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無手の本懐  作者: 酒井冬芽
第一部
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第5話 坐漁荘談義

 犬養の言葉に、西園寺は唖然とし……そして、ただ唸るしかなかった。

 明朗快活、奇をてらう事を好む後藤新平は、膝を打って、賛意を示す。

 山本権兵衛は、天井を見上げ、しばし声もでない。山本と東郷の関係は深く、そして長い。互いに薩摩藩出身の同輩であり、同時に山本にとって東郷は五歳年上の兄のような存在でもある。貧しい下級武士の子、それも六男坊という、決して恵まれたとは言えない生まれの山本は、剣や読み書きの多くを東郷に学んだものだった。故に無二の朋輩であり、共に老いた今でもその信義と友情に微塵の揺るぎもない友人である。

 長い沈黙の後、山本が切り出す。

 「仲五郎どんは……東郷どんは、軍人じゃよ。それも生粋の」

 犬養の言葉に衝撃を受けたのか、思わず山本は東郷平八郎の幼名・仲五郎の名を呟く。

 「されば、山本閣下。今、帝国の首相になる人物に一番必要な資質はなんでございましょう?」

 その議場をうならし、政敵の心胆を寒からしめ続ける鋭い舌鋒で犬養は、山本の袂に踏み込み、斬りつける。

 「この震災後の混乱期を乗り切る為には……そう、何も恐れず、何にも惑わされず、思いのままに大鉈を振るえる人物、でしょうな」

 言葉に詰まり、返答しようとしない山本に代わり西園寺が呟く。長い沈黙の末、ぬるくなった燗酒をあおり、咽喉を湿らせた山本が、ゆっくりと話し出す。

 「東郷は、英雄だよ。日本海海戦の。完全無欠の勝利で、このアジアの貧乏二流国だった帝国を列強の一角に仕立て上げた男だ。だが、あいつは生粋の軍人だよ。俺は長い付き合いだが、いままで一度も政治を志した、という話は聞いた事がない。

 それに、だ……。

 これが一番、肝心なことだが、日本人誰からも尊敬され、崇拝されている東郷のような英雄には、傷がついてはいかんのだ。だから、俺も、海軍も、その後の東郷には実権の無い名誉職を与えたのだ。下手に顕職にでもつかせて不手際があったら、軍神の名が曇るからな」

 「軍神には一点の曇りも、一掻きの傷もあってはならん、という訳ですな」

 犬養が愛用の煙管を袂から取り出し、煙草をつめながら語る。

 「政党政治家として、この様な事を言ったら、自殺と同じなんですがね……」


 第一回衆議院選挙から当選し続け、「反骨と気骨で総身ができておる」と政敵からも賞賛される、この国最古の本格的政党政治家、それが犬養毅という男だ。

 議会中心主義と自由主義、アジア主義と民族主義の信望者であり、強大な山県閥に抵抗し続け、常に少数派、反対派に身を置き『憲政の神様』と尊敬され続けている男である。


 「山本閣下、あなたも日露の英雄だ。全く無名だった東郷さんに連合艦隊を任せた、その一点だけで、あなたは自分を誇っていい」


 「しかし、あなたはその後、政界を志した。政治に首を突っ込んだ。薩派として……いやこれは失礼、薩摩閥として山県元老と長州閥への対抗意識からといってもいいが……」


 『薩派』というのは薩摩閥に対する蔑称である。巨大な山県・長州閥に比べて、海軍を根城とする薩摩閥は、閥というにはあまりに卑小、派で十分、の意を込めて「薩派サッパ」と呼ばれ、軽んじられていた。

 「確かに、東郷閣下は軍神ですよ。日本人であれば、あの人に対して感謝はしても、非難できる者は一人もいない。今、こうして我々が呑気に飲んでいられるのも、日本人が露助の厠掃除をせずに済んでいるのも、全てはあの人の勝利のお陰ですよ」


 「東郷なら鉈を振るえる、ということか…」


 「東郷閣下の振る鉈、誰が逆らえますか? 政友会が? 憲政会が? 長州閥が? 枢密院、貴族院……誰も逆らえませんよ、東郷閣下には。あの人が、一言、こうしよう、と言えば日本人は皆、従いますよ。最後には勝利が得られると信じてね」

 犬養の言葉に後藤と尾崎がしきりに頷く。

 「東郷君は政治の素人だ。その点はどうかな?」

 言外に、

 「犬養、貴様の操り人形にする気ではないだろうな」

 との言葉を含ませ、切れ長の目を尚更、細くし、表情を読まれぬように西園寺が問いただす。

 「素人でいいじゃありませんか」

 犬養に代わり、尾崎が答える。

 「此度の一大国難、日本武尊か東郷閣下でなければ、この国、国民がまとまりませんよ。例え素人でも、東郷閣下なら、そんなものは飛び越えて、呑んでしまいますよ」

 

 代議士・尾崎行雄、安政六年(一八五九年)生まれ。この時、六四歳。

 福沢諭吉の薫陶を受け、その過激な言動から、かつて東京追放の処分を受けた事もある札付きの「うるさ型」である。

 第一次大隈重信内閣に文部大臣として入閣、藩閥政治を非難した「共和演説」を行い、辞職を余儀無くされた経歴は、犬養に通ずるものがある。憲政会の創立時には、その中心人物として参画し、筆頭総務の地位にあったのだが、普通選挙運動に対する憲政会の態度が不徹底であるとして指導部を痛烈に非難、これが原因となって先日、総裁・加藤高明と大喧嘩の末、除名処分になったばかりだ。

 正しく犬養以上と言ってもよい生粋の自由主義者。山県・長州閥にしても、憲政会にしても、政友会にしても、この上なく「厄介」な人物である。

 まったくの余談だが、明治大帝が、その四十五年に及ぶ治世の間に、首相が提出した組閣名簿に記載された名前を見て、その入閣に難色を示した人物が三人いる。

 一人は、過度に熱狂的な欧米文化信望者だった森有礼。

 一人は、西南戦争で西郷隆盛側に加担しようとした経歴を持つ陸奥宗光。

 そして「協調性がない」という理由でこの尾崎行雄である。


 「それに……失礼ながら、私や木堂さんのような者から見たら、西園寺老も山本閣下も、東郷閣下と大差はありませんよ」

 「な、何をっ!」

 あまりの言葉に、目尻を吊り上げた山本が吼える。

 「まぁまぁ。元老や貴族院議員である貴方達と我々の違いは何でしょう? 貴方達は選挙をやらんでしょう? 国民に、選挙民を前にして、自らの主張を述べて、皆を説得し、皆の期待に応えようとする。ハッキリ言って、我々、選挙の洗礼を受けた者達からしてみたら、貴方達のどこが政治家なのか、ちっともわかりませんよ。国民の期待の応えても応えなくても、あなた達の腹が空く訳ではないでしょう? しかし、我々は違います。国民の期待に沿えず、選挙に落ちたら、飯の食い上げですからね。必死なんですよ、これでも」

 「おい、尾崎。そのぐらいにしておけ」

 西園寺は、その貴族然とした表情を少しも変えずに尾崎の言を聞き続けていたが、山本は顔面を紅潮させ、今にも席を蹴りそうな雰囲気となっていた。

 「失礼致しました。元老、首相閣下」

 犬養は居住まいを正し、両者に軽く頭を下げる。

 「我々は、あなた方の功績を認めていない訳ではありません。その事については、私も、尾崎も同意見であります。あなた方は、まぎれもなく一時代を築きあげた人物である事は、重々、承知しています」

 「犬養はん……」

 西園寺が扇子で口元を覆うようにしつつ

 「質問に答えておられんようですな……」

 やんわりと京風の訛りを交えながら、切っ先鋭く犬養に迫る。その剣風をものともせず犬養は、豊かな顎鬚を左手でしごきつつ不敵に笑い、答える。

 「東郷閣下が首相になられたとして……ですが、我々は、まぁ参謀を務めるという訳には参りますまい。閣下がどの船に乗るにしても、いずれにしろ戦艦でしょう。どの道、私や尾崎の様な水雷艇や潜水艦には興味を示されることはありますまい」

 「ふむ……。野に立つ、という事か」

 一座に長い沈黙が訪れ、夜は更ける。

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