差は2憶3千万円。
「今、我が国が保有する正貨準備金ならば、何もせず、手をこまねき続けたとしても数年は持つだろう」
高橋は涼やかにそう言うが、江木がすかさず喰ってかかる。
「それは、輸出が成り立った上での差額計上でしょう? いくらなんでも1円まで切り上げたら、今まで同様の輸出量を維持できるとは思えません」
「ならば、輸出せねば良い」
「はぁ?」
「輸出など、やめてしまえ、と言っておる」
極め付けの暴論に虚を突かれた一同、最早、言葉もなく、閣議室は異様な静寂に包まれた。
「絹を売って、綿花を買うから、綿糸を輸出しなくてはならない。絹を輸出せねば、輸入も減る。これが物の道理であろう」
「高橋蔵相、ここは閣議の場。戯言や虚言を用いて良い場所ではありませんぞ」
言葉を選びつつも、腹の底から沸き起る怒りを隠しきれず、日頃から不仲の山本司法相が険しい表情で難詰する。
しかし、高橋はあくまでも悠然と語り始めた。
「そもそも輸出などという行いは、国内で消費しきれなかった物、余った物を海外に売るのが正道。それを外貨欲しさに国民の消費を抑制し、輸出に回すなどという行為は、物事の道理をわきまえぬ事であった」
「それは……絹や生糸の事ですかな?」
(やれやれ……何を言い出すかと思えば、全く、この爺様は……)
そんな顔をした浜口が、自党長老に対し最低限の敬意を払いながら問い質す。
「然り。絹や生糸に対する税を廃し、国内需要に振り向ければ良い。さすれば、為替の変動に紡績企業は悩まされず、養蚕農家も悲嘆に暮れる事もない。国内で真に余った分のみを輸出するのであれば、輸出量は激減、従って海外における希少価値は高まり、絹・生糸の価格は高騰し、為替の不利など物ともせぬほどに高値で売れる」
「国民皆に古ぼけた木綿や麻布を脱ぎ捨て、絹を着よう……とでも言われるのか?」
「さよう。良い時代であろう?」
高橋はニヤリとしつつ浜口に対し、片目を瞑って見せる。
「馬鹿馬鹿しい」
腰を浮かしかけていた浜口は、高橋のあまりに茫洋として捉えどころのない態度に呆れ果ててしまい、椅子に座り直すと腕を組んでから断じる様に強い口調で言う。
「だが、面白い。面白いが……“希少なる価値”などという優勢、そう長くは持ちませんよ。いずれ、中国が需要に応え、増産してくるでしょう」
「言うまでもない事だが、本邦産の絹が米国市場を制した理由は、ただ価格のみによってでは無い。その均一で高い品質によるものだ。果たして、急きょ増産に転じた中国産に真似が出来るかどうか? 果たして、80万労働者を抱える米国の絹関連繊維工業を支えられる程の品質か? 実際、興味の尽きない所ではあるが……しかし、いずれにしろ、その数年で絹輸出などに頼らなくても良い国を造り上げれば良い」
「蔵相閣下、それでは吾輩の質問に対する答えになっておりません。絹・生糸を内需に回す、というのは分りました。そのような事が可能かどうかは甚だ不勉強につき、今は何とも申し上げられませんが……然らば、外貨はどうやって稼ぎ出すのですか? 手持ちの金が枯渇すれば欲しい物も買えなくなりますぞ」
江木が発した再度の質問に、高橋はニヤリと笑みを浮かべ、滔々と次なる一手を繰り出す。
「何の造作もない。金利を餌に海外から集めれば良いではないか」
高橋の示した一手は、1ドル1円による解禁と同時に、公定歩合を引き上げる、という高金利政策だった。
高金利政策は、国民の消費意欲を減衰し、景気に対する減速効果が顕著だが、同時に国外の資本家・投機筋にしてみれば、余剰資金を元手に短期で安全確実に稼げるので、非常に魅力的な資金運用方法だ。
管理通貨制度下の高金利預金では、為替の変動による元金割れの可能性があるが、固定相場の金本位制に復帰した事により、“円”は通貨としての信用度が急増する。
その“円”が高金利政策に転換する事によって、海外の資本家・投機筋はその金利の旨味を求めて、日本国内の銀行に対し、預金を行う。そして預金を行う為には、手持ちのドルやポンドを売って、円を買わなければならず、必然的に日本国内に外貨が蓄積されていく。
復帰前であれば、“円”の価値など信用できず、海外資本家はいくら札束が余っていようとも、日本の金利がいくら高かろうとも、見向きもしないが、金に兌換できる事が保証されているならば話が違う。
必ずや金利を目当てに海外から資本が流入する筈……。
高橋が言い出した高金利政策自体は、海外資本を呼び込む方法として、当時でも、現代でも珍しい方法ではないし、好景気真っただ中にある米国が、各国に金本位制復帰を促す為に超低金利政策を維持している時代である。
外貨を調達するのに有効な手段であるのは、間違いはない。
「高金利政策で海外から資金を呼び込み、外貨を調達する、ですか……。有効な一手なのは分りますが、時機を逸すると大変な事になりますな」
高橋の腹を探る様な目をした江木が口にしたのは、高金利政策による景気冷え込みの恐れだ。
金利が高ければ、国外から余剰資金が流入してくるのは間違いないが、国内企業としては設備投資を行いたくとも、高い利率が壁となって融資を受ける事に対し、二の足を踏む。
結果、設備投資は停滞し、景気悪化は必定となる。
「その通り。金本位制に復帰した後、当面の間は低金利政策を維持するが、正貨準備の枯渇する前に高金利政策に舵を切らねばならん。各企業には、この舵を切る前までに設備投資を行わせなくてはならんからな。ここの舵取りは非常に難しい。時機が早過ぎれば景気悪化をまねくし、遅ければ正貨準備が底をつき、輸入が途絶える」
「分っていてやる、と?」
「危険過ぎるのではありませんか?」
「そもそも1ドル1円での解禁では、企業は先行きを不安に思って設備投資を躊躇う筈……そうそう、上手い具合に事が運ぶとは思えません」
民政党も自由党も関係なく、次第に高橋の言葉に引き込まれつつも、その金利操作の難しさに異議を唱える。
しかしながら、この質問を予測していた高橋は、そのダルマの如き風貌に怪異なほどの笑みを浮かべる。
「だから言っておるではないか、まずは内需だと。いったい貴公らは何の為の震災復興、臨海港湾中核施設整備計画だと思っておるのだ? こんな美味い餌を目の前に垂らされて、ただじっと指をしゃぶる企業家などに経営者たる資格はない。そうは思わんかね?」
『震災復興事業』は、当初五年間で25億円の予算投下を予定されている一大事業。
予算自体は既に『震災国債』として発行された国債を日銀が引き受ける形で資金調達が開始されており、事業自体も既に始まっている。
この政府予算の投下と同時に倒壊、損傷した企業・団体のビル、個人住宅などの建設需要、加えて交通・通信・ライフラインを中心としたインフラ整備も始まっており、民・民投資額は30億円を軽く超えると予想されている。
もう一つの『臨海港湾中核施設整備計画』とは、室蘭、大湊、高雄、元山、仁川の五都市に対し計画されている所謂『鎮守府設置計画』の正式名称であり、事業年度は大正十三年から大正十八年までの5カ年計画となっている。
指定された各都市に事業主体となる公社を設立し、その建設費は全て長期公社債によって賄うという野心的な計画であり、総事業費は室蘭、大湊が各8億円、高雄、元山、仁川は各3億円の計25億円。
都市間の予算格差が大きいのは、純粋に朝鮮・台湾と内地の諸物価・人件費の差によるもので、建設される規模自体は、ほぼ同等のものが予定されている。
この長期公社債の償還は、5年間の据え置き期間の後に開始、10年間での完済を目指しており、年間返済額2億5千万円は各公社が受注する民間需要によって上がる利益をあて込んでいるのだが、足りなかった場合には海軍や逓信省、鉄道省からの受注で適宜、補う腹積もりであった。
これに加え、それぞれの港湾施設周辺には鉄道や発電施設、工業団地や市街地造成などのインフラ整備が行われ、進出企業は数百社、民・民投資総額は30億から50億円と想定されていた。
「向こう5年間で100億円を軽く超える内需が確定し、その経済効果は更に数倍に達するだろう。真っ当な企業家であれば、我先にと設備投資を行い、増産要請に備える筈……。しかも先々に繋がる生産設備が大半である以上、事業完了後には本格的な外需獲得をあてにできる。その過程で1ドル1円に見合った国際競争力を勝ち得れば良いではないか。これでも不足とあれば国債を増発して、更に10億や20億の事業計画を立てても良いだろう」
この高橋の得意とする積極財政論を聞き逃さず、ガブリと噛みついたのは、正反対に位置する財政均衡論者の山本だった。
「ふん! 結局、国債の乱発で子々孫々にツケを回す気か。長々とやくたいもない話をしおってからに……」
嫌悪感を剥き出しにした山本が放つ侮蔑する様な視線を受けつつ、高橋は退かない。
「山本大臣、それは少しばかり違うな」
「何が、どう違うのだ?」
「僕は国債償還を長引かせる気などはないよ。歳入の増収分でさっさと返してしまうつもりだ」
「ほぉ、増収……。まさか、増税するとでも言う気ではないだろうな? 金利は上げるわ、増税はするわ……この国の景気先行きは内需拡大どころか、見るも無惨に冷え込むに決まっておるではないか」
「政府が税金以外の方法で国民から金を徴収したら、そりゃ、泥棒だよ」
「よくもまぁ、訳の分らぬ事を抜け抜けと……。全く、気でも狂ったか!?」
(最早、我慢の限界……)
と言った風に山本が癇癪を起こすが、高橋は一向にうろたえない。
「さてさて……税金を集める方法が増税ばかりだとは限りますまい。要は納税者を増やせばよいではないかな?」
「納税者を増やす、だと?」
呆気にとられた様子の山本は、半ば腰を浮かしかける。
「簡単ではないか。原内閣当時に定められた累進課税見直しと並行して、最低賃金を取り決める法令を制定し、労働者の賃金を安定向上させ、納税可能な中産階級を倍増させれば良い」
明治の頃、政府歳入において最大の租税は地租であったが、大正もこの頃になると所得税が比重において最も高くなっている。
しかしながら、所得税を納税可能な者は、たったの180万人。地租を収めている者120万人を加えても納税者は日本全国で300万人に過ぎない。
帝国大学卒の国家公務員初任給、平均90円、私立大学卒の財閥系企業勤務者の初任給、平均70円。希少価値の高い高学歴者の給金は米国並みとはいかないまでも、それでもかなり高給取りの部類に入る。
これに対し、一般的な工場労働者の給金23円。しかも、これは初任給ではなく、30代の家庭を持つ一家の大黒柱の平均的な給与額だ。
過酷な肉体労働を伴う炭鉱や建設労働者であっても、その給与は50円には満たない。
結婚前の女性の最有力な就職先である、女中奉公の給金、月に5円。小学校を出たばかりの少年達に至っては、月に2、3円。これでは小遣いにもならない。
1ドル1円での解禁となれば、物価が下落するとはいえ、あまりに低い賃金。
無論、彼らに税金を納める事など出来はしない。
出来る筈もない。
「…………馬鹿も休み休み言え! 企業が競争力を維持する為には合理化は必須。その為に企業は、賃金を値下げするか、労働者の首を切るかの二者択一を迫られようか、という時に、最低賃金を定める法など施行してみよ、企業はいったい、どうやって先々、競争力を維持すれば良いというのだ」
「さすれば問おう。競争力とは、即ち、価格なのかね? 価格さえ安ければ、競争力が維持できるのかね?」
激昂する山本に対し、あくまでも平然と、あくまでも優しく高橋は諭す。
「そうではあるまい……」
「いくら工場を作っても、中身が空っぽでは致し方あるまい。労働者の首を切ると言うのは、工場から魂を抜く様なものだ。『仏作って魂入れず』の故事もある」
皆の冷ややかな反応を眺めつつ、高橋の言葉は終わる事を知らない。そして、その言葉には深い哀しみが読み取れる。
「“猿真似”。欧米人から我が国の産業が、そう呼ばれているのは御一同も知っておられるだろう」
「……」
「正規な手続きを踏まず、特許料を支払わず、製造権を買い取らず……。完成品一台のみを購入し、それを分解して図面を起こし、紛い物同然の劣化模造品を平気な顔で安値にて売りさばく。恥ずかしい。実に恥ずかしい行いではないか」
その言葉に閣僚達は一様に互いの顔を見合わせつつ、
「その様な事、我が国に限らず、どこの国でも……」
「何を今さら……」
と抗弁する。
「この愚か者どもが! うぬらがその様な考えだから、いつまで経っても産業が育たぬのだ。経済云々、平価云々いう前に、まずはその卑しい根性を叩き直してくるがいい!」
特許、製造権、ライセンス生産……呼び方も内容も様々だが、貧しいこの国の企業は、これら正規の手続きを踏まずに模造品を作り出す事によって世界市場を荒らし、顰蹙を買っている。
無論、正式に開発元企業との間で契約が交わされている訳ではないので、図面や情報の提供は受けられない。
商社を介して、製品数個のみを購入し、そこからボルト1本、ナット1個に至るまで現物から寸法を測り、図面を作り上げる。
素材に関してもそうだ。
顕微鏡分析によって素材の組成を調べ、似た様な素材を推測し、あてがう。
結果、どうなるか?
形や機能だけは一通り似てはいるが、耐久性も性能も数段、落ちる模造品しか作り上げる事は出来ない。
結局のところ、「安い円」と「安い人件費」、そして「海賊行為」によって研究開発費を浮かすという手法によって正規の製品よりも、遥かに安い価格で紛い物を市場に流す……。
本来の開発者に対し、金銭どころか、敬意すら払わずに、平然としている企業モラルの低さ。
欧米人から『猿真似』などと嘲られても仕方ないだろう。
この時、高橋が主張したのは『製造権の取得』だった。
それも1ドル=1円という、強い“円”の力によって……。
最新技術の結晶の様なものの製造権でさえ100万ドル前後、話のもって行きようによっては50万ドル程度でも可能だろう。
100万ドルの製造権を購入しようと思えば、現時点ならば日本円に換算して260万円という金額が必要になるが、1ドル=1円ならば、僅か100万円で購入できる。
この高い円によって正規ルートで製造権を買えば、欧米の開発元企業は、図面も、生産技術も責任を持って提供してくれるし、分らない事を質問すれば、喜んで技術指導に飛んでくるだろう。
部品の素材、加工方法に関してもそうだ。
似た様な組成の素材を探り当て、推量任せのいい加減な素材を使わずとも、キチンとした強度の素材を提供してくれるし、必要ならば冶金技術や素材加工技術まで指導してくれる。
何しろ、開発企業にしてみれば、自らは生産設備を拡充しなくても済み、何もせずとも継続的にロイヤリティーが入ってくるのだ。開発元企業としては最高に旨味の大きい商売だ。
価格による競争力でも、貨幣価値による競争力でもなく、真に商品の品質・性能によって競争力をつけるべきではないか……この時、高橋はそう訴えた。
かつて、明治期の絹・生糸産業が世界を制した様に……。
しかしながら、技術開発は情報の蓄積によって初めて行われるものであり、一朝一夕で出来るものでは無い。直ぐに開発出来ないのならば、とにもかくにも製造権を購入し、教えを乞うのが常道であり近道。基礎技術を習得した後、そこから独自の技術開発を目指せばよい。
安直に海賊版を作って売り捌いても、技術の向上には繋がらず、他者の悪評酷評を招くのみ。
高橋は声を大にして主張した。
「海外に胸を張って売れる物を作る。外人が欲しがるような物を作る。購入した者が『さすがは日本製、良い品だ』と言われる物を作る。確かに今日や明日には不可能な事だろう。しかし5年、10年後に、そう言われる様な国、産業にしなくてはならぬ、いや、したいとは思わぬか?」
無論、安全に日本の産業界を導く手立てはある。無理に1ドル1円で解禁せず、長い年月をかけて企業モラルを向上させていけば不可能ではない。
だが、それではあまりに迂遠過ぎる。
安い円相場で買うには、製造権は余りに高価。
しかし、折角、米国から10億ドルもの金をふんだくったのだ。この機を逃す手は無い。
この札束で、海外企業の横っ面を引っ叩き、ありとあらゆる製造権を買い漁り、そしてそこから学んだ欧米の技術に日本独自の工夫を加えた商品を引っ提げ、再び、世界市場に挑戦しようではないか……。
肩で荒く息をしながら吠え続ける高橋の弁舌に対し、その場にいる閣僚はいまだ、納得しない。納得出来る筈もない。
余りに無謀、余りに危険。
その時機、処方を一つでも間違えたならば、この国は未曽有の不況に突入し、明治以来の殖産興業によって培った産業全てが焦土と化す。
夕闇迫る閣議室に長い沈黙が訪れた。