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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
53/111

第53話 決壊 (3)

大正十三年二月二五日

(1924年2月25日)

東京・四谷区 

陸軍第二衛戍病院


「貴様がついていながら、なんだ、このざまはっ!」

白手袋をはめた石光真臣中将の鉄拳が、右膝の負傷を押して見舞いに現れた、松葉杖姿の武藤信義中将の顎を容赦なく捉える。

階級は同じ中将だが、先任順でいえば大きく差がある武藤は、初年兵の如く、ただ、それに耐える。

言い訳はしない。

いや、出来ない。


 臆病なほどに慎重で、冷静沈着な男である石光の激昂、その源は、今、傍らのベッドに横たわっている。

「よさんか、石光……武藤を責めるな。何の咎もないわ」

胸に一発、腹に二発、太股に一発。

銃創四か所。

今、こうして生きているのが不思議なほどの傷を負いながら、上原は、苦しげに声を上げた。


 上原の命が、そう長く持たない事は、誰の目にも明らかだった。

あまりの出血量に弾丸の摘出を諦め、とにかく止血処理だけを施したのみの状況……。

しかし、縫われた筈の傷口の上に巻かれた包帯が、いまだに、この老人から血を吸い取り続けており、その赤い染みの広がりが、上原の確実な死を予言している。

 病床の横には、参謀総長・河合操陸軍大将、軍事参議官・尾野実信陸軍大将、東京南部警備司令官兼第1師団長・石光真臣陸軍中将、参謀次長・武藤信義陸軍中将、第8師団長・菱刈隆、副官・今村均中佐……在京の者達に限らず、何とか職務に融通をつけ、各地から九州閥に身を置く将官、佐官が駆け付け、病室外の廊下にまで溢れている。

「信じられない……」

一同の気持ちは、今、それだけだった。


「秋山……おるか?」

上原は、目を瞑ったまま、問い掛け、布団から手を出す。

「おう…」

最前列に座る秋山は、三角巾に包まれた左腕を首から吊るし、頭にも包帯を巻いた姿だ。

銃創二か所、しかし、奇跡的に傷は浅い。

「秋山…。ここにいる我が一党をお主にくれてやる。大事に使え」

最早、目をあける力も残っていないのだろう。

まさぐる様に手を泳がしている上原のそれをガッチリと握り締めた秋山が答える。

「いらぬわ、たわけもの」

秋山の弁は実に素っ気ない。

「お前が使え。わしは、知らん」

 

 上原は、微かに唇を歪め、秋山の拒絶を笑う。

「秋山、今のお主では力が足りぬ。こやつら、必ず、お主の力になるはずだ。貰って置いて損はない」

「いらぬと言ったら、いらぬ。わしは、面倒な事が嫌いじゃ」

その物言いに、上原は秋山の手を握ったまま、声にならない笑い声をあげる。

或いは、もう、声を出して笑う事すら、出来ないのかもしれない。


「皆の者、今日までわしみたいな男に、よう付いて来てくれた。………ありがとう。これからは、秋山を盛りたててやってくれ……河合」

「はっ」

一座の番頭格である河合参謀総長が唇を噛み締める様に答える。

「秋山を頼んだぞ」

「命に変えましても……」

「尾野もな…」

「はっ、同じく」

情にもろい尾野は既に半ベソをかいている。

「石光、武藤、菱刈…お前達も、頼むぞ」

「……はいっ」

「皆も、よろしゅうな。わしに尽くしてくれた様に、秋山にも尽くしてやってくれ」

「はっ」

配下の返事を聞いた上原は満足気に頷き、秋山の手を強く握る。

「秋山、これから先は何事も、貴様の好きにせえ。貴様ほどの馬鹿はおらんが、貴様ほど正しい軍人もおらん」

「…………うん」

「身体を…いとえよ」

「……うん」

「酒は……ほどほど…に……な」

「…うん」

50年近い歳月を、軍という限られた職場において共に過ごした朋友の言葉に、その大きな目から大粒の涙をこぼしながら、秋山は多くの感謝の言葉を、声には出さず直接、握り締めた上原の手に送り続ける。

痩せた上原の爪が、一瞬、秋山の肉付きの良い掌に喰い込み、鋭い痛みを覚えさせる。

その痛みが消える時、憎まれ役に徹した上原の生涯が、静かに終わりを告げた事を秋山は悟った。





大正十三年二月二五日

(1924年2月25日)

東京・本郷区 本富士

東京大学医学部附属病院


「気がついたかね?」

犬養木堂の虚ろな意識の外から、声が聞えてきた。

聞き覚えのある声。

温かく、どこか冷たく、世を斜めに見つつ、どこか哀しい。

そんな声だ。

「……あぁ」

「そりゃあ、良かった。脇腹の骨が大分、折れているようだ。お前さんを突き飛ばした若いのに

『次に年寄りを突き飛ばす時は、もう少し優しく突き飛ばせ』

と言っておいた方がいいな」

犬養の混濁した意識が次第に形を成し、ここがどこであるか? 自分が何者であるか? を理解し始める。

「立雲……さん…かい?」

頭部に銃弾を受けた犬養の顔面、その大部分は包帯に包まれている。

僅かに、口と、左目だけが自由になるが、犬養の横たわるベッドの右側に位置している見舞いの客人の姿は見えない。

「立雲か?」

と問われた人物は、手にしていた囲碁雑誌に視線を落したまま、

「ふむ」

と短く答える。

立雲――頭山満の号だ。


 病室には横たわる犬養と、傍らの丸椅子に座る頭山の二人だけだった。

「お前さん、運が強いね……コメカミから入った弾は皮の下を、頭蓋にそって半周して抜けていったそうだ。血はたっぷりでたし、脳震盪で頭、痛むだろうが命に別条はないとさ」

「そうか……ふん、そんな半端な弾、撃ちやがって…この木堂さんが、そんなもんで死ぬかよ」

犬養は、顔を頭山の方に向けようとするが、腰と脇腹を震源地として全身に激痛が走り、己がまともに寝返りさえうてない寝たきりの重傷患者である事を悟る。

「立雲、今日は何日だ? 俺はどのぐらい寝ていたんだ?」

身体を動かす事を諦めた犬養は、病室の白天井を見つめたまま、盟友に問う。

「25日だ」

「……25日…そうか……。昨日の選挙はどうなった? 結果は出たのか?」

「あぁ、ついさっき、最後の議席が確定した…という知らせが入ったよ」

興味もない……頭山は、まるでそんな口調で質問をはぐらかす。

「じらすない、この唐変木め」

共に安政二年生まれの同い年。当節の日本で、これほどに肝胆相照らす関係は他にはあるまい。


「民政党244議席、革新倶楽部56席、政友本党143議席、無所属21」

それが、頭山の語った選挙結果だった。

民政党は改選前248議席から若干、後退したが、単独過半数を確保。

政友本党は改選前170議席から大きく後退。各議員の選挙地盤の強固な事を考え合わせれば、この議席数では事実上の敗北と言ってもよい。

革新倶楽部は改選前30議席から、ほぼ倍増。

 犬養・革新倶楽部の議席数が大きく伸びたのは、当然ながら、犬養自身が襲撃された一件への同情票の要素が多分に強い。

 反対に、同じく総裁・加藤高明以下を襲撃されていて同条件である民政党が今一つ、伸び悩んだのは、「三菱の大番頭」という加藤高明の恵まれた出自に対して、民衆が

「ほれ、見た事か…」

と、内心、喝采を叫んだ歪んだ嫉妬心の成せる技だとしか説明のしようがない。


 犬養の革新倶楽部は、第3党ではあったが、依然として第1党、第2党との差は大きい。

ただし、無所属21名の中には、石橋湛山や松岡駒吉、片山哲といった犬養と尾崎がスカウトして歩いた14名も含まれているので、これら「革新倶楽部系」と言うべき別働隊の存在も含めれば、議席数は70名となり、連立与党二党は合計314議席となる。

 つまり、与党は憲法改正の採決さえできる464議席の三分の二を制する圧倒的多数を確保した事となり、これに加え、純粋な無所属議員7名と敗北により意気消沈した政友本党の切り崩し次第によっては、更なる議席増さえ見込まれる。

「御あつらえ向きだな……」

犬養は、メモを読み上げる頭山の声を聞きながら、フゥと、大きくため息を吐き出す。

「あぁ…うまくいったようだ」

頭山は、そう呟き、丸椅子から立ち上がる。

空気が動き、羽織袴姿の頭山から微かな芳香が漂ってきた事に、犬養は気付いた。

「……線香かい? 怪我人を見舞うにしちゃあ、縁起でもねえなあ」

「…………そうだな、すまん」

「葬式……かえ?」

怪訝に思った犬養の発した言葉に、頭山はしばし、沈黙する。


「木堂、お前さん、撃たれた時の事、覚えていなさるかね?」

「いや……あいにく、はっきりしねえ……演壇の下にいた男が立ちあがって……そんで、松岡が走って……」

犬養の意識ははっきりしているが、やはり、頭部に受けた傷のせいか、記憶の一部があやふやになっているようだ。

「二人、死んだよ」

「……二人?」

頭山の言葉に、犬養は不吉なモノを感じる。

「あぁ。お前さんが演説している時に、大陸浪人が拳銃を壇上に向けて撃ったんだ。全部で六発」

「…………」

「一発は、お前さんの頭を滑る様に。一発は見当違いの場所に。残りの四発は、お前さんの盾になった、うちの若い者二人の胸に二発ずつ」

「!?」

頭山の言葉を引き金として、犬養の脳裏に演説会場の風景が高速で過り始める。

次第に…次第に…それが形を成していく。

松岡の叫び声と同時に、演壇直下で立ち上がった数名の坊主頭に背広姿の男達……。

「あの背広を着た連中……立雲のところの?」

「あぁ……」

「……そうか。そうだったのか」

犬養は、苦痛を押して半身を起こすと、ようやく頭山の方に向き直る。

「わかった。ご遺族には、俺の方から出来るだけの事をしよう。立雲、すまねえ」

そう言って、包帯だらけの頭を下げる。


「一人は、先月、ややこが生まれたばかりでな。『可愛い、可愛い』と言うてな、この間、わしにも抱かせてくれよった……。もう一人は、もうすぐ17になる筈だった……」

「…………」

淡々と語る頭山の言葉に、犬養は返す言葉を見つけられず、力尽きた様に再び、仰向けに寝そべる。

「木堂、間違っとりゃあせんか? わしら、年寄りが生きて、若い者が死ぬなんてのは……道理に、合わんじゃないか」

心なしか、頭山の声が湿り気を帯びた様に、震えている。

その声に、まるで怯える様に布団を頭まで被った犬養は、その下で息を殺す。

「若い者にもらった命じゃ、その事、夢、忘れるな、木堂。貴様の残りの人生、我らが主張し、彼らが信じた大義の為、使わにゃならんぞ」

頭山の静かな怒りに、幼児の様に布団を被った犬養は無言を持って答えた。


「泣いとるのか?」

「…………」

「泣け、木堂。今は、それが一番の供養じゃ。わしも泣く」

「……」

小刻みに震える布団の下、木堂はただただ、泣いていた。





大正十三年二月二五日

(1924年2月25日)

静岡県 清水市興津

坐漁荘


 西園寺の決断に応えようとした秘書・原田は、己自身も気がつかぬうちに致命的なミスを犯していた。

原田は、北に白羽の矢を立てる以前に、幾人かの国家主義者や右翼関係者の人物と接触を持ち、依頼内容こそ明かさなかったものの、この“仕事”の打診を行った。

当然、日本の裏社会において、“身なりの立派な紳士”が“仕事”を依頼する相手を探している……という噂は、あっという間に広まっていった。

原田が、もし、組織化された行動派団体ではなく、大陸浪人一人一人と直接、話しをしていれば、こうも広まる事はなかっただろうが、生憎、自身も組織に身を置く者である以上、そういう発想は無かったようだ。


…………そして、その様な噂が裏社会を統べる頭山の耳に入らぬ訳がない。


 噂を聞いた瞬間、頭山はきな臭いものを感じ取った。

その噂が耳に入る頃、丁度、頭山と犬養は密会を重ねていた折でもある。

同じ東郷政権の与党…とは云うものの、国際協調主義を標榜する政友会・憲政会と、列強からのアジア解放を目指すアジア主義を信条とする彼等では、根本的な立ち位置が違い過ぎた。

議会主義、自由主義といった信条面では折り合えたし、内政面においては、緊縮財政主義対積極財政主義という根本的な違いはあったものの、互いの意見に対し、頷ける部分も多かったし、妥協点も見いだせたが、こと外交面においては目指す世界が違い過ぎているのだ。

東郷による内政改革が結実し、舞台を降りた後に必ず起きる権力闘争に勝利する為、犬養と頭山は、政界の再編を画策していた。

犬養は、無名の新人を次々とスカウトして手駒を増やし、頭山は、その影響力を最大限に行使し、既成の政治家たちを籠絡した。

彼らの目指す世界を作り上げる為に……。


“立派な紳士の仕事”の噂に、頭山は直ちに探りを入れた。

原田は、なかなか尻尾を掴ませなかったが、裏社会には頭山を慕う者も多い。

彼らからの通報により、次第に全体像が掴め、“仕事”の内容こそ、分らなかったが、原田の素性は、程なく割れた。

「紳士は西園寺公の秘書らしい」

「西園寺公が、何かしら企んでいる」

「北が仕事を受けた」

狙いも、理由も分らない。

さすがの頭山でも、それが分らなければ対策の講じようもない。

最善策がとれない以上、頭山は次善の策として盟友・犬養に配下の者を護衛役として貼りつかせることしか出来なかった。


そして、事件は起きた。


 結果、二名の配下を失い、刎頚の友と言うべき犬養の命を狙われた頭山は、当然の権利として、北への報復を行った。

報復は、すばやく、そして完璧だった。

しかし、間髪いれずに実行された、この報復は、単なる復讐を意味しない。

警察による初動捜査の開始を遥かに上回る速度で実行された血の制裁は、この先、犬養に限らず、政界に対し“暴力”をもって関与しようとする在野の者達に対して

「法だけが裁きを下す者ではない」

という重大な警句を与える事にもなったのだ。

そこには、恩赦も、特赦もない。

法を犯す者は、法の加護を期待すべきではない。

それが、北一派の壊滅により、右翼世界において圧倒的暴力を保有する事になった自由民権運動上りの大アジア主義者・頭山が決めた、この世界の新しい掟となった。




「千之助が……死んだ……か」

高橋是清を狙った筈の凶弾が逸れ、不幸な偶然により首を負傷した横田千之助。

彼が運び込まれた盛岡の病院からたった今、届いたその知らせを、西園寺は坐漁荘の庭先に配された小さな茶室において聞いた。

「千之助が………死んだん……か」

大の大人が立つ事もままならぬ程に低い天井の下、鉄瓶の沸く炉に刺さっていた鉄火箸を手にしたまま、西園寺は気の抜けたように、ふらふらと立ち上がると、その凶報をもたらした原田に近づく。

原田は、両の手を畳についたまま、怯えた犬のように尾を巻き、頭を下げ続けている。

「千之助が……死んだ……やと?」

畳につかれた原田の左手の甲、西園寺はそこに焼けた鉄火箸の先をあてる。

微かに音がし、肉の焦げる匂いが漂う。

原田は声もあげず、動く事もない。

鋭利な鉄火箸の先が、徐々に、徐々に、原田の甲に沈んでいく。

「千之助を……返せ」

西園寺のこめかみに血管が浮かび、肉を焼く異臭を放ちながら鉄火箸は掌を貫き、やがてそれは、畳へと到達する。


 後年「二月事件」と呼ばれる事になる、この政・軍要人を狙った一連のテロ事件は明治維新以降、最大級の惨禍をこの国にもたらした。

「民政党総裁・加藤高明 即死」

「民政党副総裁・横田千之助 収容先病院において死去」

「民政党最高顧問・高橋是清 軽傷」

「民政党幹事・浜口雄幸 重傷」

「革新倶楽部総裁・犬養毅 重傷」

「元帥・上原勇作陸軍大将 収容先病院において死去」

「元帥・秋山好古陸軍大将 軽傷」

「町田経宇陸軍大将 即死」

「福田雅太郎陸軍大将 即死」

「参謀次長・武藤信義陸軍中将 重傷。後日、右足切断」

「陸軍次官・渡辺錠太郎陸軍少将 重体」

「東京南部警備司令官・石光真臣陸軍中将 軽傷」

「陸軍省大臣官房二等主計・三瓶俊治 即死」

 更には同日、第一師団司令部を兼ねる東京南部警備司令部と東京憲兵隊屯所も襲撃を受け、結果として要人警護や、警備の任にあたっていた巡査及び憲兵隊員計8名が死傷、他に巻き込まれた民間人2名が即死。

 また、情報錯綜による混乱の中、『陸軍部隊による決起事件』との誤報が飛び、屯所を襲撃されて殺気立っていた東京憲兵隊が、師団長・石光真臣中将が狙撃された事から、駐屯地出入口に阻害物を築き上げ、兵器庫を開いていた第一師団隷下の麻布第三連隊を包囲。

疑心暗鬼の状態に陥った双方が土嚢の背後に銃を構えた兵を並べさせ、あわや銃撃戦か…という事態まで発生している。

 被害者側も多数の犠牲者を出したが、襲撃側の死傷者数も尋常では無く、首魁とみられる北一輝以下17名が即死又は死亡。

逃亡した実行犯及び、関与を疑われた者73名が指名手配され、このうち56名が逮捕検束、3名が拘置所内にて、後に縊死している。



 原田は、ピクリとも動かない。

手を刺し貫いた鉄火箸は熱せられており、突き刺さると同時に肉を焼き、殺菌と止血処理を兼ねるが、だからといって、それが気休めになる筈もない。

「……原田……貴さんっ!」

「…………」

老人特有の黄色く濁った白眼を、怒りによって真っ赤に充血させた西園寺が、手にした火箸をグリグリとこねる様に動かすたび、すさまじい激痛が原田を襲う。

しかし、原田に返す言葉はない。


 田中義一を唆し、伊東巳代治、平沼騏一郎ら枢密院勢力と結ばせ、横田と敵対する床次以下の政友会反主流派を彼らに合流させる。

田中、伊東、平沼らは、憎っくき山県の末裔。

床次、元田、山本らは、横田の敵。

政界転身に色気を示す田中を決起させれば、連鎖の炎は野火の如く広まり、権力欲の権化の様な床次らも、堪らず動き出す。

 床次らを政友会に残せば、横田の獅子身中の虫として彼を悩ませ続けるだろうし、内に残して事ある毎に邪魔立てされるより、外に出して山県の裔もろとも狩る方が、遥かに容易。

脱党により政友会主流派は、一時的に力を失うだろうが、憲政会との合同を勧め、新党を結成させれば数は十分、みあう筈……。


それもこれも、東郷の後継首班に寵愛する横田を指名する為だ。


 しかし、横田は、新党をまとめ上げる為に西園寺が予想した通り、自らは副総裁となって一歩下がり、総裁職を加藤に譲った。

西園寺自身が定めた『憲政の常道』に従えば、衆議院第一党の総裁を首班指名しなくてはならない。

しからば、副総裁・横田を首班に指名する為には、総裁・加藤を除かなくてはならない。

政友会の前総裁で、新党の最高顧問に補された高橋も、政治家としての経歴・実績・人望、それに格からいっても横田より遥かに上であり、流れ次第によっては新党を継承しかねず、これも邪魔だ。

大人しい若槻あたりと違って、真っ直ぐで、うるさ型の浜口も、後継総裁選びでは横田の対立候補として名乗りを上げ、厄介な存在となるだろう。

加藤、高橋、浜口。

彼らには、消される理由があったのだ。


 三者に罪は無い。あくまでも、三者を退けるのは、横田にすんなりと政権を移譲する為の、云わば、地ならしの様なものだ。

しかし、この三者と犬養では全く事情が異なる。

石橋、松岡、片山らを陣営に引き込み、頭山と結んで新たな政治潮流を作り上げようと画策する犬養の心の動き、その狙いが、妖狐・西園寺には手に取る様に分る。


(おのれ、木堂。この邦を戦に巻き込むつもりやな……)


「もはや、生かしておく訳には、いかぬ……」

それが、西園寺の結論だった。


 彼らをまとめて片づければ、横田の総裁就任、首班指名を邪魔するものはいない。

しかも、これほどの大事件である。

訪米中の東郷に罪はないと言え、一連の騒動が終結すれば責任をとって遠からず職を辞す事になるのは必定だ。

ここまで、全ての人形たちは操る糸のままに動き、西園寺は浄瑠璃作者の悦に浸っていた。

「横田千之助、死去」

この知らせを聞くまでは……。



「ひとつ、お伺いしても宜しいでしょうか?」

苦痛を何一つ感じさせぬ声色で、原田は西園寺に問う。

「…………何や?」

完全に虚脱状態の西園寺は、無意識のままに火箸で原田の手を抉り続ける。

「何故、急がれたのでしょうか? 横田様の総裁就任を…。御高齢の東郷様が遠からず総理の座を退くのは必定。勿論、加藤様とて、いずれ総裁の座を明け渡す事になるのは物の道理かと……」


「急がねば……急がねば……千之助は死んだ」

かすれ、消え入る様な声で西園寺は問いに答える。

横田千之助は、病に冒されていた。

『喉頭癌』と宣告された彼に残された余命は一年。

西園寺が、その事実を知ったのは、つい先月の事であったが、今では随分と昔の話のように思える。

今でも、内閣の一員として国会開会直前で多忙を極めている筈の横田が、西園寺の前に手をつき、己が病気を告げ、生命力の弱さを自嘲的に語った日の事を思い出す。

東郷が所信表明を行う直前、あの日の、その告白が全てを動かし始めた。


「何としてでも、千之助を首相にする」


 絶望の果て、心の底に芽生えた決心。

伊藤博文の直系として、政界において唯一、山県に対抗しえた筈の西園寺だったが、常にその粘質な性格を怖れ、その影に怯え、その出方を伺う日々だった。

己の不決断が、己の臆病が、この国の歩みを牛歩と化したのだ。

そして、その不決断、臆病が愛する弟子から「名宰相」として名を残す機会を奪い去ろうとしている。

 もはや、猶予はならぬ。山県の末裔を叩き、単に実権を奪うのであれば、それこそ世俗を超越した様な存在である東郷の方が容易であろうが、東郷は西園寺の一党ではない。

西園寺にとって、山県の系譜に連なる者どもを残らず叩き潰し、根絶やしにする役目は、あくまでも老人自身が育てた者でなくてはならず、今、それは横田しかいない。

 フランス流の民主主義を学び、議会制民主主義を至高の政体として信じて疑わなかったリベラリスト・西園寺の愛弟子への過剰な愛と、山県への恐怖と、冥府の同志達への追慕の情が、この老人らしからぬ焦りを生みだし、やがてそれは全てを壊した。



 西園寺の返答に、俯いたまま、ことの真実全てを理解した原田は、自由になる右手を懐に差し入れ、呆けた主に言葉を掛ける。

「北が殺されました」

「北……? 誰や、それ」

「私めが手配致しました在野の国士に存じます」

原田の言葉に、西園寺は何の反応も示さない。

事実、彼は、たった今、実行犯の名前を初めて知ったのだ。

「だから……なんや?」

「……北なる者、23日夕刻、自宅にて何者かの襲撃を受け、書生2名ともども殺害されました。……しかし、その時点において、官憲は事件の概要すら掴めてはおらず、混乱の極みにございました。即ち、ただただ、対応に追われるのみにて捜査を始めておりませぬ」

「…………」

原田の言葉、その一句一句を組み立てた西園寺はようやくにして、事の次第を呑み込んだ。

「ほうか……。毒がええやろか?」


毒…。

電光石火、放たれた頭山による北への報復。

それは、思わぬ副産物を今、産み落とそうとしている。

官憲の混乱期、襲撃犯の目的はおろか、身元さえ定かでない当日の夕刻に血の制裁は決行された。

この素早い報復が何を意味するのか……?


「北を屠った者は、その背後に誰がいるか、確実に知っている……」


原田が示唆しようとする意味を、西園寺は正確に理解した。

そして導き出した結論が『毒による自裁』だった。


「毒では……御自裁だと、世間に知られてしまいましょう」

西園寺公が自殺した、と世評にのぼれば、事件に関与した事を認める様なものだ。

懐に入れた右手に二十六年式回転拳銃を握り締めた原田は、それを取りだし、ゴトリッと面前に置く。

その鈍く光る凶器を、西園寺は濁った瞳で、じっと見つめる。

「ふふ……原田は、ほんまに気が効くなぁ」

西園寺の潔白を世に知らしめるには、西園寺自身も賊に襲われねばならない。

賊が襲撃に用いたのと同じ凶器によって……。

「うちは、ええ秘書を持った幸せモンやなあ。おおきに…おおきに」

「はっ、勿体ない御言葉に存じます」

「貴さん、手を貸してくれはりますか?」

「はっ」

「おおきに……」


 興津坐漁荘の露地先、掃き清められた竹林の奥にひっそりと佇む柿葺入母屋風の屋根を持つ僅か二畳半の大きさに過ぎない茶室から漏れた銃声は、雪に葉を染めた稚児寒竹を微かに震わせ、『元老の時代』が終わった事を静かに告げた。


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