第1話 焦土への道 (1)
大正十三年二月(1924年2月)、大日本帝国内閣総理大臣東郷平八郎、合衆国大統領カルビン・クーリッジの両者により合意、署名がなされた『ワシントン議定書』は、同年5月、両国議会によって採決され、正式に発効される運びとなった。
支払いは正貨の不足に悩む日本側が、米ドル又は英ポンドによる履行を求めたのに対し、円安を利しての輸出攻勢を嫌った米国側が、早期の金本位制復帰を強く求めた結果、金地金による履行を主張。
一時期は、議定書破棄の可能性まで見え隠れする程、両者の主張は平行線を辿ったが、結局、日本側が折れる形となり、同年8月30日、巡洋艦『オマハ』、『ミルウォーキー』両艦に積載された7億ドル分相当の金地金1050トンが横浜港に到着、厳戒態勢の中、日本銀行地下金庫に搬入された。
この翌日、31日には、南満州鉄道株式会社の新経営陣を含めた米国側関係者が関東州に到着、日本側関係者との引き継ぎ作業も開始されている。
また、ニューヨークにおいては合衆国政府、日本政府間において棉麦借款3億ドル分の小切手授受が行われ、即日、現金化された全額が貿易決済事務を取り扱うニューヨーク商品・金融取引所内に有する日本政府口座へ入金を完了、日本政府の有する在外正貨の一部としてプールされる事となった。
――――当時、日本銀行、及び横浜正金銀行に保管されていた正貨準備金は、およそ12億円相当額。
この他にニューヨーク、ロンドンの各取引所内に貿易決済用の在外正貨として3億円余りを預託してある。
震災の影響により大きく円安に振れた時期であったので1ドル=2.6円前後であるとして、15億円と云う金額は単純換算で5億8千万ドル(金地金換算865トン)に相当する正貨準備金を有しているという事になる。
細かい事を云えば、この手持ちの5億8千万ドルと、今回の売却代金7億ドル、棉麦借款3億ドルを一纏めにして考えるのは問題があるが、とにもかくにも、この合計15億8千万ドル(およそ41億円)が、欧州産業界の復興と共に年間貿易赤字額が6億円を超える様になった、この貧しい国の保有している正貨の全てだった。
膨大な貿易赤字によって1年を経るごとに目減りしていく、この国の正貨……。
世界第三位の商船団が稼ぎ出す運賃収入や保険料収入、海外投資の配当や利子収入などによって得られる貿易外収入が、巨額の貿易赤字に対する相殺効果を上げており、国際収支は僅かながらもプラスを計上していたとは云うものの、稼ぎ頭であった南満州鉄道を売却してしまった以上、この先は国際収支も赤字に転落するだろう。
この点において、世界に冠たる大英帝国も日本同様に巨額の貿易赤字を抱える国家ではあったが、世界最大の商船団が稼ぎ出す運賃収入と、長年に渡り投資し、育て上げた海外利権が生み出す莫大な利潤が、同国の国際収支を常に黒字にし続けているのとは大違いだ。
絶対的な性能・品質の低さに目を瞑り、かろうじて円安の利によって競争力を維持しているだけの日本の脆弱な産業では、まともに外貨を稼ぎ出す事は出来ず、国家としての尊厳を守るに必要な物資を輸入するには、手持ちの正貨を取り崩し続ける他はない。
そして正貨が底をつけば、その先には輸入途絶の可能性さえ見える。
さすれば……この国は餓える。
国民の血を代価として、大陸にもぎ取った南満州鉄道、及び関東州租借権という権益を手離す事によって手に入れた“血まみれの10億ドル”を元手に、この日、この国は全く新たな歴史を刻み始める。
時に、大正十三年(1924年)秋。物語は、ここから始まる。
1924年9月1日
(大正十三年九月一日)
東京・千代田区
首相官邸 閣議室
秋になっても、東郷平八郎は内閣総理大臣の椅子に居座り続けていた。
本来であれば「二月事件」の責任を取る形で辞職するべきであったが、この国の誰一人として、彼にその責を問う事を好まず、それを望む者はいなかった。
この日、所謂『第二次・東郷内閣』が発足した。
何故、“所謂”がつくかと言えば、東郷自身が辞職して再任された訳ではないし、閣僚陣にしても、それぞれ単独辞任していった経緯から、本来であれば『東郷改造内閣』と呼ぶべきなのだが、与党構成が激変し、閣僚の顔ぶれも一変していたことから、世間では『第二次』の呼称をもって呼び習わされる様になったのだ。
閣僚二名が死亡し、四名が負傷、内、二名が長期入院という明治以降最大の政治テロ事件『二月事件』から、既に半年……。
東郷内閣の閣僚陣は、それこそ踏ん張り続けた。
少なくとも春先には、死亡した加藤高明内務大臣、横田千之助司法大臣の後任を、出来れば入院加療中の犬養毅逓信大臣、浜口雄幸文部大臣の後任閣僚が親補されても良かったのだが、彼らは歯を食い縛り、一致協力し、事にあたり続けた。
後任閣僚が親補されなかった理由、それは水面下から急浮上した、革新倶楽部と政友本党の合同話し、そして民政党の後継者問題にあった。
前者においては、この合同劇に関与する者全ての思惑が外れ、参加各派による最終調整が長引き、当事者達の想像よりもずれこんでしまったせいだが、それでも、ようやく八月も半ばという時期になって『自由党』は正式に発足した。
後者に関して言えば、総裁、副総裁の死去、党内実力者の浜口が長期入院という事態に対し、残された最有力候補・若槻禮次郎が、盟友・浜口を慮って、積極的にリーダーシップを発揮しようとせず、あくまでも暫定的な処置を講じ続けていた事に原因がある。
もっとも、農商務大臣職に加えて文部大臣事務取扱を兼ねるという多忙な状況の若槻に「党務まで見ろ」というのは、いささか酷な話でもあるだろう。
その民政党役員人事が、ようやく落ち着いたのも、この八月に入ってからの事だった。
「迂闊に新閣僚を迎えれば、政策の一貫性を損ない、政局を流動化させる原因になりかねない……」
それが、当時の閣僚一同共通の危惧であり、それを未然に防ぐには、党派を超えて協力し、政局が安定化し始めたこの時期まで踏ん張り続けるしかなかったのだ。
民政党、自由党の“御家事情”はともかくとして、東郷政権が存続した最大の理由、それは「次期首相奏薦システムの機能不全」だろう。
最後の元老・西園寺公の死により、新首相適任者を「お上」に奏上する者が誰もいなくなってしまったのだ。
当初、伊東巳代治、平沼騏一郎、清浦圭吾などの実力者を擁し、「天皇の顧問官」を自負する枢密院が
「我らこそ、この役目を負うべきだ」
と鼻息荒く意気込んだが、官僚出身の有識者によって構成された山県閥最後の牙城に今更、その様な権力を与える事を政党勢力は望まず、更には比較的、立ち位置の近い貴族院からでさえ、賛同が得られる事はなかった。
続いて、西園寺公の育てた貴族院の若手議員・近衛文麿や木戸幸一などの「新・宮中グループ」が
「我らこそ……」
などと気負い立ってはみたものの、毛並みの良さを誇るだけで、何ら政治的な実績の無い若い彼らを、まともに相手にする者などいる筈もない。
彼らが夢想していた己自身の政治的権威などというものは「西園寺公のお気に入り」以上でも、以下でも無く、力の根源たる老公の死と共に、彼らは“揺り籠”から一歩も足を踏み出すことなく、その権威頼みの政治権力はあっさり、終わりを告げた。
結局、首相奏薦を為す者が誰もいない……という、恐ろしくマイナス思考な理由を持って、東郷政権は続投を余儀なくされた。
それを本人が望んだか、望まなかったのかは別として……。
そして迎えた大正十三年九月。首相官邸において「第二次東郷内閣」の初閣議が今、行われ様としていた。
この年一月の政権発足時、『海の東郷』と組んだ『陸の秋山』は、今、この閣議の場にいない。
秋山は先頃、陸軍大臣の職を辞し、参謀総長へと転じたのだ。この参謀総長への補職により、既に教育総監、陸軍大臣の座を歴任していた元帥・秋山好古陸軍大将は、故上原元帥に次いで史上二人目の「陸軍三長官」を務めた事となり、名実ともに陸軍の最高実力者となった訳だが、むしろ、本人的にはその様な生臭くも面倒臭い裏話よりも、単純に武の象徴たる、この参謀総長への親補を実に無邪気に喜んでいたと云う。
この秋山の一件に限らず、ここ半年間は陸軍にとって予想だにしない事が、次から次へと連続的、且つ連鎖的に発生した特筆すべき時期であった。
中でも、「二月事件」直後、体調不良を理由として定年を1年前にして、突然、予備役編入を願い出て周囲を慌てさせた長州閥の総帥・田中義一陸軍大将の進退がもたらした影響は大きく、“人身御供”として道連れにされた陸軍将官は数知れず、とまで言われた。
ただでさえ、上原元帥、町田大将、福田大将の三名が凶刃に斃れた直後の時期であり、そのタイミングで「上原亡き後の陸軍最高実力者」と目されていた田中大将以下の数十名に及ぶ将官達が予備役に編入された事により、陸軍の人事体系は一時的に大混乱に陥ってしまい、大きく揺れ動いた。
大庭二郎教育総監、山梨半造参議官を始めとした長州閥の大将、中将達が六月頃には続々と予備役に編入され、これに続く様に盆の頃には、河合操参謀総長を中心とした九州閥の面々も次々と現役を退いた。
有力将官の予備役編入は組織の新陳代謝を促し、世代交代による活性化をもたらす。
残された現役将官のうち、中将位にあった宇垣一成、白川義則、鈴木壮六、石光真臣の陸士一期組四名が第一陣として大将に昇進し、その抜けた穴を埋める事となったが、重要だったのは長州閥系の人物と、九州閥系の人物が僅か三ヶ月に満たない期間ではあったが、その予備役編入に際して時差が生じた事だった。
その僅かな期間、朋友・上原が秋山へ贈った形見・九州閥の面々は、亡き頭領の遺言を忠実に守り、正しく秋山の手足となって動いた。
「秋山閣下の意のままに動く様、陸軍を完全に掌握する」
彼らは、この目的の為に一丸となって水面下、暗躍し、目的が達せられた事を知ると、潔く退いていった。
秋山の参謀総長転出と時を同じくして、教育総監には「二月事件」において重傷を負った渡辺錠太郎少将が傷の癒えるのを待って中将昇進の上、親補されていた。
渡辺は陸士八期。
正に大抜擢の人事であり、一部からは事件に際して秋山の盾となって負傷した事に対する論功賞人事などと、陰口を叩かれもしたが「渡辺中将は秋山元帥にとってなくてはならない女房役なのだ」と理解もされた。
当人、特に渡辺にとっては至極、迷惑な話だったであろうが……。
大将級の大物が次々、予備役にまわった結果、繰り上がり当選した形で九州閥の継承者となった石光真臣大将は、朝鮮軍司令官に転出、関東軍解体後の最前線部隊を預かる事となった。
これと同時に、田中の後継者と見られていた陸士一期筆頭・宇垣一成大将は台湾軍司令官に転出。
これに関しては、石光大将の朝鮮軍司令官親補とは対照的に「事実上の左遷ではないか?」と邪推好きな雀達に噂され、しかも結果としてこの人事により“頭”を失った形となった長州閥は、完全に命脈を絶たれる事となった訳だが、自分に絶対の自信を持つ宇垣本人は
「藩閥解消には良い機会。いずれ、内地に戻ったら実力で宇垣閥を作ってやる」
と、この左遷人事を鼻先で笑い飛ばし、むしろ喜んだ様子だった、という。
余裕たっぷりで外地に赴いた宇垣とは逆に、台湾軍司令官だった鈴木壮六大将が内地に呼び戻され、新設の機甲兵総監に親補された。
騎兵科出身の鈴木は、準長州閥的な存在ではあったが、それ以前に根っからの「騎兵屋」であり、同じ「騎兵屋」の秋山とは、正しく「馬が合い」、以前からすこぶる仲が良い。同期の宇垣とは、盟友と言っても良い関係にはあるが、宇垣の様に政治的な野心がある訳でもなく、むしろ人物のタイプとしては豪胆そのもの、“総身が胆”と云われる秋山に近いのだ。
関東軍司令官だった白川義則大将は、同軍最後の司令官として、その臨終に立ち会った後、新設の航空兵総監に親補されていた。白川は、元を正せば工兵科の出であり、「工兵科で航空科を仕切る」という故・上原の希望を秋山が入れた事から成立した人事だろう。同時に白川は、秋山に絶対的な忠誠を誓う股肱の臣といっても良い存在であり、宇垣・鈴木とは陸軍改革を目指す同志でもある。
新たなる布陣となった陸軍。
「三長官」と呼ばれた陸相・総長・総監の三者鼎立時代に比べると、機甲兵、航空兵の両総監部が独立・新設された事により、相対的に教育総監部の職掌範囲は著しく権限を縮小される事となり、しかも、三人の総監(渡辺教育総監、鈴木機甲兵総監、白川航空兵総監)はいずれも、秋山に近い人物で固められた。
その上、鈴木、白川は大将だが、渡辺が中将という事もあって、この第二次東郷内閣の時代以降、教育総監部は陸軍省、参謀本部に比べ格下の部署と見られる様になり、「三長官」という尊称で呼ばれる習わしは、数年を経ずして完全に消滅する事になったと云う。
第一次東郷政権の最大の課題が「満州鉄道売却問題」であったとすれば、第二次東郷内閣が目指したもの、それは「金本位制への復帰」だった。
しかし、金本位制への復帰は手段であって、目的では無い。
あくまでも、目的は「経済の安定化」であり、金本位制への復帰も、それがもたらす事になる為替相場の安定も、手段と経過に過ぎない。
本来であれば日本は先の欧州大戦終結直後、総額27億円もの正貨を有していた建国史上、最も豊かな時期に米国が先陣を切った金本位制への復帰を行っていれば、何の問題もない筈だった。
しかし、中国大陸への影響力保持を狙って実行された対支借款や、シベリア出兵に伴う輸入の激増、国内の物価高騰が時の政府をして、踏み切らせる事を躊躇わせた。
更に世界的な過剰生産による反動不況が発生し、それに伴って輸出は不振に陥り、輸入は右肩上がりとなって貿易赤字が急増。
その後も度重なる問題噴出により、金解禁に対して逡巡し続けていたこの国に、まさしく『止めの一撃』となったのが大正十二年九月一日に発生した『関東大震災』だった。この震災が経済に与えたダメージは計りしれず、「震災手形」という名の不良債権が大量に生み落とされる。誰もが内心「この手形は不渡りになるだろう」と思っていながら、皆が見て見ぬフリをし続けた結果、経済状況の不安定化が一層、進行し、それはただでさえ不安定な為替相場を更に悪化させた。
そんな中、四憶円を超える震災手形のうち、最大の振出人だった鈴木商店が安田財閥と資本提携を行った結果、同社は飛躍的に経営状態を安定させる事に成功した訳だが、全体的に見ればこの様な明るい兆しは少ない事例であって、この時点では、まだ二億円以上の潜在的不良債権が日本経済の奥底に潜み続けているのも事実だった。
不況は長引き、国内物価は高騰と急落の乱高下を繰り返し、先の見えない企業や消費者は、必然的に買い控えに走る。不況特有の『負の連鎖』が、日本国内を駆け巡り、結果として不況は更なる長期化、深刻化の一途を辿り、設備投資を控えざるを得なくなった企業の多くは、合理化等の企業努力をする以前に、投機的な為替相場に経常利益を翻弄されるだけの運命を享受せざるを得なくなり、その皺寄せは末端の弱者的な存在である農民に対しては農作物価格の引き下げとして現れ、労働者に対しては賃金カットとして現れる。
貧しき庶民の生活は、より貧しく、より悲惨なものへと変化を加速させていった。
「為替が安定しさえすれば……」
それが、絶対的な為替相場安定をもたらす金解禁待望論へと繋がり、この時代の共通認識となっていくのに時間は掛からなかった。
問題となったのは、金解禁時の平価だ。
平価とは、その貨幣の価値設定であり、円本来の価値は「1円=金0.75g=約0.5ドル」つまり、2円=約1ドルだ。
現在の為替相場よりも円高に設定した金解禁を行う事により、実態が無いまま膨張した輸出企業の整理統合を狙う民政党は、この所謂『旧平価』による解禁を主張していた。
これに対して、もう一方の与党・自由党は、犬養毅が重用する石橋湛山の主張を取り入れ、経済的な軟着陸を目指して現行為替相場に合わせて1ドル=2円60銭に切り下げた『新平価』での解禁を目指していた。
欧州大戦以降、金本位制へ復帰した多くの国々は、戦前と戦後の物価上昇や外国為替相場の変化を受け入れ、通貨切り下げを行った上で、『新平価』による復帰を果たしている。
例えば、この時点では復帰していないが、後に復帰するに際してフランス政府は国内諸勢力の猛烈な反対を押し切って、自国通貨レートを対ドル5分の1切り下げを行っている。実のところ、これにはカラクリがあり、復帰時点においてフランは20%も価値が下落していた訳ではないのだが、実勢以上の通貨切り下げによって、意図的な「ドル高フラン安」状況を作り出し、輸出産業の振興を狙ったのだ。
このハタ迷惑、且つ反則技的な経済政策のお陰で、後の世界恐慌に際してフラン圏は2年以上も恐慌の悪夢に巻き込まれることなく、持ち応えることが出来た訳だが、いずれにしろ、戦前に比べて世界の中でフランスという国の相対的な力が低下していたのも事実だ。
しかしながら、「通貨の切り下げ」とは、その経済政策上のメリットとは別な問題として、その国の政府、指導者層自らが
「四年間に及ぶ悲惨な塹壕戦を戦い抜き、多くの国民に犠牲を強いながらも栄光ある勝利を手にした我が国は、戦前に比べて弱くなりました」
と公言するに等しい行為であり、それは当時の一般的な国民感情からすると「裏切り」であり「国辱的」な行いである事は間違いないのである。
その点に於いて、日本も例外ではない。
「平価切り下げによる金解禁は、国辱行為である」
そう考える人間は、想像以上に多いのだ。
そして、もう一つ。
純粋に法律の手続き上の問題もある。
自由党の主張する現行為替相場にあわせ「1.3円=金0.75g」に平価切り下げを行う場合には、衆議院、貴族院に於いて正式な可決を待たなくてはならないが、民政党が訴える明治期に定められた「1円=金0.75g」での解禁であれば、金輸出を禁止した(つまり金本位制を離脱した)大蔵省令を解除するだけで済み、手続き的には政府の判断一つでいつでも実行が可能なのだ。
『旧平価』による解禁か、『新平価』による解禁か。
全ての引き金となった大地の怒りより、ちょうど一年。
日本の運命を決する大論争に終止符をうつべく、それぞれの政策を胸に秘めた新閣僚達が、ここ首相官邸・閣議室に参集しつつあった。