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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
52/111

第52話 決壊 (2)

 入口扉を背にしてソファに座っていた上原の視界、その片隅に拳銃をもった闖入者の右手が映る。

上原の正面に座る秋山が、自らに向けられた銃口を驚きの表情と共に睨みつけ、その隣に座る渡辺が、間もなく放たれるであろう凶弾の飛来から主君を庇うべく、咄嗟にその身体に覆いかぶさろうと腰を浮かしかけた……。


 拳銃を握り締めた右手首が宙を舞う。

手首から先だけとなった、その肉塊は収縮反応を示し、虚空でゆっくりと回転しながら、あらぬ方向に1発だけ銃弾を放つ。

剣客・上原が座ったまま腰を捻り、振り向き様に放った抜き打ちが、闖入者の手首を未来永劫、役に立たぬモノに変えた瞬間だった。


「下郎っ!」

吐き捨てる様に呟きつつ立ちあがった上原は、利き腕を失い、噴き出る血飛沫を見つめながら、痛みより先に唖然とした表情を示す闖入者の腹を蹴りあげる。

手首を斬りおとされた痛みを超える様な、その強烈な蹴りによって鳩尾を抜かれた男は、うっかり、身体を手前に『くの字』に曲げてしまい、そしてそれは丁度、己の首を上原の面前に差し出す格好となった。

 狙い通りの姿勢をとった男に対し、上原は股を割り、スッと腰を落とすと、その首筋に向け、一瞬の躊躇いも見せず、鍔元から極端に反り身のついた御賜の元帥刀を振り降ろす。

狂った猿の叫び声にも例えられる、独特の奇声と共に発動される示現流。

その皆伝者の手錬の技に、男の首はまるで、最初からそこにあった物かの如く床にストンと落ち、転がった。

「上原はおいじゃ、たわけ者が」


「天誅っ!!!」

半ば恐慌状態の悲鳴にも似た叫び声と共に、新たな凶賊が室内に乱入する。

最初の尉官と同じく、二十六年式回転拳銃を手にした軍服姿の男、その数3人。

入口付近に陣取った先頭の男が、血飛沫を全身に受け、血刀を手に下げた上原めがけて、銃口を突き出す。

 凶賊までの距離6メートル、歩数にしておよそ七歩。

それは通常、『刃物』対『銃』の正対距離において、刃物側が有利とされる限界に等しい。

だが、「脈が一回打つ間に、三間の距離を三歩で進む」という神速を誇る示現流の使い手・上原にとって、たった6メートルという距離など、差し向かいで立っているも同然だ。

新たなる凶賊の登場に、まるで歓喜の声の如く咆哮を上げた上原は、瞬く間に七歩の距離を三歩で詰めると、

『二の太刀いらず』

と称される示現流独特の強烈な大上段からの袈裟斬りが、その男の左肩口を捉えた。

鎖骨を粉砕した元帥刀は、背骨をへし折り、あばらの4、5本目までを一気に食い破り、いともたやすく男の生命を掠奪する。

 それを見た後ろの二人の男が、怒りの唸り声と共に室内に銃弾を叩きこみ、その一弾が秋山を庇おうと、その前に立ちはだかった渡辺のよく肥えた右肩を撃ち抜き、更に、別の一弾が跳弾となって武藤の右膝を撃ち砕く。

 上原は、ヘソの上辺りまで縦に両断されて、左右が“ぐらついている”男の襟首を掴んで盾とし、銃弾を防ぎつつ更に前へ、前へと踏み出した。


 秋山も、渡辺も、拳銃は携帯しておらず、それは町田、福田も同様だった。

唯一、武藤のみが南部自動拳銃を腰に下げていたが、予備弾倉は所持しておらず、弾倉内の8発のみ。

その武藤は、右膝に銃弾を受け、苦悶の表情を浮かべながらも、気丈に腰の拳銃嚢からそれを取り出し、

「閣下、これを」

と、秋山に託す。

身動きの取れない自分や、利き腕の肩を撃ち抜かれた渡辺が所持しているよりも、秋山自身の護身用に…と渡したのだ。


「おう!」

自動拳銃を受け取った秋山は、慣れた手つきで薬室に実包を送り込むと、瞬く間に黄色の1本線にホシ三つという大尉の階級章を付けた乱入者の脳漿を二点射で弾き飛ばす。

死体を盾とした上原が、最後の男との距離を詰め、それが間合いとなった時、死体を相手に突き飛ばすように手を離す。

男の手にする二十六年式回転拳銃は、ダブルアクション専用の為、引き金が異様に重い。

その引き金の重さに手こずり、更には、血刀を手に、全身に壮絶な返り血を浴びた悪鬼が、大股で近づいてくる事への恐怖が、最後の男を更に慌てさせており、薄ら笑いを浮かべた上原とは好対照の絵柄となる。

「キィエエエィ!」

振りかぶった刀の刃が、水平になるほど後ろに反らす示現流・トンボの構えから凄まじい速度で振り下ろされた必殺の刃に、脳天から顎まできれいに頭蓋を二つに割られた男は、最後の瞬間に1発だけ9ミリ弾を発射したが、その弾丸は上原の頬をかすかに切り裂くのみに終わった。


「何なんだ? いったい……」

さすがに立て続けに三人を斬り倒した直後とあって、老齢の上原は、その場にあぐらをかいて座り込むと、大きく肩で息をする。

「上原、貴様を狙っていたようだったぞ、こやつら」

自動拳銃を卓上に置いた秋山が、傷口を抑えて呻く渡辺の傷を覗き込むと「大事ない、唾でもつけとけ」と口では言い捨てながら、止血処理をし、腰の手拭で三角巾代わりに右腕を吊るしてやると、優しく左肩を叩き、感謝の意を表す。

 その傍らで、元・凄腕の潜入工作員という経歴を持つ武藤は、激痛に歯を食いしばりながらも、自らの腰手拭いを器用に裂いて、膝の止血処理をしている。


「上原閣下、いったいこいつらは何者なんでしょうか?」

座りこんでいた上原が立ち上がろうと元帥刀を床に突き立てると、その傍らに町田が近づき、手を貸しながら問う。

「俺が知る訳がない! だが、この者ども、軍服を着用はしているが、軍人とは思えん」

「それは、確かに……銃の扱いが不様過ぎますし……それに何より、陸軍の者であれば、秋山閣下と上原閣下を見間違える筈もありません」

町田も上原の言葉に頷き、その意見に武藤や秋山も同意の声を上げる。

突然の出来事にすっかり度肝を抜かれたのか、蒼ざめた顔をした福田が、フワフワとふらつく様に立ち上がり、床に転がっている男の手首から拳銃を取り上げながら、かすれ声でささやく。

「まったく……」

福田は、その拳銃の重心を確かめるように手を軽く上下させると、次いでシリンダーを開き、残弾数を確認しながら、溜め息を吐き出す。

「役に立たぬやつらだ」

そう面倒臭げに呟いた福田の手がゆっくりと差し上げられ、その銃口の先が上原を捉えた。


「ふ…福田?」

「福田大将、どうして…?」

銃口を上原に向けたまま、固まったように動かない福田に向け、その場にいた全員が驚愕の表情を浮かべながら、この状況を飲み込めないでいる。

「福田、貴様…! どういうつもりだ」

片膝立ちの姿勢のまま、身動きがとれなくなった上原が、その独特の三白眼を上目遣いにして自身に向けられた銃口と、それを構える福田を睨みつける。


「どうして? どうして…だと?」

上原の射抜くような視線を受けながら、福田は度の強い眼鏡越しに冷笑を浮かべようと努力するが失敗し、笑いはすぐさま、泣き顔の様に歪められる。

「閣下……閣下……自分は……」

頬から血を流しながら、地獄の牛頭馬頭ですら怯む様な眼光を放ちつつ上原が、憐れむような声音で語りかける。

「貴様、石光を舐めすぎたようだの。奴から報告を聞いておる。田中に横領露見の一件、密告しただろう」

東京南部警備司令官を務める石光真臣中将は、職務上、陸海全ての在京将官の公用車情報を掌握している。

当然、石光は2月15日の夜、福田が田中義一一派の元田邸を訪ねている事を運転手の書き記している日報から把握しており、その旨、上原にも報告し、福田に対する注意を喚起していた。

「知っていたのなら、何故……」


「わからぬか……ふん。わからぬ様な貴様だからこそ、この様な真似をするのであろうな」

上原の言葉に、一瞬、ぐっと唇を噛み締めた福田は、自分自身の勇気を奮い起すかの如く、咆哮する。

「黙れぇぇぇっ!」

「閣下っ!」

福田の手にした拳銃が火を噴くのと同時に、町田が福田に背を向け、小柄な上原を抱きしめるように庇う。

1発、2発、3発……。

肥満した背に銃弾が叩きこまれながら、憤怒の形相を浮かべ、歯を喰いしばった町田は、上原としっかり目線を合わせた。

その双眸の中心部、黒いゴマ粒ぐらいの大きさだった瞳孔が急速に拡大し、それが黒豆ほどの大きさになり、たった今、盾となった町田の生命が終わりを告げた事を上原に知らせる。


「おのれっ……すまぬ、町田」

巨躯の陰、部下の身を呈した忠節に心の中で手を合わせ、手にした刃こぼれだらけの元帥刀を町田の腹に一気に突きたてると、その枯れた様な小兵のどこにその様な力があったのか? と思える程のバネを発動させ、町田の身体ごと銃弾を放ち続ける福田に突進する。

町田の腹に刺さった元帥刀の切っ先が、突進の勢いによりその背を突き破り、それがそのまま体当たりされた福田の胸に突き立ち、更に福田の背を抜けた先端は、参議官控室の白い塗り壁に突き刺さり、床に血溜りを作り始める。

 肺に突き立った刀を抜く事も出来ず、唇から泡交じりの血を垂らし続ける福田の傍らに頭一つは身長の低い上原が近付き、その握り締めた手から拳銃を奪いとり、銃口を福田のコメカミに押し付けると、

「答えろ、福田。この始末、田中の差し金か?」

と問い質す。

上原の声が聞えているのか、いないのか、額から脂汗を流しながら、呼吸する度に起こる激痛に福田はじっと耐えつつ、

「だ…ま……れ、売…国奴め」

と、問いには答えぬまま、痛みに耐えかねたのか、全身を痙攣させる。


「売国奴じゃと? このわしを売国奴呼ばわりするのか? 笑止なり、福田。答えよ、田中も承知の上の事か? こやつらはいったい、何者だ? 在郷軍人会の者たちか?」

「…………」

「さては貴様、田中に元帥佩刀をくれてやるとでも言われたのだろう? それとも大臣の椅子でも約束されたか?」

「……」

一切の返答を拒絶するかの様に瞼を閉じた福田は、全身を襲う痙攣を抑えつけるかの様に唇を固く結び、鼻腔を膨らませ、大きく肩で呼吸し続ける。



「上原。もう、勘弁してやれ」

卓上に置いてあった南部小拳を手にした秋山が、引き金を引けずにいる上原の肩越しに手を伸ばし、福田の眉間に銃口をあて、瞬時に傷と裏切りの痛みに耐えている福田を楽にさせてやる。

「秋山、すまぬが……福田が賊を手引きした事は……」

上原が、皺深い顔を歪めつつ、

(なかったことにしてくれ…)

と、苦渋に満ちた目で懇願する。


「あぁ…分っている。福田大将は、賊の凶弾に倒れた。部内にも、遺族にも、そう布告しよう。案ずるな」

秋山は、上原の固まったままの右手の指をほぐしながら拳銃を取り上げる。

「しかし……それはそれとして、いったいぜんたい、どういう訳だ。このままには捨ておけぬぞ? 貴様、田中大将がどうのこうの言っておったが……」



「秋山閣下、賊は恐らく在郷軍人ではなく、大陸浪人崩れの者どもかと思います」

信頼する部下の手により、信頼する部下を失い、いまだ自失の態を示す上原に代わり、足を引き摺った武藤が、ようやくソファに身を預けながら、答える。


「かねてより甘粕大尉の一件…戒厳司令官だった福田大将の指示にて、甘粕が大杉一家を殺害したのではないか?…という噂が流れております。大将の階級にある御方と、一介の憲兵大尉如きの関係が取り沙汰される事自体、その噂が真実であった事を示しているかと……。そして、甘粕大尉は…」

「不逞な無政府主義者に天誅を下した、として一部の国家主義者共に英雄視されている…か」

「はい。先程の無様な銃の取り扱い、いくらなんでも軍人としては、ご粗末が過ぎましょう? それにこの二十六年式は、弾薬と共に大陸に多数が輸出されています。国内では手に入りにくい代物ですが、大陸浪人が絡んでいれば、たやすく…」


何とか、少しでも痛みを和らげようと、さかんに姿勢を直しながら武藤が答える。

「なるほど…な。だが、武藤君、どうして大陸浪人が上原を狙う? それに何故『田中大将』なんだ? 福田大将が、何故、上原を狙う?」

秋山の何故何故攻めに、そこまでは存じません……といった風に、苦痛に顔を歪めながら小首をかしげた武藤に代わり、上原がようやく語りだす。


「秋山、貴様は何も知らんのだ。実はな、ここ数年に渡り、陸軍省大臣官房の機密費から三百万という大金が、田中や山梨らの手により横領されておる。わしは石光の調査により、その事を聞いておるが……おそらく今頃は、その一件の証人も……」

「消されている…か。しかし、三百万とは、大した額だな……おい、待て。じゃあ、石光中将の身も…!?」

「いや、石光はあれの兄とは違って根が臆病だからな、普段から己の身辺警護には人一倍、神経質な男だ。おそらく、心配はあるまい。副官から従卒に至るまで、信頼のおける屈強の手錬を選んで身近に配しておるからの、返り討ちにしているだろう」

「そうか……。だが、だからと言って福田大将が田中大将と共謀して……それに、福田大将は貴様の事を『売国奴』呼ばわりしていたようだが…?」


 どうにも解せぬ…秋山は、そう言いながら、この様な騒ぎになっても誰も駆け付けてこない従卒達を不審に思い、廊下に顔を出すが、慌てて引っ込める。

「上原、話は後だ。もう一稼ぎ、しなきゃならんようだ」

苦笑を浮かべた秋山が見たのは、参議官控室が並ぶ廊下と階下を隔てる樫材の扉が固く閉ざされ、その扉を背景として、薄暗い廊下をこちらに歩み寄ってくる新たなる凶賊の一団だった。



 秋山は、武藤の南部自動拳銃を脇に挟み、凶賊の持ち込んだ4丁の二十六年式回転拳銃を拾い集めると、シリンダー内を確認し、未使用の弾丸を抜き取り、その集めた弾丸を一丁にまとめて装弾しはじめた。

 上原は、町田と福田を貫き、壁に突き刺さったままの元帥刀を抜き取ると、刃を確認し、首を左右に振る。

「だめだな、もうこいつは使えん」

立て続けに3人を切り捨て、2人を刺し貫いた愛刀には、血糊と人脂がべっとりとつき、刃こぼれも酷い。

これでは人斬りの道具として使い物になりそうもなく、腕の良い砥ぎ師に手入れを頼んでも、相当に長い期間、手元に返ってくる事はないだろう。

上原は、やむを得ず、床に転がった町田の遺骸に対し、片手を拝むようにし、一瞬の黙祷を奉げた後、その腰から軍刀を抜き取り、己が腰に収める。



「上原閣下、秋山閣下、ここは小官が防ぎます。どうか、窓より……」

砕かれた右膝の関節が馬鹿になってしまったのか、膝から下をあらぬ方に曲げながら自身の軍刀を杖に立ちあがった武藤が、両元帥の盾となるべく歩を進めようとする。

「あぁ、そうかい……それで、武藤君、このヨボヨボの爺さん二人に二階の窓から飛び降りて逃げろ、と言う訳だね?」

秋山は、目前に迫った危機を全く気にしてないかの如く、微笑みを浮かべつつ、武藤をからかう。

「そりゃ、あんまりじゃないかね? 飛び降りた拍子に、足首を捻りでもしたら『年寄りの冷や水だ』って若い連中の笑いモノにされるじゃないか」


「閣下、私も……」

肩からの大量の出血で、顔面を青白くさせた渡辺が立ちあがるが、その傷口の辺りを武藤の杖代わりの軍刀を奪いとった上原が、その柄の先でグイッと押しやる。

傷口を押された痛みに耐えかねた渡辺が、声にならぬほどの苦悶の表情を浮かべ、座りこむと、上原は

「けが人は寝ておれ、馬鹿者が」

と、こちらも片頬に微笑を浮かべながら吐き捨て、手にした軍刀の鞘をはらい、刃を確かめる。

「どいつも、こいつも刀の手入れがなっとらんな」

いつも通り、ブツブツと小言を呟くと、武藤の軍刀を腰ベルトに挟み、右手には町田の形見となった軍刀を抜き放ち、一振り、二振りしてバランスを確認する。


「いいか? 上原」

廊下を盗み見していた秋山が、右手に南部小拳、左手に二十六年式回転拳銃を握り締め、後ろの上原に確認する。

「応」

短く答える朋友と目を合わせた秋山は、静かに微笑み、頷き合うと、天地も割れんばかりに咆哮した。

「馬、引けええええっ!」

それは、騎兵の神様・秋山の半生において、最も慣れ親しんだ戦いの雄叫びだった。



 秋山の巨躯が廊下に飛び出し、二丁の拳銃を握り締めた両の手を肩幅のまま、真っすぐ前に突き出すように構えると同時に、手にした拳銃が立て続けに火を吹く。

まさか室内から打って出てくるとは予測していなかった凶賊は、一瞬、呆気にとられ、たちまち先頭に位置していた二名が撃ち斃される。

 秋山は、ゆっくりと、しかし、大股で、相手に近づきながら拳銃を撃ち続ける。

瞬く間に全弾を撃ち尽くした秋山は、拳銃を床に叩きつける様に投げ捨てると、腰から吊るした毛抜型の元帥刀を抜き放ち、騎兵の突撃の如く雄叫びを上げながら、廊下を踏みならし突進する。

その横から全身に返り血を浴びた鬼神・上原が飛び出し、耳をつんざく猿狂を上げながら駆け抜けて行く。

 放たれる銃声が木霊する板張り廊下、予想外の展開に怯え、恐怖に顔をひきつらせはじめた凶賊の一団に、両元帥は一対の肉弾と化して斬り込んでいった。





大正十三年二月二三日

(1924年2月23日)

東京・牛込区 神楽坂


 北は自邸において、書生二名に手伝わせながら旅の荷づくりに勤しんでいた。

この日、かねてより小遣いを渡し、手懐けていた大陸浪人十数名を差配し、「父祖の血により得た関東州と満州鉄道を売却せん」と画策する国賊への襲撃を実行させた彼は、官憲の捜査の手がのびる前に、第二の故郷とも言うべき大陸に逃れ、しばらくは身を隠すつもりでいたのだ。

 元々、北自身は、それほど現在の東郷政権に対し、不平や不満を募らせていた訳ではない。

だが、彼をして凶行に走らせたのは、偶然、似た様な依頼が二つも舞い込んできたからだった。


 最初の依頼主となった男は結局、最後まで名も名乗らず、前金で一万円という大金を活動資金として手渡し、加藤高明内務大臣、高橋是清大蔵大臣、浜口雄幸文部大臣、犬養毅逓信大臣の「国賊与党幹部」四名に対する襲撃を依頼してきた。


「金を受け取って人を殺す……」


 北は、殺人者では無いし、ましてや、その元締めですら無い。

もし、単に金を積まれただけであれば、いくらなんでも、この様な依頼、にべもなく断わっただろう。

しかし、男が盛んに語る

「東郷閣下は、腐った政治家どもに騙され、国の宝を売り払う役目を負わされている」

という主張には、大いに頷けるところもあり、「君側の奸、討つべし」と同心出来る部分もあった。

 加えて「満州鉄道売却」が東郷の所信表明演説において発表されて以来、彼の大陸時代の知己達が続々と、彼を頼って帰国してきているのが大きい。

日本政府の対支不干渉政策発表と共に、それまで「我こそは日本の先兵」とばかりに、我が物顔で大陸を睥睨していた彼らは、日本政府が大陸から手を引く、と宣言すると同時に“虎の威”の借り先を失ってしまったのだ。

 このままでは、内地において喰い詰め、逃れるように渡った中国大陸からも逃げ出す他は無く、彼らがこの先、更なる喰い詰め者に身を落とすのは疑いない。

「これではまるで、二階に昇っているところで、梯子を外されたも同然ではないか!」

半ば破れかぶれとなって、酒臭い息と共に不満をこぼす彼らの悲憤に対し、北はやおら、義侠心に駆られたのだ。



 続いて舞い込んできた依頼主は、無政府主義者・大杉栄一家を惨殺し、今や巷の国家主義者の間で名声を博しつつある甘粕憲兵大尉からの紹介だ、と言って北の邸宅を訪れた福田雅太郎陸軍大将と、北が以前より親交を結んでいる森恪だった。

 当節、甘粕の凶行は、時の戒厳司令官だった福田の指示によるものだと、まことしやかに噂されていたし、北自身も福田にその旨を確認したい衝動に駆られ、直接、聞いてみたが、福田はただ苦々しげに微笑むばかりで、言葉を濁し続けた。

 しかしながら、拘留中の未決囚である甘粕の紹介で、軍事参議官という名誉職にある福田が直接、依頼に来る事自体、事の真偽は「推して知るべし」だったし、殺害された大杉栄の同志である無政府主義者達が、報復として福田殺害の機会を伺っている…という噂も耳にしている。


 自著『日本改造法案大綱』の中で、シベリアからオーストラリアに至る大帝国の建設を謳い上げ、「持てる国家から奪うのは、持たざる国家の当然の権利」と主張し、軍部による武装蜂起こそが国家改造の第一歩だ、と書き連ねている革命家・北にとって、福田という軍の有力者と誼を通じ、その知遇を得る事は、将来へのまたとない布石となる筈だった。


 しかしながら、福田達が口にした

『元帥・上原勇作陸軍大将、及びに町田経宇陸軍大将、石光真臣陸軍中将、三瓶俊治二等主計 暗殺』

という依頼を、北は純粋に、驚きを持って聞いた。

北は民間人ではあったが、軍部内にその思想の賛同者や知己は多い。

当然、陸軍部内に長州閥、九州閥という派閥がある事は聞いていたし、その九州閥の領袖が上原である事は勿論、福田がその閥の有力幹部である事も知っていた。


『子が親を弑する……』


 上官の命令を絶対のものとする階級社会である陸軍において、それが、どれほど重い意味を持つかは、考えずとも分る。

だが、軍の決起こそが革命の先触れとなる…と考え、軍部との人脈構築を計っている北にとって、将来に渡って福田の“弱み”を握る事ともなる、この依頼は、あまりに魅力的過ぎた。



 それに福田と同行してきた森の存在が大きい。

北は、この依頼に対し、明らかに奇異な印象を受け、純粋でない、きな臭いものを嗅ぎとっていたが、何といっても、田中義一陸軍大将の政治指南役として知られる前衆議院議員・森恪という人物を国家主義に身を置く者として無視する事はできない。

 政治力を駆使して自らの所有する炭鉱を満鉄に不当に高い値段で売りつけた、とか、政界入りに際しては政友会内部に大金をばらまいて、強引に己が地歩を固めた、とか……何かと黒い噂の絶えぬ人物だが、その一方、辛亥革命勃発時には、成功のおぼつかなかった革命派に対して多額の献金を行って太いパイプを築いておくなど、底知れぬ先見の明もある。

 元々は三井物産に籍を置く一介の中国駐在員に過ぎなかったが、上海支店を振り出しに、とんとん拍子に出世し、退社前には若くして天津支店長にまで抜擢された才覚の持ち主であり、その思想信条は、自身が政党に属しているにも関わらず議会制、政党政治を否定する典型的なファシズムだ。

 三井を退社した後には、それまで培った大陸人脈を駆使して大陸各地に事業を起こし、今や莫大な資産を有する新進気鋭の実業家として巨万の富を誇っている。


 しかしながら、東郷内閣による政策転換により、森もまた、大陸浪人達が行き場を失ったのと同様、先々の雲行きが怪しくなった大陸に資産を有する事業家でもある。

このまま日本が大陸情勢への関与を弱めれば、元より地元民の反感を買っている森は、大損害を被りかねない。

 何故なら、大陸で商売をする事業家のご多分にもれず、森も、その事業拡大の過程においては荒くれ者の大陸浪人達に小遣い銭を与えて、表沙汰には出来ぬ様な仕事の依頼を行っており、北の様な大陸浪人上りの者達の間では、その縁もあって、かなり知られた存在だったのだ。

 


 己が閥の領袖を弑する決意をした軍高官と、その閥と対立関係にある派閥領袖の参謀格……。


 片や、戒厳司令官として

『鮮人・社会主義者が放火し、暴動しつつあれば、人々はよくよく団結し、彼らに備えよ』

とわざわざ署名入りの布告文を貼り出して、震災直後の混乱状態にあった在郷軍人会を扇動し、数々の悲劇を招いた張本人。


 片や、中国に多額の資産を有する事業家にして政治家、更には田中義一という有力者の側近であり、国家主義を信望する者達への活動資金提供者として、計り知れぬ影響力を保持するファシスト。


 共に権力に近い側に身を置き、本来、対立関係にある筈の大物二人が、一介の革命家・活動家に過ぎない野人・北に頭を下げに来た……。

詳しい事情は知らずとも、これだけで、北にとっては「博打を打つ価値がある」と思えるほど、愉快な出来事だった。



 …………北の預かり知らぬ事ではあったが、陸軍省機密費横領疑惑の露見が、福田と森を結託させていた。

田中にとって致命傷とも言える、この一件が、最大の強敵・上原に露見した事を、当事者達に告げたのは、上原の予想通り、福田だった。


 『甘粕事件』に限らず、戒厳軍が社会主義者7名を殺害した『亀戸事件』の顛末でも分る通り、福田は過剰に国家主義に傾倒している。

 当然ながら、東郷内閣の満鉄売却という方針には、最初から不満だった。

しかも、その件に対して領袖・上原が、秋山陸相との関係を重視した故か、反対の意思表明を示さないだけならまだしも、九州閥一党の末端に至るまで

「異論は差し挟む事、まかりならぬ」

と命じてきた時には、不満を超えて不信感さえ抱いた。

 更には旧9期である自分を差し置いて、新3期(通算14期)の武藤に九州閥後継者の地位を持っていかれそうな空気が流れている状況も腹立たしかったし、その上、旧8期の田中大将が自ら予備役編入を望んだ事により、自分自身の予備役編入さえ半ば決定してしまった事が、決め手となった。

 軍における出世の望みを絶たれ、予備役編入と同時に影響力の全てを失う事になる福田は、疑惑露見を田中に告げ、その揉み消しに一役買うかわりに、生涯現役となる『元帥号』叙勲を求めたのだ。

 

 いざとなればオロオロしてしまう弱さ、或いは、根の善良さを持つ田中を傀儡として、自身の理想の国家像を追い求める森は、

「バレる様な横領をしでかす」

田中の間抜けぶりには、思わず舌打ちをしてしまったが、理想を達成する為にも、そして自身の身を守る為にも、ここは福田と結託して田中を守らなければならなかった。

 だが、無論のこと、福田が軍を動かして直接、上原一党と証人を始末する事は出来ないし、森と関係ある大陸浪人達を動かす訳にもいかない。

そんな迂闊な真似をして、捜査の手が自らに伸びる様な事があっては元も子もない。

福田と森は、万が一、事が露見した場合を考え、どうしても、自分達の盾となる「身代わり」が必要だった。

 そして、不幸にも選ばれたのが北だったのだ。

二人は、北に「大事が済んだら当分の間、大陸に身を隠す」様に言い含め、その旅費や当座の費用を渡すと、来た道を帰っていった。



 …………福田と森にとって想定外だったのは、一万円という報酬に目が眩んだ北が「どうせ高飛びするならば、行き掛けの駄賃だ」とばかりに、もう一つの襲撃依頼までも引き受けてしまった事だった。


現職閣僚4人に、元帥、大将、中将に二等主計が一人ずつ……。

これほどの大物を、これだけの人数、殺害して、戒厳令下の帝都より逃れる術など、ある筈もない。




「先生、迎えの車が到着したようです」

夕闇せまる邸宅の中、若い書生が門前に停車したハイヤーの音を聞きつけ、荷造りの手を止めた。


「なんだ、早過ぎるんじゃないか?」

「そうですね……少し待つ様に申しつけて参ります」


 もう一人の中年書生と言葉を交わしながら、書生は広間から廊下へと足を進めていく。

その姿を見送りながら、北は残った中年書生に問い掛ける。

「少しばかり、町が騒がしくなっておるようだな」

北の当事者らしからぬ、その言葉を聞いた中年書生は、苦笑を浮かべつつ、応じる。

「それは、そうでありましょう? 加藤内務大臣以下の閣僚陣、それに上原元帥以下の九州閥の面々……そのうち誰か一人が殺されたとしても、号外が飛び交うでしょうから」

書生の言葉に、北は頷き、

「巷が混乱している間に、何とか抜けだせればいいが……」

と、口ではいいながらも、心は既に遥か大陸の地へと雄飛している。


 青年書生の向かった玄関先から、運転手らしき応答の声が聞え、二人の声がいつの間にか、押し問答の様になった……と、思った瞬間、突然、銃声が邸宅内に木霊する。


「なに?」

突然の事態に、北は目を剥き、中年書生に視線を向ける。

「ちっ」

北の腹心を自認する軍人上りの中年書生は和服の懐に右手を入れ、愛用の二十六年式回転拳銃の存在を指先で確かめつつ、舌打ちする。

早く着き過ぎたハイヤー運転手と青年書生に間で、何かしらの口論が起き、カッとなった青年書生が銃を抜いた……と思ったのだ。

「馬鹿者が……」

着物の合わせを整えつつ、立ち上がった中年書生が廊下に一歩、足を踏み出した瞬間、

「なんだ!? 貴様は」

と誰何の罵声を上げる。


 彼が見たのは、丸刈り頭に背広を着込んだ男が、両手に持った抜き身の匕首を丹田に構え、自分の懐に向け、身体ごとぶつかってくる姿だった。



 ……廊下と広間を隔てる雪見障子は無惨に蹴倒され、その上で中年書生が腹を抑え、悶絶している。

腹部を抑えた両手の指と指の間からは、とめどなく血が流れ出し、もはや手の施しようもないのが一目でわかる。

北は、その光景を静かに見た。


(警察だろうか?)


いや、警察がいきなり匕首で斬りつける訳は無い。


(ならば……)


思い当たる事は一つしかない。


(口封じか……)


「念のいった事だな……」

正座していた北は小さく呟くと、刃先から鮮血の滴る匕首を手に広間の入口で佇む男に、懐から取り出した護身用回転拳銃の筒先を向け、ゆっくりと立ち上がる。

「名乗ったら、どうかね?」


『拳銃』対『刃物』……。


 拳銃を持つ者の余裕が、北にはあった。

床の間を背にした北と、無表情な坊主頭の男の間には、ゆうに10歩の距離がある。

若い頃から三度に渡って中国に渡り、革命運動に身を投じて以来、くぐり抜けた修羅場は数知れない。

常人とは、肝の据わり方が桁違いだ。


(二発は撃てる……)


 男の突進に備えつつ、北は、そう計算した。

殺傷力の弱い二十六年式回転拳銃ではあったが、それでも二発を続け様に叩きこまれれば、無事では済まない。

「名乗らないか……」

扱い慣れた拳銃を構えつつ、

(ならば、用は無い……)

とばかりに狙いを定めた。



……北の計算は無意味なモノになった。

何故なら、覚めた目で北を見つめる男の背後から、揃いの背広に坊主頭という何ら個性の感じられない格好をした三人の新手が、手に手に匕首を持って姿を現したのだから……。


2010年3月3日 文章推敲により訂正。

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