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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
55/111

第55話 終演

1924年2月26日

(大正十三年二月二六日)

中華民国・山東半島 威海衛


 二週間余り前にシンガポール軍港を発した英国東インド戦隊が香港を経由した後、今まさに、戦隊司令官ハリー・ウィンダム海軍中将指揮の下、続々と威海衛に入港を開始したところであった。

従うは、旗艦・戦艦『マレーヤ』以下、『ヴァリアント』『ロイヤル・オーク』、巡洋艦『カースター』『コンスタンス』『コーマス』『コンクエスト』、モニター艦『テラー』『エレバス』、そして11隻の駆逐艦を始めとした多数の支援艦艇や、鉄道敷設の技術支援を担う1個王立工兵連隊……。

これとは別に2隻の駆逐艦に護衛された輸送船団が、天津外港を目指しており、そちらも本日中には到着するだろう。

輸送船団には、1個歩兵旅団と所要物資が満載されており、当面の行動に問題は無い。

 威海衛に常駐艦隊を配し、天津駐屯軍を強化した英国の狙いは、北京政府を支配する大総統・曹昆、陸軍参謀総長・呉佩孚という直隷軍閥政権の“後見人”という英国の立場をより一層、各国に印象づけ、牽制する事にあった。


 この時代、天津には『義和団の乱』に便乗して列強に挑戦し、無惨にも敗れさった清政府と、それを返り討ちにした列強各国政府の間に締結された『北京議定書』に則り、列強の派遣部隊が駐屯している。

その言わば『列強連合軍』中、これまで最大の戦力を擁していたのが日本陸軍の北支派遣軍であり、現在、歩兵1個旅団を基幹戦力とした部隊が駐屯している。

これに次ぐ規模の兵力を派遣しているのが、凡そ1個連隊相当の兵力を展開するフランス陸軍で、以下イギリス陸軍が2個大隊、イタリアが海軍歩兵1個大隊相当、ベルギーが中隊規模の兵を駐屯させており、いずれも自国の権益の象徴である『租界』に万が一の事があれば、直ちに必要な行動に移れるような態勢をしいている。

 この1個旅団増派により、英国は天津駐屯の歩兵2個大隊、威海衛駐屯の歩兵1個大隊に今回、派兵した工兵1個連隊を合わせて、華北全体で師団規模を超える兵力を展開させる体制を整える事となり、日本、フランスを凌ぎ、列強連合最大の派遣国となる。

 これまで列強は、英国に限らず、経費がやたらとかさむ駐留を極力手控え、少なからず権益保護の役割を中国大陸の至近に位置している日本に期待していたものだったが、東郷政権の満州権益売却とマクドナルド政権の駐屯軍増強、そして威海衛への艦隊派遣という新展開により、権益保護の担い手は確実に日本から英国へと移り変わり、これにより英国は

「我こそは列強の盟主なり」

という自負を、より鮮明に打ち出す事になったのだった。


 「広大な中国において、たった1個師団程度で何が出来る?」

と言ってしまえば、それまでであったが、英国に租界網の構築以上の領土的な野心がある訳ではない。

加えて言うのならば、例え50個師団を投入しようとも、広大かつ人口過多な国土を持つ中国大陸を軍事的に征服するのは、インドを征服する以上の難事と言わざるを得ず、それを欲する様な人物の類は最早、夢想家の謗りは免れない。

 しかし、列強に勝利した経験を持たない北京政府にとっても、民衆にとっても、これが想像以上の脅威であり、恐怖である事は疑いようもない事実。

 列強連合の天津駐屯軍、それはまさに中国を半植民地の立場に留め置きたい列強の欲望が、北京政府の喉元に突き付けた銃剣の切っ先に等しい存在なのだ。


 義和団事件より、既に二十余年が経ち、当事者が清国政府から北京政府へと移り変わったにもかかわらず、継承国家となった政府は四億五千万両という途方もない金額の戦争賠償を分割払いし続けており、その元利負担は決して北京政府にとっても、国民にとっても軽いものは無い。

年額9千万から1億両程度に過ぎない国家歳入の内、4分の1が賠償金弁済に充当され、残った予算の半分は列強への借款弁済に充てられる現状……。

しかも、僅かに手元に残った予算の大半は、軍事力(即ち、政権を握る直隷軍閥系部隊)と、『義和団の乱』の様な事件を二度と起こさない為に警察力の強化へと集中投下されてしまう為、国民の生活向上やインフラ整備などといった近代国家に必要なものへの予算割り当ては、全て後手へ後手へと回ってしまっている。

この「中央政府が地方に予算を投下できない」という状況が、中央政府の求心力を失わせると同時に各地方の反感を買い、それがまた地方軍閥の誕生と成長を促進し、勝手気ままにふるまう軍閥による極度の地方分権志向が、統一された近代国家としての体裁をいつまで経っても中国が備えられない原因となっているのだ。

 その元凶全てが、この『北京議定書』に集約されている、と言っていいだろう。



 「英国艦隊、北上す」

その第一報を日本海軍が知り得たのは数日前に遡る。

事前にロンドンの山本権兵衛から緊急電にて通告されていたとは言え、戦艦3隻を主力とした英国艦隊の北上という事実に日本海軍が緊張を強いられたのは言うまでもない。


「来るべきものが、来たか……」


 多くの将帥が、その知らせを聞いた時、改めて『日英同盟』という一つの時代が終焉した事を実感した…というが、その割に日本海軍の反応は恐ろしく鈍い。

日英間に『戦争』を想起させる程に重大な政治的、経済的な対立が存在しないことも理由の一つであったが、何より

「威海衛は英国の租借地である」

という事実は、25年以上も前から受け継がれてきた現実でもあったからだ。

そこを英国が軍事拠点化しなかったのは、一重に『日英同盟』の存在があったからであり、英国政府が単に日本政府に対して気を遣っていたからに過ぎない。

 その日英同盟が存在しなくなった以上、英国が自国の有する極東権益の保護を日本に依願し続ける訳にはいかないのも確かであり、だからこそ租借地の防衛措置を自前で講じるのは至って自然な事だ…とも思える。

まさか、日本に青島権益を返上させておいて、自らは租借期限を延長する、という外交的離れ業を見せるとは思ってもいなかった訳だが……。



 遠からず、旅順・大連を含めた関東州全体を米国が軍事的な策源地とするのは、満鉄を売却する以上、日本政府も、そして帝国陸海軍も覚悟の上だった。

しかし、それに加えて朝鮮半島の対岸である山東半島の東北端に英国が軍事拠点を有するとなると、日本としては国防計画の策定を始めから練り直さなくてはならない。

大正十二年に改訂されたばかりの最新の『帝国国防方針』に則れば、

『国連外交を基調として、これを最大限に活用しつつ、その時々の最大脅威となる仮想敵の国際的孤立を誘因、先制と短期決戦によって外交的に優位な態勢を築く云々……』

とあり、基本的には国際協調による不戦方針を堅持しつつ、仮想敵に対しては外交と軍事の二本立てで迫る…という至極、真っ当な政戦両略方針を固めていたのだが、その実、内容は抽象論に終始し、具体的な同盟関係の記述がなく、仮想敵の名前ばかりが列挙されている、というのが現実だった。

 それは、この時点において、日英同盟解消後の日本外交の基本方針が、全く固まっていなかった事を雄弁に物語っている…と言えるだろう。

 


 海洋国家たる日本の軍事力が、陸軍に比べて海軍に偏るのは致し方の無いこと……この事は、帝国陸軍の将帥達も十分に分っていた。

 陸軍の仮想敵たるソ連、海軍の仮想敵たるアメリカ。

直接的な脅威は無論、全ての面で日本を遥かに凌駕し、且つ、先頃の東郷訪米のドサクサに紛れて議案提出が見送られたものの『排日移民法』制定という反日的な動きを見せた米国の方だ。

もし、この排日移民法(正しくは新移民法)が、そのまま議会を通過し、成立していた場合、

「日本人を他のアジア人と同列に扱うのか!」

と日本人は、これを国辱と考え、激昂していただろうし、その結果、日米関係は決定的に悪化していた事は言うまでもない。

 誤解の無い様に申し添えるが、これは「日本人が、他のアジア人を見下している……」という訳ではなく、独立国である日本の国民と、欧米の被支配民である植民地住民(植民地住民と宗主国住民では、法律上の権利が同等では無い)を書類手続き上、同等に扱う、という純粋に法律的な点に問題があるのだ。

 故に、この排日移民法制定の動きが活発だった大正12年に改訂された帝国国防方針において米国は

「いずれ遠くない日に雌雄を決する事になる相手」

と認識され、仮想敵国の第一位とされたのだ。


 そして今、「排日移民法が成立しなかった…」とは言うものの、米国議会の日本蔑視という風潮が劇的に変化した訳ではなく、これはあくまで「今回は…」という注釈付きの話に過ぎない。

巨大な経済力、工業力、そして海軍力を有する米国の脅威に比べれば、渡洋侵攻能力を持たないソ連の脅威など現実的には内地が安全である以上、国防上の問題というよりも、経済上の問題であって実際にはタカが知れている。

だからこそ、海軍の主張する米国脅威論が優先され、陸軍の説くソ連は第二位とされ、以下、中国、英国…という順序になる事に、陸軍は納得していたし、その脅威順に従って予算が配分され、戦備を整える事にも納得していた。

 しかしながら、「対米戦は海軍の担当、対ソ戦は陸軍の担当」という陸軍側の抱いていた、良くも悪くも、単純化した縦割り思考的な基本認識を

『満鉄売却、関東州租借権譲渡』

という状況が一変させてしまったのだ。

―――間もなく朝鮮半島の目と鼻の先、関東州に最大脅威の仮想敵・米国の一大軍事拠点が出現する。

しかも陸路、繋がった状態で……。

 この情勢の劇的変化に呼応した、新たなる帝国国防方針策定にあたって、陸軍自身の仮想敵第一位に米国が昇格するのは、必然だったと言えるだろう……。


英国による天津、威海衛への兵力増派、艦隊移駐。

米国による関東州租借。

そして、間もなく日本が建設に着手する予定の仁川鎮守府。


 僅か半径100浬足らずの円内に、三大海軍国・五大陸軍国に数えられる列強三国の拠点が鼎立した事から、この黄海沿岸地方は後に『極東の弾薬庫』と呼ばれる世界屈指の軍事緊張地帯として周知される事となり、大国間に過度の緊張状態と自制心を要求する根源ともなった。

この日を境として、東アジアの地政学は、全く新たなる局面を迎えたのだった。





大正十三年二月二六日

(1924年2月26日)

神奈川県 大磯 妙法寺


 民政党総裁・加藤高明内務大臣の密葬が、ここ加藤の私邸から程近い名刹・妙法寺において行われた。

いずれ、民政党の党を上げての告別式は行われる事になるであろうが、総選挙直後の混乱期に加え、党序列第一位と第二位が殺害され、第三位が入院中という状況では、それもままならない。

 現在、帝都東京は戒厳令下におかれ、副総理兼陸相の秋山大臣が負傷の身を押して事件後の騒乱を収めようと手を尽くしており、総選挙が予定通りに行われた事が功を奏したのか、或いは東郷の威光、秋山の人徳によるものか、今のところ、国内に不穏な動きは無く、事態は徐々に終息へと向かいつつある。

 しかしながら、内務大臣・加藤、司法大臣・横田が冥府に旅立ち、逓信大臣・犬養、文部大臣・浜口が長期入院という状態は、事実上、内閣の機能麻痺に近い状態とも言えるだろう。

内閣書記官長の尾崎行雄が秋山を補佐し、農商務大臣・若槻が文部大臣事務取扱を、大蔵大臣・高橋が司法大臣を、鉄道大臣・仙石が逓信大臣事務取扱を、復興院総裁・後藤が内務大臣を兼務する事で、何とか東郷の帰国までを繋ごうと結束して動いてはいるが、それぞれが多忙を極めており、同輩閣僚の加藤の葬儀にさえ出席できずにいる、というのが実情だった。


 列席者の一人、警保局長・川崎卓吉は怒っていた。

温厚この上ない、この男の平素を知る者であれば、その尋常一様ではない怒り方に、さては憑き物でも憑いたか? と思うほどだ。

 その理由を問いただせば、出世街道から外れていた川崎を顕職に抜擢してくれた加藤に恩義を感じていたからだ…とも言えるし、その加藤を目前で殺された事に怒りを感じていたからだ…とも答えるだろう。

しかし、何よりこの温厚一途な男を憤らせているのは、これほどの大事件にも関わらず、警保局長という、この国の治安維持責任者にでさえ真相が知らされぬままに、事件の捜査が一つの方向性を持って、予定された結果に向かって進んでいく事だった。


 川崎とて官僚。国家の中枢に位置する者である以上、世間に露見させられない類の事件があることぐらい理解は出来る。

……だが、解せない。

加藤内相や横田法相ら政府要人への襲撃に関してならば、北一派の過激な行動も理解は出来る。

彼らは国家主義者として、満州鉄道売却を策した現内閣要人に対して凶行という手段で抗議したのだ。

 しかし、上原元帥、福田大将、町田大将の殺害、更には同日、襲撃された陸軍省の二等主計某、それに昨日の西園寺公殺害……これらがどうしても、北と繋がらないのだ。

そして事件をより難解な物にしたのが、首謀者・北一輝を殺害した者の正体だ。


(いったい誰が…?)


 それにもう一つ…。内務省の管轄では無い為、直接、事情を聞けなかった参謀本部襲撃時の生き残り、秋山陸相、渡辺次官、武藤次長らが、憲兵隊の聴取に対し、口を閉ざしていると云う噂だ。

 無論、彼らが口を閉ざした理由は、上原の気持ちを重んじて福田大将の犯行への関与を隠蔽する為であったのだが、その様な辛気臭い「男と男の約束」などという、別次元の事情があるとは、川崎は知らない。


 川崎の疑念は増すばかりだ。

口を閉ざす陸軍幹部、そして皆目見当のつかない北一輝殺害実行犯の正体。

横田法相、高橋蔵相を襲撃し、その場で取り押さえられた実行犯が、北の名を捜査関係者に自白し、その情報を元に警視庁の捜査員が北の邸宅に踏み込んだ時には、既に当人と書生二名は殺害されていたという事実は、捜査関係者を混乱させていた。

 今、捜査方針は明らかに「全ては過激な国家主義者・北一輝が企図し、その扇動によるもの…」という方向で、事件の収拾を図ろうとしている。

首相不在の今、これ以上、混乱を長引かせる訳にはいかないし、正直、それ以外の収拾方法は思い浮かばない、というのが実情でもある。


(北への報復に……陸軍が関与しているとしたら?)


突然、川崎の脳裏にその発想が浮かぶ。

同時に彼は戦慄した。


(秋山大臣ら陸軍首脳が聴取に応じない理由は、彼らが、北に対し報復したからなのではないのか?)


完全なる誤解が一本の線として繋がり、より一層、疑念は深まる。


(そうか……軍が関与しているのか……)


 川崎の頬が粟立ち、腹の底には怒りの炎が赤々と燃え始めた。

公用車の後部座席に乗り込むと運転手に行き先を告げ、己の内務官僚としての最後の大仕事をやり遂げるべく、決心を固める。


(秋山閣下ほどの人物でさえ……)


(軍という組織は、そこまで堕ちてしまったのか…)


 “民政党系警察官僚”と陰口される通り、現職・警保局長を退任の後は、民政党系貴族院議員という地位が約束されている川崎卓吉の失望は大きい。

だが、その失望こそが彼に“中立であらねばならない”官僚としての自覚を生み出す事となり、その自覚が、強固な意志を生み出す。

 この日を境として、軍部に対して強烈な不信感を抱いた彼は、中堅・若手の内務官僚達を時には叱咤し、時には扇動し、政府・与党に対して警察力の強化を求める運動を展開、その運動は巨大省庁・内務省を団結させ、巨大なうねりとなって動き出す。


 一人の人間の善意が、一人の人間に小さな誤解を植え付け、それが後の日本史、そしてアジア史を塗り替える事象を引き起こし始めた瞬間だった。





1924年2月26日

(大正十三年二月二六日)

大英帝国 ロンドン ビクトリアエンバンクメント 

ナショナル・リベラル・クラブ


 明治・大正期、日本の政治家に対して

「海外の政治家で最も尊敬する人物をあげよ」

というアンケートをとったとしたら、まず、間違いなくその筆頭にあげられると思われる人物は、19世紀中期から後期にかけて英国自由党の領袖として四度に渡って英国首相を務めたウィリアム・グラッドストーンだろう。

 自由主義のあくなき追求、民族・国家を超越し、正義と平等を求め続けた彼の高邁な精神性、そしてアヘン戦争を始めとした全ての侵略戦争を「国家の恥」と断じた勇気ある言動。

彼の理想とした比類なき正義は、都市部高学歴・中間所得層を支持母体とする自由党に連綿と受け継がれ、20世紀初頭にはボーア戦争を激烈に批判し、植民地解放を叫んだヘンリー・キャンベルを歴史の表舞台に登場させ、第一次世界大戦後半期においては神業外交を駆使し、英国を勝利に導いたロイド・ジョージを輩出するに至る。

 重商主義的帝国主義を否定的に捉え、植民地の存在を無用と断じ、自治権の付与に熱心だったグラッドストーン流『小イギリス主義』であったが、その理想とする社会が完成を見る事はなかった。

英国国民は自由党の主張する『小イギリス主義』に対し、一定の理解を示し、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなどの、白人優勢が確立された植民地に対しては、関税自主権を与え、自治権を付与するなど寛大な姿勢で臨んだが、インド、アジア・アフリカの非白人植民地に対しては、あくまでも隷属を求め続ける事を是としたのだ。

 保守党・自由党の二大政党制が、労働党の勃興と共に崩壊、貴族・富裕層に支持される保守党、組織労働者を支持基盤とする労働党の二大政党制へと変遷していった時、労働組合運動の合法化を実現した“労働者の恩人”である筈の自由党は、その存在意義を急速に失い、中間党として少数会派への転落を余儀なくさせられた。

均衡する二大政党の狭間、良く言えば「キャスティングボードを握る存在」ではあったが、逆にいえば、それだけの存在に過ぎなくなってしまった…とも言えるだろう。

だが、今、ラムゼイ・マクドナルド率いる労働党・自由党連立政権のキャスティングボードを握っているのは、間違いなく自由党であった。


「やり過ぎだな……」

ハイドパークの東、テムズ川河畔にそそり立つ白亜の建物、伝統ある自由党員専用の会員制紳士倶楽部ナショナル・リベラル・クラブの一室において、ロイド・ジョージは苦りきった口調で、そう呟く。

 今、彼はマクドナルド労働党政権と自由党との間の橋渡し役を務めている、自由党下院議員サー・サイモン・キャンベルから、マクドナルドの対中外交、経済政策に関するレクチャーを受けたばかりだ。

毛並みが良く、若く、野心的なキャンベルは、マクドナルドの志向するダイナミズムに富んだ中国への経済進出計画に対し、興奮気味に語り、自由党の領袖であるロイド・ジョージに対し、その支持を訴えると興奮冷め遣らぬ表情のままに帰っていった。


「サー・サイモンも実に情けない。かの偉大なるサー・ヘンリー・キャンベルも地下で泣いておられるでしょうな」

キャンベルの退室と入れ替わる様に、隣室に身を隠して、話しの一部始終を聞いていたスタンリー・ボールドウィンが入室してくるなり、そう大袈裟に嘆く。

その言葉には、年長のロイド・ジョージに対する敬意を現しつつも、どこか斜陽の自由党に対する、嘲りにも似た響きが含まれている。

 自由党の領袖にして元首相ロイド・ジョージ、保守党の領袖にして前首相のスタンリー・ボールドウィン。

この日、政権への返り咲きを狙うボールドウィンは、単独過半数を占められなかった保守党、労働党双方の間で、小会派故の悲哀を味わっている自由党ロイド・ジョージに対し、“寝返り”を勧めにやってきたのだ。

その北極海の流氷の様な冷たい顔立ちをしたボールドウィンは、大袈裟に首を左右に振りつつ、嘆息を繰り返し、言葉を続ける。

「潮時ではありませんか? いつまでも労働党と組んでいると、貴党のお立場が悪くなりますぞ」


きらびやかだが、落ち着きある刺繍の施されたソファに深く腰掛けたロイド・ジョージは、ボールドウィンが腰掛けるのを待って、返答する。

「マクドナルド首相は、史上初の労働党政権とあって、独自の色を打ち出したいのだろうが……やはり、少々、やり過ぎだろうな」

「北京政府を籠絡しての市場確保に金融支配の促進……見事な着眼点ですが、はっきり言って、独走が過ぎます。この先、極東情勢が非常に敏感なものになりかねないし、一歩間違えば、先の大戦で借りのある米国と、つまらぬ対立を招きかねませんな」

「それはないだろう? たかが中国の権益程度で、彼の国が自国民の血を流すとは思えん」

壁に掲げられた偉大なるサー・グラッドストーンの肖像画を見上げ、ロイド・ジョージは、今は亡き師父に教えを求める様に視線を彷徨わせる。

「彼らは権益を奪う為には、動かないでしょうが……。しかし、ひとたび得た権益を守る為ならば、正義の名の下に彼らの政府も、国民も、昂然と胸を張って、虐殺者の汚名を甘受するでしょう。そういう国民性です。米国人というのは…」

アイス・ブルーの瞳に、一切の表情を浮かべず、きれいに撫でつけた頭髪に手グシを入れながら、ボールドウィンが答える。

「先住民から開拓地を守るかの如く、かね?」

「先住民から開拓地を守るかの如く、ですね」


「親愛なるラムゼイの首など、いつでもすげ替えられる。我が党が連立から手を退けば、それで済む話だ」

紳士倶楽部に属する執事の一人が、英国政界を代表する重鎮二人のティーカップに濃い目のアールグレイを注ぐと、どこか漢方に似た東洋的な芳香が立ち昇る。

「えぇ、その通りです……ですからこそ……」

ロイド・ジョージの他人事の様な口調に、大きく頷いたボールドウィンは、この自由党を率いる老政治家が、そのまま一言「離脱する」と口走ることを期待して待ったが、彼が耳にしたのは、全く違う言葉だった。

「舵はいつでも右に切れる。だからこそ、今しばらく、左に切ったままでいようと思う。右ばかり向いていては見られない、新しい景色が見えるかもしれん」


「……そうですか」

その言葉にボールドウィンは失望し、保守党と労働党を天秤にかける、一筋縄ではいかない面前の老人に向かって、胸の奥で

(地獄に堕ちろ)

と悪態をつく。


「但し、秋までだ。米国との関係が例え悪化しようとも、秋までは待とうと思う。その後の修正はいくらでも可能だからね」

ロイド・ジョージの思わぬ言葉に、ボールドウィンは喝采を叫ぶ。

「では……?」

「連立を離脱し、保守党と組んでもいい。だが、その前に、もう少しだけラムゼイの好きにやらせてみようじゃないか。汚れ仕事に我々が手を出す必要はあるまい? 汚れ仕事は労働者の特権だからね」

そう、うそぶき、薄く笑うサー・ロイドの皺深い顔立ちは、どこかケルト寓話に登場する妖魔然としており、それは正しく世界を支配した紳士の国の正統なる継承者の顔だった。





1924年2月26日

(大正十三年二月二六日)

フランス共和国

首都パリ市 アンリファルマン通り

フランス駐箚ポーランド大使館 貴賓室


 亡命ウクライナ人民共和国執政官シモン・ペトリューラは、フランス駐箚ポーランド大使館付武官ヨゼフ・ベック少佐が用意した大使館内の一室で、この大胆不敵な男に似合わないほど、やや緊張した面持ちを示していた。

大きな鼻と険しく、刺々しい目が特徴的なヨゼフ・ベックは、同名の英雄ヨゼフ・ピウスツキ国家元帥の副官を長年に渡って務めあげた腹心中の腹心であり、零下の風に鍛え上げられた刃の様な印象を受ける人物だ。

ペトリューラが緊張している理由……それは、この見るからに「切れ者」といった雰囲気を醸し出すベック少佐が、この日、会談の為に用意したバロック風の豪奢な部屋の装飾にあるのではなく、会談に参加する為に集められた人物達にあった。


 ウクライナ独立運動家にして、赤軍、白軍双方から恐れられた戦争と組織作りの天才“黒軍”無政府主義者ネストル・マフノ。


 同じくウクライナ出身の革命家で、数々の帝政ロシア要人の暗殺を実行した狂気のテロリスト集団・社会革命党戦闘団エスエルの元指導者“緑軍”ボリス・サヴィンコフ。

英国情報部の支援を受けた彼のエスエル団員達は、いまだにソ連領内において暗殺や破壊工作を実行し、チェーカーと死闘を演じており、数多くの政治犯救出にも成功している。


二月革命政府の蔵相、外相を務めたロシア帝国屈指の銀行家・資産家にして、ウクライナ独立運動各派への資金提供を通じて絶大な影響力を保持するミハイル・テレシチェコ。


同じく二月革命政府で外相を務めた、過激な自由主義政党・ロシア立憲民主党の党首で、二月革命の口火を切った皇帝弾劾演説で知られるパーベル・ミリューコフ。


ロシア白軍最後の司令官として、内戦最後の戦いとなったクリミア戦を指揮したピュートル・ヴーランゲリ ロシア帝国陸軍中将。


ロシア黒海艦隊を率いてフランスに亡命した白色艦隊司令官ミハイル・ベーレンス ロシア帝国海軍少将。


そして、ロシア皇帝の一族にして帝位継承権者、ロシア貴族の最高位“ロシア大公”ニコライ・ニコラビッチ。


“英雄”と称さるシモン・ペトリューラでさえ、その存在が霞んでしまう様な大物亡命者達……。

彼らが集まった目的はただ一つ、ボリシェビキの打倒だった。



「ウクライナを独立させる事が、我らの益になる……その理由を聞かせて貰おうか」

そう尊大な物言いで、会議の口火を切ったのはヴーランゲリ陸軍中将だった。

袖広な伝統的民族衣装に身を包んだ彼は、かつて敵であったウクライナ独立運動家達に油断なく鋭い視線を向ける。


「ロシア人の力を借りる事が、何故、ウクライナ独立につながるのか……その理由を聞かせて貰いたい」

ヴーランゲリ中将の尊大な口調に反発し、あえて揶揄する様に真似てみせたのはウクライナの農民層に圧倒的な人気を誇るネストル・マフノだった。

素人同然の民兵を率い、これを組織し、最初に白軍を、後に赤軍を敵とし、その戦巧者ぶりを讃えられた“制限なき自由”を愛する危険人物。


独立運動最盛期のスローガンである

『赤くなるまで白を打て。白くなるまで赤を打て』

その言葉が示す通り、ウクライナ独立運動家にとって、赤軍も、そして彼ら白軍も敵なのだ。


(ここが正念場……)


 ペトリューラは覚悟を決めた。

反目しあう彼らを説得できなければ、期待できるのはポーランド一国の支援のみ。

それでは到底、ウクライナ独立の大望は達成不可能だ。

会議をお膳立てしたピウスツキの代理人ベック少佐は沈黙を守り、あくまでも自らをオブザーバーと弁えて会議に参加する気が無い以上、ペトリューラは己の弁舌で彼らを説得するしかない。

“盟友”ヨゼフ・ピウスツキの善意に心中、感謝しつつシモン・ペトリューラの孤独な戦いが始まった。





1924年2月26日

(大正十三年二月二六日)

ソビエト連邦 白ロシア・ソビエト社会主義共和国

首都ミンスク市 中央第一駅


 ポーランド国境から僅か100キロ足らず。

ここミンスク中央第一駅はシベリア横断鉄道運行駅の中では、欧州からソビエト圏に入って最初の停車駅にあたり、乗降客に対する厳しい入出国審査を行う税関の役目を負っている。

その駅構内に停車する列車の一等客車内に身をおく一人の人物がいる。

威厳に満ちた鷲の様な風格を持つ彼にパスポートを呈示された税関職員、そしてその背後に控える二人のチェーカーは顔面を蒼白にする。

パスポートの主は、ポーランド共和国国家元帥ヨゼフ・ピウスツキだった。


「外交特権も行使せずにお出でになるとは……正直、呆れました」

客車から降りもせず、グラスに注がれたウオッカを飲み干しながら、ピウスツキは待ち合わせの相手に微笑みかける。

「行使しても良かったのかね? 私が貴国に入国した事が上に知られれば……待ち合わせしていた君の立場が悪くなる、と思ったのだがね」

「当然の権利を行使されずに、こうして秘密裏に入国された事が知られるほどの方が、よっぽど、私の立場を悪くする…と思いますが」

削いだようにこけた頬、禿げあがり始めた黒髪に、精気溢れる豊富な口髭と顎髭……どこか、偉大なるレーニンを彷彿とさせる風貌をし、そのレーニンを一回り、残忍にした様な顔立ちの人物は、ため息交じり応える。

「連絡を頂いた時には、正直、驚きました。まさか、私を覚えていて頂いたとは……」

「同じシュラタフ(ポーランド貴族階級)出身、それに小学校では共に学んだ間柄ではないか。覚えているに決まっているだろう“物知りフェリックス”君」

“物知りフェリックス”と呼ばれた人物は、少年時代の懐かしいあだ名に苦笑し、照れたように手を顔の前で左右に振る。

「よして下さい、“鉄拳ヨゼフ”」

二人は共に少年時代を懐かしみ、共通の友人や知人、そして恩師たちの話題でしばし、歓談を楽しむ。


「ところで……」

“物知りフェリックス”は、純粋無垢だった少年時代に想いを馳せ、数々の思い出話に涙を浮かべるほど笑い転げながら、“鉄拳ヨゼフ”に言う。

「私には、貴方を逮捕することだって出来ます。ポーランドからの単なる密入国者として誰にも知られず、この場で始末する事など、実に容易い。いい加減に本題に入らないと、私は本気で貴方を見ず知らずの老人として部下達に射殺を命じますが……」

“革命の剣”フェリックス・エドムンドビッチ・ジェルジンスキー内務人民委員部付属国家政治局長官は、頬に笑みを張り付かせたまま、目に計算された狂気を浮かべ、同郷の幼馴染を脅迫する。



フェリックス・エドムンドビッチ・ジェルジンスキー。

ポーランド人。

“鋼鉄の騎士”“チェーカーの父”“革命の剣”……。

彼に奉られた異称尊称は数知れない。

レーニンの最も信頼する忠実なる片腕として「反動派に対する無制限の処刑」を許可された彼に「反・革命」の烙印を押され、反論する間もなく銃殺された人物は数え切れない。

『ユダヤ人が始め、ポーランド人が完成させ、ロシア人が支配された』

と火酒の肴にされるボリシェビキ革命の『ポーランド人』の部分は、彼ジェルジンスキー個人を評しているのだ。

 帝政ロシア以来の伝統を誇る優秀無比なる内務警察を掌握し、国民と赤軍を監視し、弾圧し、粛清し続けながらも、何故か『完全無欠の無私の人物』として敬愛され続けた巨大なる悪。

それが、このミンスク生まれのポーランド貴族ジェルジンスキーという男だ。



「本題……? 本題とは、何だね?」

ピウスツキは、さも、驚いた…といった表情を浮かべ、幼馴染みに聞き返す。

「おとぼけなさるか……まぁ、いい」

ジェルジンスキーは、年長の幼馴染が示した“おとぼけ”に心底、苦笑し、これ以上の追究を諦める。

「では、ポーランドの英雄である貴方が、秘密警察の長である私をわざわざミンスクまで呼び出しての密会を希望し、昔話を肴に一杯やりに来た…という事にしましょうか」


 その言葉が届いたのか、届かなかったのか……ピウスツキは、突然、窓から駅構内を行きかう人々を眺めやる。

皆、一様に外套の襟を立て、ウシャンカ(ロシア帽)を目の辺りまで深くかぶって、北の大地に吹きすさぶ容赦ない風をやり過ごそうとしている。

「間もなく風が吹く……」

突然、声音を落としたピウスツキの口調は、まるで預言者の如く威厳に満ちており、ジェルジンスキーに向けたモノなのか、或いは、独り言なのか…判断に迷う様な調子だった。


「……風?」

ジェルジンスキーは、ピウスツキの豹変に戸惑い……そして、その戸惑いこそが“鉄拳ヨゼフ”の狙いだった。

「そう、風……。風が吹く」

「……どういう意味です? 何がおっしゃりたいのですか?」

ピウスツキは、それに答えない。

思わず身を乗り出してきたジェルジンスキーの外套の襟を掴んで引き寄せると、その蒼白い顔の耳に唇を近付け、周囲には誰もいないにも関わらず、小声で囁く。

「……備えよ」

囁かれた当人は、意味を理解しえない。

「……?」

「…嵐に備えよ、我が友」

「何の話です…? ヨゼフ……」

ピウスツキは襟から手を離すと、困惑した表情を示すジェルジンスキーに力強く頷き、笑みを返す。

「君は、己が為すべき事を為したまえ」

“鉄拳ヨゼフ”は目を細め、口角を悪魔的に吊り上げつつ、最後に冷たくそう言い放つと、尚も重ねて問おうとする“物知りフェリックス”に、この会談の終了を告げた。





1924年2月26日

(大正十三年二月二六日)

フランス共和国

首都パリ市 アンリファルマン通り

フランス駐箚ポーランド大使館 貴賓室


 集められた白、黒、緑の面々……。

白い者達は、かつての権利を取り戻そうと考え、

黒い者達は、自由を取り戻そうと考え、

緑の者達は、虐げられた民族の歴史を終わらせようと考えていた。

平行に走り、交わらぬ線。

目的地は同じである筈なのに、それぞれが、別な道を選択し、そしてその道は、いずれも険しく、しかも行き止まり……。

皆、内心、その事実に気が付いていた。

気が付かぬフリをしているだけだった。

もし、認めれば、ありもしない希望を胸に身を寄せ合っている、それぞれの亡命者集団の長としての権力を失う。

だから、認めない。

自分自身が、気の付いている事実を……。


 議論は数時間に渡った。

僅か数年前まで、互いに銃火を交えていた者もいれば、席を共にする相手に知己親類縁者を殺された者さえいるのだ。

だが、結論は出ている。

自己の率いる勢力、それ単独での目標達成は不可能である以上、手を結ぶ他は無い。

 

 問題は、それぞれの勢力の目指す目標にある。

 ロシア人にしてみれば、ウクライナ人が自己の目標である独立を達成した時点で手を引き、後は知らぬ…という態度に出てくるのを怖れる。

 ウクライナ人にしてみれば、ロシア人がボリシェビキを打倒した後、再びウクライナを侵すのではないか…と疑心暗鬼に駆られる。

 更に細分化すれば、皇帝一族の者は、自由主義者によって再び追放させられるのではないか? と怯え、自由主義者は、皇帝一族や大貴族が再び、専制支配を狙うのではないか? と警戒する。

 無政府主義者は、社会主義者がボリシェビキ同様に党独裁を目指すのではないか? と勘繰り、社会主義者は、権力にも、権威にも、法にさえ服さない無政府主義者が、始末に負えない無頼の集団に見える。


「御一同、最終目標はボリシェビキ政権の打倒である事に異論はありますまい?」

額に脂汗を浮かべたペトリューラが繰り返す言葉に、居並ぶ領袖達はそれぞれが、それぞれの想いを込めて頷く。

「逆に云えば、我々の共通点は、それしか無い……という事だろうね」

亡命して尚、巨万の富を有するミハイル・テレシチェコが自嘲的に笑う。

「共通点がある…というだけで、ここは喜ぶべきなのだろう」

二月革命政府において陸軍次官職を務めていたボリス・サヴィンコフが、当時、閣僚だったテレシチェコの言葉に頷く。

「我々、ロシア帝国政府はロシア帝国全領土の復帰を求める事は無い。これは明言しても良い」

自分達が“大ロシア主義”に回帰しない事を、ピュートル・ヴーランゲリは先程から繰り返し主張する。

「その言葉を信じろ…と?」

片眉を上げたネストル・マフノがせせら笑い、再び、話が振り出しに戻るのか……と思った瞬間、沈黙を守っていたロシア大公ニコライ・ニコラビッチが軽く手を上げ、紛糾しかけた会議を制する。


「予の話を聞くが良い」

軍人上りの貴族特有な威厳に満ちた雰囲気を醸し出しながら、ロシア大公は言葉を続ける。

「その前に我々、ロシア帝国政府は、今秋を目途に世界に散ったロシア白軍全てを網羅した反ボリシェビキ組織“ロシア全軍連合”を立ち上げる予定である事を皆に伝えおこう」

「閣下! その事は…!」

新組織・ロシア全軍連合においてロシア大公と共に最高会議議長職を務める事が決まっているヴーランゲリが、この最高度の機密情報を、敵か味方か定まらぬ一同に明かした事に驚き、思わず叫ぶ。

ロシア大公は、その叫びがまるで聞えなかったかの様に言葉を続ける。

「この連合は、帝政復古派から共和派、民族派までも含め“反ボリシェビキ”の立場にある勢力を尽く結集する為、大ロシア主義の放棄を謳い上げ、立憲君主体制を目指す事を決定している。先程のヴーランゲリ中将の発言は、この決定に沿ったものなのだ」

「……」

「ほぉ……」

一座のうち、非ロシア系組織の者達は、この説明にようやく得心する。

「従って、予としては我らロシア勢がウクライナ独立に手を貸した後、ウクライナの諸君がロシア解放に対し、我らがしたのと同様の助力を行うかどうか…その一点に疑念を持たざるを得ない。それは理解できるであろう?」

正に貴族ならでは…といった尊大な口調のロシア大公に鼻白みながら、ウクライナ人達はロシア人達への疑念を氷解させ、今度は自分達が、相手に反証する義務を負った事を知る。


「それでは、大公閣下。ウクライナ全土の解放を完遂する前に、ロシアの解放戦争を開始する……この線でどうでしょうか?」

ペトリューラは唇を歪めながら、苦々しく一同に計る。

それは民族主義者であるこの男にとって、身を切られる様な想いで吐き出した言葉だった。

卓上に広げられたロシア帝国の地図を指さし、ペンを走らせつつ、ペトリューラが即興で考え付いた計画の概要を説明し、

「如何でしょう。ウクライナ解放をこの様な二段階作戦とし、その第一段階作戦終了後にロシア解放戦を開始し、その目途が立った時点で、ウクライナの第二段階を開始する…これなら、ロシアの諸兄にも納得頂けませんか?」

と言葉を結び、居並ぶ領袖達に視線を向ける。


「なるほど……第二段階作戦での解放区を担保とする、という訳か」

ミハイル・ベーレンス海軍少将が身を乗り出し、作戦の概要に納得したかのように頷く。

「二段階作戦という戦略自体に異存はない。だが……戦術的には少しばかり無理があると思う」

「うむ。しかし、これは作戦の問題というより、我々の戦備の問題だな…その作戦を行うだけの戦備を残念ながら我々は有していない」

正規教育を受けた海軍将官の言葉に、同じく正規教育を受けた陸軍将官であるヴーランゲリも同調する。


「作戦に問題は無い、要は戦備の問題…と、言うのだね?」

ロシア大公は、己を補弼する二人の将官に確認する。

自身も元帥の階級を有する軍人だが、こと戦略戦術といった話に関しては二人の将官に対し絶大な信頼をおいているのだ。

「はい。少々、奇抜ではありますが、向こう三年…いや、二年以内であれば成功の可能性は高いと考えます」

白い海軍服に身を包んだベーレンスが、力強く頷き返す。

「小官もその様に考えます。兵站線の確保という観点から見ても、この作戦計画が最も容易かと……」

ヴーランゲリが腕組みし、一同を見回す。

ペトリューラの発案した作戦計画に、非正規戦術の大家ネストル・マフノは、さも面白げに頷き、暗殺と破壊工作の専門家サヴィンコフは凶悪そうな笑みを浮かべつつ腕を撫す。


「宜しい。その必要な戦備とやらの件は予が引き受けよう」

ロシア大公は居並ぶ者達の顔を見回し、そう自信ありげに宣言するが、その自信の由来がどこにあるか見当もつかぬ一同は、不審な表情でこの大貴族を見返す。

一同の視線に気づいたロシア大公は、切り揃えられた顎髭を丁寧に撫でながら、自信に満ちた笑みを返す。

「ふふ……。案ずる事はない。義弟に…イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世陛下に話をしてみよう。陛下ご自慢の宰相……名前は何と言ったかな?」

「ベニト……ベニト・ムッソリーニ首相であります!」

意外な展開にペトリューラが驚きを込め、ドゥーチェの名を叫ぶ。

「そうそう……そのムッソリーニとやら、反共を標榜しているのであろう? 共産革命の芽を摘む為とあらば、必ずや協力を申し出てくる筈……」


“第三の勢力”イタリアが動き出す。





1924年2月26日

(大正十三年二月二六日)

合衆国 ワシントンDC

ペンシルバニア通り1600番地

ホワイトハウス レジデンスホール


 日本から米国への満州鉄道売却、そして関東州租借権譲渡を約した『ワシントン議定書』の署名式は、ホワイトハウス正面のレジデンスホールに設けられた特設会場において行われた。

株式売却代価5億ドル、対独債権譲渡額2億ドル、棉麦借款3億ドルの総額10億ドル。

東郷とそのブレーンは史上最大級のビッグビジネスの契約に成功し、合衆国は念願の中国大陸への進出を果たす。

 無論、この議定書は基本合意に達しての署名を行ったのみであって、双方の国家ともに議会を通過させた訳ではない以上、履行が確約されたものでは無い。

しかし、ここにいる誰もが、そんな先の事を案ずる必要を感じてはいないし、約束された未来であると考えていた。

 日本は、10億ドルという国家予算を超える大金を元手に大震災という未曽有の災禍からの復興を目指していたし、合衆国にとっては英国に中国市場を独占されない為のクサビを打ち込む代価と考えれば、むしろ安い買い物だとさえ、思っていた。

この日、この席上にいた者全てが、そう考えていた。


 数日前、国務省・陸軍省・海軍省が同居する巨大ビル『エグゼクティブ・オフィス』の一室においてヒューズ国務長官から、総額10億ドルの支払いを打診された時、外務大臣・幣原喜重郎は己が“賭け”に勝った事を確信した。

日本側が売却条件として示した「合衆国の国際連盟加盟」も「ソ連承認」も、ハッキリ言って日本側に何らメリットは無い。

 前者に関して言えば、合衆国が加盟するとなれば無条件で理事国入りするのは必定であり、現・常任理事国4カ国の一画を占める日本にとって、それが5カ国になってしまえば、相対的な地位低下を招くだけであり、しかも「非・欧州圏唯一の理事国」という日本の独特な地位を脅かされてしまう。

 後者のソ連承認とて同じ事。

むしろ日本としては、米ソ間が対立とは云わないまでも、緊張状態においておいた方が外交的な選択肢が増える。

日本側が出した二つの外交的要求は、あくまでもモンロー主義を標榜する合衆国政府を困らせるだけのもの…。

何の脈絡もなく提示された、その要求にクーリッジ大統領以下閣僚陣の困惑した表情が目に浮かぶようだ。


 英国による威海衛から華北へと伸びる山東鉄道の敷設決定は、日本の希望を打ち砕くに十分なものであった。

先祖伝来の刀を質屋に持っていったら、質屋の隣に住まう老舗道具屋が拵えの良い新品の刀を出血覚悟で売り出してきた様なものだ。

当然、質屋は道具屋の新品を横目に、貧乏侍の足元を見て、その刀を値切りまくる。

泣く泣く貧乏侍は、夕餉の米を買う為、伝家の宝刀を言い値で手放す羽目になる…。


……だが、突然として貧乏侍は開き直った。


 質屋の店構えが悪い、と難癖をつけ、店員の応対が横柄だ、と悪態をつく。

貧乏侍の切れのいい啖呵に面食らった質屋の店員は困り果て、店の主人である“国民”に内緒で、その値崩れした刀を高値で引き取ったのだ。

 いわば貧乏侍は“ごね得”した訳だが、そのツケを後日、払わせられるのが、ほくほく顔で帰路についた貧乏侍なのか、主人に「掘り出し物だ」と言い張る店員なのか、はたまた老舗の意地を剥き出しにした道具屋なのか…?


「どっちにしろ、僕の役目は終わりさ……」

合意を記念して催されたパーティー、その会場片隅に設置された急ごしらえのバーカウンターで今、幣原喜重郎は飲み慣れぬバーボンを立て続けにあおっている。

焦げ臭い液体に満たされたグラスを時折、宙にかざし、義兄・加藤高明への弔意を込めて。



 幣原が肘を預けるバーカウンターと数歩の距離を隔てた位置に山本五十六海軍大佐はいた。

彼も幣原と同じくアルコール類を嗜まないタイプの人間であったが、この日ばかりは、次々と姿を見せる合衆国海軍の関係者につかまっては、その相手をさせられている。

 過日のアナポリス兵棋演習。

既にその噂は合衆国海軍を席巻しており、アドミラル・トーゴーのみせた奇術的な手法に対して圧倒的な感嘆と称賛が流布されていたが、少数ながら相手の心理を手玉に取る手法への非難も出ているのを知っている。

制空権を確保した上で、敵艦隊を狭い海峡に押し込め、機雷原と潜水艦、駆逐艦、戦艦で艦隊運動を制約し、とどめは海流を利した機雷の“灯篭流し”…。

否定的な意見を“控え目に”主張する少数派にしてみれば、その作戦自体が、彼らが好み、東郷に期待した「正々堂々、リング上での殴り合い」からは程遠い「相手の目と耳を封じ、その手足の自由を奪った上での嬲り殺し」だ…と言葉少なに非難する。

 山本は、彼らの主張に適当な相槌を打ちつつ、合衆国海軍というよりも合衆国市民の精神性を見た想いを強くし、みかさ丸の船上、東郷に諭された「正々堂々、果たし状を送る」の意味を改めて噛み締める。


(合衆国は、合衆国が決めたルールで、合衆国に勝利した相手しか認めない…か)


 ワシントン軍縮会議で日本の主力艦保有率は対米6割に制限された。

これが、合衆国の決めたルール。

このルールに則り、勝利しない限り、合衆国は日本を対等の相手と認める事は無いだろう。

ルールを決められた側にしてみれば、不本意も甚だしい。

極論すれば「カードの山から6枚のカードを引いてポーカーの手役を作れ」と言われた日本と、「10枚引いて作ればよい」合衆国の差。

 この不公平な勝負から日本が降りられなくなった時、取り得る選択肢は、己の手札に自信たっぷり…とハッタリをかまして相手が降りるのを待つか、懐中に肝のカードを隠し持ってのイカサマに勝機を見出すか…。


「どっちにしろ、軍人の決める事じゃないな……」


 ふと、山本の視線の先に政府要人、海軍関係者の輪から一瞬だけ解き放たれた東郷の姿が映る。

日本国内において発生したテロ事件。

現職閣僚2名が死亡し、4名が負傷するという大惨事の第一報がワシントン駐箚日本大使館を経由して東郷が耳にしたのは一昨日の事だ。

東郷は、その報に特に驚いた様子もなく、報告した幣原外相が顔面を蒼白にして震えるのを叱りつけ

「一任スル。責ハ我ニアリ」

とだけ秋山副首相に打電し、平然としていたと云う。

 事件の発生により、合意署名が流れるのではないか? と危惧する合衆国政府関係者の心配をよそに、東郷は定められたスケジュールに従って、会談や視察、議会演説といった予定を淡々とこなし続けた。

その堂々たる佇まい…。

自らの命令により、部下を死地に追いやらなくてはならない軍人としての性が成し得るものとしか思えぬ、鬼気迫るものがあったという。


 その東郷、やや足取りに疲れを感じさせながら山本に近付いてきた。

やや緊張しつつも山本は、踵を鳴らし、目礼すると、東郷は手にしたグラスを目線まで掲げ、挨拶を返す。

「山本大佐…」

「はっ」

「君は、例の兵棋演習、どう見たね?」

突然の質問に、一瞬、何と返答すべきか困惑する。

「…お見事…にございました」

「ふふん」

山本の当り障りのない返答に、東郷は鼻を鳴らす。

「そうではない。米軍の運動をどう見るか? と聞いておるのだ」

「米軍の……?」

質問の意図が掴めず、山本は困惑する。

兵棋演習中の両国に関わる全ての命令や事象は、判定官達の手によって全て詳細な報告書にまとめられ、日本側にも一部が渡されている。

無論、山本とて、その報告書を読んでおり、微細に渡って自ら検討を加えた別の報告書を作成しているのだ。

「全て閣下の思い通りに動いた…といったところでしょうか?」

山本の返答に、出来の悪い生徒の言い訳を聞く教師の様な顔をした東郷は、焦れた様に足を踏み鳴らす。

「違う、違うよ、山本大佐。最終局面、米艦隊の指揮官…キンメル中佐だったかな? 彼はどう動いたか? 覚えているかね?」

苛立ちを見せる教師の様子に焦った生徒は、慌てて報告書の該当する頁を思い出そうと努力し

「津軽海峡突破を諦め、対馬海峡に引き返そうとしていましたが、その事でありますか?」

と恐る恐る尋ねる。

「そう!」

教師は破顔し、生徒の頭を撫でる。

「どう見る?」

立て続けの質問に、生徒は今度こそ返答に詰まる。


「どう…と言われましても……」

何と答えて良いか、というよりも、質問の意図すら掴めず、言葉に窮する。

「前衛艦隊が壊滅した合衆国海軍は、引き返そうとした……そこまでは良いかな?」

東郷は、一語一語を確認する様に山本に話しかける。

「はい」

「何故、引き返した?」

「え…?」

「何故、何を求めて合衆国海軍は引き返したのだ?」

「それは……交戦により戦力の低下した自艦隊と、後方に待機しているアジア艦隊を合流させ、戦力の回復を図る為であると思います」

山本は困惑した。

東郷の質問が、あまりにも当たり前のこと過ぎるからだ。

ハルゼー、キンケイド、ターナーの三艦隊を撃破された米主力艦隊は、後方待機の艦隊と合流、日本艦隊と戦力を互角に戻して再戦を狙った…それは、あの報告書を見れば明らかだったし、主力艦隊を指揮したキンメル、スプルーアンス両者の作戦企図も間違いなくそうだっただろう。

「うむ…。では、戦力が目減りした合衆国艦隊は引き返し、後方予備戦力の投入によって戦力回復を図った後、再侵攻。再度、我が艦隊に決戦を強要しようとした…これで良いかな?」

「……はい。間違いありません」

山本は己でも気付かぬうちに、分り切った事を確認してくる東郷に対して怪訝な心情をもってしまったのだろう。

その答えは、今一つ、歯切れが悪い。


「よし。では、山本大佐。君は軍令部の対米戦構想を知っているね?」

「はい、漸減邀撃作戦ですね? 私の職分では詳しくは存じませんが、大まかな話は聞き及んでおります。潜水艦、航空機、それに水雷戦隊の夜襲により、主力艦隊同士の艦隊決戦の前に来寇する敵艦隊の戦力を低下せしめ……あっ!」

「そう。今回、キンメル中佐の示した艦隊指揮。米艦隊は、戦力が低下したと判断した途端、躊躇いもせず退き、戦力の回復を待ってからの再侵攻を企図した。これを漸減邀撃作戦に当てはめれば……」

頬肉をやや震わせながら、山本は東郷の大きな黒目を見入る。

「漸減邀撃作戦は成立しません……合衆国艦隊は、我が軍による先制攻撃が成功し打撃を受けたならば艦隊を進めず、退いてしまいます。従って艦隊決戦は起こらない…という事になります。

 反対に我が軍の先制攻撃が失敗すれば、圧倒的な戦力差を利して一挙に我が艦隊を粉砕しようと前進してくる。これに対し、敵戦力が無傷である以上、戦力差が大きいと判断するであろう我が艦隊は決戦を避けざるを得なくなります…。従って、この場合も、やはり艦隊決戦は起こらない、という事になります」

「ふふん」

東郷は、右手で山本の左の二の腕あたりをポンポンと軽く叩くと、一言

「後は任せたよ、山本大佐」

と悪童の様な笑みを浮かべながら言い残し、再びラッシュアワーの雑踏の様なパーティーの輪に戻っていった。


底意地の悪い教師の出した、この宿題に生徒はその後、二十年近い歳月、悩み続ける羽目となる。




 合衆国大統領カルビン・クーリッジは得意の絶頂、上機嫌の極致にいた。

彼に上機嫌をもたらした東洋の英雄は、慈父の如く穏やかで、十分に尊敬に値する人物であったし、その人物の手土産は、彼と彼の国民に更なる繁栄を約束するに十分な物だった。

式典に招待された米国政界、財界の要人達は一様にクーリッジの英断を褒め称え、間もなく始まるであろう中国大陸北部における利権獲得競争に少しでも優位な立場を築こうと、やっきになって、歯の浮く様な御世辞を並べ立ててくるのが、こそばゆいほどだ。

「合衆国史上、屈指の名大統領」

「合衆国中興の祖」

「新たなる開拓時代の旗手」

クーリッジの脳裏に、後世史家が彼を讃えて、そう歴史書に書き記す光景が浮かぶ。

今、彼は至福の時にあった。


「デンビ長官」

彼は会場の片隅で財界人とシャンペングラスを片手に歓談していた海軍長官を見つけると、その肩を抱きかかえる様にして、財界人の輪から彼を連れだす。

「デンビ長官、また、金持ち連中に小遣いでもねだっているのかね?」

クーリッジは、汚職の噂の絶えないエドウィン・デンビの耳元に囁く。

その何気ない言葉に、口に含んだシャンペンをふき出しそうになりながら、デンビは首を激しく左右に振り、大統領に身の潔白を主張しようと口を広げて……やめた。

大統領の目が、悪戯っ子の様に微笑んでいたからだ。


「……これは、大統領閣下も人が悪い」

世馴れた百戦錬磨の小悪党の様なデンビに対し、クーリッジはあくまでも生真面目で、あくまでも清廉な人物…。

本来ならば、共通点などあろう筈もないし、つい数日前迄、クーリッジはこの男と話す事はおろか、同席する事さえ、嫌がっていたのだ。

それが、急転直下、今やデンビはクーリッジの腹心となりおおせた。

海軍長官が見るも醜悪な糞壺から捻り出す“悪知恵”の数々に対して、クーリッジが自分自身や、片腕とも頼むフーヴァー商務長官には無い価値を見出してしまったのだ。

つまり、エドウィン・デンビという男は、その“悪さ”故に、大統領にとって、得難い存在として認められた…という訳だ。


「デンビ長官。私が次期大統領選に勝利した…としてだね…」

その言葉に、デンビは頷く。

「君に、海軍長官の職を引き続き、務めて貰いたいと思っている。引き受けて貰えるだろうか?」

今や、合衆国史上、最も人気のある大統領とまで言われるクーリッジの言葉。

秋の大統領選における圧勝劇など、最早、確定された未来に過ぎない。

その次期政権において、海軍長官を務める…という事は、現政権においても罷免される事は無い…という事だ。

 合衆国史上、最悪とまで言われた現職閣僚による汚職事件『ティーポッド・ドーム事件』の主犯エドウィン・デンビ海軍長官は、本来であれば本年初頭には罷免され、今頃、財務省内務検察局の留置所で、取り調べの順番を待つ身の筈だ。

 それが、どういう訳か、日本政府が「満州鉄道を売る」と言いだし、その首相を務める「伝説の英雄」が訪米し、あまつさえ、合衆国政府との間で史上最大級の商談をまとめ上げてしまった。


もし、日本が満州鉄道を売ると言いださなかったら…。

もし、日本の首相が米国市民に浸透する程の英雄的な人物でなかったら…。

もし、その首相が訪米してこなかったら…。

もし、日米間で交渉が決裂していたら…。


 そのどれか一つでも、運命の歯車が狂っていたら、デンビの未来は固く閉ざされていたはずだった。

しかし、運命の女神フォルタナは、この金まみれの汚職政治家に、この世のものとも思えぬほどの幸運をプレゼントし、その幸運は遂に就任以来、全くソリの合わなかった堅物大統領クーリッジさえも動かし、デンビという男に政権内において一種の「国王お抱えの道化師」の様な役回りを果たす事を期待するにまで、至ったのだ。

エドウィン・デンビは、まるで篤信者の如く「天上の神」に感謝し、「運命の女神」に感謝し、そして何より「東洋の軍神」に感謝してから、大統領の問いに答えた。

「微力を尽くさせて頂きます、大統領閣下」




 クーリッジは、式典会場の喧騒を離れ、ホワイトハウス ウエストウィングにあるオーバルオフィスに一人、戻っていた。

ネクタイを少しだけ緩めた彼は、引き出しを開けると一冊のファイルを手にし、その中身をパラパラとめくり、適当に目を通した後、傍らの時計を眺めやり、時刻を確認する。

ワシントンDCとロスアンゼルスの時差は3時間。

今なら、まだ、その男は執務中の筈だ。

クーリッジは、デスクの上に置かれた電話機を手に取ると、交換手が応答するのを待つ。

「カリフォルニア最高裁判所長官のオフィスに繋いでくれ」

「はい、大統領閣下」



 第19代カリフォルニア最高裁判所長官カーティス・ウィルバーは、電話口の相手が誰であるか、瞬時に理解した。

「……大統領閣下、ウィルバーにございます」

『忙しいところ、すまないね。まだ、この時間ならば、執務中かと思ってね』

電話口の“サイレント・カル”大統領は、いつになく多弁だ。

いつもと違う大統領の様子……たった、それだけでウィルバー長官は、自らの希望が適えられなかった事を理解した。

常人では及びもつかない程の洞察力を始めとして、並み外れた能力を持つ男なのだ。

「はい」

あくまでも、ウィルバーは平然と大統領の言葉を待つ。

『君の海軍の近代化に関する建言書、実に素晴らしかった。軍縮条約下、新造が認められない以上、艦隊各艦の大規模近代化を推進し、合わせて伸張著しい航空機に着目、海軍航空隊を創設し、加えて航空機用エンジン開発の為の基礎研究予算の投入……いや、さすがはアナポリスを優秀な成績で卒業しただけはあって着眼点が違う、といたく感心したよ』

「ありがとうございます、大統領閣下」

ウィルバーの心の底に残っていた微かな希望は、大統領の雄弁により完全に打ち砕かれた。

『うむ。実に素晴らしい。しかし……』

「……」

『残念ながら、デンビ長官に海軍長官の職を続投してもらう事に決定した。デンビ長官は何かと良くない評判もあるようだが、何より海軍の予算削減に辣腕を振るっているのは、君も知っているだろう? 今後は、これから始まる満州進出に政府予算を大分、回さなくてはならないだろうからね…彼の手腕に、我が政権としては大いに期待せざるを得ないのだよ、分ってくれるだろうか?』

「はい、大統領閣下」

『そうか、ありがとう。私としては是非、デンビ長官の代わりに君に就任してもらいたいところだが…何かと、私の政権内も色々とあってね。無論、君の建言書は、大いに今後の参考にさせてもらおうと思う』

「お気遣い、ありがとうございます、大統領閣下」


 カーティス・ウィルバーは、大統領が受話器を置くのを待って、自らも受話器を置いた。

彼は、執務机の引き出しから、一冊のファイルを取り出す。

それには、遠く離れた東海岸のワシントンDCにおいて、大統領が斜め読みしていたファイルと同じ内容が記されている。

おそらく、彼が海軍長官の座を求めて大統領に提出した「軍縮期における海軍近代化の方策」と題した建言書は、今頃、大統領執務室の暖炉の中で灰となっているだろう。


デンビが、自分より優れているとは思わない。


未曽有の好景気に裏打ちされた、莫大な政府予算を惜しみもなく投じて、合衆国海軍を新時代に適応した海軍に生まれ変わらせる…そう夢見、それが出来るのは自分だけだ、と確信もしている。


だが、これも運命…と達観できるだけの冷静さもウィルバーは持っていた。


 ファイルを手にした彼は一瞬の躊躇いも見せず、赤々と燃える暖炉に、それを投じる。

タイプされた数百ページにのぼる建言書は、それが構想され、作られた時の数百、数千分の一以下の時間で消滅していく。

 その消滅と共に、カーティス・ウィルバーが本来、手に入れる筈だった海軍長官の椅子も、「合衆国海軍近代化の父」という称号も、「海軍航空隊の創設者」という栄誉も、「航空機エンジンの基礎研究に理解をしめした」という先見の明を誇ることさえも灰となって昇華されていく。


カーティス・ウィルバー。

運命は狂い、彼が歴史に名を残すチャンスは、こうして失われたのだった。




新高山秘録 第一部 完


本話で第1部が終了となります。

ここまで、お読みいただいた方には、感謝の申し上げ様もありません。


今後、一応、第1部を最初から読み直して改稿しつつ、放置してある外伝などを仕上げた後、第二部の執筆に取り掛かりたいと考えておりますので、しばらく時間がかかると思います。


このストーリーを作るにあたって、常に「米国の軍事力を如何に下げるか?」を念頭においていました。

そして、いろいろ考察している時、カーティス・ウィルバーという1920年代後半の米海軍長官に行き当たり、彼を世に出さない為の『方便』を考えるところから、全てのストーリー構築が始まり、「ウィルバーの前任者デンビを留任させるにはどうしたらいいか?」から行き着いた結論が「満州鉄道を売る」でした。

そして「売る」お膳立てを考えつつ、いろいろな肉付け(東郷の登場やウクライナも含めて)をした結果が、この第一部となっています。

一応、米国はもっとも好景気で予算の潤沢な時代に、海軍予算を削減する…という方向に向かい、それがこの後、どのような波紋を呼び起こすのか? それは第二部以降のお話となると思います。


本当に10か月もの長い間、ありがとうございました。

もし、また、お読み頂く機会がございましたら、どうぞ宜しくお願い致します。

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