第43話 聖域1924 (1)
『東洋のネルソン』の名を、米国で最も知る者が集う場所、と言えば、ここメリーランド州の州都アナポリスにある米海軍士官学校であろう。
高名なチェサピーク湾に注ぐ、セバーン川河口に立脚したこの町の中心部には、植民地時代の建造物が数多く残っており、若く、幼い国なりに、それなりの歴史の古さを感じさせてくれる。
余談だが、かの有名なジョン・スミスとポカホンタスの恋愛与太話は、このチェサピーク湾を挟んだ丁度、対岸にあたるバージニア州側の故事にちなむという。
「アン女王の都」の意であるアナポリスは州都とは言っても、人口三万人足らずの田舎町に過ぎない。
しかし、そこに集う若者は巨大な米海軍の頭脳を構成すべく集められた超のつく秀才揃いであり、その在校生である彼らは、授業で東郷の名を知り、教科書でその顔写真を確認する。
彼らの教科書に載っている写真は、日本海軍や日本政府が公式に発表しているモノではなく、日本海海戦に観戦武官として乗船した彼らの先輩士官が撮影したものであった。
素人写真である為、光量も足りず、画像も不鮮明ではあったが、海戦の直後に三笠の羅針艦橋にて撮影されたものだけに、その被写体自体が持つ力強さ、生命力、躍動感、そして神々しさはそのページを開いた者の視線を数秒間、釘付けにするだけの迫力を十分に備えていた。
海軍士官としては駆け出し以下、半人前の彼らにとって、今日、その教科書に載る人物が彼らの学び舎へ講演に来る、という事実は全く持って望外の喜びであり、現在、存命している世界の海軍提督の中で、最も偉大な実績を持つ伝説の人物である東郷が、彼らの母校を訪れる機会など、これが最初で、そして最後だと、全員が思い、そして知っていた。
講演会場に現われた伝説の人物は、彼らの想像以上に小柄な体をしており、前席の者がキチンと掛けているにも関わらず、後席の者の視界には入りづらく、何とか一目見ようと列を乱し、それに対して「伝説」に失礼があっては……と恐れる教官達による鉄拳制裁を受けた者も実際、多かったという。
講演は、東郷の挨拶に始まり、予定時間を大幅に超過して、実に長時間に渡るものであった。
時折、英国流のユーモアを交え、伝説となった日本海海戦の話し、自らの英国留学時代の話し、彼の視点から見たユトランド半島沖海戦の話し、そして新時代の海軍に関する話し、どれも聞く者を一度ならず唸らせずにはおられない程の卓越した着眼点があり、興をそそるものであった。
それに何より、彼ら若い士官候補生達の心を掴んだのは、アドミラル・トーゴーの操る完璧なクィーンズ・イングリッシュだ。
東洋人の提督が英語をしゃべるだけで驚きであったのに、それをしかも、自分達よりも美しく、流暢に操る姿には、彼らは率直に驚き、尊敬の念を新たにし、長時間に及んだ講演は出席者全員によるスタンディング・オベーションによって幕を閉じた。
しかもその後、驚いた事にアドミラル・トーゴーは演壇から会場に降りると緊張する候補生達に声を掛けたり、握手を求めたり、親しげに振る舞い、彼らをより一層、魅了した。
元来、歴史を持たない米国人の気質と言うのは、英雄と呼ばれる人物に対して、敬意と礼賛を惜しまない。
そしてそれこそが最も米国人の持つ善性を示しているものと言える。
増してや、共に海軍を志したもの同士である。
彼らのトーゴーに対する心証や、推して知るべし、である。
講演会の後、しばらくの休憩を挟んで、夜から士官学校主催の歓迎晩餐会という異例のスケジュールが組まれていた。
なにしろ東郷平八郎は、単なる生きた伝説ではなく、一国の首相、東洋において日の出の勢いの古き新興国家『大日本帝国』の現職総理大臣である。
本来ならば過密スケジュールで、アナポリスでのんびり講演会を行う事などあり得ない話なのだが、今回はどういう訳か日本側の事情で、およそ2週間もの長期間に渡る米国訪問の旅なのだという。
当時、就任早々の元首級の人物の海外訪問、というのも異例だが、その長期さこそが正に異例であり、政権の並々ならぬ安定度と英雄の親米振りを物語る、と新聞報道には好意的に書かれている。
世界最古の歴史を誇る国家(と本人達が主張し、多くの国々も認めている)の伝説的英雄が、初訪問国として米国を選び、しかも長期滞在を行う、という事実は日本が地球上のどこにあるのかも知らぬ者達にさえ、その国に対する親近感を沸きたたさずにはおられない。
だが、実際には、全くこれらの理由は日本側の国内事情によるもので、国民に圧倒的な人気を誇る東郷の迂闊な発言一つで総選挙の結果がどう転ぶか、全く予想がつかなくなる事を恐れた既成の政治勢力が一致して、選挙期間中の外遊を決定したものであったのだが、さしもの米国報道界も、まさかその様な恣意的な理由とは気が付かなかったのである。
無論、米国内の知日派・親日派が口を揃えて、この異例の外遊を
「議会選挙の結果がどうなろうと、東郷の政権は当面、続く事になるだろう…」
と観測(議会選挙の結果に政権担当者が影響されない、という事実は直接選挙制を採用する米国人には、かえって理解しやすかったと言える。しかし、これは完全に誤解によるものであって、彼らの採用する大統領制とは全く異質なものなのであるが)した事が、新聞記事の後押しになった事は言うまでもない。
とにかく、就任2ヶ月足らずで、早くも「長期安定政権樹立」と謳われてしまうあたりが、東郷の東郷たる所以、なのであろう。
その日、東郷は午前から昼食休憩を挟んだ二度に渡る講演を行った後、夜七時から始まる歓迎晩餐会までの間、海軍士官学校内を数名の警護の者を従えただけで散歩がてら歩いていた。
警護には、米国駐箚日本大使館から陸軍、海軍の駐在武官が各1名ずつ、それに日本から随行してきた海軍士官が2名、更に案内を兼ねた米海軍士官が2名付いていた。
日本側の随員にも、米国側の同行者にも外務省、国務省関連の者はいない。
どうもこれは、英雄に敬意を表して、「軍人は軍人だけで楽しいひと時を」という風に気を利かせたものらしかった。
海軍士官学校長ウォルター・ヒューズ海軍中将、同校教務主任教授ヴィンセント・マクガバン海軍少将が、この小柄な老人を囲むように広大極まりない校内を案内していた。
案内役であるヒューズ校長は得意の絶頂にあった。
自身も先の欧州大戦に従軍し、対独戦の実戦経験者であるだけに、国は違っても「東洋のネルソン」と親しく会話出来る事は海軍士官として、望むべくもないほどのこの上ない「栄誉」であると思えたからだ。
その上、東郷は一国の首相でもあるのだ。
彼は普段、生徒たちから「虫歯と頭痛の合併症」と仇名され、謹厳実直と不機嫌を勘違いしていると陰口を叩かれる様な人物である。
確かにヒューズ校長自身、笑わなければ威厳が保たれていると思い込んでいる部分がなきにしもあらずであったのだが、今日、彼を飛び切りの上機嫌にさせてくれたのは、彼が何を説明してもしきりに感心し、興味を示してくれるこの面前の小柄な老人であった。
正しく、案内人冥利に尽きるほどに案内しがいのある人物で、例年、入学式時恒例の大統領のお守りに比べれば遙かに海軍軍人としてやりがいのある仕事の様に思えたのであった。
ヒューズ校長に先導された一行が、とある広大な部屋の前を通りかかった時、東郷は部屋の中を指差しながら何をやっているのかと尋ねた。
振り返ったヒューズ校長は、ガラス窓越しに部屋の内部の一目、眺めると、
「兵棋演習であります。アドミラル・トーゴー」
と答えた。
テニスコートほどもある広大な部屋の真ん中に置かれたテーブルの上には左右、同じ海図が置かれている。
海図と海図の間には互いの動きが見えぬ様に衝立が立てられ、それぞれの海図には数名を一組とする将校たちが、海図を睨みながら何やら仕切りと船を模した駒を移動させている。
時折、衝立の中央に立つ審判役の将校が笛を吹き、分厚い帳面と計算尺、ルーレットを用いて、
『判定、接敵、索敵成功』
『判定、命中五、大破一、小破二』
『中立国情報、アダブレス岬沖合に国籍不明艦を認む』
と重々しく宣言し、衝立に仕切られた両陣営は、その判定を基に再び駒を進めている。
遠目にはどこの海図であるかは全く分からないが、図の大きさからして、相当に大きな海域を示している事は間違いないようだ。
「本日は、閣下の講演を拝聴する為に、我が国の両洋艦隊を始めとした各艦隊から若手将校達が多数、参っておりますので、良い機会でありますから兵棋演習にて日頃の研鑚の成果を競わせているのであります」
「ほう、面白いですな。兵棋演習は我が国の海軍でも行っておりますが、我が海軍のやり方とは少し違うようです。拝見させて頂いても宜しいですか?」
「どうぞ、どうぞ、喜んでご案内致します」
ヒューズは、満面の笑顔で小柄な東郷を抱え込むように道を譲る。
ふと、その視線が教務主任教授マクガバン少将の視線と交錯する。
マクガバンは何故か顔面を蒼褪めさせ、しきりに目顔で合図を送る。
だが、ヒューズにそのマクガバンの意図が伝わらないうちに、既に東郷はツカツカと海図の横に歩み寄っていく。
突然の訪問者一行に室内の誰もが驚いた様子であったが、一座の最上級者が敬礼すると、全員が機械仕掛けの人形の如く、弾ける様に直立不動の姿勢をとった。
ようやく、マクガバンの目顔の意味を悟ったヒューズが声を上げようとした時には、最早、完全に手遅れだった。
「これは、米国西海岸と、日本のようですな…。ヒューズ閣下」
広げられている海図を見つめている東郷よりも、先に声に出したのはその警護の任に当たっている山本五十六大佐だった。その声音は、剣呑、というよりも遙かに物騒な響きが交じっていた。
「これは、何と申し上げたらよいのか…。我々が本日、こちらに伺うのは予め、お分かりの筈だと、思っていたのですが…」
山本の英語は、東郷のそれに比べるとはるかにブロークンであり、単語の一語一語を区切った様なしゃべり方だった。
それだけにその発している言葉の陰に潜む、
『おい、よくも恥をかかせてくれたな。さぁ、どう、落とし前をつける気だ』
という恫喝が、聞き間違えようもなくあらわだった。
山本のそれは最早、正規教育を受けた軍人のそれではない。
親分に恥をかかされたマフィアかギャングの手下が相手を恫喝する、正にそれだった。
山本も、他の随員である武官達も、このままでは済まさぬぞ、と言葉には出さないが、米国側の外交上の非礼、大失態を手厳しく非難している。
ヒューズ校長は呪った。
己が悲運を、己が失態を、そして兵棋演習のスケジュール担当であるマクガバンを。
あぁ、これがもし、外交問題になったら(というか、日本側は、もう明らかに外交問題にしている)、一生、俺は浮かび上がれない。
だが、絶対にマクガバンも道連れにしてやる。
畜生、必ずだ…。
しかし、当の東郷は、背後で校長と部下達の葛藤など全く意に介さず、兵棋演習中だった若手将校の一人を捕まえて、何やらしきりに質問している様子だった。
東郷に質問攻めにあっているのは合衆国艦隊司令長官付き副官のニミッツ中佐というまだ三十代の若い士官だった。
ヒューズ校長は何故か、緊張に頬を強張らせながら東郷の質問に答えるそのニミッツ中佐を憎悪した。
そして全く何故か、意味もなく、全てをこの男のせいにしてしまえば…などと不合理な妄想が脳裏に浮かんだ。
しかしながら、それは全く持って、単に面前の東郷配下のギャング団から逃れる術としてすら役に立たない類のものである事は確かであった。
(あぁ……どんな言い訳も通用しない。こじれるだけだ)
ヒューズ校長は完全に諦めた。
(率直に謝ろう。こじれたら、どうせ俺の手に余る事態になる)
山本のコルト・ガバメントをチラつかせた様な詰問に対し、ようやく結論を導き出し、それを声に出そうとした瞬間、東郷が振り返る。
一瞬、目を瞑る。
怒鳴られる事を覚悟した。
非難される事を覚悟した。
人は生きている以上、自己の及ばない事であっても、非礼として手厳しく糾弾される事もあるのだ。
そして、どの様に言い繕っても、取り返しのつかない事は世の中にはあるのだ。
そう覚悟した。
東郷が日本語で何やら、山本に話している。
ヒューズは祈った。
東郷が、見た目以上に温厚である可能性を。
話しかけられた山本が、踵をカチリと音高く鳴らし、直立不動の姿勢をとる。
続けて、他の武官達も山本同様に踵を鳴らし、山本の意見に頷いている。
何やら山本は、東郷に対して意見を述べているようだった。
そしてそれに対して東郷は明らかに不満そうであり、不平そうであった。
東郷は山本に対して右手の甲を向けて軽く振る。
その仕種は、東洋のその国であっても
『もうよい、下がれ』
といったニュアンスに類したものであろう。
何やら東郷は、山本以下、配下の武官達の意見を聞き入れなかったらしい。
「ヒューズ校長、宜しければお願いがあるのだが…」
(さぁ、おいでなすった。土下座で済ませてくれるのなら、今すぐ、やってやる。謝罪で許してくれるのならば、一晩中でも言ってやる。靴を舐めたっていい。腹は括ったんだ、何でも来やがれ!)
ヒューズが東郷の方に向き直り、無言のまま続きの言葉を聞こうとすると、相手はやや困ったような表情を浮かべながら言葉を続けた。
「随員の武官達は反対しているのだが、折角の機会だから、この兵棋演習に参加させてもらえないだろうか? 今、このニミッツ君の説明によれば、我が国の流儀と違ってこちらのやり方では一回の演習が三時間足らずで終わるとの事、我が国では数日かかるのが当たり前なのだが…。
さすが、合理主義の国、と感心致しました。是非、一手、ご教授願いたい。今から始めれば晩餐会には間に合いましょう」
ヒューズ校長の脳裏に、東郷の声は、どこか遠くから聞こえていた。
なにやら耳の中に羽虫が飛び回っている様で、よく聞き取れないのだ。
あれほど覚悟して聞いたのだが、精神的な重圧が、この世界からヒューズを隔離しようとしている様だった。
東郷は、何を言っているのだ?
この外交儀礼上、明らかな米国側の失態を非難しないと言う事か?
もしそうならば、それは何故だ?
兵棋演習に参加させろとはどういう事だ?
彼らに何のメリットがあるのだ?
ヒューズは必死に思考を巡らした。
そしてようやく、二音節だけを言葉として発する事が出来た。
「イエス・サー」
兵棋演習のルール面において東郷に助言する役目は、先程のニミッツ中佐が引き受ける事となり、対戦相手となる海軍士官達が整列し、次々と自己紹介する。
「ワシントン海軍艦砲工廠所属、ハズバンド・キンメル中佐であります」
「駆逐艦バッソー、艦長ウィリアム・ハルゼー中佐」
「第8海軍区分遣隊司令、トーマス・キンケイド中佐であります」
「戦艦ミシシッピー砲術長、リッチモンド・ターナー中佐です」
「第11海軍区参謀部所属、レイモンド・スプールアンス中佐であります」
一生に一度。
二度とないチャンス。
若い彼らは俄然、色めきたった。
ある者は、ただただ、己の幸運を神に感謝し、
ある者は、英雄の化けの皮を剥いでやろうと決意し
ある者は、軍神に勝利する自分の姿を夢想した。
一人一人の自己紹介に笑みを浮かべつつ頷き、如何にも好々爺然とした挨拶を返していた東郷は、一通りそれが終わると、その表情からスッと微笑を消し去る。
そして、おもむろに右手に持っていたステッキで海図の載せられた広く、巨大なテーブルを叩くと、戦場で鍛え上げた大音声で叫んだ。
「カモン・ボーイズ!(来い、ガキども!)」
平成22年1月7日 誤字及び文章推敲により訂正